相変わらず自己満足で投稿させていただいて恐縮ですが、新章になります。
描きたい構想も、だいぶ揺れてしまっていて先の展開を確定できていないのですが、
それでも、まだお付き合いいただけるのでしたら幸いです。
剣聖おっさんのアニメ2期や、原作小説、コミカライズの更新。
FateもFGOで白野の活躍シナリオやコラボなどもある中で、原作・二次創作に触れて楽しく過ごしています。
皆様も、お体に気を付けていただきながら、原作・創作ライフをご一緒に楽しみましょう。
前半、重めの話です。
『英雄』
それは歴史に名を刻んだ者。
才や武をもって偉業を成し、人々に称えられた存在。
皆の憧れ。
伝承や物語に登場する彼らは、怪物を退け、村の窮地を救い、国を護る。
人々に希望を与え、夢という熱を灯し、時に導き、そして助けとなる。
遥か先へ続く険しい道を歩み、幾つもの壁を越えた末に、理想を体現する者。
それは、打ち鍛えられてきた、決して折れぬ鋼の剣。
――だとしたら。
俺の友人である"彼"は、どのような想いで、その道を歩んだのだろうか。
◇ ◇ ◇
最初に聞こえたのは、泣き声だった。
幼い子供のもの。
喉を枯らし、息を詰まらせながら、助けを求める声。
ベリルは反射的に目を開いた。
そこは見覚えのない街だった。
崩れかけた石造りの家々。
通りには砕けた瓦礫が散乱し、焦げた木材から細い煙が立ち昇っている。
鼻を突くのは、土と煤、そして血の匂い。
空は赤い。
夕暮れの色ではない。
遠くで燃え盛る炎が、薄暗い雲を下から照らしていた。
「……ここは」
呟いた声に答える者はいない。
ベリルは自分の身体を見下ろした。
剣はない。いつもの服も着ていない。
いや、そもそも足元の感覚すら曖昧だった。
立っているはずなのに、地面を踏みしめている感触がない。
風は頬を撫でるのに、熱さも冷たさも感じない。
夢だ。
そう理解するまでに、さほど時間はかからなかった。
「誰か!こっちにまだ子供がいる!」
通りの奥から声が上がる。
ベリルがそちらを向くより早く、一人の男が駆け抜けていった。
赤い髪。
褐色には程遠い、まだ日に焼けただけの肌。
細身の身体には、戦場に立つ者として頼りなさすら残っている。
自分の知る姿とは違う。
それでもベリルは、直感的にその人物が誰なのか悟った。
「……エミヤ?」
呼び掛けても、男は振り返らない。
ベリルの声など、初めから存在していないかのように。
若いエミヤは、崩れかけた建物の中へ迷いなく飛び込んだ。
数瞬後。
轟音とともに、建物の一部が崩れ落ちる。
「っ!」
思わず駆け寄ろうとした。
しかし、足は動いているはずなのに距離が縮まらない。
この場所でベリルに許されているのは、ただ見ることだけなのだ。
舞い上がる土煙の中から、人影が現れる。
若いエミヤだった。
腕の中には、泣きじゃくる幼い少女を抱えている。
背中には瓦礫が当たったのだろう。服が裂け、血が滲んでいた。
それでも、彼は気に留めない。
「もう大丈夫だ」
少女を母親らしき女性へ手渡しながら、柔らかく笑う。
「この子を連れて、なるべく遠くへ」
「あ、ありがとうございます……!」
女性は何度も頭を下げた。
少女も涙に濡れた顔で、エミヤの服を掴んでいる。
「お兄ちゃんも、一緒に来て」
小さな声だった。
エミヤは一瞬だけ目を見開いた。
それから、困ったように笑った。
「まだ助けを待っている人がいる」
少女の手を優しく外し、頭を撫でる。
「だから、先に行ってくれ」
彼は再び炎の中へと走っていった。
その背中を見送りながら、ベリルは小さく息を吐く。
今よりも、ずっと若い。
皮肉もなければ、擦れた様子もない。
ただ、自分の行いが正しいと、疑うことなく信じている背中だった。
景色が揺らぐ。
燃える街が光の粒となって崩れ、別の場所へ塗り替えられていく。
次に現れたのは、乾いた荒野だった。
ひび割れた地面。
風に巻き上げられる砂。
粗末な天幕の周囲に、痩せ細った人々が集まっている。
その中心に、エミヤはいた。
先ほどより、少しだけ歳を重ねている。
旅装は汚れ、頬には細い傷が走っていた。
彼は持っていた水筒を、一人の老人へ差し出している。
「飲んでくれ」
「だが、あんたの分が……」
「私は問題ない」
迷いなく答える。
明らかな嘘だった。
唇は乾き、呼吸も浅い。
それでも、老人が水を飲む姿を見て、エミヤは僅かに安堵したように笑った。
その周囲では、彼に救われた者たちが口々に感謝を告げている。
若いエミヤは戸惑いながらも、嬉しそうに微笑んだ。
ベリルは、その表情を見つめていた。
今のエミヤも、時折同じ顔をする。
誰かの役に立てた時。
自分の料理を美味しいと言われた時。
弟子たちが上達した時。
隠そうとしても、ほんの少しだけ口元が緩む。
あの表情は、この頃から変わっていない。
「……そうか」
ベリルは、誰にも届かない声で呟いた。
「君は、昔からこんな顔で笑ってたんだね」
また、景色が変わる。
戦場。
飢饉に苦しむ村。
病の広がる街。
崩れた橋。
濁流に呑まれかけた人々。
エミヤは、どこにでも現れた。
求められれば駆けつけ。
助けを乞われれば手を伸ばし。
自分が傷つくことを、一度として躊躇しなかった。
剣を作り。
壁を支え。
敵を討ち。
傷ついた者を背負った。
救った者は増えていった。
老人。
子供。
兵士。
母親。
名も知らぬ旅人。
誰もが彼に感謝し、誰もが彼を英雄と呼んだ。
彼は英雄という呼び名に戸惑いながらも、自らの理想へ近づく日々を喜んでいた。
彼の求める理想――"正義の味方"に近づく日々だった。
――人を救うことが、嬉しかったのだ。
恐らく、理由はそれだけだった。
名誉が欲しかったわけではない。
富を求めたわけでもない。
誰かに褒められたかったわけでもない。
ただ、目の前の人間が助かることを。
泣いていた者が笑うことを。
彼は、心から喜んでいた。
だが。
その光景は、いつまでも続かなかった。
ある戦場で。
エミヤは二つの道の前に立っていた。
右手には、小さな村。
女子供を含め、数十人が取り残されている。
左手には、遠くに見える城塞都市。
数千人が暮らし、今まさに敵軍の進攻を受けようとしていた。
どちらにも、助けを求める声がある。
どちらも、放ってはおけない。
だが、彼は一人だった。
そして。
残された時間は、あまりにも短い。
『助けてくれ!』
『お願い!子供だけでも!』
『英雄なんだろう!?』
『早くしてくれ!』
村から。都市から。
救いを求める声が、幾重にも重なる。
エミヤは、立ち尽くしていた。
今までなら、迷わず走り出していたはずだった。
だが、この時ばかりは足が動かなかった。
右を救えば、左が滅びる。
左を救えば、右が死ぬ。
全てを救うことはできない。
誰にでも分かるはずの現実を、逃げ場のない形で突き付けられていた。
握り締めた拳から、血が滴る。
爪が掌へ食い込んでいることにも、気づいていないのだろう。
「……エミヤ」
ベリルは、声を掛ける。
届かないと分かっていながら。
エミヤは顔を上げた。
そして。
城塞都市へ向かって、走り出した。
背後で、村人たちの叫びが上がる。
助けを求める声。
罵る声。
泣き叫ぶ子供の声。
それら全てを背に受けながら、エミヤは一度も振り返らなかった。
……いや。
振り返れなかった。
前を向いた彼の表情を、ベリルは横から見ていた。
歯を食いしばり。
目を見開き。
呼吸を乱しながら。
それでも、走る。
より多くを救うために。
少ない命を、見捨てるために。
先ほどまで浮かんでいた笑みは、もうどこにもなかった。
ベリルは、遠ざかっていく村を見つめる。
彼らに罪はない。
武器を持たぬ者たちだった。
ただ運悪く、戦いに巻き込まれただけの人々だった。
それでも。
彼らは選ばれなかった。
救われる命と救われない命。
その境界を引いたのは、他でもない。
正義の味方を目指した、あの男だった。
炎が上がる。
背後の村が、赤く染まる。
エミヤは走り続ける。
救われなかった者たちの声は、消えない染みのように夢の中へ残り続けた。
これは、始まりなのだ。
誰より多くを救おうとした男が、救うために命を選び、救うために誰かを殺す。
血に濡れた執行者へ至る、最初の一歩。
遠くで、歯車の音がした。
重く響き、後戻りを許さない、運命の音だった。
ベリルには。
まるで彼自身の何かが、磨り潰された音のように聞こえた。
◇ ◇ ◇
彼の戦いは終わらなかった。
甲高く響く鋼の音。
肉を断つ鈍い音。
そして、人々の歓声。
景色は移り変わる。
戦場だった。
炎が燃え、砲煙が立ち込め、無数の兵士たちが命を奪い合っている。
その中央を、赤い外套の男が駆け抜ける。
剣を投影し。
敵を討ち。
味方を救い。
崩れ落ちる建物を支え。
子どもを抱え、老人を背負い、傷ついた兵士を安全な場所まで運ぶ。
その姿は、誰が見ても英雄だった。
「助かった!」
「紅い英雄だ!」
「彼が来たぞ!」
歓声が上がる。
救われた者たちは涙を流し、何度も頭を下げた。
だが。
景色が切り替わる。
今度は、薄暗い会議室だった。
長机を囲む男たち。
地図の上には幾つもの駒が置かれ、その一つひとつが人命を表している。
「この村は放棄だ」
誰かが言う。
「こちらを救えば、都市は守れる」
静かな沈黙。
そして。
「……分かった」
エミヤが答えた。
その一言だけで。
地図の端に置かれていた小さな駒が、机の外へ払われる。
村一つ。
そこに住む人々は……数字へ変わった。
ベリルは思わず拳を握った。
(違う)
違う。
戦場で剣を交えることとは、まるで違う。
敵味方が互いに命を懸ける勝負ではない。
誰かが。
安全な場所から。
誰を生かし、誰を見捨てるか決める。
そんな行為だった。
だが。
エミヤは反論しなかった。
ただ目を閉じ。
静かに頷き。
その役目を受け入れた。
景色は流れる。
救助、戦闘、暗殺。紛争にも災害にも疫病にも、彼は呼ばれ続けた。
そのたびに人を救い。
そのたびに人を殺した――手にかけた者たちは、悪人だけではなかった。
武器を持たぬ者も、救いを待つ被害者もいた。
誰かを救うために。
より多くを救うために。
彼自身の手で、命を断ち続けた。
最初は。
「ありがとう」
という声が多かった。
やがて。
「……本当に、それしか方法はなかったのか」
と問われるようになった。
さらに時が流れる。
「近寄るな」
「お前が来ると誰かが死ぬ」
「あいつは英雄なんかじゃない」
恐怖。嫌悪。拒絶。
救われた者たちですら。
彼を見る目が変わっていく。
それでも。
エミヤは止まらなかった。
……止まれなかった。
誰よりも、彼自身が。
救えなかった命を覚えていたからだ。
夜。
独り、焚き火の前。
エミヤは、ぼんやりと炎を見つめていた。
その手には、一枚の布切れ。
幼い子どもの服の一部なのだろう。
小さな血痕が残っていた。
「…………」
言葉はない。
ただ。
握り締める。
強く。強く。
やがて布が皺だらけになっても。
彼は手を離さなかった。
ベリルは、その姿から目を逸らせなかった。
ベリルは理解した。
彼は忘れていない。
己が救えなかった命を忘れたことなど、一度もなかった。
全てを背負ったまま、独り、前へ進み続けていた。
(……苦しいだろう)
ベリルは胸を押さえた。
剣士として。
人を斬る覚悟はある。
命を懸ける覚悟もある。
だが。
これは違う。
剣を交えぬ者まで、救うために自らの手で裁く。
そんな生き方を、自分なら選べるだろうか。
いや、選べない。
きっと耐えられない。
耐えられないことが、当然なことだ。
そして、耐えながら歩めてしまった彼が――悲しいほどに、異常だったのだ。
(いっそ、君に、その力がなければ)
こんな苦しみを味わわずに済んだだろう。
あるいは、立ち止まることや引き返すことが出来れば――結末を変えられたのかもしれない。
だが、ベリルは自らその考えを否定した。
自分が、才に恵まれなかった頃でさえ剣を捨てられなかったように。
一度人生そのものになった夢は、理屈では手放せない。
一度抱いた夢は――理屈では捨てられない。
エミヤも。
きっと同じだった。
正義の味方になる。
ただ、その夢だけを抱いて。
歩き続けてしまった。
だから――もう戻れなかった。
やがて、歩みの果てが映し出される。
冷たい石畳。
曇天。
広場。
無数の人々。
誰も笑っていない。
誰も泣いてもいない。
ただ、処刑台を見上げていた。
その中央に、一人の男が立つ。
赤い外套は失われ、両手を拘束され、そして――首には縄が掛けられている。
ベリルは息を呑んだ。
その背中だけで、誰なのか分かった。
誰かが紙を読み上げる。
罪状。
判決。
ざわめき。
そして怒号。
石が投げられる。
罵声が飛ぶ。
様々な声が、空を埋め尽くす。
それでも、彼は動かない。
俯きもせず、叫びもせず。
ただ、真っ直ぐ前を向いていた。
その顔は、最後まで見えなかった。
ベリルの位置からは、背中しか見えなかった。
縄が軋む。
処刑人が頷く。
板が外れ――身体が落ちる。
ベリルは、一歩も動けなかった。
助けることも、叫ぶことも、できない。
ただ、その最期を見届けるしかなかった。
やがて景色が白く染まり、何もかもが溶けていく。
最後に残ったのは、縄でも、群衆でもない。
赤い外套の男の、その後ろ姿だけだった。
その背中を見つめながら。
ベリルは静かに目を閉じる。
「……君は、最後まで夢を捨てなかったんだね」
誰に聞かせるでもない呟き。
けれど。
胸の奥では、不思議と答えが返ってきた気がした。
――ああ。それしか、生き方を知らなかった。
この夢に、どんな意味があるか分からない。
ただ一つ、ベリルは確信する。
夢から覚めても、あの背中だけは、決して忘れることはないだろうと。
◇ ◇ ◇
縄が軋む音は、しばらく耳の奥に残っていた。
けれど、次にベリルが感じたのは、柔らかな布の感触だった。
背中を受け止める寝台。
身体に掛けられた毛布の重み。
わずかに開かれた窓から入り込む、穏やかな風。
「……起きたのか、俺」
ベリルは、天井を見上げたまま呟いた。
見覚えのない天井だった。
上質な木材を使いながら、華美になり過ぎない造り。
壁際には薬品や水差しが並び、窓辺には小さな花瓶が置かれている。
鼻をくすぐる微かな薬草の香りから、ここが治療のために使われている部屋だと分かった。
ぼんやりと周囲へ視線を巡らせる。
そこで、寝台のすぐ傍に、人影があることに気付いた。
椅子に腰掛けたまま、寝台へ上半身を預けるようにして眠っている少女。
薄青色の髪。
まだ幼さの残る横顔。
眠っていても、その眉間には僅かに皺が寄っている。
「……ミュイ」
声に出してから、少しだけ後悔した。
幸い、少女が目を覚ます様子はない。
ベリルは小さく息を吐く。
いつからこうしていたのだろう。
寝台の脇に置かれた椅子には、畳まれた毛布が一枚。
机の上には、冷めた茶と、ほとんど手を付けられていない食事。
少なくとも、少し様子を見に来ただけではない。
ずっとここにいたのだ。
ベリルは、自然と手を伸ばした。
眠るミュイの頭を、いつものように撫でようとして。
その途中で、動きを止めた。
「……あれ?」
視線が、自分の腕へ向く。
右腕。
肩から肘、手首、そして五本の指。
ゆっくりと握り、再び開く。
痺れも、力が抜ける感覚もなかった。
肩を軽く回せば、僅かな重さはあるものの、動きに異常はなかった。
「……ある」
間の抜けた言葉が漏れる。
思い出すのは、あの赤い大地。
巨大な岩剣が九つの斬撃を放ち、自分の利き腕は剣と共に宙を舞った。
その感触は、今でも鮮明に残っている。
骨が砕ける音も。
肉が裂ける痛みも。
腕を失った後の、妙に軽くなった身体の感覚も。
ならば、この腕は、一体どうして。
ベリルは、もう一度手を握り締めた。
力は入る。
これなら、恐らく剣も握れる。
そう思った瞬間、胸の奥から込み上げた安堵に、思わず息が震えた。
剣を振れない。
その可能性を、今になって初めて自覚した。
戦っている最中は、考えもしなかった。
腕を失おうが、身体が砕けようが、あの時はただ目の前の剣士に勝つことしか考えていなかった。
けれど。
もし、本当に腕を失っていたなら――もう二度と、剣を握ることはできなかったのだ。
「……はは」
乾いた笑いが漏れる。
「随分と、無茶をしたもんだ」
誰に聞かせるでもなく呟く。
だが、後悔はなかった。
あの戦いをやり直したとしても、きっと同じことをする。
白野とルーシーから受け取った力を解除し、自分の剣で彼と向き合う。
それだけは、変わらない。
ベリルは再びミュイへ視線を落とした。
伸ばしかけていた手を、その頭へそっと置く。
柔らかな髪を、起こさないようにゆっくりと撫でる。
ミュイは少しだけ身じろぎしたが、目を覚まさなかった。
「心配かけたね」
小さく呟く。
それから、ベリルは目を閉じた。
頭の中に残る記憶を、整理するためだった。
剣の丘。
友と同じ顔をしたアーチャーとの死闘。
そして。
先ほどまで見ていた、エミヤの過去。
エミヤから、過去について聞いたことはある。
だが、言葉で知ることと、その歩みを目の当たりにすることはまるで違った。
彼は、最後まで、歩みを止めなかった。
「……君は、最後。どんな顔をしてたんだろうね」
答えはない。
処刑台の上で、エミヤの顔だけは最後まで見えなかった。
ただ、自らの死を受け入れるように、前を向いていた。
それが、彼にとっての救いだったのか、あるいは諦めだったのか。
ベリルには分からない。
けれど。
あの背中を見た今なら、彼が今この世界で過ごしている日々を、以前より少しだけ大切に思えた。
ミュイの規則正しい寝息が聞こえる。
穏やかな時間。
あの夢の中のエミヤが、最後まで手にすることができなかった時間。
今の彼は、それを手にしている。
「……幸せ、なのかな」
ベリルは、天井へ向けて呟いた。
「……ん」
小さな声がした。
ミュイの頭が、ゆっくりと持ち上がる。
眠気に霞んだ瞳が何度か瞬き。
やがて、寝台の上で目を開けているベリルを捉えた。
「…………」
数秒。
ミュイは、固まっていた。
「おはよう、ミュイ」
ベリルがいつもの調子で声を掛ける。
次の瞬間。
「お、おっさん!?」
椅子が大きな音を立てて倒れた。
ミュイは勢いよく立ち上がり、寝台へ身を乗り出す。
「起きてたなら言えよ!?いや、それより、大丈夫なのか!?ちゃんとアタシのこと見えてんのか!?」
「う、うん。見えてるし、聞こえてるよ」
「手は動くのか!?足は!?本当に大丈夫なのかよ!?」
「落ち着いて、ミュイ」
ベリルは苦笑しながら、両手を軽く上げて見せる。
「この通り。今のところは問題なさそうだ」
ミュイはその両腕を見つめ。
次にベリルの顔を見て。
ようやく現実だと理解したのか、大きく息を吐いた。
「……よかった」
その声は、僅かに震えていた。
目の端に浮かんだものを隠すように、ミュイは勢いよく顔を背ける。
「ババアを呼んでくる!」
「ああ。お願いするよ」
ミュイは倒れた椅子を直すことも忘れ、慌ただしく部屋を飛び出していった。
扉の向こうから、廊下を駆けていく足音が遠ざかる。
ベリルは、その音を聞きながら。
「……本当に、心配をかけたみたいだね」
申し訳なさそうに、頬を掻いた。
ほどなくして。
廊下の向こうから足音が近づいてくる。
勢いよく扉が開かれ、見知った小柄な彼女が部屋へ入ってきた。
「起きておったなら、さっさと呼ばんか」
開口一番。
ルーシーは、呆れたように言った。
「いや。ミュイがよく眠っていたからね。起こすのも悪いと思って」
「誰のせいで、そやつが寝不足になっておると思っとるんじゃ」
「……それは、申し訳ないね」
ベリルが素直に謝ると。
ルーシーは小さく鼻を鳴らした。
いつもの調子、いつもの声音。
けれど。
その肩から、僅かに力が抜けたことをベリルは見逃さなかった。
「それで」
身体を起こそうとするベリルを、ルーシーは手で制する。
「まずは寝ておれ。話はそのままで聞けるじゃろ」
「分かったよ」
大人しく枕へ背を預け。
ベリルは、真っ先に尋ねた。
「他の皆は?」
ルーシーの表情が僅かに引き締まる。
「アリューシアたち騎士団も、フィスを含めた学院の者たちも無事じゃ。
ギルドのスレナも含めて、全員治療を受けておる。命に関わる者は、もうおらん」
その答えに、ベリルは胸の奥に溜まっていた息を、ゆっくりと吐き出した。
「もっとも」
ルーシーが続ける。
「一番重症だったのも、起きるのが一番遅かったのも、お主じゃがな」
「俺が?」
「当たり前じゃろう。自分がどれほどの状態だったか、覚えておらんのか」
「戦ってる最中は、少し夢中になっていてね」
「少し、で済むか」
呆れた声。
ベリルは苦笑しながら、尋ねる。
「俺は、どれくらい眠ってたんだい?」
「三日じゃ」
「三日……」
思ったよりも長かった。
これだけ長く倒れていたのは、いつぶりだろうか。
「皆より歳を取っている分、治りが遅かったのかもね」
「そうじゃな。年寄りは治りが遅いからの」
「そこは少しくらい否定してくれてもいいんじゃないかな」
「事実を誤魔化してどうする」
ルーシーの方が年上では、と一瞬思ったが、口にするほどベリルも命知らずではなかった。
少しだけ沈黙が落ちる。
聞かなければならないことがある。
皆が戦っていた、あの場所に最後までエミヤの姿はなかった。
もし彼が無事だったなら、どれほど離れた場所にいようと何らかの手段を使って、必ず駆けつけていたはずだ。
そう信じられるからこそ、現れなかったという事実が何よりも不安だった。
「……ルーシー」
「なんじゃ」
「エミヤは?」
その名を口にした瞬間。
ルーシーの表情が、僅かに曇った。
「あやつは……エミヤは、急激な魔力不足で倒れ込んでおった」
「……っ」
ベリルの喉が鳴る。
無意識に先ほどまで見ていた夢を思い出す。
もし。
自分が眠っている間に。
彼がまた、どこかへ消えてしまっていたら。
そんな考えが脳裏を過る。
だが。
「目を覚ました直後」
ルーシーは、深いため息を吐いた。
「周囲の静止をすべて無視して、騎士団の修練場へ顔を出し、喫茶店を再開し、ミュイの世話まで始めおった」
「……え?」
「あやつには、わしからも寝ておけと言ったんじゃがな」
よく見れば、ルーシーの表情は深刻なのではない。
最初から最後まで、呆れ切っているだけだった。
「魔力不足なのは事実じゃ。今まで通り動ける状態ではない。それでも本人は、日常生活に支障はないと言い張っておる」
「……そっか」
ベリルは、じっとしていられない友人のいつもの姿に、心の底から安堵した。
「元気なんだね」
「元気という言葉を、あの頑固者に使ってよいかは疑問じゃが。少なくとも、消えはせん」
「そうか」
もう一度。
今度は噛みしめるように呟く。
エミヤも含め、皆が無事で生きている。
その事実を理解した途端。
張り詰めていた気力が、一気に抜け落ちた。
身体が寝台へ沈み込む。
「大丈夫かの?」
「……安心したら、急に疲れが出てきたみたいだ」
「三日寝ておいて、まだ寝足りん様子じゃの」
「年寄りは回復が遅いらしいからね」
「口だけは元気じゃな」
ルーシーは呆れながらも、僅かに笑った。
「もう少し休め。詳しい話は、また後でもよかろう」
「ああ。そうさせてもらうよ」
ベリルは目を閉じかける。
だが、その前に。
自分の右手が、視界へ入った。
「……いや。もう一つだけ、聞いてもいいかな」
「なんじゃ」
「この腕は」
ベリルは、右手を軽く上げる。
「どうして、無事なんだい?」
ルーシーは、何を当たり前のことを聞くのかとでも言うように。
「当然、わしが治した」
「……なるほど」
あまりにも自信に満ちた答えに一瞬、納得しかける。
だが。
ルーシーはすぐに表情を改めた。
「とはいえ、わし一人の力ではないがの」
その言葉に。
ベリルは、静かに目を開いた。
「……どういうことだい?」
ルーシーはすぐには答えなかった。
腕を組み、どこから説明したものかと考えるように目を細める。
「お主が、あの地下で結界へ呑み込まれた後の話じゃ」
そう前置きして。
ルーシーは、ゆっくりと語り始めた。
◇ ◇ ◇
ルーシーが魔術学院の地下へ辿り着いた時、戦いは、すでに終わりへ向かっていた。
地下には、激しい戦闘の痕跡が色濃く残っていた。
そこにいたのは、傷ついた騎士団員たち、疲労困憊の魔術教員。
そして、未だ剣を手放さず、周囲を警戒していたアリューシアと魔力探知を行うファウステスだった。
「ベリルはどこじゃ」
挨拶すらなく、ルーシーは尋ねた。
アリューシアが、険しい表情のまま答える。
「敵の魔術に呑み込まれました」
「呑み込まれた?」
「正確には、別の空間へ引き込まれたものと思われます」
ファウステスも続ける。
「姿は消えたが、魔力の痕跡だけは残っている。
……完全に消滅したわけではない。だが、こちらから干渉する手段がない」
「……なるほどの」
ルーシーは、その場に残された魔力を探る。
確かに、地下空間の中央の何もない場所に、見慣れない魔力の痕跡が細い糸のように残されていた。
この世界のものではない。
そう直感する。
ここへ向かう途中、異世界の魔術師――岸波白野から聞いた話と目の前に残る痕跡は、一致している。
「……固有結界、とやらか」
ルーシーは小さく呟く。
「痕跡を辿る。邪魔をするでないぞ」
周囲に複数の術式が展開される。
魔力の糸を掴み、その先にある空間へ無理やり穴を開けるための術式。
だが、術を完成させるより早く。
空間が、激しく軋んだ。
「……っ!?」
地下全体が揺れる。
何もないはずの空間から、三つのものが吐き出された。
切断された右腕。
全身を切り裂かれ、意識を失ったベリル。
そして、莫大な魔力。
その瞬間――アリューシアの顔から血の気が引いた。
「先生っ!?」
思わず駆け寄るアリューシアを――ルーシーの一喝が止める。
「騒ぐでない!」
ルーシーは、注意深く二つの状態を見極める。
ベリルは瀕死。
一方、共に現れた魔力は、人間一人が扱える量を遥かに超えていた。
高位の魔術師でさえ、触れ方を誤れば内側から焼き尽くされるだろう。
それほどの魔力が、まるで持ち主を失ったかのように空間へ溢れ出していた。
ルーシーは即座に判断した。
何が起きたのか、全てを理解したわけではない。
だが、躊躇している時間などなかった。
「治療術式を組め!」
ルーシーが叫ぶ。
「輸血の用意!適合確認は後回しじゃ!止血と生命維持を最優先にせよ!」
魔術教員たちが、一斉に動き出す。
「この魔力は、わしが制御する!誰も直接触れるでないぞ!」
ルーシーは両手を広げ。
溢れる魔力を術式の中へ取り込んでいく。
通常なら、他者の魔力をそのまま治療へ使うことなどできない。
だが、不思議なことに。
ベリルの腕へ触れた魔力は、強く拒絶されなかった。
むしろ、切断面から流れ込もうとするかのように彼の身体を求めていた。
「……お主を斬った者の魔力か」
ルーシーは、薄く目を細める。
「最後に治す力を残すとは。随分と難儀な相手と戦ったようじゃな」
魔力を治療用へ変換する。
傷を塞ぎ、損傷した組織を補い、切断された腕を再び本来の場所へ繋ぎ戻す。
理論上は可能だ。
必要な魔力も、十分過ぎるほどある。
だが。
(……ちと、厳しいかの)
ルーシーの額に汗が滲む。
変換が追いつかない。
魔力の質が、この世界の術式とあまりにも異なっている。
治療に使える形へ変えようとすれば、その大半が無駄に散ってしまう。
このままでも命を繋ぎ止めることはできる。
腕を接合することも……おそらく可能だろう。
だが、完全には戻せない。
神経、筋肉、骨。
そして、剣士として積み上げてきた、指先の感覚。
その全てを以前と同じ状態へ戻すには、魔力の変換精度が足りなかった。
――二度と剣を握れない可能性がある。
その結論へ至った瞬間だった。
地下空間の一角が、縦に裂けた。
「……何じゃ?」
闇の向こうから、一人の女性が歩み出る。
赤い外套。
長い黒髪。
見慣れない上質な衣服。
その姿を認識した瞬間。
アリューシアたちが、一斉に武器を構えた。
「止まれ!」
「何者だ!」
女性は、彼らへ視線すら向けなかった。
真っ直ぐに、治療術式の中心にいるルーシーへ近づいてくる。
「警戒は後にして」
落ち着いた声だった。
「今は、その人を助ける方が先でしょう」
ルーシーは、女性を見上げる。
この女は、自分とは異なる理を極めた魔術師。
その力量が、決して自分に劣るものではないことだけは、一目で理解できた。
女性は、術式へ手を伸ばす。
「この魔力の変換、私が担うわ」
「……できるのかの」
「この魔力なら、よく知っているもの」
言いながら、彼女の指先が魔力の塊へ触れた。
その瞬間。
荒れ狂っていた魔力が、嘘のように静まった。
複雑に絡み合っていた流れが解かれ、治療術式に適した形へと組み直されていく。
使っている術式は違うが、結果はルーシーが求めていたものと、完全に一致していた。
「……知らぬ術式を使うのじゃな」
「そちらこそ。随分と豪快な治療をするのね」
「急患相手に、上品に構えておれるか」
「それは同感」
二人は、僅かに口元を緩める。
そして、ルーシーはすぐに表情を戻し、彼女に尋ねた。
「一つだけ聞く」
「何?」
「何故、手を貸す」
女性は治療術式へ視線を向けたまま、何でもないことのように答える。
「私の元使い魔が」
一瞬――懐かしむように、目を細める。
「彼に随分と世話になっているみたいだから」
寝台の代わりに敷かれた布の上で、意識を失っているベリルを見る。
「そのお礼よ」
それだけで、ルーシーは理解した。
「まったく。あやつの周りにおる者は、お人よしばかりじゃの」
その言葉に女性は一瞬だけ目を丸くし、やがて堪えきれないように笑った。
「それも、よく知ってる」
異なる世界。
決して出会うはずのなかった二人の魔術師が、異なる理を重ね、一つの奇跡を成した。
やがて、繋ぎ直された右手の指が僅かに動いた。
それを確認し、二人は同時に息を吐いた。
◇ ◇ ◇
「――というわけじゃ」
説明を終えたルーシーは、小さく肩を竦めた。
ベリルは、自分の右腕を見つめていた。
そして、再び顔を上げ、ルーシーに尋ねる。
「その女性は、今どこに?」
「治療が終わった直後に、現れた時と同じように空間を裂いて消えた」
「そうか……」
「去り際に、もう二度と現れることはない、と言っておったの」
ルーシーは、不満そうに眉を寄せる。
「わしも時間が許せば、聞きたいことが山ほどあったんじゃがな。あの術式。あの魔力操作。それに、あやつとの関係もじゃ」
「お礼を言いたかったんだけどね」
「その気持ちは、届いておるじゃろう」
「そうだといいな」
ベリルは、少しだけ残念そうに笑った。
そして、改めて、ルーシーを見る。
「ルーシー」
「なんじゃ」
「ありがとう」
短い言葉だった。
だが。
軽く済ませるつもりはない。
剣士としての未来を、繋ぎ止めてくれたことへの精一杯の感謝だった。
ルーシーは、いつものように茶化すこともなく、僅かに目を伏せる。
それから真っ直ぐに、ベリルを見る。
「……こちらこそじゃ」
今度はベリルが目を見開く番だった。
「お主がいなければ」
ルーシーは続ける。
「学院の地下で起きた、あの訳の分からぬ脅威を止めることはできなかった」
「俺一人の力じゃないよ」
「そんなことは分かっておる」
即座に返す。
「学院の者たちも。騎士団も。冒険者のスレナまでも。皆が力を尽くした」
一拍。
「それでも」
ルーシーの声音が、僅かに強くなる。
「お主がいなければ、どうにもならなかった」
真剣な言葉だった。
「誰一人失わずに済んだのは、最後まで剣を振るい続けた、お主のおかげじゃ」
ベリルは、すぐには返事をしなかった。
自分だけの力ではない。
その考えは、変わらない。
だからといって、向けられた感謝まで否定するのは……きっと違う。
「……うん」
ベリルはゆっくりと頷いた。
「ありがとう。ちゃんと受け取るよ」
「それでよい」
ルーシーも僅かに頷く。
互いの間に穏やかな沈黙が落ちる。
それまで張り詰めていたものが今度こそ、完全に解けたのだろう。
ベリルの瞼が、ゆっくりと重くなる。
「もう寝ろ」
「そうするよ」
目を閉じる。
意識が、穏やかな眠りへ沈みかける。
その直前。
「ああ。そうだ」
ベリルは、ふと思い出したように目を開いた。
「なんじゃ。まだあるのか」
「次に起きたら」
一拍。
「エミヤに、食事を振る舞ってほしいな」
「自分で伝えればよかろう」
「起きた時に、まだ元気が残ってたらね」
「仕方ないのう」
呆れたように言いながら。
声は、どこか優しかった。
「ミュイから、あやつに伝えさせよう」
「頼むよ」
ベリルは、安心したように微笑む。
今回の出来事も、夢の中で見た彼の過去も、今すぐ言葉にすることはできない。
それでも。
次に会った時はいつも通り、食事でもしよう。
剣を振り、くだらない話をして。
彼がまた、僅かに口元を緩める姿を見よう。
ただの友として。
きっと。
それでいい。
そして、ベリルは再び、静かな眠りへ落ちていった。