ハッピーエンドに向かうには   作:内海空洞

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更新が遅れて大変申し訳ございません。

こんな拙作でよろしければ応援の程、よろしくお願いします。


それぞれの、好きのかたち

最近、優斗の様子が少しおかしい。

 

あたしはキッチンのカウンター席から、店の奥で一人静かに窓の外を眺める彼の背中を見つめながら、そう感じていた。

何か考え事をしているみたいに、ぼーっとすることが増えた。あれだけ好きだったコーヒーの研究に手を付けるでもなく、ただじっとしている時間。

 

でも、店の仕事やあたしたちとの会話に澱みはないから、きっと悩みはあいつ個人の、すごくプライベートなことなんだろう。

誰にも相談しない。優斗はそうだ。全部一人で抱え込もうとする。

 

その悩みの原因に、もし心当たりがあるとすれば…それは、この前の集まりのことだ。

 

ことの発端は、マリアからのメールだった。

 

『急でごめんなさい。コモドではない、別のカフェで少しだけ話せないかしら』

 

指定された場所は、都心にある落ち着いた雰囲気のカフェ。あたしが最後だったみたいで、奥のテーブル席にはマリアの他に未来と奏が、既に神妙な顔つきで座っていた。

 

あたしが席に着くと、テーブルの上には緊張した空気が重く張り詰めていた。

 

このメンバーの共通点なんて、一つしかない。

 

優斗のことだ。

 

マリアは集まったあたしたちの顔を一人一人、順番に、確かめるように見つめた。そして、覚悟を決めたように、静かに口を開く。

 

「集まってくれてありがとう。あなたたちに、話しておかなければならないことがあるの」

 

ゴクリ、と誰かが喉を鳴らす音が聞こえた。

 

「先日、優斗と水族館でデートしたわ。そして…」

 

マリアは一度言葉を切り、真っ直ぐな瞳であたしたちを射抜いた。

 

「わたしは、優斗に告白したの」

 

しん、と世界から音が消えた。

 

未来は息を呑み、ただ黙ってマリアを見つめている。その小さな拳が、テーブルの下で固く握り締められているのを、あたしは見てしまった。

重い沈黙を破ったのは、奏だった。彼女は驚いた表情から一転、ふっと口元を緩め、どこか面白そうに、そして感心したように言った。

 

「…へぇ。あんたが一番乗りか。やるじゃんか、マリア」

 

その声には、棘も敵意もない。ただ、好敵手の行動を認めるような、カラッとした響きがあった。

 

「それで? あたしたちをわざわざ呼び出したってことは、まだ返事はもらってないんだろ。あんたはそういうところでズルするような女じゃないからな」

 

マリアは、奏の言葉に少しだけ驚いたように目を見開き、そして頷いた。

 

「ええ。まだ、何も」

 

奏の言う通りだった。マリアは、あたしたちを友人として尊重してくれている。その事実が、ずしりと胸に響いた。

そこに、今まで黙っていた未来が、透き通るような、けれど芯の強い声で口を挟んだ。

 

「…マリアさん。どうして、それをわたしたちに話したんですか?」

「…」

「優斗さんは、優しい人です。あなたの真剣な告白を、無下にはしないでしょう。黙っていれば、きっとあなたの想いに応えようとしてくれたはず。マリアさんにとっては、それが一番都合が良かったはずなのに…なぜ?」

 

未来の問いは、あたしが聞きたくても聞けなかった核心を突いていた。

マリアは、未来と奏、そしてあたしの目を順番にしっかりと見つめ、そして、ふっと微笑んだ。それは、戦士のような、覚悟に満ちた笑みだった。

 

「あなたの言う通りよ、未来。優しいあの人のことだわ。きっと、わたしの想いに応えようとしてくれるかもしれない。でも、わたしはそんなの嫌」

「わたしは、優斗自身の意思で、わたしを選んでほしいの。同情や、優しさからじゃない。ただ一人の女として、マリア・カデンツァヴナ・イヴを、見てほしいから」

 

彼女の言葉には、一点の曇りもなかった。

 

「それに、わたしはあなたたちのことも好きよ。奏、未来、そしてクリス。あなたたちは、かけがえのない友人だわ。だからこそ、こんな大事なことを隠して、あなたたちを出し抜くような真似はしたくなかった」

 

「これは、抜け駆けじゃない。宣戦布告よ」

 

マリアは毅然と言い放った。

 

「わたしは、どんな結果になろうとも、それを受け止めてみせる。たとえ振られたとしても、友人として、あなたたちの恋を応援するわ。でも、諦めない。ライバルとして、正々堂々、最後まで戦い抜く。それが、優斗を愛した女としての、マリア・カデンツァヴナ・イヴという人間の、覚悟だから」

 

その言葉に、あたしは絶句した。

 

未来も、ただ黙ってマリアを見つめている。

本気だ。マリアは、本気で優斗のことを第一に考え、その上で、自分の恋も、あたしたちとの友情も、全てを懸けて守り抜こうとしている。

 

翻って、自分はどうだ?

 

優斗へのこの気持ちは、恋なのか。それとも、今の穏やかな日常を失いたくないだけの、親愛や依存なのか。

 

マリアほどの覚悟が、今のあたしにあるのか…?

 

「…ふぅん。言ってくれるじゃんか」

 

沈黙を破ったのは、やはり奏だった。彼女は、腕を組むと楽しそうに口の端を吊り上げた。

 

「上等だよ、マリア。その覚悟、あたしが真っ向から受け止めてやる。あんたの気持ちが本気なのは、よーく分かった」

「奏…」

「でも、優斗の隣は譲らない。これだけは、あたしも本気だからな。正々堂々、勝負と行こうぜ」

「望むところよ、奏」

 

火花が散るというよりは、互いの健闘を誓うような、清々しい視線の応酬。

そして、未来が静かに口を開いた。

 

「わたしの気持ちも、変わりません。彼がくれる温かい日常も、彼が一人で抱え込んでいる悩みも…その全てが、わたしにとっての優斗さんです。わたしは、これからも、ずっと彼の全てを支えていきます」

 

その声は小さいけれど、誰にも負けない、強い意志に満ちていた。

奏も、未来も、もう前を向いている。戦う覚悟を決めている。

 

自分の気持ちの整理がつかないあたしだけが、その高潔な魂のぶつかり合いに気圧されて、俯いて何も言えなかった。

 

 

 

コーヒーを片手に僕は、考えていた。この前の水族館での、マリアさんの告白。

 

「わたし、あなたのことが…好きよ」

 

異性からの好意に鈍感な自覚はある僕でさえ、それがどれほどの情熱と愛に満ちていたかは、痛いほど分かった。

 

頬に残る、あの柔らかい感触。思い出すだけで、今も心臓が跳ねる。

 

でも、僕には分からないんだ。異性を愛するということが。

 

僕が抱く愛は、きっとキリスト教で言うアガペーやフィリアに近い。みんなに幸せでいてほしいという無償の愛や、大切な友人への親愛だ。マリアさんに向けるこのドキドキが、その先にある恋というものなのか、僕にはまだ、確信が持てなかった。

 

「優斗、無理にとは言わないわ。あなたの心が決まるまで、わたしは待つから」

 

先日、一人で店に来た彼女は、悩む僕を見てそう言ってくれた。

 

どこまでも、優しく、思いやりに満ちた人だ。

僕はマリアさんのことが好きだ。でも、それはかけがえのない友人としての好きだ。この気持ちのまま彼女に応えるのは、あまりにも不誠実ではないだろうか。

そんな考えが出口のない迷宮のように、僕の頭の中をぐるぐると巡っていた。

 

それだけじゃない。最近、クリスちゃんの様子がおかしいことも、僕の悩みの種だった。

 

目を合わせず、会話もどこかよそよそしい態度が少し多くなった。なんだか壁を作られているような。初めて出会った頃の、あの警戒心に満ちた瞳を、時々思い出す。

 

僕が何かしてしまったんだろうか。

 

クリスちゃんの不調に気づいた調ちゃんや切歌ちゃんたちからも『クリス先輩、何かありましたか?』と心配するメールが届いていた。

 

今日はうまく入れることができず、あまり美味しくないコーヒーを飲み干した時。

 

ピロン、とスマホが鳴る。差出人は、未来ちゃんだった。

その内容を読んだ僕は、少しだけ考えて、そして意を決して、クリスちゃんの部屋のドアをノックした。

 

 

 

あたしは今、自分がどこにいるのか、一瞬分からなくなった。

 

昨日。優斗に買い物に行かないかと誘われて来たここは、人でごった返す少し遠くにある大型商業施設。きらびやかな照明、流行りの音楽、そして隣には…優斗がいる。二人きりだ。

 

いつもとは違うシチュエーションに心臓が、ドクドクと大きく、うるさいくらいに跳ねる。

 

「なあ…優斗。いつもの商店街じゃなくて、ここに何か用があるのか?」

「うん、それがあるんだよね。なんと、今日のメインはクリスちゃんの服を買うことなんだ」

「はぁ!? なんであたしの服なんだよ!」

 

そんなことを予想していなかったあたしのリアクションに、優斗は少し困ったように笑いながら、でも真っ直ぐにあたしを見る。

 

「だってクリスちゃん、あんまり服、持ってないよね? もっと色々な服を着てみてほしいなって。絶対、何でも似合うと思うから」

「べ、別に今ので十分だっ!」

「僕は、クリスちゃんの、色々な姿が見たいな」

 

そのストレートな言葉に、あたしの顔がカッと熱くなる。

こいつは、こういうことを平気で言う。だから、心臓に悪い。

 

「……しょ、しょうがねぇな! 付き合ってやるよ! その代わり、あんたの服もあたしに選ばせろよな!」

 

鼻を鳴らしながらそう返すあたしの声は、自分で分かるくらい、弾んでいた。

 

 

こうして、二人の少しぎこちないショッピングデートが始まった。

最初に足を踏み入れたのは、流行の服が並ぶレディースファッションの店だった。

 

「いらっしゃいませー! お客様、とってもスタイルがいいので、こちらのワンピースなんていかがですか?」

 

ノリの良い店員に捕まり、クリスはあれよあれよという間に試着室へと押し込まれる。

普段の彼女なら絶対に手に取らないような、淡い色の、フリルがついたワンピース。

 

「な、なんだよこれ…柄じゃねえ…」

 

鏡の前で居心地悪そうにするクリスだったが、試着室の外から優斗の弾んだ声が聞こえた。

 

「わ、クリスちゃん、すごく可愛いね! まるでどこかのお姫さまみたいだ!」

「なっ…!」

「こちらのロックテイストなジャケットも、お客様の雰囲気にぴったりですよ!」

 

店員のセールストークに乗せられ、次から次へと着せ替え人形状態になるクリス。しかし、その度に優斗が心からの感嘆の声を上げるものだから、クリスの表情も次第に満更でもないものへと変わっていく。

 

「その青いブラウス、クリスちゃんの髪の色と合ってて、すごく綺麗だよ」

「こっちのパンツスタイルも、カッコよくて素敵だなあ」

「…うるせえ。褒めても何も出ねえぞ」

 

悪態をつきながらも、その口元は緩みっぱなしだった。

 

「…今度はあたしの番だ」

 

すっかりご機嫌になったクリスは、お返しとばかりに優斗をメンズフロアに引きずっていった。

 

「優斗はいつも白シャツばっかりだからな。たまにはこういう、落ち着いた色のTシャツもいいんじゃないか?」

「へぇ、僕に似合うかな?」

「似合うに決まってんだろ! このあたしが選んだんだからな! ほら、とっとと試着してこい!」

 

クリスが選んだ少しデザインの入ったチャコールグレーのTシャツと、細身のパンツ。着替えて出てきた優斗の姿に、今度はクリスが息を呑んだ。

 

いつもの優しい喫茶店のマスターとは違う、年相応の、お洒落な青年の姿。

 

「…ど、どうかな?」

「……ん。まあ、悪くねえんじゃねえか」

 

顔が熱くなるのを感じ、クリスはそっぽを向きながらぶっきらぼうにそう答えるのが精一杯だった。

 

何着か服を買い、近々S.O.N.G.のメンバー全員で休みを合わせて行くことになった海水浴のために、水着売り場にも立ち寄った。

色とりどりの水着が並ぶ光景に、クリスは少しだけ気圧される。

 

「優斗はあっち見てろ! あたしが選ぶから!」

「え、あ、うん」

 

優斗を追い払い、クリスは真剣な表情で水着を選び始めた。

 

(あいつ、あたしがどんなの着たら、喜ぶんだ…?)

 

そんなことを考えている自分に気づき、クリスはぶんぶんと首を振って思考を打ち消した。

 

昼食は、賑やかなフードコートで摂ることにした。

クリスはガッツリとした味噌ラーメンのセットを、優斗は彩り豊かなロコモコ丼を選ぶ。

 

「クリスちゃんのラーメン、美味しそうだね。チャーシュー、一枚交換しない?」

「ん。まあ、いいぜ。そっちのパティも寄越せよな」

 

向かい合って座り、時には料理をシェアしながら食べる。その光景は、どこからどう見ても、仲の良いカップルのそれだった。

 

「あ、クリスちゃん、口の横にソースついてるよ」

「え、どこ?」

「こっちだって」

 

そう言って、優斗がごく自然な仕草で、クリスの口元を紙ナプキンでそっと拭う。

紙越しの指先の温かさと、真剣な眼差しに、クリスの心臓が大きく跳ねた。

 

「…っ、こっぱずかしいだろっ!それくらい自分でやる!」

「あ、ごめん」

 

恥ずかしさのあまり、クリスは乱暴に自分の口元を拭った。優斗はきょとんとしていたが、その顔が少し赤いことに、優斗は気づかないふりをした。

 

午後は、腹ごなしにゲームセンターで遊んだ。

UFOキャッチャーでは、クリスの射撃の才能が意外な形で開花した。

 

「お、惜しい! あともう少し…!」

 

ぬいぐるみを一つも取れずに悔しがる優斗を尻目に、クリスは冷静にクレーンを操作し、一発で大きな猫のぬいぐるみをゲットする。

 

「へへん、ちょせぇんだよ」

 

得意げにぬいぐるみを抱えるクリス。優斗は目を丸くして感心していた。

 

「すごいよクリスちゃん! まるでスナイパーみたいだ!」

「まあな…てか、一応スナイパーもできるんだぜ」

 

そのぬいぐるみを、帰り際に「…やるよ」とぶっきらぼうに優斗に手渡した時、彼が子供のように喜んだのを、クリスは一生忘れないだろうと思った。

 

エアホッケーでは、二人の負けず嫌いが炸裂した。

 

「そらそら、どうした優斗! 手が止まってるぜ!」

「くっ…クリスちゃんこそ、見えてないよ!」

 

激しくパックを打ち合い、大声で笑い、夢中になって汗を流した。

すっかり遊び疲れた二人は、隣にあったカラオケボックスに吸い込まれた。

 

「うわ、最近のカラオケってこんなに綺麗なの?」

 

初めて来たかのように目を輝かせる優斗に、響達と来る事もあるクリスは少し呆れながらも、微笑ましい気持ちになった。

 

マイクを握ったクリスは、最近、自身の中でブームになっている洋楽のロックナンバーを熱唱する。激しいサウンドに、心の奥底の澱が溶けていくようだ。

 

歌い終えると、優斗がぱちぱちと盛大に拍手をしてくれた。

 

「すごい…! クリスちゃん、歌、すごく上手いね! まるでプロの歌手みたいだった!」

 

その真っ直ぐな賞賛が、くすぐったくて、嬉しかった。

 

今度は優斗の番。彼が選んだのは、なんと奏と翼が出演していた特撮番組『戦姫絶唱シンフォギア』のオープニング曲だった。

 

画面に流れる、若き日の奏と翼さんの、少しだけぎこちない演技。

 

「あ、奏先輩。 この頃から戦い方が無茶苦茶してんな」

「見てクリスちゃん! 翼さん、決めポーズでちょっとよろけてる」

「ははっ、本当だ!」

 

二人は顔を見合わせて笑い転げた。S.O.N.G.の仲間たちの、普段は見せない姿。それを共有できることが、たまらなく楽しかった。

 

カラオケボックスを出ると、空はすっかり夕焼けに染まっていた。

 

最後に立ち寄った商業施設の屋上は、美しい庭園になっていた。

設置されたベンチに並んで座り、二人で黙って、燃えるような夕陽が摩天楼の向こうに沈んでいくのを眺めている。

 

心地よい沈黙。

 

今日一日、優斗はクリスをただ楽しませることだけを考えてくれていた。その不器用な優しさが、痛いほどクリスの胸に沁みた。

 

ここまで来れば、クリスにも分かっていた。今日の一連の行動は、全て自分を思ってのことだと。

 

「なあ、優斗。どうして、今日…」

 

思い切って尋ねると、優斗は穏やかに微笑んだ。

 

「実は、僕も悩んでたんだ」

 

彼は、マリアからの告白にどう応えるべきか、ずっと悩んでいたことを打ち明けてくれた。

中途半端な気持ちで付き合うのは、彼女の真剣な想いを侮辱することになるのではないか、と。

 

「そんな時、未来ちゃんからメールが来たんだ。『クリスさんが、優斗さんとの距離感で悩んでいるみたいだから、どうか気にしてあげてください』って」

 

奏やマリアからも、似たような気遣いのメールが届いたという。

 

「その時、僕はっとしたんだ。自分の悩みばかりで、すぐ隣にいる、大切な家族のことが見えてなかったって」

「それで、考えたんだ。僕に、クリスちゃんのために何ができるかなって。その時、ふとマリアさんとのデートを思い出して…何も考えずにただ楽しむだけで、心がスッキリすることもあるんじゃないかなって」

 

(あいつら…)

 

ライバルであるはずの自分を、気遣ってくれた。その事実が、クリスの胸を熱くする。

 

「…それで、マリアとは、付き合うのかよ」

だからこそ、聞いてみたかった。

 

優斗は少しだけきょとんとして、それから困ったように笑った。

 

「…わかんないや」

「は?」

「僕は、マリアさんのことを、かけがえのない友達だと思ってる。でも、それが恋なのかは、まだ…。それにね、クリスちゃん」

 

優斗は、真っ直ぐにクリスを見つめた。

 

「困っている家族を放っておいて、僕だけ前に進むなんて、できないよ」

 

「君がいてくれたから、僕は、狭くても広い家で寂しくなくなったんだ。クリスちゃんは、僕にとって、本当の家族なんだよ」

 

その温かい言葉が、最後の引き金だった。

クリスの涙腺は、いとも簡単に決壊した。

 

「……っ!」

 

声にならない嗚咽と共に、彼女は目の前にいる優斗の胸に、まるで子供が親に甘えるように、その身を預けていた。

 

驚いたように優斗の肩が少しだけ跳ねる。だが、すぐにその腕は、壊れ物を扱うかのように優しく、しかし力強く、クリスの背中を抱きしめ返した。

優斗の腕の中は、陽だまりのように温かかった。

じわりと伝わる彼の体温、トクン、トクンと響く穏やかな心臓の音、そしてふわりと香る、コーヒーと彼の優しい匂い。

その全てが、クリスのささくれ立った心を、ゆっくりと溶かしていく。

夏の夕暮れの生ぬるい風も、遠くで聞こえる街の喧騒も、今はもうどうでもよかった。

この腕の中だけが、クリスの世界の全てだった。

 

やっぱり、好きだ。

この人が、どうしようもなく、好きだ。

この温もりを、ずっと、あたしだけのものにしたい。

 

パパとママが、お互いを想い合った時も、きっとこんな気持ちだったのだろうか。ただ隣にいるだけで満たされて、この人のためなら何でもできると思える、このどうしようもないほどの愛おしさ。

 

クリスは、優斗の胸に顔を埋めたまま、ぽつり、ぽつりと、今まで誰にも言えなかった心の澱を吐き出し始めた。

 

「…あたしは、ずっと怖かった」

「…うん」

「あんたがいなきゃ、あたしは、とっくにダメになってた。優斗がくれる飯も、居場所も、優しさも…全部、当たり前みたいに受け取って…あたしは、それにただ甘えてるだけなんじゃないかって」

 

優斗は何も言わず、ただクリスの言葉に耳を傾けている。その静かな相槌が、クリスに「もっと話していいんだよ」と促しているようだった。

 

「フィーネの時みたいに、誰かにただ依存してるだけなんじゃないかって…そう思うと、怖くてたまらなかった。あんたへのこの気持ちが、もしそんな汚いもんだったらって…」

「マリアが、あんたに告白したって聞いた時、焦った。嫉妬した。でも、それ以上に、不安になったんだ。あたしには、マリアみたいな覚悟も、未来や奏先輩みたいな強さもねえ。ただ、今のこの居心地のいい場所に、しがみついてるだけなんじゃないかって…」

 

優斗のシャツを、強く握りしめる。滲み出た涙が、その白い布地に染みを作っていく。

 

「でも、違うんだ…」

 

クリスは、かぶりを振った。

 

「違うんだよ、優斗…」

「あんたが笑うと、あたしまで嬉しくなる。あんたが悩んでると、あたしまで胸が苦しくなる。あんたが淹れてくれるコーヒーの匂いがすると、安心する。あんたの隣が、あたしの、世界で一番、安心できる居場所なんだ」

「あんたといると、あたしは、ただの雪音クリスでいられる。過去に人を傷つけた罪も、今のあたしの弱さも、全部抱えたまま、それでも前を向けるんだ…!」

 

優斗から伝わる優しい鼓動が、クリスに覚悟を決めさせた。

もう、逃げない。この気持ちから。

この温かくて、優しい心が欲しい。

友人としてでもない。家族としてでもない。

ただ一人の男と女として生まれる、このどうしようもない愛が、欲しい。

クリスはゆっくりと顔を上げ、涙に濡れた瞳で、優斗の顔を真っ直ぐに見上げた。

 

「あたしは…優斗が好きだ」

 

はっきりと、言葉にした。

 

「パパとママみたいに、愛し合って、ずっと、ずっと…側にいたい」

「クリスちゃん……僕は」

 

優斗が、困惑と、優しさと、そして何か言い知れぬ感情が混じった瞳で、何かを言いかける。

その答えを聞くのが、怖かった。

だから、クリスはそれを遮った。

 

「けど!」

 

大きな声に、優斗の肩がまた少しだけ跳ねる。

 

「あたしは、あんたに答えを求めてるんじゃねえ!」

「え…?」

「優斗もまだ、自分の気持ち、分かってねぇんだろ? マリアのことも、あたしのことも、どうしたらいいか、分からなくて、一人で悩んでんだろ!」

「……」

 

図星だったのか、優斗はバツが悪そうに視線を逸らした。

 

「そうだね。情けない話だけど…。勇気を出してくれた君たちに、軽蔑されても仕方ないよ」

「軽蔑なんかするかよ、バカ」

 

クリスはふっと笑った。もう、涙は出ていなかった。

 

「…分かってたさ、優斗の優しさに助けられた、あたしだから。それでいいんだ。あんたの優しさに甘えてたのは、きっとお互い様なんだよ」

「これからは、こっちがあんたを甘えさせてやるさ」

 

そう言うと、クリスは体勢を入れ替え、今度は自分から、その小さな体で、優斗の全てを包み込むように、強く、強く抱きしめ返した。

彼女の柔らかく、豊満な胸が、優斗の顔を優しく受け止める。

慣れない感触と、シャンプーの甘い香りに、優斗の顔が真っ赤に染まった。

その照れた顔が、たまらなく愛おしくて、クリスはさらに強く、彼を抱きしめた。

夕陽が、そんな二人を、優しく、オレンジ色に照らしていた。

 

 

 

その頃、キャロルたちは世界中に点在するパヴァリアのアジトを、あらかた潰して回っていた。

 

しかし今はある街のオープンカフェ、そのテラス席でフィーネとファラの二人を伴い、束の間の休息を取っている。

テーブルに運ばれてきた紅茶の豊かな香りが、先程まで漂っていた硝煙の匂いを上書きしていく。

今日の付き添い担当のファラは、隣で耳にイヤホンを当て、目を閉じてツヴァイウィングの楽曲の世界に浸っている。しかし忠実な護衛は、たとえ休息中であっても、主であるキャロルへの意識を完全に切らすことはない。

 

対面に座るフィーネは、優雅にコーヒーを味わっている。

その静かで穏やかな光景の中、キャロルは不意に、ずっと胸の内で燻っていた疑問を口にした。

 

「今更だがフィーネ」

 

キャロルの声は、街の喧騒にかき消されそうなほど、静かだった。

 

「お前は、何故ここまでオレに付き合う? お前の目的は、エンキとかいう神に会うことだろう。それならばS.O.N.G.に所属したまま、機を待つ方が効率的だ」

「……」

「お前がS.O.N.G.に情報を流しているのは知っている。オレたち共々、パヴァリアと潰し合わせるのが狙いかと思ったが…どうも違う。まるで見当違いなほど、こちらに味方しているようだが?」

「…まあ、裏切られたところで、返り討ちにするだけだがな」

 

キャロルは逃さぬとばかりに、その視線をフィーネに突き刺した。

フィーネは、カチャリと静かにカップをソーサーに置いた。そして、テーブルの上で指を組み、まるで古い物語を語り聞かせるように、ゆっくりと話し始めた。

 

「そうね。エンキに会うのが、今のわたしの全てよ。でもね、それには未だ障害が多すぎるわ」

「だったらなおさら、オレといる意味がないだろう」

「意味なら、できたわ。…キャロル。あなたは、あなたは……いつかの私、そのものなのだから」

「…オレが、お前だと?」

 

眉をひそめるキャロルに、フィーネはどこか遠い目をして語り続ける。

 

「愛する者の意思を勝手に曲解して思い込み、世界そのものを憎んだ。たった一つの目的のためだけに、全てを敵に回してでも突き進んだ。その孤独も、痛みも、狂気も、わたしにはよく分かる」

「あなたには父親のイザークがいた。わたしにはエンキがいた」

「あなたは世界を分解し、万象を識ることで父の願いを叶えようとした。わたしは月を破壊し、バラルの呪いを解くことで、神への想いを伝えようとした」

「あなたが築き上げた絶望の城がチフォージュ・シャトー。わたしが組み上げた孤独の塔がカ・ディンギル。呼び名が違うだけで、やっていることは同じ。愛に狂った、愚かな魔女の所業よ」

 

二人の間に、沈黙が落ちる。

フィーネとキャロル。生まれも、時代も、力も違う。だが、その魂の根底にあるものは、驚くほど似通っていた。

 

「最初は、ただの牽制のつもりだった。パヴァリアが狙うであろう優斗くんから、奴らの目を逸らすために。あなたを監視し、情報をS.O.N.G.に流すために」

「……」

 

監視、という言葉にキャロルの纏う空気が少しだけ険しくなる。

 

「でも、あなたとこうして行動を共にするうちに、知ってしまったのよ。あなたのことを」

 

フィーネは、そこで初めてキャロルの目を真っ直ぐに見つめた。

 

「わたしは、止めてもらった。あのまま進んでいれば、きっと取り返しのつかないことになっていたでしょうね。でも、あなたは違う」

「あなたは、自らの意志で足を止め、新しい道を選ぼうとしている」

「…優斗、か」

 

キャロルの口から、ぽつりとその名が漏れる。

そうだ。あの男が、オレの世界を変えてしまった。

パパを貶めた世界への復讐だけが全てだったはずなのに。

 

(優斗。確かにお前のせいで、思い出は蘇った。自分だけの世界じゃない、自分から始まる世界を見ることもできるようになった。でも、本当に欲しかったものを、お前がくれたんだ)

(オレが――私が、本当に欲しかったのは――)

 

あの、温かい眼差し。

柔らかく、耳に響く声。

近づいた時にだけ感じる、陽だまりのような体温。

ありのままの自分を、ただ、受け入れてくれる存在。

失ったはずの、大切な人との、何気ない生活。

そんな、ごく普通の幸福が、欲しかったのだ。

 

フィーネは、キャロルの心の内を見透かすように、優しく微笑んだ。

失った悲しみを知るからこそ、彼女には分かるのだ。キャロルが今、新しい希望をその手に掴もうとしていることが。その尊さが。

もし自分がキャロルの立場だったなら、きっと憎しみに飲まれ、ただの怪物になっていただろうから。

 

「―――けどキャロルちゃん?」

 

不意に、真面目な空気を壊すように、フィーネの表情がニヤリと意地悪なものに変わった。

 

「ライバルが、いーっぱいいるのを忘れてはいないわよねぇ?」

 

ガリィたちから逐一報告が上がっている、優斗を巡る女たちの現状。それを、フィーネは面白おかしくキャロルに突きつけた。

キャロルは一瞬きょとんとし、そして、ふんと鼻を鳴らして不敵に笑う。

 

「ふん、優斗がどんな女を愛そうが関係ない。最終的にオレの隣にいれば、それでいい。周りの女など、オレが全員吹き飛ばしてやるさ」

「あらあら、大胆な発言ねぇ。でも、うちの子たちも負けてはいないわよ? 奏ちゃん達、本気みたいだし」

「少なくとも、このオレに勝てるくらいの実力がなければ、優斗を任せることなどできん」

「なによそのお母さんみたいな目線は。…あ~あ、妬けるわねぇ。私も早くエンキに会いたいわ。…ねえキャロルちゃん、ちょっと月まで行けるテレポートジェムとか、作れないかしら?」

「あるわけないだろうが! ……まあ、別に作れなくもないだろうが、今の気分でお前に誰が渡すか。この婚期を逃した行き遅れめ」

「だ・れ・が! 行き遅れですってぇ!? 」

 

街の喧騒に負けないくらい、二人の魔女の騒がしい声が響き渡る。

それを尻目に、隣に座るファラのイヤホンからは、今日も今日とて、ツヴァイウィング(翼比率多め)の歌が、ヘビーローテーションで流れ続けていた。




争いを書くのが致命的に苦手な、本話にぶち込む技量がない作者のQ&A

Q、クリスはS.O.N.G.から給料を貰っているのに何故服を買ってないの?
A、十分貰っています。が、クリスはそこまで頓着していないのと、原作と違い一人暮らしではないのでスペースと分担している家事の現状を考え、物は少ないです。なお、貯金した額は、1人養うには十分な量はあるとだけ。

Q、フィーネはいつキャロルの存在に気づいた?
A、優斗は知りませんがコモドには監視カメラ等、警護の為に仕掛けられていています。キャロルのオートスコアラー達の隠蔽は完璧でしたが、そもそも格好からして怪しいのと、基本的にテレポートジェムで来ているキャロルの、帰る際の足取りが掴めないところから疑い始めて今に至ります。

Q、パヴァリアはキャロル達に対処出来ていないの?
A、やってることはワープしたゼオライマーの冥王攻撃を目の前で喰らっているようなものです。そもそも昔のフィーネに翻弄されていたのに、パワーアップ&キャロル陣営がプラスされています。対処は不可能。

優斗にこれ以上ヒロインはいる?

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