薄暗く、どこか冷気すら漂う風鳴邸の回廊。
部屋を出た優斗は、無機質な機械のように淡々と歩を進める黒服の男の背中を、ただ静かに追っていた。
一歩、また一歩と踏み出す足の感覚は酷く重い。まるで底なしの泥のぬかるみに足首まで捕まり、じわじわと沈み込んでいくかのような錯覚。優斗の胸中を支配していたのは、鋭利な刃となって己の心を抉り続ける、あまりにも重い自責の念だった。
(僕が、前世で選んで信じたはずの行いが……生きようとしてしまったあの選択が、巡り巡ってこんなにも多くの人を傷つける大騒動になってしまった)
引かれて死ぬ子供の命を救い、孤独だったニンフルサグに希望を見せ、妄執の中進むことしかできなかったフィーネに道を示し、マリア達に正当な運命を歩かせ、キャロルの記憶を繋ぎ止め生きる道を示し、サンジェルマンとヴァネッサ達の苦悩を救った「特異点」としての歩み。
それは確かに優しく正しい奇跡だったはずなのに、結果として、世界を、仲間を、そして何より家族である光一郎を、大切な仲間であり、友であり、大切で大好きな未来たちをも巻き込む未曾有の危機を引き起こしてしまった。
「……っ」
あまりの無力感と悔しさに奥歯を噛み締める。だが、そこで完全に折れてしまわないのが、新城優斗という人間の、危うくも強靭な底力だった。
(元凶となった人もここにいる。…僕が、どうにかしなきゃ。……でも、なんて言えばいいんだろう。ここに僕を連れ去ったニンフルサグさんは、僕とシェム・ハさんのためを思って動いているはずだ。もし、本当に僕とずっと一緒に暮らしたいと願ってくれているのなら、必死に説得して、みんなと共に生きていける居場所を新しく探せばいい。S.O.N.G.の皆も、キャロルちゃん、サンジェルマンさん達も本当は優しい人ばかりだ。きっと、対話さえできれば受け入れてくれる……!)
先ほどまでは、最愛の者たちを戦火に巻き込んでしまった恐怖で精神を酷く揺さぶられていた。しかし、静まり返った回廊を歩きながら思考を研ぎ澄ましていくうちに、霧が晴れるように心が落ち着きを取り戻していく。絶望に沈むのではなく、泥の中から顔を上げ、これからの展望を冷静に組み立て始めていた。
(ほう、強靭であるな。我が揺さぶりをかけ、あれほどの衝撃を受けていながら、なおこの短時間で平然と論理を立て直すか)
優斗の精神の奥底。その内心の変転を特等席でのぞき見ていたシェム・ハは、現状を覆そうと脈動を始めた彼の魂の不屈さに、思わず微かな感嘆の息を漏らした。
(驚嘆である。ニンフルサグという神があれほど盲目的にこの器を気に入る理由、ようやく我にも理解できた。……ふむ、少しばかり、惜しくなったな)
精神を乗っ取るための単なる「都合のいい肉体」として品定めしていた視線に、どこか歪んだ執着と、獲物に対する奇妙な興味という、湿り気を帯びた熱が混ざり始める。
むろん、左腕のブレスレットの奥に潜む神のそんな視線に気づくはずもなく、優斗は己の意志を固めていた。
ニンフルサグに対しては、どこまでも説得を続け、いつか受け入れる方針で行く。しかし――問題は、もう一人の元凶だった。
(だけど弦十郎さんのお父さんである、風鳴訃堂という人は、一体何を目的にしているんだろう。お爺ちゃんを人質に取ってまで、僕やニンフルサグさんをコントロールして、何を成し遂げようとしているんだ……? 接点がないから、あの人のことだけは何も分からない。……いや、分からないまま、知ろうとすることを諦めていたからダメだったんだ)
深く、胸の換気をするように息を吸い込み、吐き出す。横目に見える夜の暗闇に包まれた庭園から流れる冷たい空気が混乱で熱くなっていた優斗の頭を冷やしていく。
最後の深呼吸と共に迷いを排し、張り詰めた覚悟だけを芯に残して気持ちを切り替えた。
「――新城様。こちらでございます」
先導していた黒服の男が足を止め、深く頭を下げて脇へと退いた。
優斗の目の前には、室内の淡い光を遮る一枚の障子。その木と紙の境界線が、今はまるで巨大な防壁のように、圧倒的な威圧感を持って立ち塞がっているように思えた。
(……っ)
無意識のうちに、身体が恐怖を拒絶するように硬直する。障子を開けようと伸ばしかけた右手が、目に見えて速度を落とし、空間でピタリと止まった。
その向こう側に君臨しているのは、目的のためなら人の情など塵ほども顧みない、生粋の怪物なのだ。
だが、優斗はその手を引っ込めようとはしなかった。
今も自分のために命を懸けて戦ってくれている響や未来たちのために。囚われの身である祖父のために。そして何より、この事態の引き金を引いてしまった自分自身のケリとして。
「……入ります」
小さく、しかし決して揺らぐことのない決意を呟き、優斗の指先が障子の枠に触れる。
現状を変えるため、彼は静かに、しかし力強く障子を滑らせた。全ての因縁が渦巻く、風鳴訃堂という名の深淵の元へと、新城優斗は一歩を踏み出した。
一方、優斗が怪物の深淵へと足を踏み入れたのとほぼ同時刻。
風鳴邸の厳格な正門前では、張り詰めた沈黙を引き裂くように、バチバチと激しい魔力の火花が爆ぜていた。
「ここが貴様らの実家か。こんな時でなければ、趣のある邸宅だとゆっくり観察してやりたかったがな」
「そう言ってもらえるのは身内として嬉しいが……キャロルくん、その物騒な物は一旦引っ込ませてくれないか? うちの部下たちが今にも腰を抜かしそうだ」
手の中で魔力を滾らせるキャロルに対し、苦笑いを浮かべながら風鳴八紘がなだめる。彼の背後には、弦十郎と八紘が率いる十数人の監査部隊が、重々しい武装を抱えて控えていた。
優斗の正確な位置を特定した直後、弦十郎と合流したキャロルは一瞬の躊躇もなく、テレポートジェムの光を解放して風鳴邸の門前へと降り立った。彼女の背後には、絶対の忠誠を誓う四機のオートスコアラーたちが静かに従っている。
だが、現在のキャロルの姿は、普段のあの愛らしい少女のものではなかった。
そこに佇んでいたのは、見る者を圧倒するほどの気高き美貌を湛えた「大人の女性」の姿。
長き時を生きたキャロルが、父イザークとの思い出に縋り付いていた頃の、時を止めて固定したホムンクルスの容姿ではない。かつて生身の人間として生きていた頃――その身に宿る錬金術の出力を、一点のロスもなく「最大限」に発揮することができていた時代の姿だった。
世界の分解ではなく、ただ一人の青年を救うためだけに、自身の持つ最大最強の戦闘形態を解禁したキャロル。その双眸に宿る冷徹な焔が、彼女の本気度を無言で物語っていた。
「そうですよぅ、マスターぁ。そーんなに眉間にシワを寄せて睨みつけてると、その大人の姿が相まって、余計に老けて見えちゃいますよ? アハハハ!」
「言い過ぎですよ、ガリィ。マスターの優斗様を案じる心が表に出ていて、むしろ可愛らしいではありませんか。……見た目相応の、大人の余裕はどこへ行ったのかしら、とも思いますが」
「貴様ら……オレを愚弄するか」
ガリィの容赦ないからかいと、ファラのフォローになっていない毒舌に、キャロルは青筋を立てて低く唸る。イラ立ちを紛らわせるように手を一振るいすると、手の中で弾けていた魔力の残滓が虚空へと霧散した。
「まあいい、首尾はどうだ。レイア、ミカ、周囲の警戒を怠るな。ファラ、邸内の様子は?」
「すでに私の風を滑り込ませ、構造を把握いたしました。中にいる人員はそれほど多くはありませんわ。精々、数人程度かと」
問いかけに対し、大剣を携えたファラが手のひらで小さな旋風を転がしながら冷徹に答える。
「なるほどな。ここは風鳴の管轄の中でも徹底して秘匿された場所だ。普段から必要最低限の人間しか立ち入らない。……それにしても人数が少なすぎる。おそらく今中にいるのは、訃堂と、その直接の関係者だけだろう。……いくら強硬手段に出たとはいえ、無関係の人間を巻き込むほど、あの人も外道には落ちていないはずだ」
「……兄貴」
重々しく呟いた八紘の言葉には、狂気に走った実の父・訃堂を、どこかまだ信じようとしている身内としての情が滲んでいた。隣に立つ弦十郎は、複雑な、しかし決意を秘めた瞳で八紘の横顔をじっと見つめている。風鳴の血脈がもたらす業の深さに、兄弟の胸中は一様に重かった。
八紘は、格式高い重厚な門扉の横に設置された、邸宅の趣にはおよそ不釣り合いな最新鋭の生体認証パネルへと静かに手を当てた。
ピッ、と電子音が鳴り響き、システムへのアクセスが許可される。
直後、内部仕込まれた機械仕掛けの重々しい駆動音が静寂に響き渡り、巨大な門がゆっくりと左右に開き始めた。
「取り敢えず中に入ろう。相手の出方次第では、即座に戦闘に突入する。……済まないが、キャロルくん。力を借りるぞ」
「もとよりそのつもりだ。だが、最初にこれだけは言っておく」
開きゆく門の隙間、その奥にある広大な庭園を見据えたまま、キャロルはファウストローブ『ダウルダヴラ』の魔力を静かに昂ぶらせた。
「オレの第一優先は、優斗の身柄の確保だ。その他の有象無象がどうなろうと、オレの知ったことではない」
「構わない。最優先で人質を確保するのは、戦術としても当然だ。……本当に、巻き込んでしまった優斗くんには、すまないという言葉しか見つからんよ」
弦十郎が拳を固く握りしめ、司令官として、そして一人の大人としての責任をその背に背負う。
門が完全に開ききり、外界との境界線が消失した。
「――突入する。遅れるな!」
八紘の鋭い号令とともに、監査部隊の面々が一斉に風鳴邸の敷地内へと踏み込んでいく。優斗奪還のため、そして風鳴の因縁に決着をつけるための、もう一つの決戦の幕が切って落とされた。
障子を滑らせた先。
優斗を待ち受けていたのは、風鳴邸の奥深くに広がる、張り詰めた静寂の空間だった。
「――自ら儂の前に歩み出るとはな。新城優斗」
部屋の家長席に、威風堂々と座す影があった。
優斗は息を呑む。そこにいたのは、過去に弦十郎や翼から聞いていたような老骨ではない。衣服の上からでも分かるほどに強靭に引き締まった肉体、燃え盛るような眼光を放つ、全盛期の『若き姿』を取り戻した風鳴訃堂の姿だった。
老境に入り、一度は己の執念を孫娘である翼に引き継がせようとするも、諦めかけた護国の野望。それが、神の力の影響をもって、全盛期の肉体を得た訃堂。老人の中で燻っていた狂信の炎が完全に再燃している。そのギラギラとした生命力の波動が、部屋の空気を肌が痛いほどに圧迫していた。
だが、優斗の視線はすぐに、訃堂の足元近くへと縫い止められた。
「お爺ちゃん……!」
「優斗……。すまなんだ、此奴を止めると勢いていたというのに……!」
畳の上に拘束されていたのは、優斗の肉親であり、かつて風鳴家の料理人として務めていた祖父・新城光一郎だった。訃堂の暴挙を止めるため、過去の因縁を覚悟して自らこの屋敷に戻ってきた老料理人。
その首、両手首、そして足首には、不気味な赤と緑の電子光を明滅させるリング――接触型のリモート爆薬が、皮膚を噛むように無慈悲に嵌められていた。
「おのれの無力を呪うがいいわ、光一郎よ。貴様が儂を止めようなどと、分不相応な忠義立てをするからこうなる」
訃堂は光一郎を一瞥することすらなく、その冷酷な視線を優斗へと戻した。
「新城優斗。貴様が大人しく手駒となり、ニンフルサグを完全に制御するならば、この老いぼれの命などいつでも返してやろうぞ。儂の目的は、ただ一つ。この日の本の国土を守り抜くことのみなのだからな」
訃堂の言葉には、一切の迷いも、私利私欲もなかった。だからこそ、純粋な怪物だった。
「我らが守るは、この瑞穂の国の天然自然。幾千年の時を超えて、先祖が血を流し、守り伝えてきたこの土地そのものよ。そのためならば、そこに生きる人間がどうなろうと知ったことではない。……むろん、絶滅させたいわけではないがな。土地さえ、國のカタチさえ存続すれば、人間などは後からいくらでも湧いて出てこよう」
そう言い放つ訃堂の瞳の奥に、ふと、底知れない暗黒の記憶が過るのを、優斗は見逃さなかった。
「貴様らのような、平和という温水に浸かった若輩にはわかるまい。天から降り注いだ『一夏の太陽』が、一瞬にして数多の命を消し去り、美しい国土を黒い雨で汚したあの絶望を……! 外敵の脅威に対し、ただ無力に焼かれるだけの屈辱を! 二度と、この美しき大地を奴らの玩具にさせてなるものかッ!」
地を這うような、しかし天を衝くほどの怨嗟の叫び。原爆という、人類史最大の不条理を肌で知る生き残りだからこその、狂気的なまでの防衛本能。
優斗は静かに、訃堂の狂気を受け止めていた。
優斗の魂の根底にあるのは、2020年代という未来の記憶だ。だからこそ、広島や長崎の惨禍を、歴史の教科書や映像を、体験してきた人を通して、その恐ろしさを知っている。そして何より、優斗は『人の感情に寄り添う』人間だった。
「……知っています」
優斗は、まっすぐに訃堂の眼光を見つめ返した。その声は震えていなかった。
「広島や長崎に起きたあの悲劇。あれがどれだけの絶望と、消えない傷跡をこの国に残したかを。……だから、あなたの言う恐怖も、この国の土地や自然を守りたいっていう必死な思いも、きっと嘘じゃないんだと思います。あなたが抱えてきたものは、きっと本物です」
「ほう……」
訃堂がわずかに目を細める。己の深淵を理解されたことへの、奇妙な静寂。
光一郎もまた、孫の言葉に息を呑み、その背中を見つめた。
しかし、優斗の瞳に宿るサファイアのような光は、微塵も揺らがなかった。彼は一歩、しっかりと畳を踏み締める。
「だけど、それはそれ、これはこれです」
優斗は、きっぱりと言い放った。
「国を守りたいからって、今を生きている人を、僕の大切なお爺ちゃんを犠牲にしていい理由にはならない! あなたが守りたいその『土地』には、今、誰が生きているんですか? 誰が笑って、誰がご飯を食べているんですか!?」
優斗の声が、風鳴邸の冷たい空気を激しく震わせる。
「そこに生きる人の痛みを無視して、家族を縛り付けて、ただの『土地』だけが残ったとして、そんな国に何の意味があるんですか! 人を呪って、人を道具にして成り立つ護国なんて……風鳴さん、あなたのやり方は、絶対に間違っています!」
寄り添う優しさを持つからこそ、超えてはならない一線に対して、優斗の言葉は刃のように鋭く、毅然としていた。
「ふむ……。戯れに対話を試みてみたが……やはり無用の長物」
訃堂の顔から一切の感情が消え、冷徹な殺気が部屋を満たす。
己の正義を真っ向から否定された怪物の手が、静かに、懐にしまっていた光一郎の爆薬の起爆スイッチへと向けられた。
「――それならば、仕方あるまい」
訃堂の声から一切の感情が消え失せ、冷徹な静寂が部屋を支配した。彼は無機質な黒い端末を取り出すと、その親指を起爆ボタンへと静かに添える。
「此奴に嵌めたそれは、対象の生体信号を常時監視する特殊信管よ。儂の遠隔操作はもとより、外部からの無理な解除、あるいは特定半径からの離脱を感知した瞬間――その部位を軽く抉り取るだけの火薬が弾ける。……抉る程度、と侮るな? 骨まで脆くなった老いぼれの肉体。首や胸元をほんの僅かでも抉られれば、その後どうなるか……貴様にも想像はつくはずだろう」
「……っ!?」
あまりにも生々しく、確実に命を奪うための緻密な罠。その残酷な仕組みに、優斗の身体が本能的な恐怖でたじろぎ、息を呑んで一歩後退りした。
「優斗! 儂のことは気にするな!」
床に伏せたままであった光一郎が、首のリングを軋ませながら、必死に声を振り絞って叫んだ。
「元はといえば、訃堂の狂気を止められんかった儂の罪、向き合うべきだった過去の因縁! お前の為に動いてくれる友や遠くで働くお前の父や母のためにも、お前がその優しさで縛られる必要はない。儂のことはいい、さっさと逃るんじゃ!」
「そんな……そんなの無理だよ、お爺ちゃん!」
優斗の悲痛な叫びが、広い和室に木霊する。
見捨てることなんて、できるはずがない。両親が遠方の勤務で家を空けがちだった幼い頃、ずっと傍にいて、温かい時間を共に過ごしてくれたのは、この光一郎だった。自分を育ててくれた、世界でたった一人の料理の師であり、大切な家族なのだ。
(どうすればいい……。ここで諦めちゃダメだ。この人だって、国を守りたいっていう強い根っこがあるんだ。だったら……本当に、言葉は届かないのか? どうにかして、対話で、お爺ちゃんも誰も傷つかない方法を、まだ見つけられるはずじゃないのか……!?)
過酷な現実を前にしてもなお、相手の善性を信じ、泥臭く対話の道を模索しようとする。それこそが新城優斗の強さであり、同時にあまりにも危うい優しさだった。
最悪の膠着状態の中、部屋に備えられた見えないスピーカーに届く通信が緊張で張り詰めた静寂を切り裂いた。
『――訃堂様! 正門が破られました! 八紘様と弦十郎様の率いる監査部隊が邸内に突入! ……それに、各区画に配置していたアルカノイズの迎撃部隊が、ことごとく撃破されています!』
通信の向こう側から響くのは、予想以上の速度で防衛線を食い破られた焦燥のノイズ。
「ふん……八紘の小細工か。二課の獅子身中の虫どもめ、小賢しい真似を。アルカノイズを平然と退ける戦力が、今だ揃っているということか」
訃堂は忌々しげに眉をひそめたが、その顔に焦りの色は微塵もない。むしろ、全盛期の肉体を得た怪物の瞳には、攻め込んできた猟犬どもを真っ向から叩き潰さんとする、不敵な闘志の焔がギラギラと燃え盛っていた。
(外敵か。随分と騒がしくなってきたな)
優斗の左腕のブレスレットの奥、その精神の特等席で、シェム・ハが酷く愉悦に満ちた笑みを浮かべていた。
(さあ、どうする器よ。この極限の状況、お前のその脆く優しい心が、どちらの絶望を掴み取るか……我に見せてみよ)
訃堂はゆっくりと立ち上がった。大声を出すわけでもなく、ただ、音もなく。圧倒的な質量感を持った怪物の影が、優斗の足元まで長く伸びていく。
「猶予はなくなったな、新城優斗」
訃堂の口調は、驚くほど静かだった。だからこそ、逃げ場のない狂気が冷徹に際立つ。
「外の有象無象がこの部屋に辿り着くのが先か、儂が指を押し下げるのが先か。……儂に恭順し、その身をニンフルサグを操る手綱として日の本に捧げるか。それとも、ここで唯一の肉親の身体が目の前で抉られる様を、その未熟な眼に焼き付けるか。……選べ。貴様のその滑稽な程高潔な意思を持って、今すぐ静かに答えを出してみせよ」
冷酷な選択肢が、優斗の目の前に突きつけられる。刻一刻と迫るタイムリミットの中、風鳴邸の奥の院、張り詰めた死の静寂に包まれていった。
廊下に激しい爆音と硝煙が漂う中、キャロルと弦十郎の二人は、風鳴邸の入り組んだ回廊を恐るべき速度で駆け抜けていた。
正門を突破した直後、容赦なく襲い掛かってきたアルカノイズの群れは、キャロルの『ダウルダヴラ』の、弦による一撃で瞬時に消し飛ばされた。アルカノイズに対応する術の無い八紘の身の安全を確保するため、キャロルは即座にミカとガリィの二機を護衛に回し、弦十郎は後続の監査部隊の指揮を八紘へと委ねている。さらにファラとレイアの二手を別々の区画へと走らせ、優斗の捜索と、訃堂がパヴァリア残党を匿っていたという決定的な証拠の収集にあたらせていた。
完全に戦闘に特化した大人の姿のまま、床から僅かに浮遊して低空飛行で突き進むキャロル。その驚異的な移動速度に対し、風鳴弦十郎は一切の術式もギアも纏わぬ生身の体のまま、難なく地を蹴って並走していた。
「……おそらく、親父はこっちだ」
「どうして断言できる? やはりここは貴様の生家だからか?」
並んで走りながら、キャロルが美女の相貌に鋭い疑念の火を灯して問う。
「いや、親父の放つ歪んだ気配が、この先から肌を刺すように伝わってくる。それと……部屋の中には他に二人。一人は優斗くんだ。そして、もう一人は光一郎さんか……? 心拍が乱れている。ひどく弱っているな」
「生身の分際で、レーダー以上の探知能力か。……貴様のその非常識な生態には色々と言いたいことがあるが、今はその言葉を信じて向かう方が賢明だな」
人間の枠を遥かに逸脱した弦十郎の感覚に、キャロルは不機嫌そうに眉を曲げつつも、その案内に従って速度を一段階引き上げた。
そして、重厚な意匠が施された大きな障子の前へと辿り着く。
その瞬間、弦十郎の強靭な脚が容赦なく虚空を払い、障子を枠ごと木端微塵に蹴破って部屋へと突入した。
バリィィィンッ!! と、激しい木片の散る音と共に、部屋へ滑り込む二つの影。
「そこまでだ、親父ッ!」
「無事か、優斗! ……少なくとも、目立った怪我は無いようだな」
「弦十郎さん! ……それと、」
突如として目の前の境界線が打ち破られた衝撃に、優斗は大きく目を見開いた。弦十郎の隣に佇む、圧倒的な力を放つ金髪の女性。その凛とした美しい立ち姿に、優斗は見覚えのある確かな形を見た。キャロル自身、この全盛期の戦闘形態を優斗に見せたことは一度もなかったが、優斗の瞳には迷いがなかった。
「優斗、この姿は――」
「キャロルちゃん……だよね? どうして、弦十郎さんと一緒に……」
困惑を隠せないながらも、まっすぐに自分を「キャロル」と認識して呼んでくれた少年の声に、キャロルの胸の奥に淡い歓喜が広がる。だが、今の優斗を取り巻く現状と、部屋の奥に佇む怪物の存在が、彼女の表情を瞬時に冷徹な錬金術師のものへと引き戻した。
「来おったか。不詳にして、出来損ないのバカ息子に、尻尾を巻いて逃げ出した夷狄の術式風情が」
訃堂は二人の前に立ち塞がったまま、吐き捨てるように弦十郎を睨みつけた。
「なんとでも言えばいいさ。……わかっているだろう、親父。あんたを、これ以上の暴挙を止めるために捕らえに来た」
「ふん。八紘めが、儂の敷いた護法を盾に儂を拘束しようという肚か。だが、無駄よ! 儂が歩む道は、この日の本の存続をかけた聖戦。貴様らのように、外敵の脅威に怯え、頭を下げることでしか平和を保てん弱腰の腑抜けどもに、儂を止める権利などないわ!」
訃堂の若返った肉体から放たれる声圧が、和室の空気をびりびりと震わせる。
「……親父。あんたが過去の惨禍を知り、この国の自然を、土地を守りたいと願うその根底まで、俺は否定したくはない。だが、そのために今を生きる無辜の人間を、光一郎さんを、優斗くんを道具にして犠牲にすることが、本当に護国なのか! 人の血で染まった土地に、一体どんな未来が残るというんだ!」
弦十郎の声には、父親を救えなかったという、息子としての最後の情が、痛切なまでの熱を帯びて混ざっていた。だが、訃堂はそれを鼻で笑い、冷酷に切り捨てる。
「土地さえ残れば、人は後からいくらでも湧いて出るわ! 綺麗事の平穏など、一発の核の炎の前に容易く融ける脆弱な幻影に過ぎん! 儂は、二度とこの大地を外道の玩具にはさせん。そのためならば、儂のこの魂がどれほどの業に塗れようとも、知ったことではないわッ!」
「……」
その言葉を聞いた瞬間、弦十郎の瞳から、最後の身内としての揺らぎが完全に消え去った。言葉による説得が、この怪物には一寸たりとも届かないという現実を、彼はあまりにも重く、冷徹に受け止めたのだ。
(ああ、そうだ。この男はもう、人の言葉を話すだけの、護国という名の怪物なのだ――)
弦十郎は静かに、しかし絶対的な決意と共に、拳を強く握りしめた。言葉の通じぬ怪物には、もはや己の肉体をもって、その狂気を叩き潰すほかに道はない。
「諦めるんだな、風鳴弦十郎。こいつはもはや、己の過去の妄執と確執を薪にして、ただ周囲を焼き尽くすためだけに燃えているだけだ。……そう、かつてオレのパパを、根拠のない決めつけと恐怖だけで火刑に処した、あの愚かな人間どもと同じようにな」
キャロルは弦十郎の前に冷然と歩み出ると、ダウルダヴラの武器である白銀の弦を、部屋の空間を切り裂くように蜘蛛の糸のごとく張り巡らせた。触れればいかなる質量も一瞬で分解する、死の結界。
「儂を討ち果たせば、確かに事態は解決しよう。……だがな!」
訃堂の瞳がぎらりと凶悪に光った。
刹那、訃堂はその強靭な脚で、足元に転がっていた光一郎の身体を、弦十郎たちとは『真逆の方向』へと容赦なく蹴り飛ばした。
「がはっ……!?」
「お爺ちゃん!?」
痛切な悲鳴と共に、老いた身体が床を転がる。優斗がとっさに向こうへ視線を向けようとしたその瞬間、訃堂の若返った太い腕が、優斗の細い身体を背後から強引に引き寄せ、ガッチリと万力のような力で拘束した。
「うわっ!? ……く、くるし、い……!」
「おい、老いぼれ」
キャロルの周囲の空気が、一瞬にして絶対零度へと凍りつく。張り巡らされた弦が、彼女の激しい怒りに呼応してキチキチと不気味な音を立てた。
「オレは非常に寛大なのでな、一度だけ、警告として言っておいてやる。……その汚い手で優斗に触れるな。今すぐ放せ」
全身から放たれる大人のキャロルのプレッシャーは、部屋の調度品にピキピキと亀裂を入れるほどに圧倒的だった。しかし、訃堂はその絶大な魔圧を真正面から浴びながらも、不敵な笑みを崩さない。彼は腕の中で苦しそうにもがく優斗の耳元へ、蛇の這うような声で、静かに囁いた。
「わかっているだろう? 小僧。儂の手の中に、あの老いぼれの命を握る起爆スイッチがあることを。貴様らが一歩でも動けば、あそこの光一郎がどうなるか……なれば、静かに儂の言う通りにするが良い」
優斗の身体が、絶望的な拒絶感と共に、ぴたりと硬直した。全ての因縁が集結したこの部屋で、最悪の天秤が再び優斗の目の前に突きつけられる。
「――ぐ、あ……ッ!」
訃堂の太い腕に首を絞め上げられ、優斗の視界が恐怖と酸欠で歪む。
助けに来てくれた弦十郎とキャロルの存在は救いのはずだった。だが、目の前の怪物はその希望すらも容易く人質の鎖へと変えてみせる。
「待て、親父! それ以上は――」
「オレの警告が聞こえなかったか、老いぼれ!」
弦十郎が、そしてキャロルが色めき立った、その刹那。
訃堂の親指が、冷酷に端末のスイッチを一つ、押し下げた。
――パンッ、と。
戦場に響く爆音に比べれば、あまりにも小さく、乾いた破裂音。
直後、床に転がされていた光一郎の右足首から、鮮血と肉片が飛び散った。肉を、骨の表面を軽く抉り取るだけの冷徹な爆威。だが、老いた肉体にはそれだけで致命的な破壊だった。
「が、あ、あああぁぁぁぁぁッ!!!?」
「お爺ちゃんっ!!!?」
和室に光一郎の凄絶な絶叫が響き渡る。あまりの激痛に、光一郎は畳の上をのたうち回り、血溜まりを広げていく。それでも――光一郎は血を吐きながら、涙で歪む目で必死に孫を睨み据えた。
「気にする、な……優斗……! 儂のことは、いい……騙される、な……っ!」
「そのざまでよく吠える。だが、次の一撃でそのうるさい口を永遠に閉じさせてもよいのだぞ?」
一歩を踏み出そうとした弦十郎の動きが、訃堂の冷徹な一言で完全に凍りついた。訃堂の腕の中には、今や完全に盾と化している優斗がいる。下手に動けば、光一郎の首の信管を爆破する――怪物の瞳はそう告げていた。
(どうして……どうしてこんなことに……!)
優斗の頭の中は、今や濁流のようなパニックでグチャグチャに掻き乱されていた。
ただ、みんなと笑い合える居場所を守りたかった。ニンフルサグを説得すれば、いつか分かり合えると信じたかった。なのに、自分の不甲斐なさと甘さが、祖父を血に染め、助けにきてくれた仲間たちを縛り付けている。
「さあ、どうした新城優斗。まだその未熟な口で、儂の護国を間違いと宣うか? 貴様が恭順の誓いを立てねば、この老いぼれの肉を、一切れずつ削ぎ落としていくのみよ!」
次の瞬間、風鳴弦十郎の全身が、これまで見せたことのないほどの激しい怒りで震えていた。
彼の守るべき正義、そして大人としての責任は、優斗と光一郎の「二人共」を絶対に救うことだ。目の前でかつての師が肉を抉られ、恩人であり、年の離れた友が心を壊していく様を、彼の不屈の拳が許すはずがなかった。
だが、キャロルの計算は異なっていた。
(優斗の祖父の命など、知ったことかと言えればいいがっ…!)
キャロルにとって、光一郎の生死などは二の次、三の次だった。彼女が何よりも守りたいのは、新城優斗という少年の『心』だ。もし目の前で光一郎を無残に殺されれば、優斗の優しい魂は永遠に壊れてしまう。それだけは、絶対に阻止しなければならない。
しかし、もし――本当に万策尽き、どちらかしか選べぬ極限に至るならば。
(その時は、命を見捨ててでも……オレは力尽くで優斗の身柄だけを奪い取るッ!)
それがキャロルが胸の奥に秘めた、冷徹で歪んだ、けれど狂おしいほどの愛の優先順位だった。
「……引き伸ばしは無用」
二人の膠着を見透かしたように、訃堂の親指が、無慈悲に二つ目のスイッチを押し下げる。
――乾いた破裂音が、再び室内に響いた。
今度は、光一郎の左の二の腕の肉が弾け飛び、白い骨が露出する。
「カハッ、あ、が……っ……!!」
光一郎はもはや絶叫を上げる気力すら奪われ、血反吐を吐きながら痙攣する。
「おのれェェェェ親父ぃぃぃぃぃッッッ!!!」
ドッ!!! と、凄まじい衝撃波が部屋を走った。
弦十郎の内に渦巻く怒りの質量に耐えかね、彼が踏み締めていた足元の畳と床板が、一瞬にして爆散し、蜘蛛の巣状の地割れとなって部屋中へ伝播していく。生身の人間が放つとは到底思えない、純粋な『憤怒』の波動。
しかし、訃堂は笑わなかった。ただ静かに、最後の、そして最も致命的な「首」の起爆スイッチへと親指を滑らせていく。
「これで最後だ、新城優斗。日の本に跪くか、ここで肉親の首が落ちるのを見るか……選べ」
(嫌だ。嫌だ嫌だ嫌だ……っ!)
優斗の精神は、すでに完全な崩壊の境界線を迎えていた。
自分のために命令を無視して飛び出した未来の笑顔。優斗を求め、孤独に狂っていったニンフルサグの悲痛な独白。姿を変えてまで、文字通り命を懸けて自分を救いにきてくれたキャロル。怒りに拳を震わせる弦十郎。
それら全ての想いが、期待が、罪悪感となって優斗の胸にのしかかる。
(僕のせいで……僕が、全部の引き金を引いたんだ。僕が不甲斐ないから、お爺ちゃんが死んじゃう……!)
訃堂の親指が、カチリ、とスイッチを押し込む。
光一郎の首の信管が、黄から致命の『赤』へと点滅を変えた瞬間。
――世界から、音が消えた。
「えっ……!?」
気がつけば、優斗はどこまでも広がる、底の知れない漆黒の空間に浮かんでいた。風鳴邸の和室も、血の匂いも、訃堂の姿もない。ただ、静寂だけが支配する精神の世界。
うなだれ、涙すら枯れ果てた目で虚空を見つめる優斗の背後に、ゆらり、と巨大な影が差した。
「哀れだな、新城優斗よ」
振り返る気力もない優斗の耳元に、ここ最近、聞き馴染んだ、けれど圧倒的な神威を帯びた声が届く。
白の衣と銀の装飾品を纏い、不遜な美貌を浮かべた神――シェム・ハが、優斗のすぐ後ろに立っていた。彼女は冷徹に、しかしどこか楽しげに、残酷な現実を突きつける。
「非情である。このまま現実へ戻れば、お前のその数少ない肉親とやらは、一瞬で首を抉られ、ただの物言わぬ肉塊へと変わる。お前がどれほど涙を流そうが、どれほど心を痛めようが、人間という矮小な存在には、あの怪物の指一つ止める術はない」
「……っ……ぁ……」
優斗はただ、言葉にならない絶望を漏らし、深く深くうなだれるしかなかった。自分の無力さが、ただただ呪わしい。
そんな少年の絶望を、特等席から存分に味わったシェム・ハは、ふっと、その冷酷な笑みを消した。
彼女は静かに優斗の隣へと歩み寄ると、まるで傷ついた子供を慰める母親のように――あるいは、獲物を巣へと誘う蜘蛛のように、その声色を驚くほどに『優しく、甘い温度』へと変化させた。
白磁のようなしなやかな指先が、優斗の濡れた頬を優しくなぞる。
「……本当に、可哀想な子だ。我々アヌンナキに、人間たちに、いたずらに都合よく振り回され、傷つき、ただ奪われるのを待つだけなど。……なぁ、優斗」
耳元で、甘美な吐息と共に神が囁く。
「ならば――我がその絶望を、すべて、代わりに払ってやろう」
どこまでも甘く、とろけるような声音のまま、シェム・ハは語りかける。その指先が優斗の頬を撫で、うなじを優しく包み込んでいく。
「難しく考える必要などないのだ、優斗。お前を苦しめるこの最悪な状況も、暴走するニンフルサグも……あの天羽奏やキャロル、サンジェルマン……」
言葉を区切り、シェム・ハは優斗の耳元で、最も甘美で残酷な毒を吹き込んだ。
「そして――お前が誰よりも『日常』へ還したいと願う、あの未来と響やらも……我がすべて、どうにかしてやろう」
「……っ」
これまで微動だにせず呆然と聞いていた優斗の肩が、跳ねるように跳び起きた。
『未来』と『響』――二人の名を口にされた瞬間、凍りついていた心が激しく波打つ。
そのわずかな反応すらも逃さず、シェム・ハは艶やかな笑みを深めた。
「怖がることはない。我は決して、この地球に満ちる命を消し去りたいわけではないのだ。むしろ、守りたいとすら思っている。……この世界はあまりにも争いに満ち、お前のような優しく無垢な存在が悲しみに埋もれ、理不尽に消えゆくことに、我は耐えられぬのだ」
神の言葉は、まるで傷ついた魂を癒やす万能薬のように、優斗の絶望の隙間へと滑り込んでいく。
「家族と……温かな家へ、帰りたくはないか?」
囁きと共に、ダラリと垂れ下がっていた優斗の指先が、ピクリと動いた。
シェム・ハはさらに顔を寄せ、吐息が耳を撫でる距離で語りかける。
「お前を救うために迎えに来た仲間たちと共に……あの穏やかで、愛おしい平和な日常に戻りたいか?」
優斗の両拳が、血が滲むほどに強く、強く握りしめられる。
シェム・ハは愛おしそうに目を細めると、優斗の華奢な体を慈しむように、背中から優しく抱きしめた。神威の温もりが、冷え切った優斗の精神を包み込んでいく。
「愛する者たちが……誰も傷つかず、笑い合える世界が欲しいのだろう?」
優斗が奥歯を限界まで食いしばる鈍い音が、シェム・ハの耳元へダイレクトに届いた。
直後。優斗の全身を支配していた凄まじい震えが、ピタリと止まった。
ゆっくりとうつむいた顔を少し持ち上げる。整った前髪の隙間から見える、その蒼い瞳からは悲しみや迷いの色彩が完全に消え失せ、代わりに、暗く怪しく輝く星のような、異質な光がギラギラと宿っていた。
優斗は深くうなだれた姿勢のまま、掠れた声で、静かにシェム・ハへ尋ねる。
「……僕の身を、貴女に預ければ……この現状を、全部打破してくれますか……?」
「……」
「ニンフルサグさんを……風鳴訃堂さんを……止めてくれますか……?」
シェム・ハは答えず、ただ微笑んで耳を傾けている。優斗の声は、己の存在すべてを切り売りするような、冷たい諦絶に満ちていた。
「そして……未来ちゃんを。響ちゃんを。奏ちゃんや翼ちゃん、クリスちゃんにマリアさん、セレナさん……切歌ちゃんと調ちゃんも……。今、戦ってくれているみんなを……全員、あの温かい日常の中に、絶対に還してくれますかっ……!?」
優斗の切痛な問いかけに対し、シェム・ハは至上の喜悦を湛えた笑みを浮かべ、優しく言い放った。
「――可能である」
その一言が、決定打となった。
カチリ、と何かが外れる音がした。
誰かによりそい、それでもと願い続けた優斗の優しく強い心は、果てしない絶望と罪悪感の濁流に呑み込まれ、ついに……ぽっきりと
「たすけて」
折れた。
ここ最近の暑さに溶ける、本話にぶち込む技量がない作者のQ&A
Q、何で訃堂はわざわざ爆弾を使ったの?
A、護国を遮る裏切者として最初はモーゼルC96で手足を撃ち抜く予定だったのですが、外国の侵略者でもなく、風鳴に仕えた事から、流石に叢雲を抜くに値しない相手ではなかった。寧ろ切ってやっても良かったのだが、今回は優斗の精神を揺さぶる事を優先したため、爆薬入り拘束リングを採用。
Q、シェム·ハが優斗に執着心を見せてない?
A、シェム·ハから見た優斗の人柄。それは好奇心で近づいたアヌンナキの干渉も少なく、統一言語を無くして人々が争う前にはびこっていた、穏やかに暮らしていた人々を想起させたから。あとは、味覚を共有して食べた料理が美味しかったから。
Q、優斗はなぜここまで自身を追い込んでいるの?
A、実は超劣化衛宮士郎をコンセプトの一部にしている優斗は、自身より他人を優先する癖があります。決して下に見ている訳では無いのですが、自他の境界線を表している天秤があったとすると、まず他人に対して傾いた後、それが解決するまでは決して自分に傾きません。要は責任感の塊みたいな所があります。