カムパネルラの傷跡   作:忘旗かんばせ

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第十一章 2

 

 3

 

「っ、く!」

 

 歯を食いしばっても、悲鳴までをも噛み殺すことはできなかった。

 

 脇腹に受けた光の槍。焼け付くような痛みがぼくを襲う。

 

「カムパネルラ!」

 

 ドクタが叫んで、ぼくの脇腹を貫く聖四文字(YHWH)に爪を突き立てるけれど――無傷。

 

「ああ、もう!」

 

 咄嗟の転換。ドクタは対象を乖獣(オルターエゴ)から本体へと移し、爪を振るう。首を刎ねられた本体が血を吹き散らしながら倒れ伏すと、聖四文字(YHWH)はぼくから興味をなくしたように、光の槍も消し去ってどこかへと飛び去った。

 

 ぼくはごぼりと血を吐く。すぐさまドクタがやって来て治療を施してくれるけれど――

 

 かなり、消耗していた。

 

「ありがとう」

 

 ドクタにお礼を言って、ぼくは立ち上がる。貧血のような錯覚。治療は済んでいるから、それは嘘だ。そういう嘘を、脳が吐きたくなるくらい、疲弊している、ということ。それは肉体というよりも、精神が。

 

 安全な場所なんてものを探そうという試み自体が、楽観に支配された軽挙妄動だった。

 

 民衆の全てが、敵である。その状況では安全を得るどころか、休むことさえも困難だ。

 

「人里離れた山奥なんかに籠るしかないね」

 

 ぼくは言った。ドクタは泣きそうな顔をしている。

 

「そこまでして、生きている意味がある?」

 

 全くもってその通りで、ぼくは己を恥じた。

 毒されているのだ。

 

「連絡は?」

「マレウスは、家にいたけど襲われて、逃げてるって」

「セルバンデスは無言?」

「うん」

「とりあえず、マレウスとの合流を目指そう」

 

 セルバンデスは、死んではいないだろう。むしろ、逆を心配するべきだ。

 危険なのはマレウス。天使たちの誰かがそちらに向かうという可能性もある。

 

「今、どこにいるって?」

「駅前の、作りかけのビルに向かうって言ってた」

「なるほどね」

 

 そこならば、探す人間に対しても盲点になり得る。

 

「とりあえず、そっちに向かおう」

 

 ドクタは頷く。ぼくは彼と共に歩き出そうとして――

 

「いたぞ!」

 

 背後から、追手が現れる。

 

「人殺しの化け物どもが!」

 

 道に転がった死体をめざとく見つけて、襲撃者はそんな薄っぺらな義憤を宣う。

 

 背に神の似姿を湛えながら、原始の暴力を信仰する十字軍。数は六人というところか。蹴散らすことはできるが、今はそれよりこの場を離れることを優先したい。

 

「行こう」

 

 ぼくはドクタを引き連れて走り出す。

 

「追え、追え!」

 

 路地の隙間に転がり込むけれど、当然のように群衆は追跡を続ける。だが、この手の鬼ごっこは、ぼくらの方が強い。同じ乖獣(オルターエゴ)の使い手といえど、年季が違うのだ。ぼくらがカムパネルラやドゥ・リトルの力を借りて加速するのに対し、彼らはただ己の足だけで追ってくる。

 

 このままなら振り切れる。そう確信するけれど――

 

「逃げられると思うな!」

 

 不意に、路地の出口を影が塞いだ。別口の連中が、騒ぎを聞きつけてやって来たのだ。出口を塞ぐ群衆は、追手よりも数が多い。

 

「チッ、カムパネルラ!」

 

 ずるり、と現れた水棲の未熟児が、その大顎で塞ぐ一人を噛み砕く。あえて、残酷な殺し方をした。これで、怯えてくれれば助かるのだが――

 

「うわぁぁあああっ!!」

 

 叫びながら、群衆の一人が光の槍を突き出す。焼け付くような痛み。くそったれ。そううまくはいかないか。

 

 ひゅららら、と叫び声をあげて、カムパネルラが空をくねる。その尾で強かに無粋な槍持ちの頭を打ち、その頭蓋を柘榴のように弾けさせた。動揺は広がるが、喚起されるのは恐怖よりも怒り。一層攻撃性を増した聖四文字(YHWH)たちが、次々に光の武器を取り出す。

 

「追いついたぞっ!」

 

 そうこうしているうちに、背後の追跡組までもがこちらに追いついてしまった。前門の虎、後門の狼というにはいささか役者不足だが、それでも厄介なことには変わりない。

 

 ビルの壁面に備え付けられた室外機が、ブーンと不快な音を立てる。

 

「カムパネルラ」

 

 殺し尽くせ。

 

 そんな意図を込めて、その名を呼ぶ。

 

 瞬く光。背後をドクタに任せて、ぼくは前を攻める。弾けた光の散乱が、群衆を悉く射抜くけれど――

 

「っ、硬い」

 

 光の盾を構えた聖四文字(YHWH)たちが、その本体を庇い、カムパネルラの攻撃を防いでいた。光の盾はその輝きを弱めているが、しかし倒れたものは一人もいない。

 

 この光の武器たちが、どうにもぼくたちと相性が悪い。

 

 いや、というより――

 だんだん、悪くなっていっている。

 

「カムパネルラ」

 

 これで何度目だろう? その名を呼べば、彼は大口を開けて敵の一人に齧り付く。物理攻撃の方が、まだ効きがいい。盾ごと本体を噛み砕いて、口の端から血を滴らせる。

 

 攻撃を掻い潜りながら広げた翼で一つ二つと首を刎ね――

 

 不意に、衝撃。

 

「っ、らぁ! 利いてるぞ!」

 

 どうやら連中にも、多少は賢い奴がいたらしい。ぼくがカムパネルラを自分から引き離しているのを見て、同じことをしたようだ。

 

 背の神を置いて、本体だけで近寄って来た一人が、ぼくの頭をバットで殴りつけた。

 

「痛いな……」

 

 額が割れたようで、顔を血が滴っていくのを感じる。

 

 二撃目が振りかぶられるけれど――その前に、ドゥ・リトルの爪が襲撃者の心臓を穿った。

 

「大丈夫か!」

「問題なし。君も気をつけて」

「後ろの敵はやった。ボクも前に出る!」

「必要ない。後ろの警戒を」

 

 ぼくは額を抑える。手のひらに、べっとりと血がついた。

 

 油断が過ぎる。いや、疲れが出ている、と考えるべきか。パフォーマンスが落ちているのだ。こんな奇襲も防げないくらいに。

 

 敵の数は減って来ている。落ち着いて対処すれば、問題はない。

 

 問題はない、の、だが――

 

「こっちだ、こっち!」

「助けてくれ! 破壊者(ダウナ)が暴れてる!」

 

 補充が、止まない。

 

「年貢の納め時、って、こういう時をいうのかな?」

 

 ぼくは呟く。

 状況は最悪に近かった。

 

「後ろに逃げよう」

 

 ドクタの提案。振り返れば、後ろには追っ手の影はない。後退はできそうだった。

 

「ドクタは、そうして」

「ボクはって、君は!?」

「一人の方が、戦いやすい」

 

 そう言って、ぼくは彼を後ろに押した。

 

「後で落ち合おう」

 

 そういえば、ドクタは何かを言いたそうに口を動かし、けれど歯を食いしばって「後で必ず!」と叫んで走っていった。

 

 これで任務はシンプルになった。この場に可能な限り、敵を釘付けにすること。それがぼくに課せられたタスク。

 

「付き合ってもらうよ」

 

 ぼくは笑う。余裕を見せつけるように、たっぷりと。

 

 4

 

「お前のせいでっ!」

 

 そんな言葉と共に、光の刃が振るわれる。

 

 そうとも、世界のこの有様は、ぼくのせいだ。けれど、それは本当にそうなのか? ぼくたちがこうするよりずっと昔から世界は壊れていたじゃないか。それを、誰が見咎めた? それに、誰が怒ってくれた?

 

 誰も彼も、身勝手だ。自分に害が及んでようやく、その時初めて起こった出来事みたいに眦を吊り上げる。そうして自分は被害者だと叫びを上げて、どこかに自分を陥れた悪い誰かがいるんだと信じ込んで、でっち上げられたそれを正義と書かれた棒切れで殴りつけることで鬱憤を晴らす。馬鹿馬鹿しい。心の底から、軽蔑するよ。

 

 戦況は着々と悪くなっていく。

 

 どんな情報の拡散があったのかは知らないけれど、この場所に次々と人が集まって来ている。よく見れば、遠くの方でカメラを回している人間が何人もいて、まるで見せ物のような有様だ。

 

「死――ねっ!」

 

 投げつけられた瓶を避ければ、それが壁にあたって砕けた。貧弱な攻撃。想像できる最もがそれである、ということで、つまりそれまでの人生が、いかに順風満帆であったかという現実を示している。

 

 ぼくは薄く笑う。

 

 もうずっと、こんな調子だ。夥しい数の人間たちが群がり群がってぼくを殺そうと試みる。今の所、それはまだ成功してはいないけれど、時間の問題であろうと思えた。

 

 光の柱がぼくを襲う。カムパネルラの翼がそれを庇った。焼け付くような痛みに顔を顰めれば、品性下劣の歓声が上がる。

 

 さて、どうしたものだろう。もう、ここで死ぬしかないのだろうか。まさか、こんなところで?

 

 いつだって、死にたいと思って生きて来た。

 死んでしまえればどんなに楽かと思って来た。

 それと同時に、死にたくないとも思っていた。

 こんなくだらない世界のために、ぼくが死ななければいけないなんて、理不尽に過ぎると思っていた。

 

 何もかもが嫌だった。

 生きることも、死ぬことも。

 考えることさえ、何もかもが。

 

「カムパネルラ」

 

 光を、放って、けれど光の盾に防がれる。

 ああ、どうすればいい。

 誰か、

 誰か、助けて――

 

 

 パ――――――と。

 

 

 けたたましい、クラクションの音色がなった。

 

退()退()退()退()け!」

 

 全開にした窓から、似つかわしくない怒号が聞こえてくる。

 

 路地の出口を塞ぐ、群衆のもとに。

 

 一台の自動車が、突っ込んできた。

 

 わあ――と悲鳴が上がって、群衆がその場を散る。逃げきれなかった幾人かがそのまま跳ね飛ばされて、道路に叩きつけられては動かなくなった。

 

 その車は――ぼくらの前で、バンとドアを開ける。

 

「乗れ!」

 

 そこにいたのは――

 

「シロ……」

 

 彼だった。

 

「どうして――」

「いいから、早く!」

 

 運転席から延ばされた手が、ぼくの手を無理やり引っ張り上げる。

 

 乗り込めば、バタンと扉が閉じた。

 

 彼は叩きつけるようにアクセルを踏みつける。

 

 ぎゅお、と唸りを上げて車輪が回転し、勢いよく車が発進する。再び群がり始めていた群衆がまたも跳ね飛ばされて、そのまま後方へ流れていった。

 

「どこへいけばいい?」

「……駅前、裏の方」

 

 言えば、彼は小さく「おっけ」と言った。

 体にかかる加速度が、枷のように、苦しい。

 

「……免許、とったんだ」

 

 何を言えばいいのかわからなくて、ぼくはそんな無意味を呟いた。

 

「いや、実は仮免」

「ワルだね」

 

 剥奪は間違いないだろう。なんせ、人を轢いている。ぼくは面白くなって、薄く笑った。

 

「雰囲気」

 

 彼はちらりと横目でぼくを見た。ドレスが壊れた後だったのが、ひどく惜しかった。

 

「随分、変わったな」

「そうだね」

 

 ぼくは自らの髪の毛を撫でる。青く染まったそれが、指の間を通り抜けていった。

 彼に見せたいとは、思っていなかった。

 

「どっちが、ぼくだと思う?」

 

 そんな言葉が、口をついて出そうになった。けれど、そんなことを聞いても意味がない。どちらと答えられたとしても、もう、それは……。

 

 過去のことだ。

 

 ぼくは、変化した。それは、主観的には覆いを外した、という方向性。それは本質の変化を意味しない、という自己弁護だけれど、しかしその論調の致命的な陥穽は、人間に本質と言えるほど確固たる中枢が存在していない、という事実にある。

 

 ぼくは、確かに変わった。

 その変化は、なんだろう。

 覆いを外してもいい、と、そんなふうに思ったのは。

 期待することを、やめたからか。

 

 ならば、今は?

 ぼくが口を噤むのは、何を期待しているからなのか……。

 

「心境の変化があったんだ」

 

 当たり障りのないことを、口にした。事実ではあるけれど、真実ではない。危ういバランスの、薄氷の言葉。

 

「そっか」

 

 彼は、どこか寂しそうに笑った。

 

 寂しさ、とは。

 もう二度と手に入らないものへの、羨望だ。

 彼は、何を失ったのだろう。

 

 ぼくと違って。

 全てを得ているはずの、彼が。

 

「ねぇ、どうして?」

 

 心の底から不思議で、ぼくは問いかけた。

 

「どうして、助けに来てくれたの?」

 

 それが、いちばんの不思議だった。

 ぼくと彼との間に、もう、名前を付けられるような関係性は、ない。

 

 ない、はずだ。

 

 だからぼくと彼とは、ただ、加害者と被害者の関係。

 

 滅ぼすものと、滅ぼされるもの。

 

 それだけの差。

 

 そのはずなのに、なぜ?

 

「決まってるだろ」

 

 彼はハンドルを握ったまま、言う。

 

「お前のことが、大切だからだよ」

 

 大切。

 大切って、なんだろう。

 そこには、どんな意味がある?

 そこには、どんな価値がある?

 世界と天秤にかけてさえ、手に取りたいと思うほどなのか?

 

「実のところ、その辺りは俺にも、うまくわからない」

 

 彼は小さく笑った。

 

「多分だけど、意味とか価値とか、そういうことじゃないんだと思う。なんていうか、もっとプリミティヴな、ある種幼稚な思いとして、お前のことを、失いたくないと思ってしまう」

 

 失う。

 失う、とは、どういう水準で、なのだろう?

 

「そうだな。あえていうなら――お前が幸せになれる確率がゼロになること、かな」

 

 独特の表現で、ぼくは少し笑いそうになった。以前は、役割が逆だったように思う。

 

「それって、どういう理解をすればいい?」

「あー、つまりさ。俺は、お前に幸せになってほしいと思ってるんだよ」

 

 その言葉に、けれどぼくは笑顔を浮かべようとは思えない。

 

「それってさ、傲慢だよね。幸せになってほしい、って、無責任な言葉だ」

「わかってる。全くその通りで、ひどいことを言ってると俺も思う」

 

 彼はハンドルを切った。車が曲がる。慣性が体を引きずって、車の淵に体が押しつけられた。

 ぼくは小さく口を開いた。

 

「ぼくは――君が好きだよ」

「うん」

「君に恋をしているんだ」

「うん」

「君が」

 

 君が――

 

「君がぼくを選んでくれるなら、ぼくは幸せになれるよ」

 

 その横顔を、見つめる。いつもの笑みは、消えている。真剣な表情。きっといつよりも、ずっと。

 

 ぼくは、どうだろう。今、一体どんな表情を浮かべているのだろう。期待するような、卑劣の眼差しか。醜くて、嫌になる。ああ、ぼくは。ぼくは――

 

 それでも君に、手を取って欲しい。

 

 好きなんだ。

 愛してるんだ。

 恋しいんだ。

 狂おしいほどに。

 痛むほどに。

 苦しむほどに。

 悼むほどに。

 許されなくても。

 赦されざるとも。

 好きで。

 好きで。

 好きで。

 たまらなくて。

 だから。

 どうか――

 

 

「――ごめん」

 

 

 願うぼくに。

 彼ははっきりと、それを口にした。

 

 

「お前の思いには――応えられない」

 

 

 首を、振られて。

 ああ――と。

 肩の力が、抜ける。

 

 スポットライトは、かき消えた。

 どうやら壇上には、登れなかったみたい。

 踵が折れていたせいなのかな、と思った。

 だとしたら酷く、残念だ。

 

 ずっと。

 ずっと好きだった。

 昔から。

 愛していた。

 美しくて。

 清らかで。

 優しくて。

 晴れやかで。

 けれど――世界の形が、それを許さなくて。

 ぼくは。

 ぼくは――

 世界を滅ぼしたくなるくらい、好きな人が、いた。

 

「――あれから」

 

 彼は再び、ハンドルを切った。慣性と、加速度。口を開き、告げられる言葉。

 

「いろいろ考えたんだけどさ」

 

 彼は正面を見据えたままに言う。

 

「俺も、お前のことが好きだよ」

 

 でも、それは。

 

「恋愛的な意味じゃなく、人として」

 

 人間として。

 一人の存在として、好ましい――と、彼は言った。

 あるいは愛しているとさえ、言ってもいい。

 なんて、それは――

 

「それは、残酷だね」

 

 どうしようもないほどに。

 許し難いほどに。

 最低なほどに、

 残酷で。

 酷薄で。

 無慈悲だ。

 

「だけど、それが俺の正直な思いだ」

 

 誤魔化しもなく、真っ直ぐに、彼はそう言った。

 

「ぼくは――」

 

 目を逸らして、言った。

 

「ぼくはぼくのことが、嫌いだよ」

 

 昔っから。

 この世の誰より、大嫌いなんだ。

 

「シロはこの世界を、醜いと思ったことはある?」

 

 それは問いかけの体をとった独白だった。

 

「ぼくはある。いつだって、そう思ってる。この世界は、醜い。穢らわしくって、悍ましくって、触れていることさえ許せないほどに、大嫌いだ」

 

 ぼくは。

 ぼくは生まれて初めて、彼に本音を話していた。

 

「人の最も醜い点は、自分自身の醜さを決して認めようとしないその頑なさにこそある。その品性下劣の生き様はこの宇宙の他の何と比較してさえ類を見ない究極の醜悪だ。とてもじゃないけれど、見るに耐えない。だというのに、他の誰もが、そんな世界で平然と生きている。それが当たり前だって、それが普通だって、それが当然だって、そんな吐き気を催す盲目白痴の礼賛を口にしながら、平然と、のうのうと、悠々と生きている。耐えがたい。信じがたい。許しがたい。自分のつまらない欲望のために、自分のくだらない安心のために、他人を容易く蔑んで、容易く踏みつけて、容易く傷付ける。そしてそれを正当化して、悔いることも恥じることもしようとしない。自分だけは他人を傷つけてなんていないと信じて、いつだって自分は傷つけられる側だと被害者ぶって、誰も彼もが自分が加害者であることを忘れようと必死になっている。自分自身にさえ嘘をついて、自分の邪悪を正当化して、自分の罪から逃れようとしている。全くもって、ふざけてる。この世の全ての人間は、悍ましいまでの人殺しだ。誰も彼もが、自分が人を殺しながら生きているという真実を頑として認めようとしない。歪な秩序を正義と叫んで、己が他人を虐げる権利を正当化しようと必死になって、それを指摘されれば烈火の如く怒り散らして相手を否定する。そんな人間ばかりが寄り集まって世界の法則を勝手気ままに作り上げて、それを礼賛する衆愚と一緒になって、それから外れた個人を攻撃し、排除しようとする」

 

 醜い。

 醜い。

 醜い。

 醜い。

 この世に生きるものは、何もかもが醜悪にすぎる。

 

「誰も彼も、自分とは関係ないって面をして生きている。この世の全ての悲劇が、この世の全ての醜悪が、自分とは関係ないって面をして生きている。この世界のどこかに「悪い奴」がいて、それが自分たち「良い奴」の生活を脅かすんだと信じてる。悪い奴を退治すれば悲劇も醜悪もなくなって、誰もが幸せになれるんだって勘違いしている。そうじゃない。世界には、同じ人間しか生きていない。誰も彼もが同様で、誰も彼もが同等だ。そこに差異が生まれるのは環境のせいで、その環境を作り上げているのは自分たちなんだ。誰も彼もが当事者でしかない。この世の全ての悲劇は、この世の全ての醜悪は、全て自分自身が原因なんだ。距離も時間も何もかも一切合切関係がない。生きている限り、この世の全ての罪悪は自分自身が原因で、それを防げないことも、それを救えないことも、全て自分の責任なんだ。それが誰もわかってない。この世の誰もがそれを嘘だと信じ込んで、自分をだまくらかして麻薬に浸りながら生きている。正気じゃない。狂ってる。誰も彼も、目の前の真実を見ようとしない。テレビのニュースを見て、犯罪者の行いに平気で顔をしかめられる人間の気がしれない。同じ状況になった時、自分は本当に同じ罪を犯さないと言えるのか? 言えるなら、お前は人を人とも思わない人非人だ。自分を崇高な神か何かとでも勘違いしているのか。誰も彼も、同じなんだ。どうして、今そこで苦しんでいる人間を、IFの自分であると認めることが出来ないんだろう?」

 

 止めどなく、涙が流れ落ちる。溢れ出る言葉を、止めることができない。

 

「全ての人間は対等で、全ての人間は平等だ。この世の全ての人間は、相互に対等であるのが真実なんだ。それはその人の立場や、肉体や、力や、状況によらず、いかなる場合においても絶対に公平で、公正な理として、全ての人間が相互に対等であることは絶対不変の真実なんだ。だというのに、誰も彼もがその時その時の、くだらない外付けのパーツに踊らされて、あたかも人と人との間に、その対等性を揺るがす理不尽な差異があるかのように振る舞おうとする。あまつさえ、それに異を唱える人間を、秩序を乱す悪であるとして排斥しようとしさえする。正気じゃない。狂気的だ。とてもじゃないけれど、耐えられない。人と人の間に、そんな差異があるものか。誰も彼もが平等に扱われること。それは揺るがされてはいけない絶対の法則であるべきはずだ」

 

 だというのに、人はそれを平気で踏み躙って、それが当然という顔をする。

 

 年齢。性別。容姿。財力。権力。知能。精神性。服装。住居。所有物。そんなもので、人の本質的な価値が揺るがされることはあり得ないし、あってはならない。

 

 だというのに、それによって人の価値が変わることが当たり前であると、心の底からそう信じる異常者が社会には溢れかえっていて、自分以外の誰かの価値を貶めようと必死になっている。

 

「耐えられないんだよ」

 

 この世の全てに、ぼくはもう耐えられない。誰も彼もが醜きにすぎる。

 

 欺瞞。我欲。蔑視。不誠実。不公平。正当化。

 この世には醜さが溢れている。

 

 けれど、一番許せないのは――

 

「そんな世界に迎合しているぼく自身だ」

 

 こんな世界に。

 こんなくだらない世界に。

 生きて。

 平然と生きて。

 呼吸をして。

 醜さに親しんで。

 自らもまた醜さに穢れて。

 そうまでして生き続けている、この浅ましい自分の醜さが。

 

 ぼくはこの世の何より許せない。

 

 醜さを知って、美しさを理解して、だというのに美しく生きられず、醜い生き様に成り果てて、それでもまだ死ぬことすらもできず、あまつさえ救われたいと、そんなことを願って、願ってしまって、それが許されないことだとわかっているのに、止めることもできず、ただ漫然と生き続けている、自分自身。

 

 それが、この世の何より大嫌いだ。

 

「大嫌いなんだよ」

 

 ぼくは。

 ぼくは。

 ぼくは――

 ぼくはこの世の何より、ぼくのことが大嫌いなんだ。

 大嫌いなんだよ、シロ――

 

 その吐露を、全て聞き切って。

 彼は、アクセルを踏んだ。

 

「昔から――」

 

 思い返すように、流れる景色を見て、彼は言った。

 

「お前のことを、美しい人間だ、と思っていた」

 

 それは――一体、どんな冗談だろう?

 

「ぼくほど醜い人間も、他にいないよ」

 

 ぼくは穢れている。

 この世の何より、醜い。

 

「ぼくは嘘吐きだ」

 

 ぼくは嘘吐きで。

 ぼくは不誠実で。

 ぼくは人殺しで。

 ぼくは邪悪で。

 ぼくは欲深くて。

 ぼくは浅ましくて。

 この期に及んで、許されたいだなんて思っている。

 この世の誰より罪に塗れて。

 この世の誰より悪に浸って。

 この世の誰より許されざる、穢れた醜い生き物だ。

 

「――それを、俺は美しいと思うんだよ」

 

 彼は。

 車を止めて、ぼくの目を見た。

 

「ぼくの、何が美しいんだ」

 

 慰めはやめてくれ。

 憐れみはやめてくれ。

 そんなものは、いらない。

 そんなもので、ぼくの心は満たされない。

 恵むような慰みも、与えるような憐れみも、ぼくにはただ、痛くて苦しいだけだ。

 

「それが、美しいって言ってるんだ」

 

 彼は。

 ぼくの手を握った。

 その手の甲に――

 ぼくの涙が、こぼれ落ちる。

 

「その涙が――綺麗だと思う」

 

 彼は。

 ぼくを、抱きしめる。

 

「お前は、美しく生きようとしている」

 

 ぼくは。

 ぼくは――

 

「でも、それが出来なかった」

 

 ぼくはもう、穢れてしまって。

 二度と、帰れない。

 

「そんなことはないよ」

 

 お前は、今も美しい、と。

 彼は語った。

 

「仮に、お前が醜いのだとしても、それでもそれを認めて、美しく生きようと、苦しくても、その道を選ぼうとするお前の生き様は、美しいよ」

 

 他の誰が醜いと叫ぼうとも。

 

「俺にはそれが、美しく尊いものに見えるんだ」

 

 と。

 彼は、ぼくの目を見つめた。

 

「ぼくは、世界を滅ぼすんだよ」

「世界を滅ぼすとしても」

 

 それが、お前の美しさを損なうことはない。

 彼は――そうきっぱりと言い放った。

 

「お前を好きになる人は、たくさんいるよ」

 

 俺だけじゃない、と。

 彼は言った。

 

「世界にいるのは、俺だけじゃない」

 

 違う。

 それは、違う。

 

「君だけだ。君だけがこの世で唯一、美しい」

 

 ぼくは彼に、そういうけれど――

 

「それは、買い被りすぎ」

 

 彼は苦笑する。

 

「お前に俺が、どんな人間に見えているのかはわからないけれどさ。俺は全然、美しくなんてないよ。汚いところも、醜いところもあって、それでも生きてる」

 

 だから――

 

「もし、俺のことをそれでも美しいと言ってくれるなら、大丈夫。お前はちゃんと、人の美しさを探すことができている」

 

 だからまた、見つかるよ。

 彼は言って、ぼくの肩を叩く。

 

「実を言えば」

 

 彼は頬をかく。

 

「俺もさ。この世界が大好きってわけじゃあ、多分ない」

 

 お前と同じくらい、真剣に考えてってわけじゃないけれど――と、彼はいう。

 

「昔、お前と出会うより前、俺、いじめられててたんだよね」

 

 それは。

 それはぼくが知らない、彼の過去だった。

 

「だから、この世界が醜いって話もわかるし、全部がじゃないんだろうけれど、理解できる。それでも――」

 

 それでも、俺がまだ、この世界に絶望しないのは。

 

「お前がいてくれるからだよ」

「え――」

 

 彼は笑った。

 

「お前みたいな奴がいてくれるなら――この世界もまだ、捨てたんもんじゃないって思えるんだ」

 

 だから、俺はこの世界に生まれてきてよかったと、心の底から思えるんだ、と彼は言った。

 

「この世界は醜いけれど、それでもお前みたいに美しい人間と出会えたなら、俺は生まれてきて、幸せだった」

 

 俺は心の底から――そう思う。

 彼の言葉に、ぼくは。

 涙が、止まる。

 

「もう、大丈夫そうか?」

 

 優しげな問いかけは、けれど厳しさでもあった。

 

「……うん、大丈夫」

「それじゃあ、行ってこい」

 

 助けに行くんだろ?

 

「頑張れよ」

「うん」

 

 今度こそ、ぼくはもう、取りこぼさない。

 ぼくは車を降りる。

 

「ねぇ、シロ」

「ん?」

「助けてくれて、ありがとう」

 

 それだけを言って、ぼくは今度こそ、歩き出した。

 もう、振り返ることはしない。

 

 今度こそ、さようなら。

 

 ぼくの大切な人。

 

 ぼくは君に、選ばれることはなかったけれど。

 

 ぼくは君を選んで、幸せだった。

 





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