――蝶屋敷の朝は、静かだった。
薄く朝陽が差し込む部屋の中、霞瀬紫蓮は起き上がると深く息を吐いた。昨日、しのぶとカナエに過去を打ち明けたことで、胸の奥にあった重石が少し軽くなった気がした。
「……悪くない」
思わず呟いたその言葉に、自分で驚いた。誰かに心を開くことなど、あの夜以来一度もなかったのに。
廊下を歩くと、庭に面した縁側にカナエが座っていた。朝の光に包まれて、本当にそこに蝶が舞っているかのような美しさだった。
「おはよう、紫蓮くん」
「……おはようございます、カナエさん」
彼女は優しく微笑むと、自分の隣をぽんぽんと叩いた。
「よければ、座って?」
言われるままに腰を下ろすと、庭に咲く花々の香りがふわりと鼻をくすぐる。しばらく、二人は何も話さずに風の音を聴いていた。
「紫蓮くんは、好きな花ってある?」
突然の問いに、紫蓮は一瞬戸惑う。
「……あまり考えたことはありません。でも、強いて言うなら……藤の花、ですかね」
「やっぱり、鬼殺隊の剣士さんね。……でも、あなたが言う藤は、“毒”の象徴じゃなくて、“守るため”の花のような気がするわ」
カナエの言葉は、まるで人の心を見透かすようで、けれど決して傷つけない。
紫蓮は、ついその言葉に引き寄せられてしまう。
「……カナエさんは、怖くないんですか? また大切な人を失うかもしれないのに、こうして……」
「怖いわよ」
カナエはすぐに答えた。その答えがあまりに素直で、紫蓮は驚いた。
「でもね、怖いからこそ……優しくなれるの。怖いから、大切な人に笑っていてほしいと思う。――あなたにも、笑っていてほしいのよ」
その言葉に、紫蓮は思わず目を逸らした。心の中にずっと燃え続けてきた“紫炎”が、少しずつ色を変え始めていた。
「カナエさん……」
言葉に詰まったそのとき、背後からくすくすと笑う声が聞こえた。
「ふふ、いい雰囲気ですね。朝から」
振り返れば、しのぶが立っていた。扇子で口元を隠しながら、どこか意地悪そうな笑顔を浮かべている。
「姉さんって、ほんとにズルいんだから。私も紫蓮さんと話したかったのに、もうずっと先を越されてます」
「じゃあ、しのぶにも譲ってあげるわ。紫蓮くん、朝の稽古の相手になってもらえる?」
そう言って立ち上がるカナエの背中を、しのぶが軽く小突いた。
「……なんで逃げるみたいに去るんですか?」
「ふふ、恋の勝負は“焦らず、でも引かず”がコツよ?」
「それ、冗談になってませんから」
しのぶは小さくため息をついて、紫蓮の前に立つと、ふいに真剣な表情を見せた。
「……私ね、あなたの“紫炎”の剣、もう少しちゃんと見てみたいと思ったの」
「……それは、“強さ”を測るためか?」
「違います。あなたのことが、ちゃんと知りたいから。……強さの奥にあるもの、怒りの奥にあるもの、そして――」
ふと、しのぶは言葉を止めた。
風が二人の間を通り過ぎていく。沈黙の中、紫蓮の心臓が強く脈を打っていた。いつも冷静だったはずの自分が、なぜか彼女の視線に弱かった。
「……しのぶ」
「はい?」
「もし俺が、鬼の刃に倒れたら……」
「ダメです」
しのぶは即答した。表情は柔らかいが、その声はとても強かった。
「そんなこと、考えるだけで腹が立ちます。あなたは、生きてください。誰かを守るためじゃなくても、あなた自身のために――」
そして、しのぶは少し照れくさそうに笑った。
「……私のためでも、いいですよ」
その一言に、紫蓮の鼓動が跳ね上がった。
この姉妹は、あまりにも違う。それでも二人とも、自分の中にある“火”を優しく灯してくれる存在だった。
紫蓮は思う――もし、いつか本当に誰かを守れるようになったとき、
自分はこの蝶のような人たちに、何を返せるのだろう。
その答えを見つけるには、もう少し時間がかかるかもしれない。
だが、紫蓮の紫炎は、確かに今――恋という新しい光を宿し始めていた。