幼い頃は怖がりだったから、夢にまで見た。
ベッドの下の暗闇から突然腕が飛び出して僕の足首を掴み、引きずり込まれてしまう夢

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ホラー祭2025参加作品


祖父母宅にて

 幼い頃の僕は、小さな暗闇が怖かった。

 たとえば、冷蔵庫の横の隙間。箪笥の裏側。ベッドの下。

 家の中に存在する、小さな隙間の事だ。

 

 すぐそばにあって、けれど奥に何があるか知り得ぬもの。

 

 大人になった僕は、その暗闇に何もない事を知っている。

 多分、そんな事を同僚に話せば笑われてしまうだろう。

 

 ただ、幼い頃は想像していた。

 そこには僕の知らない怪物めいたものが蠢いていて、暗闇から僕たちを襲おうとしている、と。

 夢にまで見た事がある。

 

 深夜に目を覚まし、起き上がる僕。

 秒針がコツ、コツ、と音を立てている。

 すると、ベッドの下から細い腕がするりと飛び出して足首をガシッと掴む。

 まるで冷水につけた直後のような、ひんやりとした手だ。

 

 足をグイと引っ張られた僕は顔面を床に打ち付けるが、恐怖のあまりその痛みすら感じる事ができない。

 全身全霊を籠めて暴れ回るが、ひんやりとした腕は僕の足首を決して離さない。

 

 そして僕は、足を引かれるままベッドの下の暗闇に攫われてしまう。

 その後は――すぐに目が覚めたので分からない。

 

 

 我ながら、想像力豊かな子どもだったな。

 そんな事を久しぶりに思い出したのは、幼い頃の記憶と同じ場所にいるからだろう。

 居間に鎮座する時計を見ながら、そんな事を考えていた。

 

 「コウちゃん、麦茶で良かったかい?」

 「うん、ありがとうお祖母ちゃん」

 

 祖母が淹れてくれた紅茶を一口飲む。

 外の熱気に晒された直後の僕には、何よりのご馳走だった。

 

 祖父母宅の訪問は、僕が東京に移って一人暮らしをしてから初めてだった。

 飲食業界で働く僕にとって、お盆は最も忙しい時期であり親戚の集いになど顔を出す暇がない。

 その事を憂いた両親によって背中を押される形で、今回の訪問が決まった。

 

 「今日は泊まっていくんだって?」

 「うん、一泊だけね」

 

 久しぶりに話す祖母は随分と老けて見えた。

 流石に十年も経てば当然か。

 あの元気溌剌を絵に描いたような祖父ですら入院中なのだから、やはり歳には勝てないのだろう。

 彼の豪快な笑い声の聞こえないこの家は、随分と静かに感じられた。

 コツ、コツ、と音を立てて、時計が針を進める。

 

 「コウちゃんが泊まるって言うと、昔を思い出すねぇ。懐かしいなあ。コウちゃん、寝る直前になって『怖い』ってお母さんに泣きついて、一緒に寝てたっけ」

 「えっ!? そんな事したっけ……?」

 

 まったく記憶にない事だったが、カラカラと笑う祖母の様子を見るに、真実だったのだろう。

 今更になって恥ずかしい記憶が掘り起こされるとは思わなかった。

 

 「そうそう。『なんかいる』『なんかいる』って泣きわめいて、お母さん困ってたよ?」

 「それはまあ、困ったお子さんで……」

 

 他人事のように言うと、祖母はまたカラカラと楽しそうに笑った。

 どうやら僕は本当に怖がりな子どもだったようだ。

 

 今から考えると、この家の雰囲気自体が僕は怖かったんだと思う。

 

 東京から電車で一時間以上。

 今よりずっと土地が余っていた時代に建てられた、二階建て庭付きの大きな家だ。

 周辺の家も同じような大きさ。隣家のおばちゃんが、たまに自家栽培した野菜の差し入れに来る。

 田舎ではあるが、少し行けばコンビニやスーパーが点在していて生活には困らない。

 

 ただ、夜はひどく暗かった事がひどく印象に残っている。

 

 長く生活する人にとっては慣れた事だろう。

 ただ、当時の僕がここに来るのは年に二回か三回。

 祖父母の家に来た時は、いつも違う世界に来たような気がしていたのを未だに覚えている。

 

 「コウちゃんが寝てた二階の部屋、そのまま残ってるからねぇ。そこを使っていいよ」

 「え、あの時からそのまま?」

 「まあ、ほとんど物置みたいなものだからね」

 

 ちょっと恥じるように、祖母は笑った。

 どうやらこの大きな家を少々持て余しているらしい。

 大家族が暮らす事を想定したサイズで造られた家だ。祖母が部屋を持て余すのも無理はない。

 

 部屋を見るついでに、荷物を置いてくるといいよ。

 そう言った祖母に案内されて、階段を登る。

 二階に着くと、ひんやりとした冷気が足首のあたりをくすぐった。

 

 「……涼しいね」

 「二階は窓が少なくて、あんまり日光が入らないからねぇ」

 

 それにしても、涼しい気がした。

 

 「ここだよ」

 

 祖母が案内してくれた部屋は、たしかに物置になっているようだった。

 余ったイスが端の方に置かれ、テーブルの上には古い本が山積み。

 しかしそれらは僕にとってどうでもいい事だった。

 

 何よりも僕の目を引き付けたのは、奥のベッドだった。

 四つの脚に支えられたシングルベッド。

 

 ここだ。あの夢を見た場所。

 真夜中、このベッドの下から長い腕が伸びて来て僕の足首を掴み、暗闇へと僕を引きずりこみ――

 

「っ……」

 

 知らないうちに、息を止めていた。

 軽く息を吸って、呼吸を整える。心臓がうるさく音を立てていた。

 

 その事実に、僕は僕自身に苛立ちを覚えた。

 いい大人になって幼い頃の夢に怯えるなんて、馬鹿げてる。

 冷静になってみれば、何の変哲もないベッドだ。

 

 「それじゃあ、荷物を片づけたら降りておいで」

 

 祖母がそう言って部屋を出たので、ベッドの横に荷物を下ろす。

 ふと気になって、僕はベッドの下を覗き込んだ。

 

 小さな隙間は暗闇になっていて、奥の方は見えない。

 分かる事と言えば、手前の方に随分と埃が溜まっている事だけだ。

 

 「馬鹿馬鹿しい」

 

 言い聞かせるように言って、僕は部屋を後にする。

 扉を閉める直前、部屋の様子が嫌に気になった。

 コツ、コツ、と秒針が進む音。

 それに搔き消されるほど小さく、別の音がした気がした。

 ズル、ズル、と。

 まるで肉の塊がカーペットの上を這うような、そんな音だ。

 

 

 その後は普通に祖母と昔話をして、ごはんを食べて、風呂に入った。

 寝る時になってようやく、ベッドの事を思い出す。

 

 いざ寝るぞ、という体勢になってから、僕の心臓はまるで踏切の警笛のようにうるさく鳴り響いていた。

 ベッドに横たわり目を瞑り、眠りにつこうとする。

 

 早寝の祖母はもう寝た頃だろうか。家の中は静まり返って真っ暗だ。

 天井を見ると、知らない模様が僕を見つめていた。

 

 いい年して暗闇に怖がるなんて、馬鹿みたいじゃないか。

 昼間に思った事を繰り返すと、心臓の音は少しばかり小さくなった。

 

 目をつぶり、睡魔が襲ってくるのを待つ。

 コツ、コツ、と秒針が進む音が嫌に耳に入ってくる。

 このベッドから降りた瞬間、僕は化物に襲われるのではないか。

 そんな妄想が度々頭に入ってくる。

 

 ベッドの下の暗闇に足を晒してしまえば最後、伸びてきた手に攫われてしまう。

 その妄想が何度も頭に浮かぶと、まるでベッドの外側が底なし沼のように感じられてくる。この暗闇の中で僕の安全地帯はこのベッドの上だけ。ここから出れば、この家に潜む何かに襲われてしまうのだ。

 

 馬鹿馬鹿しい。

 くだらない妄想が頭を巡りいつまでも眠れない僕は、決意した。

 

 一歩、踏み出そう。

 ちょっと部屋の中を歩いて、何もない事を確認する。

 そうすれば僕の馬鹿げた妄想は吹き飛び、安心して眠れるだろう。

 ひんやりと冷えた足を、一歩ベッドの下へ。

 心臓から鳴り響く警笛は最高潮に達する。

 

 けれど、何もなかった。

 僕はひどく脱力して、ベッドの横に立った。

 本当に、馬鹿げた妄想だった。

 

 警笛は既に止んでいた。コツ、コツ、という秒針が進む音がよく聞こえる。

 これでようやく、僕は安心して眠りにつくことができる。

 

 ――ズル、と肉が這う音がした。

 

 「え?」

 

 ベッドの下からするりと飛び出した腕が、僕の足首を掴んでいた。

 夢の中でも感じた、まるで冷水にでもつけたかのような冷えた感触。

 

 「う、あああああ!?」

 

 細い腕にグイと引っ張られた僕は床に倒れ込む。

 足首を掴む腕は、そのまま僕の体を引きずりベッドの下の暗闇へと僕を誘う。

 

 「あ、ああああああ!」

 

 僕の体が正体不明の暗闇へと吸い込まれていく。

 

 そうして、まるで塵が掃除機に吸い取られるみたいに、僕の体はベッドの下の暗闇へと吸い込まれていった。


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