5
会話はなかった。
ただ、不気味な沈黙だけがあった。
夕暮れの帰り道。焼け爛れたような紅に染まるアスファルトを切り裂いて、長く伸びた漆黒の影が、積み重なった罪のようで、吐き気がする。
あの後。ぼくは
並び歩く足音は、遅い。まるで焦れるように。噛んで含めるように。停滞するように。逃れるように。時を引き延ばすように、じわりじわりと、蝸牛の歩み。
「なあ」
先に口を開いたのは、シロだった。
惑うような瞳。いつもの胡散臭い笑みは消え去って。
今はただ、子供のように、不安一色の顔色。
そんな顔を、させたかったわけではない。
ない、のに。
そんな言い訳は、もうとっくの昔に意味を失っている。
「お前、何をやってるんだ、一体」
問い詰めるような言葉。ぼくは、けれど口を開かない。開けない。開くことが、できない。
「何で、あんなことを」
知らない。わからない。そんなこと、ぼくに聞かないで――脳髄の最も原始的な人格が喚き散らかす。うるさい。黙ってよ。ぼくのくせに、ぼくの言うことを一つも聞きやしない。頭蓋骨をかち割って、引き摺り出してしまいたかった。
「何とか、言ってくれよ」
それは祈りに似た言葉だった。己が信じたいものを信じさせてくれという懇願だった。けれどぼくには、それに応える術がない。その願いを叶える力がない。だからもう、どうしようもなかった。だって、そうだろう? どうすればいいかなんて、わからないんだ。もうずっと昔から道に迷って、どこに行けばいいのかもわからない。
導いてくれる人はいなくなって。
手を引いてくれる人はいなくなって。
こんなにも近いのに、遠ざかって。
ぼくは一人だ。
だから。
だからね――
「シロ」
ぼくは。
ぼくは――
「ぼくは世界を滅ぼすんだ」
カムパネルラ。
水棲の未熟児。死産の赤子。叶わなかった願いの遺骸を、だからぼくは、見せつけた。
見て。
見て。
見ろよ。
これがぼくだ。
この有様が、ぼくなんだ。
「この世界には、
ぼくは全てを語る。
彼に秘密にしていたこと。秘密にしていたかったこと。全部、全て、ぶちまけてしまう。嘔吐するみたいに。射精するみたいに。何もかもを空っぽにしたい。ぶちまけて、穢して、メチャクチャにして、見せつけてやりたい。
もう、そんな醜さしか残っていなかった。
「ぼくたちは、世界を滅ぼすために戦っているんだ」
世界を守る
世界を形作る人間を滅ぼして。
空の彼方の星すらも、一つ残らず消しとばして。
この世界に、幕を引く。
「それがぼくの、夢なんだよ、シロ」
ごめんね。
ずっと、嘘をついていた。
本当は。
ぼくは。
この世界が嫌いなんだ。
「何で、何でだよ。そんなこと、今まで一回だって――」
そうだね。
言っていない。
君にはそんなこと、言っていない。
言いたくなかった。
聞かせたくなかった。
話したくなかった、
何もかも、秘密にしていたかった。
だって。
「君のことが好きだったから」
言った。
言ってしまった。
あーあ、と思う。
これだけは、言うまいと思っていたのに。
言いたくないと、思っていたのに。
そんな軛さえ、もう役立たず。
全てが壊れてしまった。
溢れた。
砕けた。
ぼくの体を。
怪獣が支配している。
「君のことが好きだったから、全部、秘密にしていたかった」
ごめんね。
好きだよ、シロ。
好きなんだ。
君のことが好きで、好きで、好きで、仕方がなくて。
でもそんな君のことさえ、ぼくはもう世界で一番嫌いなんだ。
殺してしまいたいくらい。
壊してしまいたいくらい。
滅ぼしてしまいたいくらい。
全てを無かったことにしてしまいたいくらい。
大嫌いだ。
「そん、な――」
知らなかった、と。
彼は言った。
そりゃあそうさ。
ぼくは、嘘がうまいんだ。
君よりずっと、どんな嘘も。
知っていた?
知らなかったでしょう。
君は、ぼくのことを何も知らないんだ。
君はぼくを、暴いてはくれなかった。
ぼくの秘密を、秘密のままに取り置いていた。
そんなところが好きだった。
心の中の、触れてほしくはないところに、決して触れない。
その気遣いが好きだった。
でもね。
同じくらい。
同じくらいそれが、嫌いだったんだ。
ねぇ。
どうして踏み込んでくれなかったの?
ぼくの心に、土足で踏み込んで。
踏み荒らして。
めちゃくちゃにして。
見つけて欲しかった。
求めて欲しかった。
欲して欲しかった。
君はいつも。
ぼくの本当の願いを、叶えてはくれないね。
ああ、なんて浅ましいわがままだろう。
いやらしい。
わかっているんだ。
わかっているのに。
何もかもが、止まらない。
吐き気がする。
頭が痛かった。
煙草が吸いたい。
お酒が飲みたい。
眠ってしまいたい。
もう、全てが嫌になっていた。
「ぼくは世界を滅ぼすんだよ、シロ」
世界を滅ぼすんだ。
君が大好きなこの世界を。
君が大好きなあの人だって巻き込んで。
全部全部、滅ぼすんだ。
一人残らず。
一つ残らず。
全部全部殺し尽くして。
全部全部壊し尽くして。
その罪深さが、わかるかい。
その悍ましさが、わかるかい。
シロ。
シロ。
シロ――
「ぼくのことが嫌いになったでしょう?」
彼は。
絶望したような顔で、ぼくを見る。
そう。
それでいい。
それが見たかった。
君のその顔が見たかった。
そんな顔をするんだね。
ぼくには一度だって、見せたことがない顔だね。
きっと、ぼく以外の誰にだって。
そんな顔だけは、しないんだろうね。
だから、これはぼくのもの。
これだけは、ぼくのものだ。
嬉しくなった。
ぼくはナイフを取り出して。
それを、彼の手に握らせる。
「ぼくを殺してみる?」
ぼくを殺せば。
もしかしたら、世界は滅びないかもしれない。
救われるかもしれない。
元通りかもしれない。
世界はまだ、続くかもしれない。
試してみる?
試してみようよ。
いいでしょう?
ほら。
ほら――
「ぼくを殺してよ、シロ」
もう、そんな願いしか残っていないんだ。
ねぇ、シロ。
ぼくのことが憎いだろう?
大嫌いだろう?
だって、ぼくは君を殺すんだもの。
君の大切な人を、殺すんだもの。
この世界の全てを、怖すんだもの。
そのナイフを、突き立ててよ。
ぼくは彼の手をとって、刃を、ぼくの首筋に沿えさせる。
「殺せるよ、シロ」
今なら、殺せる。
ぼくは抵抗しないよ。
これが最後のチャンスだ。
もう二度と訪れない好機だ。
人殺しの化け物を。
世界を壊そうとする、破綻者を。
殺し尽くせる、唯一の機会だ。
「どうしたの?」
彼の手は、震えている。
彼の目は、震えている。
戸惑うように。
恐れるように。
ナイフは動かない。ぼくの命は、奪われない。
それは、どうして?
「殺さなきゃ」
殺さなきゃ、もう、滅びてしまう。
世界の全てが、壊れてしまう。
ぼくは、世界を滅ぼすんだよ、シロ。
人殺しなんだ。
怪物なんだ。
ほら。
醜い化け物は、退治しなきゃ。
君も。
君の愛しい人も。
全て死に絶えてしまうよ。
ねえ、シロ。
世界を守ってよ。
ぼくを殺して、世界を守って?
「――できない……」
泣きそうな声で、彼は言った。
一度だって聞いたことのない声だった。
歯を食いしばりながら、彼はナイフを捨てる。
ああ、そうか。
そうか。
君は、ぼくを殺してもくれないんだね。
ぼくを止めてもくれないんだ。
ぼくは。
ぼくは君にとって、殺したいほど憎い相手にさえも、なれないんだ。
じゃあ、いいよ。
もういいよ。
もう、いい。
「負け犬」
ぼくは彼を罵った。
「所詮きみは、その程度なんだ」
人を殺す度胸もなく、生きている。
馬鹿馬鹿しい。くだらない。
そんな様で。
そんな様でよくもまあ、生きていられるものだ。
「どうして、ぼくを殺してくれなかったの」
恨むよ、シロ。
君のことを恨む。
ぼくだけじゃない。
世界の誰もが、君のことを恨むんだ。
腰抜けの、意気地なしが。
世界の全てを裏切って。
ぼくという害悪を、摘まなかったせいで。
この世界は滅びるんだ。
「一生そこでそうしていればいい。何も選べない、無様な負け犬。死んでしまえ。ぼくはもう行くよ」
涙を落とす彼に、ぼくは言葉を叩きつけて。
翼を広げる。
カムパネルラ。その骨の翼には、鋼の皮膜が張って。
未熟児は羽化する。
現実はもう、壊れかけ。
だからぼくは、空を飛べる。
「バイバイ、シロ」
さよなら。
君のことが、世界で一番好きだった。
夕陽が落ち、黒紫の帳が降りる。
瞬く星すらなく、瞼を閉じるように、闇に満ちて。
もう、夜が来る。
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