カムパネルラの傷跡   作:忘旗かんばせ

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第六章 2

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「いい加減、正気に戻ったらどうだ」

 

 人間は自分にとって好都合な変化を成長と呼び、不都合な変化を故障と呼ぶ。卑劣で浅ましい限りだけれど、最も醜いのは、己の醜さを認めようとしないその悍ましいまでの頑なさにこそある。

 

 ぼくは故障したとみなされたようだった。成績は良くて、将来有望。もちろん、それは教師たちの主観的なごく狭い認識の範囲において、という意味で、つまりぼくにとっては何の価値もない評価だった。

 

 いや、そもそも、評価なんてものには、どんなそれであれ、何の価値もない。外部からの評価が、人の本質に干渉できるという考え方自体が、もう浅ましい。たかだか人間一個人の、主観的な偏りに満ち溢れた、下劣な精神的侵略行為が、他者を穢せるなどと勘違いすることが、思い上がりなのだ。許し難いことで、許してはならないこと。なのになぜだか、それが罷り通ってしまう。そんなものが、影響を与える、与えられるという錯覚を、利用したい人々がいて、利用された人々がいる。そういうことが、もう本当にうんざりするぐらい長い間積み重なり続けていて、その馬鹿みたいな重さが、正しさを押しつぶしてしまう。最低最悪のメカニズム。眩暈がして、眠りたくなるくらいに。

 

「なぜ、出席しない?」

 

 学校に来ると、こういうわけのわからない、何の価値もない理不尽が襲いかかることがある。これをリスクとして許容できる程度の収穫があるのかどうかは微妙で、つまりぼくは、ぼくに騙されたことになる。

 

 ぼくは質問に答えてあげた。それはとても純粋な親切だった。

 

「意味がないからです」

 

 けれど、彼はそれが気に入らなかったみたいだった。この世のほとんどの親切は、受け取られない。それはただの独善だからだ。ぶつかり合って、砕け散る。それだけの機能しかない。

 

「答えになっていないだろう。真面目に考えろ。このままでは、卒業させられないぞ」

「そうですか」

「そうですか、じゃない。どうしてしまったんだ、お前は? 自分探しとかそういうのは、もっと早い時期に済ませておけよ」全く、と教師は舌打ちをした。「そんなんで将来、どうするつもりなんだ」

「どうも」

「どうもって、お前なぁ……そんなんじゃ、通用しないぞ」

 

 何に対して? とぼくは思う。もしかして、言葉が、ということかな、と思った。

 

「とにかく、もうちょっとまともに考えてみろ。学校に来ない。連絡もしない。将来の展望もない。この大事な時期に、普通、そんな人間がいるか?」

「ここにはいます」

「いてはいけない、という話をしている」

「そうですか。お話は、以上ですか?」

 

 こんな確認をしなければいけないことが、もう屈辱だった。ぼくが今日学校に来ているのは目的があるからで、逆にいえば、学校に来ていない時は、来る目的がない、ということ。それを、来させたい、と思うのならば、それに値する価値を提示するのが、つまり交渉の基本というものではないだろうか? 当たり前、とか、普通、とか、そんな言葉で威圧して、人をコントロールしよう、というやり方を選択することが、どれだけ愚かで無意味なのか。基本的に、人間がやることは、全て欲望に起因している。己が、欲望によって行動している、という醜さをまず認めなくてはいけないのに、それをできる人は極端に少ない。

 

 いてはいけない、というのなら、好都合だろう。それとも、もう学校には来るな、という勧告だろうか。それならば、まだしも納得はできる。学校側は気に入らない生徒に不良というレッテルを貼って、停学や退学を申しつける権利を持っている。それを行使したい、という話ならば、素直にそういえばいい。

 

 ぼくは職員室を出た。話は終わっていない、という言葉を背に受けたが、彼のいうところの「話」というのは、「自分の聞きたい言葉を相手が言うまで同じ言葉を繰り返す行為」という意味だ。それでは永遠に終わらない。エラーの出た回路には、強制終了。それ以外の選択肢はない。

 

 ぼくは廊下を歩いた。ここに来た目的を果たすためだった。

 

 彼とぼくは教室が違うから、ただ元いた場所に戻るだけでは座標に大きなズレが出る。だから、ぼくはその誤差を修正したのだけれど、どうやらシミュレーションが足りなかったらしい。

 

「シロ、いますか」

「あー、彼? どっか出てったよ」

 

 入れ違いじゃない?

 

 なんて、彼のクラスメイトが言う。そうか、そういうパターンもある。しかしその場合、彼は指導室の前で待ち構えているはずだ、パターンから外れるのは、珍しいこと。ぼくは再び廊下に出た。

 

 彼はどこにいるだろう。心当たりは少ない。それはぼくが彼を探すより、彼がぼくを探す方が、パターンが多いからだ。学習が不十分、という意味。

 

 ぼくだったら、どこへ行くだろう? 結局、そんな下劣な想像しかできない。他人の思考を、自分に当てはめてシミュレートしようというのは、傲慢の三乗。そんなものは通用しなくて、通用してはいけない。酷く失礼極まる行為で、けれどそれ以外に方法がない。仕方がない、とは言いたくないが。

 

 ぼくは足を進める。すれ違う人影。その顔は全て虚像。目には映っても、脳には見えない。どれもこれも、そんなものばかりだ。褪せて消える。全ては塵。見えないもの。見たくないもの。誰も彼も、ぼくには全く無関係で、全てがぼくの被害者でもある。

 

 逃げている。ずっと、何かから。

 

 ぼくは窓の外を見た。雲が空を覆っていた。

 ふと、場所を思いつく。ぼくと彼の間には、いくつかの定番がある。それは二人揃った場合の、なのだけれど、前提条件が変わった可能性は十分以上に考えられた。

 

 煙草が吸える場所、というのが、昔は第一だったけれど、最近は、それは選ばれなくなった。なぜなのかはわからない。少なくとも、ぼくの側の都合ではないことは確か。

 

 だから、外ではない。しかし、その手前はあり得るだろう。

 

 ぼくはその場所へ向かう。少し遠い。教室や、人気のある場所から、離れること。それが目的なのだから。

 

 シロに会いたかった。

 どうしてか、彼と話がしたい。

 

 何が目的なのかはわからない。目的なんてものがあるのかどうかさえも。

 ただ、話をすること。それだけが望みみたいに。

 

 テーマは何がいいだろう。聞きたいことがたくさんある。

 たくさんあるはずなのに、そのどれもがどうでもいいことのようにも思えてくる。

 

 こういう乱れは、嫌いだ。自分の体が自分のものではない、ということを、深く自覚させられるから。けれどそれ以上に衝動が強くて、ぼくは逆らえない。

 

 たとえば考えるのは、人間の醜さ。

 それは肉体を捨てたところで、克服できる程度のものなのか?

 ぼくにはそうは思えない。人間の醜さとは、すなわち人間の本質である。

 それを捨て去りたいのなら、消えるしかない。

 完全にゼロになるしかない。

 

 あるいは、完全な孤独か……。

 

 もしかして、奴が求めているのはそれなのか?

 

 だとするなら。

 何と、無意味なことをしているのか。

 

 その意味のなさに、気付いているのだろうか。

 あるいは気付いていて、無視しているのか。

 いずれにせよ……。

 

 醜さから逃れたいという考えもまた、醜さだ。

 だから本当は、ただ受け入れるしかない。

 

 醜いことを。

 悍ましいことを。

 邪悪であることを。

 

 上品であろうとすることと、下品さを認めないことは、本質的に異なる。

 

 世界で一番醜い生き物が誰であるかを、人は初めから知っているはずなのに、いつしかそれを忘れてしまう。それが、楽だから、そうしていれば……痛まずに、済むから。

 品性下劣の選択。

 けれど誰もが、それを選んでしまう。

 低きに流れる。

 

 人は醜い。

 

 そして、ぼくも。

 

 この世の何より――醜いのだ。

 

 だから、ほら。

 

 辿り着く先は、階段の向こう。

 きっと昔は、そこに煙草の煙が満ちていて。

 今は――

 

 今は。

 

 ぼくは、その光景を見る。

 

 屋上へ続くドア。

 覗き窓から、光が差し込んで。

 

 その二つを、照らしている。

 

 見たくないものを。

 それでも見ろと、押し付けがましく。

 見せつける。

 

 目が眩んだ。

 

 吐き気がした。

 

 息が乱れて、呼吸ができない。

 

 叫び出しそうな気分で、けれど声は出さなかった。

 

 眠たくなった。

 

 眠りたかった。

 

 意識を落としてしまいたかった。

 

 見たくないものを、見た。

 

 たったそれだけ。

 それだけのことなのに。

 

 ぼくは逃げ出した。

 

 そしてもう二度と、戻っては来れない。

 

 暗転(シャットダウン)

 





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