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子供みたいなことを言ってごらん。
1
「誕生日プレゼントって、何が良いと思う?」
本当は「知らないよ」と返してやりたかったのに、はにかむような笑顔がどうにも、ぼくの心を責め立てた。
卑怯だ、と思う。
何もかもが卑怯なんだ。
ずっと、それだけが頭の中をこだまして、待ち合うこの時間にもオーケストラ。トンボの大群が骨を齧り尽くして、崩れ落ちてしまいそうな気分だった。
アンティーク調の街灯が、待ち合わせの場所だった。この町では唯一のそれで、昔、有名な建築家が寄贈したらしいけれど、誰もその名前を言わないのだから、眉唾な話だ。
「や」
片手をあげてやってきた。いつも通りの服装。タートルネックのブラックセーターに、灰色のコート。まさか彼女と出かける時にまで、そんな花のない姿をしているわけじゃあないよね、なんて。
「待たせた?」
「別に」
いやらしいやりとりだった。背骨の裏が、まるで出来物に埋め尽くされたように痛痒い。苦痛だ、と思う。嘘のように。
「それで、どこにいくの?」
ぼくが問えば、彼は苦笑い。ばっかみたい。何も考えていないんだ。二言目には、きっとデパートにでも行こうかななんていうに違いない。花を理解できないというわけではないくせに、範囲外となると途端にダメになる。悪い癖だよ、と指摘してやりたくなったけれど、しない。
「わかった。もう良いよ」
その代わりに言って、ぼくは立ち上がる。
「いや、その、何も考えてないわけじゃなくてだな――」
「考えたけど思いつかなかったんでしょ。知ってるよ」
知ってるんだ、昔っから。彼はそういういう人だった。努力が報われないタイプ、と言えば言い過ぎだけれど、しかし見えにくいタイプの。
「いこ」
ぼくは彼の手を引っ張った。
はと気付いて、すぐに離す。繋いでなんて、いられない。
いられないんだ、もう。
「こうして歩いてると、昔を思い出すよな」
並んで歩きながら、彼は言う。
「そうかな」
「昔は、俺の方がお前のこと引っ張り回してたよな」
それがいつのまにか、一人でどこへでも行くようになっちゃってさ、なんて、唇を尖らせる。
卑怯、卑怯、卑怯。
埋め尽くされる心の澱み。
ああ、嫌な気分だ。
「逆転するのは、嫌い?」
「実は意外と、そうでもない」
ぼくは、嫌いだ。嫌いなんだよ。知ってるかい?
きっと彼は知らないのだろう。ぼくも教えない。それで良い。それが良い。言葉に出さなかったものは、ただの電気信号。頭蓋の檻に囚われて、どこへも行けず消えていく。焼け爛れるような痕だけを、脳裏に残して。
服装に気を使い始めたのはいつからだっただろう。彼と知り合ってからなのは間違いがない。元は彼の方が、その手の分野には詳しくて、けれどそれが限られた範疇のジャンルに限ってだと気付いたのは、果たしていつだったか。衣装の数は、きっとぼくの方が多い。それは、無くした何かの代償だから。
ぼくたちは電車に乗った。
「どこまで行くんだ?」
「隣町」
男性向けのファッションは、ぼくたちの住んでいる街の方がメインストリートなのだけれど、女性向けのそれは一段劣る。最新のそれに追いつこうと思えば、少しの遠出が必要で、そのコストを、ほとんどの誰もがペイできもしないのに、夢に縋って支払っている。
けれど数少ない叶った一つを知っているから、それを馬鹿馬鹿しいとは笑えない。
電車の中に、人は少なかった。古びた窓。埃が淵にこびりついて、茶色く汚れていた。来年には、この車両も刷新されると聞いた。どこでだったかは、忘れてしまったけれど。そういうもの。古くなったものは捨てて、新しいものに変える。それが健全で、当たり前のこと。不用品は、ゴミ箱へ。命だって、それは同じ。
『――次は――、――です』
ひび割れたアナウンスが、目的地への到来を告げる。
「次で、降りるよ」
言った。
子供の頃、電車を降りるのが怖かった。電車とホームの隙間が、まるで無限の暗闇のように感じて、それに呑まれてしまいそうで。
今にして思えば、きっとそれは、手を引かれるのが怖かったのだ。
引かれる手を離されたら、ぼくは置いて行かれてしまう。どこへも行けない暗闇の中に、一人。ただ一人、孤独に。
だから、ぼくは翼を手に入れたのだ。
きっともう、どこにだって行ける。行く当てがなくとも。行く先を消し去ろうとも。
誰に手を引かれることも、なくなってさえ。
それはうんと素晴らしいことで。
ぼくは恐れることもなく、細い暗闇を、悠々と跨いだ。
2
「髪の色って、栗色だよね」
そこにいない人物の姿を思い出すことができるのは、一体何のためなんだろう。
思い出せるそれより、思い出せないそれの方が遥かに多い。その差は一体何なのだろう?
ぼくは彼女の姿を鮮明に思い出せる。焼け付くように、記憶の中に住み着いている。
それは、何のために?
何がしたくて、僕の脳はそれを記憶したんだろう?
「うん」
照れたように、彼は頷いた。
ぼくはそれから目を逸らして、アクセサリを手に取る。
流行りの、というには、まだ知名度が低いアクセサリショップ。けれど作りは良くて、価格もそこそこ。その内、自分は他人とは違うのだ、というラベルを自分に貼り付けたい人々が、群がりだすだろうことは目に見える。
店の中に、人はまだまばら。ぼくたちは二人並んで、その中を巡っていた。
学生でもギリギリ手が届くジュエルアクセサリー。下は一万円台からあって、けれど安物の謗りを受けるようなチャチさはない。
「彼女、ピアスは開けてる?」
「いいや」
そうか。そうだろうな、と思う。
痛みに弱そうな人だった。そんな人の方が、彼には似合う。そう、よく似合っている。
「彼女、好きなモチーフとかある?」
動物、植物、マーク、シルエット。どれでも良いけど、知っているのなら。
「えっと、確か――猫が好きだったと思う」
ちょうど――
「お前がつけてるみたいな」
なんて、指を刺される。耳元。シルバーがかたどる、小さな猫のピアス。揺れるそれを、彼は確かに、見咎めていた。
「……一応言うけど、同じのを送ろう、なんて、よしたほうが良いよ」
ぼくは言った。トラブルはごめんだ。人の心なんて馬鹿馬鹿しいもので、すぐに敵を作りたがる。きっと、好きなんだ。生まれた時から、戦うことが。そうでなければ、生きていられないみたいに。
図星だったのだろう、彼は「え、ダメかな」なんてマヌケにも言った。
「ダメに決まってるでしょ。これ、メンズだし」
本当は、ちがう。でも、言う必要はない。目的はすでに叶った。これ以上は、全てが余分。
「これなんかどう?」
ピンクゴールドのチェーンに、猫のトップが付いたペンダント。猫の首元に首輪のようにジュエルが散りばめられていて、色使いも悪くない。
大人の女性がつけるには幼すぎるデザインかもしれないが、学生には相応だろう。
ぼくが差し出してみれば、彼はそれを両手で持って広げた。
きっとその先に、見えているのだろうな、と思う。彼の脳裏にももうすでに、刻まれているのだ。きっと鮮明に、美しく。
「……うん、いいな」
彼は言って、頷いた。どうやら、満足してもらえたらしい。
「ありがとう。お前に頼んで正解だった」
なんて、屈託のない笑顔で言われて、どうにも。
「お礼は、まだ取っておきなよ。喜ばれるか、わからないんだから」
そう言って、ぼくは彼をレジに押しやった。
彼が会計を済ませている間、手持ち無沙汰で、何気なし店内を見回す。
目に入ったのは、指輪。永遠の愛を示すダイヤモンド。炭素の化合物の、何が永遠を示しているのだろう? 圧せば砕け散り、熱せば溶け消える。永遠なんて儚い嘘だ、という教訓だろうか? だとすれば、洒落ている。
変わらないものなんて、どこにもない。
どれほど留まりたいと願っても、変わらないでくれと祈っても、時の濁流はただひたすら無慈悲に僕たちを未来へと押し流し、それは死という永遠の停滞を迎えるまで変わらない。
ふと、手を見た。痩せた手のひら。細かった指は、少しずつ節くれ立って、男の指になっていく。もう、指輪は似合わない。
「何見てんの?」
「別に」
会計を終えた彼が戻ってきた。ぼくはそっけなく返す。
「それさ」
彼が大事そうに抱える紙袋を、ぼくは指差す。
「ちゃんと、自分一人で選んだ、って言うんだよ」
人間という生き物はとても厄介なことに、現実という概念ととても相性が悪い。時としてそれに反する嘘を心は望み、自分の、あるいは他人の脳からそれを与えられると、何かが思い通りになった、という錯覚を得る。あるいは、頭蓋骨の外側の世界は、思うがままに出来ない、という不都合を、ほんのひととき忘れることができる。そういうものを、世間では幸福と呼んだりするそうで、なんだかとても、不毛であるように思うけれど、そのような無意味を食事と睡眠に次いで求めるのが、人間という生き物の大きな特徴の一つだ。
「この後、どうする?」
目的は済んで、店を出た。エネルギーの節約をするのなら、もう帰るべきだけれど、彼はそうは思っていないみたいで、ぼくにそれを聞いてきた。
心に、不随意の不整脈。嫌な気持ちで、眩々する。
「どうにでも」
「じゃあ、飯でも食って行こうぜ」
言ってから、「どこがいいかな」とスマートフォンをいじりだす。何が食べたい、とはぼくには聞かない。言っても、ヌル以外の回答が返ってこないことを知っているからだ。
好きな食べ物がない、と、よく勘違いされる。
別段、それで困ることもないので、訂正はしない。したいと思ったこともない。
ただ、本当は、食べることそのものが、好きではないのだ。
自分が生きていること、生きていることの奴隷であること、それを強く突きつけられるのが、食事という行為で、これはひどく苦痛に思えた。
空腹と、それを解消するための食事。それがもうすでに、奴隷を調教するためのメカニズム。檻に囚われて、決して抜け出せない。
これに対する反逆には三つのパターンがあって、しかしそれも完全ではない。
一つは効率を突き詰めること。食事の回数と時間を最小限にして、肉体の維持に必要なエネルギーを得ることだけを目的にする。そうすれば、余分な時間やエネルギーを、肉体の維持というつまらない仕事のために奪われずに済む。ただしこれは、肉体を維持するのに極限に効率的であるという意味で、逆に、奴隷としては最高の仕事をしていることにもなる。
二つ目は、逆に、美味しさ、ひいては快楽だけを追求した食事をとること。大抵には、これは健康の悪化を伴う。人間の進化は、文明の進化に対し、速度が遅くなっている。これは一つの希望だ。まだ不十分だけど。
三つ目は究極。つまり、食べない。これは死を伴うので、ある意味では究極の反逆だ。デメリットは、もちろん、死ぬこと。そうやって、ぼくたちは生きている限り、命を人質に取られて、様々な自由を奪われている。それが許し難いことだ、と、本当は誰もが思っているはずなのに、それを忘れるための巧妙なウィルスが、さまざまな形で散布されていて、生まれてから一定の段階までの間に、感染してしまう。
ぼんやりと考えるうちに、ぼくは彼と共にどこかの店に入っていた。
ぼくが三番目を選びたがることを、彼はもうずっと前から知っていて、だからこういう不必要なサービスを、ぼくに対してよくしようとしてくれる。
外の明かりがよく入るのは、店の奥に大きな窓があるからだった。ナチュラルウッドを基調とした店内の作り。テーブルの隅に立てられた、プラスチックの禁煙マークだけが、ただ一つ無粋だった。
「どれにする?」
「ここは、何の店なの?」
「ピザ。二つ選んでいいぜ。半分ずつしよう」
「そんなに食べられないよ」
「余ったら俺食うから大丈夫」
勢いに押されて、ぼくは適当に二枚のピザを選んだ。両方とも、魚介が上に載っているもの。彼は、肉よりその手のものが好きだ。味に頓着しないぼくより、彼にとって意味のあるそれを選んだ方が、効率的。
「お前さ、もうちょっと我儘言っていいんだぜ」
「じゃあ、煙草が吸いたいな」
「そういう我儘は、ダメ」
嘘つきだ、と思う。あるいは、間違えているのか。きっと、そのどちらでもあり、どちらでもない。その境界が、そもそもないのだ。間違いであることが観測されたものが、嘘として扱われる。全ては外部からの評価で、脳自身にそれを区別するシステムはない。
そして間違いは、決して正解の対義語ではない。
幻想、夢、自由。それらは、間違いに該当する。正解も、間違いの一部だ。
全ては幻想で、夢のようなもの。
「シロこそ、我儘を言えばいい」
「今日はだいぶ、言った気がするけど」
「たとえば?」
「プレゼント選び手伝ってもらったり」
そうだね、それは、我儘だ。
だけど、どうしてだろう。それを、そうカウントする気にはならない。
「もっとさ、めちゃくちゃな我儘を、言いたくはならない?」
たとえば、世界を壊してしまいたい、みたいな。
ぼくはいつだって、思っている。
いつだって、最高の我儘を言っている。
それは幸福じゃないか?
幸福だと言ってくれよ。
「そうだなぁ」
言って、彼は笑った。
「ずっと、今日みたいな日が続けばいいなぁ、って思うよ」
そう、そうだよ。
それが、我儘だ。
叶うことのない願いが、我儘なんだ。
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