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君のためだよ。
どうか喜んで。
1
「お酒、君は飲む?」
「いらない」
アルコールは嫌いだった。思考を麻痺させるだけなら優れているとも言えるけれど、その後に訪れる副作用が大きすぎる。ぼくは少しだけ未来を予測するという能力を持っているから、それを飲まない、という選択肢を取れるけれど、彼女はそうではないようだった。
「グラスはね、面倒だから、洗わないんだ」
瓶に直接口をつけている理由を、説明してくれているのだろう。博物館じゃないんだから、いらないサービスだな、と思った。
「それで、なんだ。イエス・キリストを殺すんだっけ?」
「それだと、ファウストだよ」
あ、そう、と彼女は言って、瓶を机に置いた。彼女も未成年だというのに、堂に入った所作だった。
ぼくはアレクサンドロスの家に来ていた。家といってもほとんど廃墟同然で、そこかしこにゴミと、それが詰め込まれている袋があるだけだった。机の周りだけがかろうじて人間の存在する余地がある空間で、彼女はどこで寝ているんだろう、という疑問だけがホットケーキの泡みたいにふと浮かんでは消えていった。
「じゃあなんだろう。天草四郎かな。それとも武藤遊戯か。なんでも良いけど」
へらへらと笑ったまま、彼女はいう。機嫌がいいのは、アルコールのおかげだろうか。未来の分の機嫌を、過去に持ってくることができる装置、と考えると、アルコールは一種のタイムマシンかもしれない。あまりロマンはないし、実益も微妙なところだ。
「向こうもそれを想定してはいるだろうねぇ」
彼女は言って、瓶を傾ける。
「私が行って、意味があるかな」
「どちらかというと、後詰。敵が武藤遊戯ならいいけれど、天草四郎なのなら、森宗意軒がいる」
「誰、それ」
「調略役と奇跡役は、別」
あの時対面した
「わからないぜ。目の前でじゃないと奇跡を起こせないのかもしれない」
「だとするのなら調略なんかのためにのこのこ出ては来ないだろう。リスクが高すぎる」
「でも現に君は殺さなかった」
「リスクが高すぎたからね」
そもそも、
「それに加えて奇跡までってのは、人の域を超えている」
よしんば手品でも、首と胴の離れた相手をどうにかするほどの手品だ。そんなものは奇跡同然で、やはり過ぎたる力。
「いずれにせよ、敵が一人でのこのこやってくる、っていうのは、ちょっと有り得ないよね。調略ってのは、有利な側がやるから意味があるのであって、不利な側がやるのではただの命乞いだ」
向こうは精鋭を揃えてくるだろう。最低でも、こちらのエース二枚を確実に喰えると判断できる程度の札は用意するはず。だからこそ。
「君が必要だ」
少数精鋭で戦う以上、がむしゃらに戦うのでは圧殺されて終わりだろう。ぼくたちは暴力装置。指揮者がいてこそ、その力は万全になる。
「熱烈なラヴコールだね」
「気味が悪い、辞めてくれ」
「わかってるよ。冗談が通じないな、君は」
冗談だとしても、という意味だったのだけれど、それを教えてあげることは憚られた。時折、こういう不親切を優しさと呼んだりするようだった。
「ま、いずれにせよ、私もやるしかないね。君ら二人を失うのは損が大きすぎる。どのみち負ければ終わりの勝負。賭けるなら、オールイン以外は有り得ない。何より――」
私もそいつを――殺したくって仕方がない。
ははは、と彼女は笑うふりをした。
ちゃぷん、と瓶の中身が揺れる。ぼくらの中身は、こうはいかない。もうとっくに、固く固く凍りついて、動かないんだ。
「久しぶりだね」
「何が?」
「人を殺す相談をすること」
昔はそれは、特別なことだった。
どうしてそれは、特別だっただろう。
特別であるのだと、錯覚していたのだろう。
それは。
それは多分、甘えだ。
人を殺すことが特別だと、錯覚したかった。
特別なんだと、言って欲しかった。
そういう甘えが、ぼくらの中にまだ、残っていたんだ。
だけれどそんなものは、全て嘘。
虚像、虚妄。迷妄、迷想。
全ては夢。
人は見たいものだけを目に映すけれど、やがて現実は、そのフィルタを上回る。
私を見ろと、そのヴェールを剥ぎ取る。
どれだけ拒んでも。
抵抗しても。
嫌がっても。
請うても。
叫んでも。
全ては無意味。
生々しくて。
残酷で。
見たくもないものを、見せられる。
それが、世界が壊れる、ということ。
そう、世界なんて、とっくの昔に壊れている。
壊れ切っている。
それを知っているか、まだ、知らないか。
違いはただ、それだけでしかない。
「上手く殺せるといいな」
彼女は言った。ぼくも同じことを思った。
アイスクリームは、当たり付き?
期待とは、その程度のことだった。
2
学校に来るのは、随分と久しぶりのような気がしていた。いつから来ていなかったのか、もう思い出せない。
それほどぶりに袖を通した制服が窮屈に感じるのは、体が大きくなったわけではなくて、きっとその中身の、形が変わったからだろう。
合わない靴のように。
ずれているのだ。
「や」
教室の喧騒がどこか遠のいて聞こえるようになったのは、その声が聞こえたからだった。
ぼくは顔を上げる。
手を振ったのは、彼だった。
「シロ」
名前だけを呼ぶ。それだけで、十分。認識しましたよ、というチェックボックス。これを挨拶と呼んだりする文化もある。
彼はにひひと怪しく笑った。
「どうしたよ。今日は真面目じゃん」
「日替わりでいいなら、誰でも」
そちらの方が素敵だと思うけれど、残念ながら、今の社会ではそういう考え方は多数派ではない。
「いいの、構ってて」
「構わせろよ。たまにしか来ないんだから」
たとえばそれは、道端で見かける猫に対する感想に似ている。餌をやれば、もっと親しくなれるだろう、なんて考えるのは、人間の理屈。一方的な押し付けで、まるで的外れだ。
「なんのお話がある?」
「桃太郎を読んであげようか」
「ぼくはもう、帰りたくなってきたな」
「嘘、嘘」
二回繰り返した意味は不明だけれど、もしかしたらぼくの分も言ってくれたのかもしれないな、と後から気がついた。
「それで?」
「うん。むしろ、それは俺が言いたいかも」
彼は頬を掻いた。
「なんかさ」
「うん」
「悩んでる?」
別に、と。
言えばいい。
言えばよかった。
言えばよかった――はずだ。
なのにどうしてか、言葉が出ない。
一秒の沈黙。
「……久々だしさ。昼、二人で食わない?」
その一拍は、致命傷だった。
ぼくはため息をつきたい気分だったけど、飲み込んだ。代わりをしてくれる人は、どこにもいなかった。
「彼女、怒るよ」
ぼくは言った。勤めて笑顔で。にっこり。考えていることは何もない。白痴のポーズ。誰にだって、きっと効果は抜群だ。
ほら、彼にも。
「男同士でどうこういわれやしねぇよ」
そうだね。
そうだ。
全く正しい。
全くもって――それは正しい。
「うん、そうだね」
ぼくは同意した。
「実はね、悩み事がある」
「どんな」
「次のテスト範囲が、さっぱり」
「それはお前の、自業自得」
そう、その通り。
全部、自業自得だよ。
全部自業自得なんだ。
知っている。初めからずっと、全てが。
この世に生きている人間は、自分だけなのだから。
そうだろう?
「今日のお昼はいいよ」
彼女と食べてきて。
ぼくは言った。
「その代わりさ――次の休日、付き合って」
ああ――浅ましい。
浅ましいな、と思う。
全ての復讐は、浅ましい。
極めて愚鈍で、愚劣。なんの意味もない、エネルギーと時間の、無駄遣い。
誰が、ぼくをコントロールしているんだろう、と思った。まるでぼくじゃない誰かが、この体を動かしていた。
「いいよ」
そう、彼はそういう。
そういう人だと。知っている。
それは、卑怯だ。
こういう卑怯な手段ばかりを、ぼくは使う。
こういう卑怯な手段だけしか、ぼくは使えない。
卑賎だから。
卑小だから。
いやらしい。
魔物の子供。
「ありがとう」
ぼくは心にもないお礼を言った。こういう嘘ばかりが、上手くなる。なぜ、そんなふうな形になった? 締め付ける服の形が、どこの誰と違ったのだろう? 伸びる枝葉を、誰かに切り落として欲しかった。
「ねえ、シロ」
「なんだ?」
「もし、もしもさ」
もしも――
「もしもなんでも願いが叶うっていわれたらさ、叶えたい願いがある?」
「ドラえもんの話?」
「ランプの魔人でもいいよ」
なんじゃそりゃ、と彼は首を捻った。
「そりゃあ、まあ? ボクも人間でございますから」
一つや二つありますけども、なんて戯けて言って見せる。その様子が妙におかしくて、ぼくは鼻から息を漏らした、
「何、想像したの。えっちなお願い?」
「そういうのは、間に合ってるから」
ちょっぴり頬が赤い。
見たくない色で、爪の先が疼くような。
「それってさ、絶対に叶えたい願い?」
「絶対に、の定義は?」
「たとえば、それを叶えるために、誰かを傷付けることになったとしても」
誰かの幸せを、壊してでも。
その願いを、叶えたい?
「そりゃあ――無理だなぁ」
そこまでしてなら、いらない、と彼は言った。
「この間話してた、夢のことでも?」
「うん、夢のことでも」
そうならない手段で、叶えるさ、なんて――ああ。
彼らしくもない、馬鹿馬鹿しさ。
人は、変わる生き物。
変えられてしまう、生き物。
「何、お前、ライダーバトルにでも参加してんの」
沈黙の秒数が長かったのだろう。
会話には時間制限がある。
怪訝な顔で、彼は言った。
「実はそう、って言ったらどうする」
「危ないから、辞めてほしい」
俺ができる範囲のことならしてやるから――と。
それはひどい、無責任の言葉だった。
「そんなこと、現実にあるわけないでしょ」
ぼくは言った。
そう、あるわけがない。
願いなんて、叶わない。
初めから、知っていたことだ。
だからぼくは、学校に来た。
もう、最後かもしれないから。
予鈴が鳴った。もうまもなく、授業が始まる。喧騒は、もう本当になりを潜めていたみたいだった。
「あのさ」
彼は言いずらそうに口にする。もう、教室に帰らなきゃいけない時間のはず。勿体ぶっているのは、時間の無駄。
「嫌じゃなきゃ、明日も来いよ」
勉強なら教えてやるし、なんて冗談。
彼よりぼくの方が、成績はいい。休んでいても、それは変わらない。
「嫌じゃなきゃね」
それだけ言って、ぼくは彼を見送った。彼は二回振り返って、その度にぼくは、無駄だ、と思った。
嫌じゃなければ。
嫌じゃなければ――なんだって、するよ。
嫌だ、という感情さえなければ。
なんだって、出来たよ。
昔から、それだけは得意だったはずなのに、どうしてだろう。
最近は酷く、下手になった。
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