――それは幼い頃に叶えられなかった一時、得られなかった日常の一幕
――赤い大地。
空は錆びついた鉄のように濁り、無数の剣が地平線の向こうまで突き立っている。
固有結界。"無限の剣製"。
アーチャー――いや、エミヤの世界。
この広大な――しかし、どこまで見渡しても寂しげな世界の中心で、ベリルはひとり、剣を構えたまま呼吸を整えていた。
正面には、友によく似た男。
顔も、背格好も、声も。
そして、闘い方までも。
ただし。
――彼の口から告げられた目的は、あまりにも普段の彼とは似つかわしくないものだった。
「俺の目的は――ただの八つ当たりだよ、ベリル」
「……え?」
思わず、間の抜けた声が漏れた。
アーチャーは、何でもないことのように続ける。
「つまるところ、俺にとって抑止からの使命など、どうでもいいんだ」
自虐的にも呟く彼は、此処までたどり着いたベリルに誠意を見せるかのように説明を続ける。
空を見上げるでもなく、地面を見るでもなく、ただ虚空を見つめるように。
「俺は直前まで、別の世界で聖杯戦争のための一騎として召喚されていた。
……だが、その戦争は前提から覆されていた。
初めから"ある目的のため"に用意された、歪んだ聖杯戦争。
せめて俺は、独り人理の防人として立ち続ける"彼女"のガーディアンとして、務めようとしたのだが……」
そこで言葉を区切ったアーチャーの表情は、普段の"彼"からは想像できない――自念を含み、悔しさを滲ませた表情だった。
「ある男に、敗北した。
知らない相手ではない、むしろ嫌になるほど見知った相手だ。
……誉れ高きケルトの英雄だとしても、キャスタークラス相手に近接戦で負けるなど、三騎士の名折れだな」
自嘲を交えた声色は、言葉以上に強い感情が込められていた。
「彼女を……護れなかった」
その、あまりにも人間らしい仕草で話す彼を、ベリルは敵と見ることはなかった。
そもそもアーチャーとして現れ、直接対峙したときから、彼を敵と捉える気持ちは薄かった。
そうだ――
想いを零した彼は、“敵”である以前に、どこかひどく不器用で、後悔を抱えた剣士に見えてしまった。
その感覚が、どうしても拭えなかった。
アーチャーは、淡々と続ける。
「そして、俺は消えた。
本来ならば、敗者はそのまま座へと還るはずだった」
視線が、地面の剣へと落ちる。
「だが、現実は違った」
低く、静かな声。
「抑止の守護者として呼び戻され、望まぬ戦いを強いられ、望まぬ“自分殺し”を命じられる」
言葉を区切ったアーチャーは、こちらを見る。
「……なあ、ベリル」
名を呼ばれ、胸が微かに跳ねる。
「ここまで来れば、さすがに理解できるだろう……自暴自棄にもなる」
静かな断言。
「つまるところ――」
「私は、ひどく機嫌が悪い」
ベリルは、思わず目を見開いた。
――エミヤが。
普段、ベリルが知っているあのエミヤが。
こんな言い方をするだろうか。
自分の感情を、ここまで率直に、投げ捨てるように語るだろうか。
その姿が、彼とエミヤが違う存在であるように感じる――ことはなかった。
彼の独白のような想いを受け止めたベリルの感情を、余人が理解することは難しいのかもしれない。
なぜなら、そこには"小さな喜び"が含まれていたからだ。
おかしな話だろう。
一方的に現れたその相手は、友と同じ姿形をしながら、その友を殺すと告げてきた。
そもそも、人災のような存在が突然襲ってきたのだ。
彼の本意ではなかったとはいえ、弟子たちも決して浅くない負傷をしている。
ベリルもまた、白野やルーシーの加護を受けなければ独り見知らぬ世界で、ただただ理不尽に命を散らしていたのだ。
そうして命の危険を乗り越えて、ようやくたどり着いた先で聞き出した真意は、八つ当たりときた。
その理不尽に、文句を言いたくなる人の方が大多数だろう。
聖人が聞いても呆れる程の身勝手な彼の動機を、ベリルは、ただ嬉しく感じたのだ。
話の内容なんで、ほとんど理解できていない。
今まで魔術と無縁だった男が、少し魔術学院に関わったところで、まったくイメージもできない。
ただ、そんな彼だから感じ取ったことは、英霊という今を生きる者とは異なる存在も、人間らしさが強く残っているという安堵だった。
だって、今までの難しい魔術の話も、世界の理も、守護者の役割とやらも、一旦置いておけば。
後に残るのは――負けたから悔しい、そんな当たり前の感情だ。
そういうことなら、よくわかる。剣士だから。
長い時間、剣と向き合ってきたから、それだけは、きっと誰よりも分かる。
彼――アーチャーは、エミヤではない。
(それでも、エミヤと同じ姿のアーチャーが見せた剣士の感情に、俺は、真っ先に好感を持ってしまったんだ)
同じ形というのは、それだけで強い意味を持つ。
いくら似つかわしくない振る舞いを見ても、ベリルは終始、彼に敵意を持つことはなかった。
それだけ、ベリルはエミヤと、友人として共に過ごしていた。
「……そうだね」
ベリルは、ゆっくりと息を吐いた。
「正直、君の言ってることは、あんまりよく分からない」
素直な言葉だった。
「聖杯戦争とか、守護者とか、座とか……正直、想像もつかない」
それでも。
ベリルは、一歩だけ前に出た。
「でもさ」
アーチャーを、まっすぐに見据えて言う。
「本気で悔しがってる、っていうのは……伝わるよ」
少し間を置いて、続ける。
「誰かに負けるのは、悔しいよね」
剣士として。
それだけは、痛いほど分かる。
「……」
アーチャーは、何も言わなかった。
だが、わずかに目を見開いたまま、ベリルを見ている。
ベリルは、続けて問いかける。
「八つ当たりだって言うなら……
エミヤを殺そうとするのも、やめてほしいんだけど」
静かな沈黙。
そして。
「それはできない」
アーチャーは、即答した。
「私に与えられた役割だ。こなすさ」
あまりにも、迷いのない声だった。
「元より」
口元に、薄く苦い笑みが浮かぶ。
「真面目さしか取り柄のない男でね。命令には、忠実であるべきだ」
どこまでも自虐的で、どこまでも冷静な言葉。
あまりにも"エミヤらしい"決意に、ベリルは思わず苦笑する。
「……そっか」
仕方ないか、と。
本当に、それだけの調子で呟く。
「なら、仕切り直しだね」
ベリルは、ゆっくりと剣を下ろした。
そして、静かに口を開く。
「――解除」
短い、しかし確かなキーワード。
次の瞬間。
身体を包んでいた感覚が、一斉に消え失せた。
軽さが失われ、視界の冴えも、反射の鋭さも、力強さも、解け落ちる。
借り受けていた力が、綺麗に剥がされていく。
それは、彼女たちから事前に聞いていた、合言葉。
アーチャーの眉が、僅かに動いた。
「……何のつもりだ」
低く問いかける声。
ベリルは、剣を握り直しながら答えた。
「ここまで来るために、彼女たちの力を借りてたんだ」
白野たちの顔が、一瞬だけ脳裏をよぎる。
「でもさ」
ベリルは、軽く笑った。
「続きは、自分の力だけで挑みたくてさ」
アーチャーの目が、わずかに細くなる。
「それに」
ベリルは、楽しげに言葉を重ねた。
「君だって、今ので終わりって訳じゃないでしょ」
そして、まっすぐに。
「事情は詳しく知らないけど……
剣士として、真剣勝負で君の気持ちが晴れるなら」
剣を構え直す。
「全力で応えるよ」
その瞬間。
アーチャーは、呆然とベリルを見つめていた。
そして――
「……ふ」
小さく、息が漏れる。
次の瞬間、堪えきれないように笑い出した。
「はは……ははははは……!」
乾いた、しかしどこか愉快そうな笑い声が、無限の剣の大地に響く。
「たかが一人の人間が」
アーチャーは、笑いながら言った。
「この世界を前に独り勇敢に進み、
英霊を前にして、強化を解いて剣士として戦う、だと?」
笑みを残したまま、鋭い視線を向ける。
「どれだけたわけなのだ、貴様」
だが、その声には。
怒りは、ない。
あるのは、明確な期待だった。
「……面白い」
ひとしきり笑い終えたアーチャーは、静かに構えを取る。
干将と莫耶が、両の手に現れる。
ベリルもまた、自然と剣を構えた。
互いに、距離を詰めない。
ただ、剣士として向き合う。
ベリルは、この時だけ、村の道場の師範であることも、騎士団の指南役であることも、脱ぎ捨てた。
「ベリル・ガーデナント」
ベリルは、静かに名乗った。
「ただの――剣士だ」
アーチャーは、一瞬だけ目を伏せ、静かに答える。
「――アーチャー」
わずかに口元を緩めながら。
「いいだろう。錬鉄の英霊として、異世界の剣聖に立ち塞がろう。
――この世界が俺の神髄、俺の剣すなわち剣戟の極致!恐れずしてかかってくるがいい!」
◇ ◇ ◇
――踏み込みは、同時だった。
アーチャーの両手にある干将・莫耶が、赤い軌跡を描いて迫る。
鋭い。
無駄がない。
そして、迷いがない。
だが――
ベリルは、正面から受けない。
半歩、外。
剣を合わせる角度を、ほんのわずかにずらし、刃を滑らせる。
金属が擦れ合う乾いた音だけが響き、衝撃は殺された。
(――速い。だけど、視える)
夫婦剣による彼の剣技は、よく知っている。
剣の才能がない男が、意地と努力で積み重ねてきた、実直な剣技。
派手な技はないが相手の隙を見逃さず、リスクを選びながらも強者に噛みつく、鋼の剣。
アーチャーの踏み込みに合わせ、ベリルは左右へと流れ続ける。
受け、いなし、逸らし、空間をずらす。
反撃の隙を探す。
だが。
――背筋に、冷たい感触が走った。
(来る)
次の瞬間。
アーチャーの背後――
空間から、無名の剣が一本、音もなく射出された。
視界の外から、死角を縫う一撃。
「――っ!」
ベリルは咄嗟に身を沈める。
剣が頬をかすめ、髪を切り裂いて地面へ突き刺さった。
同時に、正面のアーチャーが踏み込んでくる。
共に振り下ろされる干将・莫耶は護りごと切り伏せる一撃。
回避に許される時間は刹那、ベリルは迷わず後方へ跳び、刃の圏外へ逃れる。
わずかに距離が空いた、その瞬間だった。
空気が、ざわめいた。
いや――
空間そのものが、鳴いた。
視界の端から、前方から、背後から。
無数の剣が、同時に現れる。
取り囲むように。
逃げ場を潰すように。
「……っ!」
反射的に、ベリルは剣を振るった。
正面の一本を弾き、右から迫る刃を叩き落とし、低く潜って左の剣を斬り払う。
だが。
今までに闇雲に打ち出されていた攻撃とは訳が違う。
角度が違い、速さが違う。
分かってはいたが、前哨戦で見せたアーチャーの闘い方は、本気ではなかったのだ。
刃が、腕をかすめた。
太腿を裂いた。
肩口に、浅く突き立った。
「――ぐ……!」
致命傷ではない。
だが、確実に削られる。
(……やっぱり、違うな)
それはアーチャーの技量だけに向けた言葉ではなかった。
支援の後押しがない。
身体の軽さも、視界の冴えも、反射の鋭さも。
すべてが、地に足のついた自分自身だ。
だからこそ、一撃一撃が、重い。
剣を振るたびに、腕がわずかに遅れる。
弾いたはずの刃が、ぎりぎりで身体を掠めていく。
だが、それは――
ベリルが今まで築いてきた剣士としての自分で挑むことが出来る証だった。
それが、どれだけ嬉しいことか。
この身に満たされるのは後悔ではない。ただ、友と全力で闘える歓喜だ。
剣群が、いったん距離を取るように後退した。
次の一手のための、わずかな間だ。
アーチャーが、すでに前へ出ていた。
両手の干将・莫耶が、消える。
代わりに、握られているのは。
見覚えのない――宝具
異質な気配。
剣という形をしていながら、明らかに“武器の格”が違う。
彼方の世界で名を持つ魔剣の一つを、アーチャーは何の躊躇もなく振るった。
速い。
さきほどまでの近接とは、質が変わっている。
「――っ!」
振り下ろし。
重い。
それは、ただの斬撃ではない。
剣そのものに、呪いが込められている。
ベリルは剣を合わせる。
弾いた。
はずだった。
だが。
衝撃が、遅れてきた。
「……くっ!」
腕が、痺れる。
足が、半歩、沈む。
(……なるほど)
単純な斬撃じゃない。
武器そのものが、数多の攻撃手段となる。
アーチャーは、間を与えない。
返す刃。
逆袈裟。
刺突。
すべてが、異なる宝具だ。
それも当然、この世界には文字通り"無限"の剣が用意されており、主人たるアーチャーは取り出す様に異なる剣を選び取れる。
そして、武器の形が変わるたびに、間合いが変わる。
軌道が変わる。
威力の出方が変わる。
初動が、読めない。
――遅れた。
一合。
わずかに。
だが、剣士同士の戦いでは、それで十分だ。
ベリルの脇腹が裂ける。
血が、空中に散った。
「……っ、」
歯を食いしばる。
だが。
同じ剣での追撃の一撃は、弾いた。
その次は、逸らした。
(……視えた)
宝具であろうと、武器である以上、剣だ。
そこに重心があり、癖があり、振り手の身体の動きがある。
そして今の極限状態が、ベリルを神髄に近づけている。
剣に生涯を捧げたこの身は、本物の担い手ではない剣技ならば、数合視れば理解できる。
そして何より。
――相手は、エミヤだ。
その瞬間、アーチャーの手にある武器が、別の剣へと切り替わる。
だが。
それは。
(……それは、見たことがある)
過去に、エミヤが模擬戦で振るった武器。
それは、既に"知っている"。
踏み込みの角度。
肩の入り方。
刃の返し。
ベリルは、半歩、内側へ入る。
刃を、真正面からではなく、根元で叩く。
そして。
返す刃。
「――っ!」
アーチャーの胸元を、浅く裂いた。
赤黒い血が、わずかに飛ぶ。
アーチャーの動きが、ほんの一瞬だけ止まる。
だが、すぐに距離を取る。
「……なるほど」
低く、感心したような声。
アーチャーは、自分の胸元を一瞥し、わずかに口角を上げた。
「過去に見せた武器は、即座に見切る、か……厄介なことだ」
ベリルがエミヤに直接話したことはなかったが――
エミヤと模擬戦をした翌日、ベリルは常にエミヤが見せた闘い方を打倒する思考をしていた。
……いや、当然、思考だけでは留まらない。
素振りの最中、瞑想の最中、剣を持った時、剣を持たないときも、ずっと考えていた。
身近にいてくれた剣士の、あの紅い背中を、いつか全て超えるため。
いつだってベリルは、剣に妥協せず向き合ってきた。
次の瞬間。
再び、別の宝具が握られる。
だが、今度は。
初見だ。
(……来る)
アーチャーが、踏み込む。
斬撃は、直線。
だが、途中で軌道が折れる。
空間を滑るように、刃が跳ねる。
「……っ!」
ベリルは、完全には対応しきれなかった。
肩口が裂ける。
だが、深くはない。
即座に距離を詰め返す。
剣を振る。
アーチャーが受ける。
金属音。
刃と刃が噛み合い、火花が散る。
そこからは。
完全な、近接戦になった。
アーチャーが手にするのは数多の宝具。無名の剣。
打ち合い、流し合い、絡み合い。
剣が剣を弾き、身体が身体を押しのけ、間合いが刻々と変わる。
アーチャーは、常に冷静だった。
距離。
角度。
ベリルの傷の位置。
呼吸の乱れ。
すべてを見て、次の手を選んでいる。
だが。
ベリルもまた、冷静だった。
自分の身体が、どこまで動くのか。
どこから先が、無理なのか。
どの角度なら、刃を殺せるのか。
アーチャーにとって、この世界で過ごしていた"自分"の記憶が同期されることはなかった。
そもそも守護者としての責務に連れ戻すため駆り出された存在に過ぎないのだから、当然だ。
だからこそ、ベリルと"自分"がどれほど過ごしてきたか、など全く知らない。
ベリルの口調から、浅からぬ信頼関係を築いたと読み取れる。
そもそも、そのこと自体が些か信じられない話だ。
原型となった正義の味方は、常に取りこぼした救いに後悔し、今までの理想(ゆめ)を否定するような愚者なのだ。
例え再び熱を取り戻したとしても、誰にも理解されない化け物が、違う世界で友人と過ごすなんて……この身には勿体ないほど、出来過ぎた話だ。
アーチャーの手に力が入る……なぜだか、彼も分かっていない。
それは嫉妬なのか、あるいは感謝なのか、否定なのか、許容なのか。
冷静な思考は、僅かに訴える。
遠距離戦に徹すれば、確実に勝てる。それは分かっている。
そもそもこの身は剣士ではない。弓兵が相応しいわけではないが、それでも弓の英霊なのだ。
ベリルが今まで"自分"とどれほど闘い、どの武器が知っているものなのか知らない。
加えて、あの剣聖は初見の武器であれど数合で慣れ、初見でなければ即座に切り伏せる強者だ。
剣の腕だけで見れば、遥かにエミヤよりも格上の存在なのだ。相手の戦場で戦う必要など、ない。
――相手に合わせる必要はない、ないはずなのは、俺だって分かっている。
だが、それでは、"面白くない"。
今のアーチャーにとって、優先したい感情は、ただこの男を剣で打ち倒したいという欲求。
それは、今まで使命として淡々と処理していた姿でもなければ、英霊として勝利をもたらす責務とも程遠い。
幼少期に叶えられなかったような、同年代との愚直なまでの競い合いなのだ。
(……楽しいな)
不意に、そんな感情が胸に浮かんだ。
それは、どちらの心なのか。
もちろん、分かり切っている答えだ。
それは、どちらも感じた心なのだ。
◇ ◇ ◇
いつまでも、続くかのようだった。
刃と刃が噛み合い、火花が散り、足音と呼吸だけが世界を満たす。
打ち合い、崩し、踏み込み、引き、また斬る。
――剣は、ただ静かに鳴る
――言葉もなく、剣だけが、ただ静かに鳴る
思考は止まらない。
視線は外さない。
呼吸は乱れながらも、どちらも剣を落とさない。
踏み込む。
斬る。
弾かれる。
返される。
血が飛び、床に落ち、靴底を濡らす。
だが――
ふとした瞬間、二人は同時に理解した。
(……そろそろだ)
(……終わりが、来る)
同じ直感。
この斬り合いが、長くは続かないことを。
先に変化を見せたのは、ベリルの身体だった。
出し惜しみをしないアーチャーの魔剣には、様々な魔力が帯びていた。
受け止め、斬られるたび、わずかな違和感が、確実に蓄積していた。
指先が、痺れる。
視界の端が、鈍く濁る。
皮膚の感覚が、薄れていく。
筋肉が、思うように反応しない。
それは、毒、呪い、麻痺、石化、といった様々なデバフが積もっていった。
一太刀ごとに、ほんの微量。
だが、確実に削り取られている。
それでも。
ベリルは、剣を下げなかった。
闘志だけは、欠片も削れていなかった。
「……っ!」
一方で。
アーチャーも、無傷ではなかった。
肩。脇腹。腿。
浅くはない裂傷が、いくつも走っている。
その動きも、ほんのわずかずつだが、重くなっていた。
魔力の消耗が、確実に蓄積している。
(……長くは、保たないな)
それを理解しているのは、アーチャー自身だった。
そして。
踏み込みの合間。
刃を合わせながら、低く告げる。
「……とっておきを、見せよう」
その声は、どこまでも穏やかで。
そして、どこまでも、愉しげだった。
ベリルは、思わず口の端を上げる。
「いいね。……楽しみだ」
その瞬間だった。
アーチャーの動きが、変わった。
これまでのように、即座に剣を取り出し、振るう動作ではない。
身体を、わずかに沈める。
重心を落とし。
両肩を開き。
腕を、後ろへ引く。
――溜め。
明確な、“技”の予兆。
(……まずい)
ベリルの背筋に、はっきりとした予感が走る。
止めなければならない。
直感が、叫んでいた。
ベリルは、前へ出る。
剣を振りかぶる。
だが。
足が、絡んだ。
「――っ……!」
痺れた筋が、思ったように動かない。
膝が、わずかに沈む。
ほんの、ほんの一瞬。
だが、それで十分だった。
顔を上げた瞬間。
押し寄せるように、無名の剣群が現れた。
視界を埋め尽くす、鋼の嵐。
「……くっ!おぉぉぉぉぉ!!」
ベリルは、雄たけびを上げながら力を振り絞り、反射だけで剣を振る。
叩き落とし、弾き、逸らす。
刃が刃を弾き、火花が散り、衝撃が腕を震わせる。
一本。
三本。
五本。
……数えるのはやめた。
ただただ、弾いた。
どうにか、剣群の波を切り抜け、視線を前へ戻す。
――見えた。
アーチャーは、巨大な岩を構えていた。
否。
岩ではない。
人が振るうものとは思えない巨体だが、あれは剣だ。
無骨で、歪で、異様なまでに巨大な刃。
その全身に、魔力が集束している。
そして。
アーチャーが、踏み込んだ。
「――――是、射殺す百頭(ナインライブズ・ブレードワークス)」
地面が、爆ぜる。
巨大な岩剣が振り下ろされる、その瞬間。
空間が、裂ける。
斬撃が、ひとつではない。
重なり合い、重複し、あたかも同時に存在すると見間違うほどの――九つの連撃が、押し寄せる。
彼の大英雄の技を模倣した、神速に迫るほどの連撃。
人の動作速度を、完全に逸脱した多重の必殺。
(……っ!)
ベリルは、即座に後ろへ跳ぼうとした。
だが。
背後から、殺気。
振り向くまでもない。
干将と莫耶が、交差する軌道で飛来していた。
退路を、正確に塞ぐ角度。
此処は彼の世界、最も信頼する夫婦剣は、最高のタイミングで駆けつけた。
逃げれば、背中を貫かれる。
左右にずれても、ナインライブズの斬撃圏だ。
選択肢は、ひとつしか残っていなかった。
(……受けるしか、ない)
ベリルは、歯を食いしばる。
剣を、両手で握り直す。
構える。
真正面から。
すべてを受け止める覚悟で。
――衝撃。
世界が、白く弾けた。
剣が砕ける音。
骨が、軋む音。
肉が裂け、血が噴き出す感触。
人を殺すには過剰すぎる神話の斬撃が、同時に身体を切り裂く。
「――――――っ!!」
声にならない悲鳴が、喉の奥で潰れた。
次の瞬間。
ベリルの利き腕が、宙を舞った。
剣ごと。
血の軌跡を描いて、床へ落ちる。
反対の腕も、深く抉られ、力が入らなくなる。
視界が、揺れる。
痛みが、遅れて、まとめて押し寄せる。
(……意識が……)
膝が、折れかける。
だが。
それでも。
ベリルは、倒れなかった。
歯を、噛み砕くほどに食いしばり、どうにか立ち続ける。
一方で。
アーチャーは、荒く息を吐いていた。
さきほどの一撃だけで、魔力の消耗は限界に近い。
だが。
(……あれだけで、終わるとは思っていない)
だからこそ。
アーチャーは、最後の剣を用意していた。
空間から、ゆっくりと引き抜かれる刃。
反転した、"聖剣"。
――彼の信じる最強の剣。
――今の彼にとって、最も強く残る彼女の剣。
アーチャーは、その剣を構え、魔力を注ぎ込む。
土煙が、周囲を包み込む。
崩れた床と斬撃の余波が、視界を覆い隠す。
だが。
アーチャーは、確信していた。
(……生きている)
あの男は、あれで終わるような剣士ではない。
だからこそ。
さらに、魔力を込める。
最後に、この一撃を手向けとして、自らも共に消えよう。
その瞬間だった。
土煙を、切り裂くように。
一本の剣が、飛来した。
「――っ!」
反射的に、アーチャーは魔力の流れを断ち、剣を振る。
叩き落とす。
それは、ベリルの剣だった。
両腕が、使えなくなったベリルが。
床に落ちていた自分の剣を。
――足で蹴り上げたのだ。
「……はっ」
アーチャーが、わずかに目を見開く。
その一瞬。
土煙の中から、影が飛び込んでくる。
ベリルだった。
片腕をだらりと下げ、もう片方も力なく揺らしながら。
それでも。
走っている。
アーチャーの懐へ。
「――っ!」
アーチャーが構え直そうとする。
だが、遅い。
ベリルは、踏み込むと同時に、低く身体を沈める。
そして。
足払い。
アーチャーの軸足を、正確に刈り取った。
「……!」
体勢が、崩れる。
次の瞬間。
アーチャーは、床へ倒れ込んでいた。
そして。重み。
視界の上に、影。
ベリルが、馬乗りになっていた。
息を荒くしながら。
血に塗れながら。
それでも。
満足そうに、笑っている。
「……俺の、勝ちだ」
(アーチャー)side
衝撃と共に倒れる身体。
自分の上に跨るベリルを見上げる。
ぼろぼろだった。
自分よりも、明らかに酷い。
片腕は失われ。
もう片方の手も、まともに動かない。
そもそも剣を、手にしていない。
あったとしても、もはや振るえる状態ではないだろう。
それでも。
ベリルは、勝利を宣言している。
まるで、子供のように。
剣を打ち合わせて遊び尽くした後のような顔で。
おそらく。
彼の頭の中には、もう何も残っていないのだろう。
友人を護ることや、皆のために敵を止めるなど、そんな思考はもうないのだ。
ただ、先ほどまでの剣戟だけが。
純粋な愉しさだけが。
その顔から、はっきりと伝わってくる。
それを見ているうちに。
アーチャーの胸の奥に僅かに残っていた苛立ちも、すっと消えていった。
元より。
命のやり取りを目的にしていたわけではない。
ただ。
剣を交え。
試し合い。
確かめ合っただけだ。
アーチャーは、空を見つめたまま、短く息を吐く。
そして。
呆れたように。
けれど、どこかひどく満ち足りた声で、告げた。
「あぁ……私の、敗北だ」