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青褪めるような悪意と、愛を。
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外は大雨が降っていて、ぼくはタクシーを使ってここまで来た。少し手前で止めてもらったので、体が随分と濡れてしまった。今のぼくには、お似合いだ。
廃工場には据えた空気が満ちていた。床に積もる砂埃が、靴に叩かれて舞う。ここは現実の抑圧が、僅かに薄い。それは人々から忘れ去られた場所だからだ。現実は、構造として生き物に近い規格を持つ。そしてここは、その切られた髪の一部のようなもの、ということ。
ぼくは廃工場の奥に目を向ける。
ラムバーとアルキメデスは名の知れた
ぼくが
二人組の、歴戦の
だからこそ――彼らと戦うならば、決して二体一でだけは戦ってはいけない――の、だけれど。
「「やあ、待っていたよ」」
二重に響く、その声が――鼓膜を揺らす。
そこには、二人の男女がいた。
一人は小柄。鼻にかけるような小さなメガネに、色のない地味な服装。事前情報が確かなら、彼女こそがラムバー。
もう一人は長身。見上げるような巨躯に、痩せた体付き。痩けた頬が、実年齢以上にその姿を老けて見えさせる。隣に立つ女がラムバーであるのなら、すなわち彼はアルキメデス。
「ドクタは?」
ぼくは問う。
ここは県境の廃工場。
ドクタと彼らが、本来会談の場として使う筈だった場所。
そこに――その影はなかった。
「そんなことを聞いて何になる?」
アルキメデスの言葉。訝しむような視線が、かすかの違和感。
「言葉で答えてもらえないなら、痛みを手段にする必要が出てくる」
品性下劣の限りだが、しかし他に手段を持ち得ていないのだから、仕方がないことだ。
言えば、アルキメデスは肩をすくめた。
「ここにはいないとだけ言っておこう」
二人は言って――それぞれの
片方は、六つの眼球を六方に浮かべる、黄金の立方体。そしてもう片方は、鏡面の体を持つ、銀細工の人型。
その通り名に等しき
「悪いけど――身内の死に顔は、もう飽き飽きなんだ」
交渉は決裂。けれど交渉、という語句自体がそもそも、暴力を使わずに相手を自分の思い通りに動かすことを飾って表す言葉なのだから、この結末は目に見えていた。
「カムパネルラ」
心の中で、呼びかける。その声に沿うように、ぼくの内側から、水棲の未熟児が産まれる。肉のない、骨の翼。死色の鱗が、悍ましく煌めく。
時間がない。この場にドクタの姿がない、というのは、最悪に近かった。残された時間は僅かである、なんて考えすらも希望的観測だけれど、しかし希望に縋らないのならば、戦う意味も消え失せる。ともすればそちらの方がずっと、理性的なのかもしれないけれど――
「殺し合おうか」
それ以外の道は考えることができなかった。諦めが悪いのか、あるいは意地か、復讐か、八つ当たりか? どれであっても、もう関係はない。賽は投げられたのだ。
カムパネルラが翼を広げる。
ここは現実の抑圧が薄い。それはつまり、ファウストと戦った時より、調子はいいということ。けれど――つまりそれは、相手も同じだ。
二対一。その戦力差はあまりにも、大きい。
カムパネルラを見上げる。色のない瞳。彼は答えない。それは、ぼくが欲していないから。
前だけを見る。
「死んでくれ」
残酷な衝動。それがあることを、自覚した。
突貫する。
「早漏」
下品な言葉を呟いて、ラムバーはその瞳を輝かせた。
シャッター音。それは、心を写し取る下劣な音色。
阻みたいけれど――それは許されない。
「君が見るのは俺だ」
前線に出たのは、アルキメデス。銀色の人形。その数は――二人に増えている。拳が振るわれれば――さらに四に。
鏡写しこそが、固有能力。そのどれもが偽物で、そのどれもが実像だ。一体一体は大したこともないけれど――純粋な数の暴力が、ぼくを叩く。
ぼくは光を瞬かせて――
「阿呆」
その全てが、反射する。
アルキメデス。その権能は鏡写し。光は、鏡によって反射される。そんな単純なメカニズムに、気が付けなかった。あるいは、気付きたくなかったのか。いくばくかの熱は残るけれど、それは跳ね返る分より多くなることはない。
己の発した光が、カムパネルラの鱗を焼く。
音のない悲鳴。
相性は――最悪を超えた最悪だ。
ぼくは舌打ちをした。
カムパネルラの口が、アルキメデスの一体を噛み砕く。
けれどそんなものは焼け石に水でしかなく、四方八方を、埋め尽くすような銀の群れ。
それは集団リンチに近かった。群がる群像。手足を使った原始的な暴力。それはまさしくぼくの内心の鏡写しで、控えめな皮肉のようだった。
逃げ去るように、ぼくはカムパネルラを背に宙空へと飛び立つ。重力に反する浮遊。幸にして、工場の天井は高い。宙返りをするように、天井スレスレを飛んで、急降下。銀色の軍勢を超えて。その奥へ。目指すは本体。その側にも銀色は立ち塞がっているけれど――構うものか。飛びついてくるそれらを引きずったまま、無理やり本体へ迫り――
「ラムバー」
その呟きが、現実を塗り潰す。
「――シロ」
思考が空白に染まる。
それは。
そこにいたのは、彼だった。
いや、違う。ありえない。そんなことがあるはずがない。
こんな場所に、彼がいるはずがないのに――それなのに。
その姿を、ぼくの脳は彼自身であると判断してしまう。
噛み砕く牙が止まって――返礼の拳が、突き刺さる。
ぼくは再び空に逃げた。天井を這い回るようにうねる。ラムバーの瞳が、ぼくを映していた。薄汚い、下劣な覗き魔。
「君も、所詮人間だね」
ラムバーの本体が言う。
所詮人間、か。その有様とは正反対に、随分とまあ、上品な悪言だ。
ぼくは深呼吸を一つする。
トリックは単純。しかし問題は、それを暴いたところで、無意味であるということ。
アルキメデスたちの鏡面が、ラムバーを写す。そしてその鏡面が――ことごとく、
幻覚なんてちゃちなそれではない。概念的な認識同化。論理的な思考からは全てが偽物であると導き出されるのに、実態としては全てが本物としか思えない――思うことを許されない。
概念的なオーバーライド。防ぐ手段は、存在しない。なぜならそれは――ぼくの心を写し取っているだけだから。
「心の中にある、
一人では何の意味もない、ちっぽけな力だけど――なんて、悪辣極まる物言いで。
「二人なら、こんなにも」
無数に増える、その似姿。地獄のような群像。その全てが偽物で、なのに本物のように見えてしまう。
だからぼくは――ぼくは。
「■■」
その名を、呼ばれる。
蟻の大群が、獲物を喰らう様子に似ていた。いつのまにか、彼の姿をしたアルキメデスは無数に増えている。もう、数を数えるのも億劫なくらいに。それらがお互いに、手足を組み合い、頭を踏みつけ、肉体を絡み合わせて、柱を作る。そうやって次々と、高さを上げて、ついにその先端が、天井を這うぼくたちにまで届いた。
引きずられる力。どこを見ても、その姿は、彼。全ての顔が、ぼくを見る。全ての声が、ぼくを呼ぶ。逆らえない。見たくない。目を瞑って、耳を塞いで、それでもそこに
「お前が死ぬなら、俺も一緒に死んでやるよ」
いつか聞いた言葉が、リフレイン。
「お前が死にたいって言うんなら、俺が一緒に死んでやる。だから、一緒に死にたくなったらいつでも言え。その代わり――一人では死ぬな。死なないでくれ。頼むよ」
そんな言葉を、いつか聞いた。
その言葉に、救われた。
ぼくは、救われたんだ。
そんな錯覚を、したんだよ。
シロ――
窓の外は豪雨。
もう、何も聞こえない。押し寄せる群像。それは蜜蜂の作る蜂球に似ている。体温のような熱が、心地いいような、嘘の錯覚。
このまま押し潰されたっていいな、と思った。
そんなふうに、思えてしまった。
だから――
「――ごめんね」
ぼくは。
その全てを、薙ぎ払った。
瞬く光が、全てを貫く。一人残らず。同じ姿をした、この世で最も大切な人を、貫き、殺し尽くしていく。
死に絶えるアルキメデスの群像。鏡面を閉じたのは間違いだった。ぼくに対しては、そちらの方がずっと厄介だったのだ。
どれが本体か、なんて、もう考える必要もない。それほどまでに全てを――滅ぼし尽くす。
「ありえない――」
眼下で、ラムバーが呟いた。
朽ち果てた
「どうして、殺せるの」
「殺せることが、そんなに不思議?」
大切なものを、壊せてしまうこと。
その程度の破綻を、まさか、想定していなかったとでもいうのだろうか?
「狂ってる」
「そう思えることが、君の敗因」
この世にある狂気とはただ一つ。
自分が正しい側だと、思い込むこと。
だからぼくは、狂ってなんかいない。
残念ながら、いられない。
「
馬鹿馬鹿しいね。ラムバー。そんなだから、裏切ったんだろう。
君の敗因はたった一つだ。
君は
ぼくたちは、君が思うほど綺麗な生き物じゃないんだよ。
ぼくは言って、彼女の元に近づいていく。
一人だけの彼女に、できることなんて一つもない。
「~~っ、裏切り者め!」
彼女は叫んで、ナイフを取り出した。それが最後の抵抗のようだった。
突き出されたそれを、カムパネルラの羽先でぱきりと手折って、顎を開く。
絶対的な残酷を、振り下ろす。
そのつもりで、口を閉じて――
その瞬間。
ターン、と。
乾いた音色が、響いた。
「――え」
ぼくはその場に――崩れ落ちる。
それは、目の前のラムバーからでは、もちろん、ない。
その脇に転がるアルキメデスの死体からなんてこともあり得なくて――
ぼくは――撃ち抜かれたのだ。
「――望ましい展開だ」
血溜まりに倒れ込む。
気力を振り絞って、姿勢を仰向けに転換した。
視線を、入り口へ向ける。
そこにいたのは、一人の男だった。
どこにでもいるような、中肉中背の中年男性。スーツ姿。撫で付けられたオールバックとスクウェアのメガネが、どこか役人のような規律感を呼んでいる。
「ラムバー、アルキメデス。敵ながら、あるいは今は味方ながら、天晴れ。君たちの働きは十分以上だった。契約には報いよう。聞こえてはいないだろうが――安心して、眠りたまえ」
まるで演劇の台本を読むかのようにスラスラと述べて――男はぼくの元へ近づいてくる。
「何者だ――」
ぼくが問えば、男は片眉を挙げた。
「私か?」
凍てつくような、冷たい目だった。
人を人とも思わない――残酷の瞳。
「ふむ。答える義理はないが、しかしだからこそ答えよう。私の名は
この雨の中、おそらくは外から訪れたのだろうに――一雫の水滴も、受けてはいない。
乾き切ったスーツが、しゅるりと擦れる音。
男は――咲窓憂君は、しゃがみ込んで、ぼくの目を見た。
「君には聞きたいことがある」
彼は言って、スマートフォンの画面をこちらに向けた。
「私は一人の少年を探していてね」
そこに映るのは――
見覚えのある、水色の髪。
「
なあ、カムパネルラ。
「
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