ガイドだった男が、執事になる話。

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俺と私と誰でもない我々

 名前で呼ぶな。

 というのが、執事の男に課せられた最初の命令だった。

 主人の名前は、灰戸蝋慈(はいどろうじ)。執事より4歳下の男は、富裕層の家系に生まれ、現在は投資家をしており、何不自由なく暮らしている。

 上野オカルト&ダークのガイドの仕事の後、彼の元で働くことになった執事は、灰戸のために尽くした。

 しかし、主人の横柄な態度は、度々勤労意欲を削いでくる。

 ったく、俺が何したってんだよぉ。

 内心で、軽い泣き言を呟く日々。

 

「おい、お前」

「はい。なんでしょうか?」

「コーヒー」

「かしこまりました」

 

 俺の名前は、お前じゃねぇ。

 浮かんだ台詞を呑み込み、命令通りにコーヒーを淹れ、灰戸の書斎のデスクまで運んだ。

 

「お待たせいたしました」

「ああ、どうも」

 

 主人は、パソコンの画面を見たまま、執事に一応の礼を言って、コーヒーカップを手に取る。

 それから、数分後。

 

「執事、俺は少し出かける。掃除でもしておいてくれ。例の部屋には入るなよ」

 

 俺の名前は、執事じゃねぇ。

 

「かしこまりました、ご主人様」

 

 Yシャツの上に上着を羽織り、灰戸はどこかへ行った。

 一番奥の部屋には入るな。

 というのが、執事の男に課せられた二番目の命令だった。

 灰戸の住んでいるマンションの一室。その中の入ることを禁じた部屋は、鍵がかかっており普通は入れないが、主人はいつも念入りに釘を刺すのだった。

 

「…………」

 

 執事は、少しだけ好奇心を抱いているが、きちんと命令に従う。

 上から下へ。丁寧に掃除をした。

 掃除が終わった頃。クール宅急便が来た。

 発泡スチロールの箱を開けて、中身を確認する。中には、完全栄養食のペーストが入っていたので、冷蔵庫に移した。

 このペーストタイプの飯は、灰戸の好物である。定期便で届き、いつも家にストックがあるほどだ。以前、彼が「タイパがいい」と言っていたのを覚えている。

 味はどうなのだろうか?

 執事は、これを食べたことがない。

 もし、「食べてみたい」と言ったら、主人はどんな顔をするだろうか?

 睨まれてから、すげなく却下される気がした。

 ほどなくして、灰戸が帰宅する。

 

「おかえりなさいませ」

「ただいま……」

 

 なんだか、疲れているように見えた。

 

「ご主人様、ソイレント・Sが届いておりますよ」

「ああ、もう一週間経ったのか。ちょうどいい。今、食べておくよ」

 

 灰戸が身支度を済ませている間に、食卓に例のペーストとスプーンを用意する執事。

 

「いただきます」

 

 ソイレント・Sを食べている時の灰戸は、いつもよりは機嫌がよさそうに見える。

 その理由を知る時が来ることを、執事はまだ知らない。

 

◆◆◆

 

 灰戸蝋慈の趣味は、読書である。特に、SF小説を好んで読んでいた。

 執事の男は、それを意外に思っているが、もちろん口にしない。

 ビジネス新書でも読んでいそうなものだが、そんなことはなかった。

 

「執事」

 

 文庫本から顔を上げ、灰戸が呼ぶ。

 

「はい」

「好きなSF作品はあるか?」

「……そうですね。私は、スター・ウォーズが好きですよ」

「そうか、俺も好きだ。旧三部作が一番だと思っているタイプだけどな」

 

 あ、メンドクサイ感じのオタクかもしれない。

 執事は、あまり深掘りはしないことにした。

 

「この世は最悪で、どうしようもないSF世界の中みたいだ」

「はぁ……」

 

 灰戸は、厭世的な台詞を吐く。

 

「俺は、生まれてから死ぬまで、ここから出られない」

「…………」

 

 彼は、自身が恵まれた環境にいることは理解しているだろう。それでも、ままならないことがあるということか。

 

「ご主人様は、なにが不満なんですか?」

「はは。不満じゃないことを挙げた方が早いな」

 

 灰戸は、困り笑いのような表情をした。

 

「そうですか……」

「……そういえば。お前は、ずいぶんと面白い経歴をしているよな。羨ましいよ」

 

 羨ましい。その言葉に嘘や皮肉は含まれていないように感じる。

 

「ん? 電話だ。静かにしててくれ」

「はい」

「もしもし。はい。ええ、その件でしたら、私がお引き受けいたします。はい。よろしくお願いします」

 

 仕事のものらしい通話は、すぐに終わった。

 

「はぁ。執事、コーヒーを。甘くしてくれ」

「かしこまりました」

 

 執事は、手際よくコーヒーを淹れ、砂糖とミルクを入れたそれを、ソファーにもたれている主人の前に置く。

 

「お待たせいたしました」

「ああ、ありがとう」

 

 コーヒーを飲み、灰戸は一息ついた。

 飲み終えてから。

 

「少し眠る。一時間経ったら起こしてくれ」

「はい。おやすみなさいませ」

 

 主人は、寝室へ向かった。

 それを見送ってから、コーヒーカップを洗い、休憩することにする執事。

 今日は、少しだけ灰戸のことが分かった気がする。

 彼は、“ここ”にいたくないのだ。

 それが、具体的にどこを指しているのかは分からないが。

 まさか、“ここ”とは、この世のことだろうか?

 囚人のような面持ちをしていた灰戸を思い出し、執事は考えた。

 そうだとしたら、彼の人生は本当に辛いものなのだろう。

 人の地獄は、他者には推し量れないものである。大抵の場合、自分の地獄は自分だけのものだから。

 一時間後。寝室のドアを開け、主人が寝ているベッドの元に行く。

 

「ご主人様、お時間でございます」

「ん……あー。ああ、分かった……」

 

 のそりと起き上がり、眼鏡をかける灰戸。

 そして、書斎のデスク前に座り、仕事を再開した。

 しばらくパソコンを睨んでいた灰戸だが、やるべきことを終えたらしく、都市伝説解体センターのチャンネルの動画を再生し出している。

 

「コトリバコねぇ……呪いってのは、相手に呪っているぞと分からせなきゃならないものだからなぁ……」

 

 灰戸は、一人言のように呟いた。

 

「全ての人間が最初に受ける呪いが何か分かるか?」

「……なんでございましょう?」

「名付け。名前だよ」

 

 灰戸蝋慈は、自嘲するように笑う。

 

◆◆◆

 

 これは、灰戸蝋慈の過去の話。

 

「人生は蝋燭の火が燃え尽きれば終わるのだ」

「はい、おとうさま」

 

 少年の父親は、落語の死神が好きである。

 

「短い生を慈しんで生きろ。いいな? 蝋慈」

「はい」

「灰戸家のために、懸命に働きなさい」

「はい」

 

 幼い子供に、重い責任を持たせる父親。

 蝋慈は、それに潰されないように頑張った。耐えて、耐えて、耐えてきたのに。

 

「恥じ晒しが」

「申し訳ありません」

 

 親の敷いたレールから、ほんの少し外れただけで、彼は叱責された。

 国立大学を卒業後、灰戸蝋慈は逃げるように実家を出る。

 わずかではあるが、自由を手にした男は、幼い頃の夢を取り戻すかのように物を集めた。欲しいと言えなかった物。本当に欲しかった物。

 全ては、“自分”を型に押し付けた親への復讐。

 でも、それは叶わなかった。もう遅過ぎたのである。

 朝。灰戸蝋慈は、何か嫌な夢から目覚めた。

 

「…………」

 

 父親が出てきた気がする。思い出さない方が賢明だろう。

 灰戸は身支度をし、執事が用意した朝食を食べに行った。

 

「おはようございます、ご主人様」

「ああ、おはよう」

 

 食事があまり喉を通らない様子の主人を見て、執事が声をかける。

 

「体調が優れませんか?」

「いや、大丈夫だ。でも、料理は下げてくれ。ソイレント・Sを食べる」

「かしこまりました」

「……悪いな」

 

 片手で額を押さえて、灰戸は溜め息をついた。

 そして、完全栄養食のペーストを食べてから、執事に向かって言葉をこぼす。

 

「お前も食べてみるか?」

「よろしいのですか?」

「ああ。自分の分を持って来て、座れ」

「はい」

 

 執事は、言われた通りにした。

 

「失礼します」

 

 主人の向かいに座り、ソイレント・Sを口にする。

 

「これは、なんと言いますか、面白い味ですね」

 

 ペーストは、薄くチョコレートの味がした。食べにくさはない。

 

「この“体験”は、SFだろ?」

「はい。そう思います」

「俺はいつも、ディストピア社会で配給されたものだと思いながら食べてるんだ」

「それは楽しいですね」

「ああ」

 

 灰戸は珍しく、嬉しそうに笑っている。

 

「だから、栄養バーとかパウチに入ったゼリー飲料とかも好きなんだよな」

 

 男は、楽しそうに言った。

 それを見た執事は、SFが主人の骨子になっているのだと理解する。

 

「なあ、執事」

「はい」

「せっかくだから、この後、例の部屋の中を見せてやろうか?」

「いいのですか?」

 

「秘密を守れるならな」と、驚いた顔の執事に告げる主人。

 

「……見せていただきたいです」

 

 この選択が、ふたりの関係性を変えることになる。

 

◆◆◆

 

 例の禁じられた部屋の中には、所狭しとSF関連の品物が並べられていた。

 SF映画のポスターやパンフレット。フィギュア。プラモデル。画集。天体図。天体望遠鏡。

 

「壮観ですね」

「ははは。そうだろ?」

 

 灰戸は、コレクションを自慢する子供みたいに笑っている。

 

「全部、大人になってから手に入れた物なんだ。こういう物は、買ってもらえなかったから」

 

 主人は、少し眉を下げた。

 

「俺は、本当は宇宙飛行士になりたかったんだよ」

 

 遠い日の夢。叶わない夢。

 灰戸蝋慈の夢の原風景。

 

「息苦しい地球から出たかった」

 

 ああ。“ここ”とは、地球のことか。

 執事は、主人のことを少し可哀想に思った。

 

「お前は、地球で楽しそうに生きられて、よかったな」

「……そうですね」

「悪い。皮肉じゃないんだ。本当に、俺もそうなりたかったよ」

「承知しております」

 

 彼は、素直にそう思っている。

 そのことが、執事には分かった。

 灰戸は、くしゃりと笑って、言葉を続ける。

 

「親に従順に生きてたら、大切なものを全部取りこぼしてしまった」

 

 男は、“灰戸蝋慈”を演じているうちに、その仮面が貼り付いてしまったのだ。顔に癒着したそれは、もう剥がせない。

 

「だから、俺は名前で呼ばれたくないんだよ」

「そうでしたか……」

「ああ。それに、誰かを名前で縛ることもしたくなくて」

「…………」

 

「お前」「執事」としか呼ばない主人の真実。まさかそれが、彼なりの思いやりだったとは。

 執事は驚いた。あれは、横柄な態度ではなかったのか。

 

「ただの雇い主と執事でいたかったんだ。自分勝手ですまなかったな」

「そういうことでしたら、何も問題ありません。私は、ただの執事です」

「……ありがとう」

 

 主人は、頭を下げた。

 

「なあ、一緒に映画でも見ないか?」

「はい、ぜひ」

 

 ふたりは部屋を出て、リビングへ向かう。

 そして、ソファーに並んで座り、SF映画を見た。

 映画の音だけが響く2時間は、名前も役割も関係なく、ただ流れていく。

 

「いい映画だなぁ」

「ええ、本当に」

 

 ふたりきりの上映会の終わりに、それだけ話した。

 その後。灰戸は、真っ白なプレートを2枚取り出して、“ディストピア飯”ごっこを始めた。

 

「今日の配給は、しけてるな」

「本物の肉って、どんなものなんでしょうね?」

「俺たちは、一生見ることはないだろうよ」

 

 ノリのいい執事にそう答えて、主人はサプリメントを口にする。

 全体的に白色で統一された配給食は、本当に最悪な管理社会のもののようだった。

 灰戸と執事は、楽しく過ごす。

 その裏では、グレートリセットの日が迫っていた。

 

◆◆◆

 

 灰戸蝋慈は、SAMEJIMAのカウントダウンを見つめている。

 

「グレートリセット……」

 

 それを、一発逆転の機会のように捉えている者たちを、彼は愚かだと思った。

 

「執事」

「はい」

「SAMEJIMAの管理人は、何をするつもりだと思う?」

「分かりかねます」

「ふん。俺は、ろくでもないことが起きる方に賭ける」

 

 灰戸は、コーヒーを一口飲んで、溜め息をつく。

 

「俺は、ろくでもないことに巻き込まれるのは、ごめんだ」

 

 苦い顔をする主人を見て、執事は思った。

 彼は、大衆に“悪”のレッテルを貼られる側の人間なのだろうと。

 富裕層の投資家を妬む人間は、少なくないはずだ。

 しばらくして、SAMEJIMAのカウントが0を表示する。

 

「はぁ!?」

 

 灰戸が、大声を出した。

 ナターシャサインによる大規模な個人情報の流出が始まったのである。

 

「おいおいおいおい、マジかよ……」

 

 灰戸は、ぶつぶつ言いながら、パソコンを忙しなく操作した。

 

「まさか、これを使うことになるとはな……」

 

 そして灰戸蝋慈は、“インビジブル・マン”を起動する。

 それは、SF小説の名を冠した自作の防護プログラムだった。

 灰戸は、自分と執事の情報だけを守るように尽力する。

 その後。

 

「疲れた……執事、ソイレント・Sを持って来てくれ…………」

「かしこまりました」

 

 灰戸は椅子にもたれて、脱力している。

 情報漏洩は、完全に防げたワケではない。ウェブ上に出されたそれを、“インビジブル・マン”が追跡して消去したが、一時的に外へ出てしまったものもあるのは変わらないからだ。

 

「あーあ…………」

 

 灰戸は、めちゃくちゃになった株価や晒された個人情報の山を見て、目を細める。

 

「お待たせいたしました」

「ありがとう」

 

 好物のペーストをスプーンですくって食べた。幾分か落ち着く。

 

「ご主人様」

「ん?」

「どうやら、私を助けていただいたようで。ありがとうございます」

「礼はいらない。趣味が功を奏しただけだ」

 

 灰戸は、片手をひらひらと振った。

 

「この先、きっと面倒事が続くだろうよ。これからも、よろしく頼む」

「はい、もちろん」

 

 主人が差し出した手を、執事は取る。

 ひとりは、名もなき主人で。もうひとりは、ただの執事として。

 ふたりの男は、長い時を共に歩むことになる。

 混乱する社会の中でも、彼らは、お互いを補いながら生きていくだろう。

 いつか、“ここ”から出て行ける日まで。


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