反応やご感想など、とても嬉しいです。
少しでも楽しんでいただけますと幸いです。
最初に認識したのは、白い天井だった。
簡素な木組み。
魔術灯の淡い光。
鼻を掠める薬品と、乾いた布の匂い。
視界に映るすべてが現実のものだと理解するまで、僅かな時間を要した。
「……私は」
掠れた声が漏れる。
喉が乾いている。
身体は鉛を詰め込まれたように重く、指先へ意識を通すだけでも微かな抵抗があった。
だが。
手は動く。
呼吸もできる。
胸の奥には、弱々しくも魔力が巡っている。
つまり。
「……消えなかった、のか」
エミヤは天井を見上げたまま、静かに呟いた。
自分で口にしておきながら、現実味のない言葉だった。
自分は、消えたはずなのだ。
世界と世界の狭間。
過去へ向かおうとする無銘へ、自らの魔力を明け渡した。
エミヤは、自分が消滅することを受け入れていた。
だからこそ――今ここで目を覚ましていることは、エミヤにとって奇跡というよりも、理解不能な結果だった。
「……随分と、都合のよい話だ」
自嘲するように言いながら、エミヤはゆっくりと上体を起こした。
途端、身体の奥で魔力回路が軋む。
「っ……」
鋭い痛みではない。
焼けた鉄を無理に曲げるような、鈍く重い違和感。
咄嗟に胸元へ手を当てる。
呼吸を整え、意識を自身の内側へ沈めていく。
「同調、開始」
短い詠唱。
自身に対して解析をかけたエミヤは、一度深呼吸し、解析結果を順に確認する。
魔力は著しく減少している。
本来の魔力量を器に例えるなら、底に僅かな水が残る程度。
だが、消滅寸前だったはずの状態と比べれば、明らかに魔力が補われていた。
「……補われている」
自分以外の何者かによって、無理やり縫い留められていた。
その術式はすでに消えている。
残っているのは、ほんの僅かな魔力の残滓だけ。
そして、エミヤは、その魔力に覚えがあった。
「これは……」
忘れようもない。
……忘れられるはずもない。
「……まさかな」
名前は口にしなかった。
今、この世界に彼女が存在するはずはない。
それでも、その懐かしい魔力の持ち主が、確かにここへ手を伸ばしたのだと告げていた。
「余計なことをしてくれたものだ」
皮肉を零す。
だが、その声には、皮肉に見合うほどの棘はなかった。
その時。
部屋の外から、複数の足音が聞こえた。
誰かが扉の前で立ち止まり、控えめなノックが数度響いた。
「エミヤさん。入ってもよろしいですか?」
聞き覚えのある声だった。
「ああ。構わない」
返事をすると扉が開き、二人の魔術師が姿を見せた。
魔術学院の教頭ファウステス。
その隣には、柔らかな表情の女性――魔術教員のキネラが立っていた。
二人は、寝台の上で身体を起こしているエミヤを見た瞬間。
揃って目を見開いた。
「もう起き上がれるのか」
「よかった……!」
反応は同時だった。
そして二人はすぐに、エミヤの魔力と身体の状態を確認し始めた。
ファウステスがより詳細な確認を進める中、キネラは表情と呼吸を確認しながら、寝台の傍へ水差しを置いた。
「気分はどうですか?」
「問題ない」
「問題がない人は、そんな顔色をしていません」
キネラは即座に否定した。
エミヤは僅かに眉を上げる。
「元々、このような顔色だが」
「そういう話ではありません」
柔らかな口調だが、引く様子はない。
一方、ファウステスは、エミヤの周囲に簡易的な術式を展開していた。
魔力の流れを確認し、僅かに眉を寄せる。
「魔力漏れは見当たらないが……魔力量に関しては、まだ危険域だな」
「自覚している」
「ならば、なぜ身体を起こしている」
「眠り続ける理由がないからだ」
ファウステスは何か言い返そうとして、一度口を閉じた。
自分と同じ種類の頑固者だとでも判断したのだろう。
キネラが水を差し出す。
「まずは飲んでください」
「感謝する」
エミヤは素直に受け取り、口を付けた。
冷たい水が、乾いた喉を通る。
それだけで思っていた以上に身体が水分を求めていたのだと分かった。
「どれほど眠っていた?」
「丸二日ほどです」
キネラが答える。
二日間。
魔術学院の結界に触れた翌日に自室で倒れるように寝込んだ記憶はある。
そこから二日となると、推測以上に長い時間眠っていたらしい。
英霊だった頃ならば、魔力さえ補われれば眠る必要などない。
受肉して以降は睡眠を取るようになったが、これほど長く意識を失ったことはなかった。
「魔術学院の結界調査はどうなった?」
エミヤが尋ねる。
ファウステスとキネラは、一瞬だけ視線を交わした。
先に答えたのはファウステスだった。
「君が眠っている間に、大規模な戦闘が発生した。
我々としても、エミヤ君へ伝えるべきこと、君に確認したいことが多々ある。
長くなるが、構わないかね?」
「わかった」
短い答えの後、寝台の上で説明を受けるつもりはないとでも示すように、エミヤは傍らの椅子へ移った。
ファウステスたちも、エミヤと向かい合うように椅子に座り、地下での出来事を順に説明していった。
◇ ◇ ◇
「アンブロシアが私の形を得て君たちに襲い掛かったこと、結界に取り込まれたベリルが負傷した状態で現れたこと……そして」
「エミヤ君を知っている素振りの女性が空間を割くように現れ、ガーデナント君の治癒に協力した後、再び消え去った」
「負傷者は多いですが、治療は進んでいます。皆さん、いずれも命に関わる状態ではありません」
「……そうか」
エミヤは二人から話を聞き、僅かに目を伏せた。
一連の出来事は、エミヤの知識と経験をもってしても理解の外にあった。
そして、話を聞く限り、彼らが対峙した敵は、あまりにも強大だった。
死者が出なかったことは、奇跡としか思えない結果だった。
そこまで思考したうえで、エミヤは自分の考えを否定した。
"奇跡"ではない。
幸運が絡んだことは間違いないが、無事生還したことは彼らの努力の成果だろう。
或いは、幸運すらも、彼らが掴み取ったものなのだ。
安堵したエミヤは、自覚できるほど肩から力が抜けた。
「ベリルは?」
キネラの表情が僅かに曇る。
「未だ意識は戻っていないそうです」
「ただし、治療そのものは成功している」
ファウステスが続けた。
「学院長が中心となり、損傷した身体は完全に治癒している。今は消耗した精神と体力が戻るのを待っている状態だ」
「完全に、か」
「あれほどの損傷から回復したこと自体、私たちには信じられませんが」
キネラは、どこか遠い目をする。
エミヤは静かに考える。
ルーシーほどの魔術師が治療へ当たった。
加えて。
自分の中に残っている、懐かしい魔力。
"彼女"がベリルの治療にも手を貸したのなら。
少なくとも、施された治療に不足はないだろう。
「最善の処置は受けている。ならば、後は本人次第だろう」
「随分と落ち着いていますね」
「彼女たちを信用している」
短く答える。
そこでファウステスは僅かに身を乗り出した。
「こちらからも聞きたいことがある」
「だろうな」
「地下に現れた存在。君の魔力が急激に失われた理由。そして、君が意識を失っている間に何が起きていたのか」
当然の質問だった。
今回の事件は、この世界の魔術師だけでは説明できない事象が、あまりにも多い。
エミヤも、説明する責任があると考えている。
「私も巻き込まれた側で理解の及ばない部分は多いが、分かる範囲で話そう」
そう答えた瞬間、ファウステスは首を振った。
「今ではない」
「……何?」
「確認すべきことは多い。だが、急を要する危険はすでに去った」
ファウステスは、エミヤの胸元へ視線を向ける。
「魔力が急激に身体から失われる事象は、命に関わる。エミヤ君が自覚している以上に、今の状態は不安定だ」
キネラも頷いた。
「説明は、もう少し回復してからで構いません。今日は休んでください」
疑念よりも、今はエミヤの身体を優先しているらしい。
その配慮には、素直に感謝すべきだろう。
もっとも、忠告に従うかどうかは別の話だが。
「配慮に感謝する」
「では、もう一度横になってください」
「それはできない」
間髪入れずに返す。
キネラの笑みが、僅かに固まった。
「……どうしてですか?」
「確認すべきことがある」
「先ほど、急を要する危険はないと話したはずですが」
「危険がないことと、私が動く必要がないことは同義ではない」
エミヤは何事もなかったように立ち上がった。
「自分の限界程度は理解している。私も魔術師だからな」
ファウステスは、その言葉を聞き、しばらく無言でエミヤを見つめた。
キネラもまた、何とも言えない表情を浮かべている。
「今回の件については、日を改めて説明の場を設けよう」
エミヤは、備えられていた自分の衣服へ手を伸ばす。
「今日は、先に確かめておきたいことがある」
「せめて、もう少し休んでからでは」
「十分に休んだ」
「丸二日意識を失っていたことを、休息とは言いません」
キネラの指摘は正しい。
だが、エミヤは聞かなかったことにした。
「世話になった。後日、改めて礼をする」
そう告げ、扉に近づく。
ファウステスは深いため息を吐いた。
「……せめて、倒れる前に戻ってこい」
「善処しよう」
「最も信用できない返答だな」
エミヤは、僅かに口元を緩めた。
そして、学院の治療室を後にした。
なお、二人がエミヤを引き留めなかったと知ったルーシーは、後に揃って説教をした。
彼らは知らなかったのだ。
エミヤにとって自らを削ることは、限界を越える行為ではなく、日常の範疇であることを。
◇ ◇ ◇
学院の建物を出た瞬間、生温かな風がエミヤの頬を撫でた。
空は薄く曇っている。
雨が降るほどではないが、陽光は雲に遮られ、街全体が淡い灰色に包まれていた。
エミヤは騎士団施設へ向かって歩き出す。
足取りに乱れはない。
少なくとも、傍目には。
だが、学院の敷地を出て、人気の少ない路地へ入ったところで。
「……っ」
身体の奥から、鈍い痛みが走った。
魔術回路が軋み、心臓の裏側へ熱した針を差し込まれるような痛みが走る。
エミヤは一度だけ足を止め、近くの壁へ手をついた。
呼吸を整える。
深く吸い、ゆっくりと吐く。
ただ、身体が落ち着くのを待つ。
「……まだ、本調子ではないか」
当然の結論だった。
消滅寸前まで魔力を失ったのだ。
それを外部から補われ、存在そのものを繋ぎ止められた。
目を覚ましたからといって、万全であるはずがない。
ファウステスたちの忠告は正しい。
エミヤは痛みが引いたことを確認すると、何事もなかったように再び歩き出した。
◇ ◇ ◇
騎士団施設には、地下での騒動を感じさせない日常が戻っていた。
門には衛兵が立ち、廊下を騎士たちが行き交う。
奥の修練場からは、団員たちが訓練する音が聞こえていた。
エミヤが彼らとすれ違う度に、心配や安堵の声を貰い、その一つひとつへ律儀に言葉を返す。
別れた後、自分も騎士団に馴染んできたのだと独り苦笑を浮かべた。
目的地は、騎士団長の執務室。
扉の前へ立ち、二度、拳で叩く。
「アリューシア。私だ」
室内から、一瞬の沈黙。
直後。
「どうぞ」
聞き慣れた声が返ってきた。
扉を開けると、まず目に入ったのは、いつも通り机へ積み上げられた大量の書類だった。
そして、その書類の山に埋もれるように、アリューシア・シトラスは机へ向かっていた。
いつも通り、背筋は伸びている。
だが、右肩には包帯が巻かれ、頬には小さな傷が残り、顔色も普段より僅かに悪い。
アリューシアは書類から顔を上げ、扉の前に立つエミヤを見た。
「目を覚ましたのですね」
「ああ。つい先ほどな」
「つい先ほど?」
アリューシアの眉が寄る。
「でしたら、なぜここにいるのですか」
「君たちの状態を確認するためだ」
「確認する前に、休むべきではありませんか?」
「同じことを学院でも言われた」
「当然です」
即答だった。
エミヤは肩を竦める。
「君まで同じことを言うのかね」
「むしろ、言われないと思っていたのですか?」
「思ってはいない。だが、少々過保護ではないかとは感じている」
「魔力が枯渇して倒れた人へ休めと告げるのは、過保護とは言いません」
「外傷はない」
「論点をずらさないでください」
アリューシアの返答は早い。
――普段なら、そのまま呆れた表情を向けていたはずだ。
だが、会話の途中。
エミヤは、彼女の指先が僅かに強張っていることに気づいた。
意識して隠しているのだろうが、エミヤの目には明らかだった。
「アリューシア」
「……はい」
エミヤは、扉を閉じる。
室内に二人だけとなったことを確認して、静かに続けた。
「無理に平静を装う必要はない」
アリューシアの肩が、僅かに揺れた。
「何のことでしょうか」
「地下で君たちを襲った存在は、私と同じ姿をしていたのだろう」
「それは……」
「姿だけではない。戦い方も。使う武器も」
エミヤは机から少し距離を取ったまま立つ。
不用意に近づかない。
それ自体が、アリューシアに選択肢を残すためだった。
「命を奪われかけた相手と同じ顔をした者を見て、警戒が残るのは当然だ」
「エミヤさんは、あれとは違います」
即座に返した声とは裏腹に、組んだ指先は強張ったままだった。
「私は理解しています。あれは貴方ではない。ですから、恐れる理由など――」
そこまで言い、アリューシアは口を閉じた。
「……いいえ」
長く息を吐き、手を解く。
「少しだけ、恐怖が残っています」
エミヤは何も言わず、続きを待つ。
「あの姿で、先生やヘンブリッツを傷つけ、私たちを圧倒した。
……目を閉じれば、今でも剣が迫ってくる光景を思い出します」
指先が、僅かに震えている。
「頭では理解しているのです。
貴方と、あの存在は違う。エミヤさんが私たちへ刃を向けるはずがないことも」
一拍。
「それでも、身体が先に警戒してしまう」
アリューシアは、エミヤを真っ直ぐに見た。
「失礼な態度を取ってしまい、申し訳ありません」
「謝る必要はない」
エミヤは即座に答えた。
「君たちは死線を越えたばかりだ。
ベリルやヘンブリッツが傷つく姿を見て、自身も命を失いかけた」
静かに、責める色を一切混ぜずに続ける。
「理性で整理できるほど、恐怖は都合よくできてはいない」
「ですが、それをエミヤさんへ向けることは――」
「君が私を信頼していることは分かっている」
アリューシアが目を見開く。
「信頼と恐怖は、同時に存在してもおかしくない。どちらか一方を否定する必要はないさ」
人は、正しいと理解していても恐れる。
必要だと理解していても拒絶する。
それを責めたところで、何も生まれはしない。
アリューシアは、しばらく黙っていた。
やがて、椅子から立ち上がる。
一度、深く息を吸う。
そして、強張っていた指を自ら解くように拳を握り直した。
「……失礼しました」
「今、謝る必要はないと言ったはずだが」
「これは、恐怖を抱いたことへの謝罪ではありません」
アリューシアは背筋を伸ばす。
恐怖が消えたわけではない。
指先の強張りも、完全には戻っていない。
それでも、彼女はエミヤから目を逸らさなかった。
「騎士団長として。そして、貴方を信頼する者として」
真っ直ぐに告げる。
「恐怖があることを受け入れた上で、私はエミヤさんを信じます」
エミヤは、その姿を見ながら内心で静かに評価を改めた。
強い女性だ。
恐れない者が強いのではない。
恐怖を認め、自ら選んだものから目を逸らさない。
それができる者を、強いと呼ぶのだろう。
「ならば、私はその信頼に応えるとしよう」
「はい」
アリューシアは、僅かに微笑んだ。
張り詰めていた空気が、少しだけ和らぐ。
「ところで、君の傷は?」
「問題ありません」
「先ほどの私と同じ言い分だな」
「少なくとも、執務には支障ありません」
エミヤは、机へ積み上がった書類を見た。
「支障がないというより、逃げ場がないだけでは?」
「騎士団長ですから」
そう言って、アリューシアは僅かに口元を緩めた。
だが、その表情はすぐに真剣なものへ戻る。
「先生は、まだ目を覚ましていません」
「ああ。学院で聞いた」
「治療は成功したと報告されています。ですが、あれほどの怪我でした」
アリューシアの声に、隠しきれない不安が滲む。
「ルーシーさんは大丈夫だと仰っています。それでも」
「心配か」
「……はい」
短い返事だった。
「先生が目を覚まさなかったら、と。考えても仕方のないことばかり考えてしまいます」
エミヤは、僅かに目を伏せた。
実際にその戦いを見たわけではない。
だが、帰還時の損傷を聞けば、どれほどの死闘だったかは想像できる。
「少なくとも」
エミヤは静かに告げた。
「施された治療に不足はない」
アリューシアが顔を上げる。
「ルーシーほどの魔術師が治療へ当たった。それに」
一瞬、エミヤは自分の胸元へ触れた。
「もう一人。異なる魔術体系を極めた者が関わった可能性が高い」
「……それは、後から現れた女性のことですか?」
「そうだ。そして私を助けた者と、恐らく同じ人物だ」
断定はしないが、ほぼ間違いないだろう。
彼女なら、エミヤを救った後にベリルの状態を知れば、同じように手を伸ばす。
そういう人間だった。
「その二人が治療したのなら、少なくとも出来ることは全て行われている」
一拍。
「今は、ベリルを信じて待つしかあるまい」
アリューシアは、ゆっくりと息を吐いた。
「……そうですね」
「そもそも、あの男がこの程度で死ぬとは思えん」
エミヤは、僅かに口元を歪める。
「こちらが呆れるほど、しぶとい剣士なのでね」
その言葉に、アリューシアも小さく笑った。
穏やかな沈黙が落ちる。
やがて、アリューシアは改めて姿勢を正し、エミヤに話す。
「今回の事件について、後日、貴方の知ることを聞かせてください」
「無論だ。ただし、私にも理解できていない部分は多い。学院の魔術師たちも交えた方がいいだろう」
「分かりました。こちらで場を整えます」
アリューシアは頷く。
ここでの必要な確認は終わった。
多忙な彼女の時間を、これ以上奪うべきではないと考えたエミヤは踵を返す。
そして扉を開く前に。
「それと」
エミヤが続ける。
「明日から、特別指南役補佐の役目へ戻る」
アリューシアの手が止まった。
ゆっくりと顔を上げる。
「……今、何と?」
「明日から、騎士団の指導を再開すると言った」
「却下します」
「随分と早い返答だな」
「当然です」
アリューシアは、はっきりと眉を吊り上げた。
「先ほど目を覚ましたばかりなのでしょう?」
「ああ」
「魔力不足で倒れていた」
「外傷はない」
「魔力が空になるほど消耗した者を、無傷とは言いません」
正論だった。
エミヤは反論を探したが、少し考え、別の方向から攻めることにした。
「君とヘンブリッツは負傷している。ベリルも目を覚ましていない。
団員たちも、トップの二人が怪我を負ったことで精神的な動揺があるだろう」
アリューシアは黙る。
エミヤは淡々と続ける。
「こういう時こそ、普段通りの訓練が必要だ。
無論、負荷は下げる。私とて自身の体調は理解している」
「いえ。先生からも、エミヤさんはご自身の体調を考慮せず動かれる方だと伺っております」
アリューシアは一拍置き、淡々と付け加えた。
「私自身も、先生の評価は正しいと考えています」
元々芯を曲げない人物であるアリューシアだが、今回は善意や心配に加えてベリルのお墨付きまである。
いたずらに彼女を困らせたい訳ではないが、それでも軽症だと信じている自分だけが休むのは、どうにも落ち着かなかった。
「何もせず横になっている方が、私には負担になる」
アリューシアが呆れたように目を細める。
「落ち着かない性分、ということですか」
「否定はしない」
「本当に、貴方は」
深いため息の後、アリューシアは額へ手を当てる。
アリューシアは納得したわけではない。
だが、団員たちに普段通りの姿を見せることが、今は必要だという意見にも一理あった。
「少しでも体調に異常があれば、無理をされずに休まれてください」
「善処しよう」
「約束してください」
「……分かった」
僅かな間があったことに、アリューシアは不満そうな顔をした。
それでも。
「では、その条件で許可します」
「感謝する」
「感謝するくらいなら、素直に休んでください」
アリューシアの返答に苦笑をしながら、エミヤが今度こそ扉へ手を掛けると。
「エミヤさん」
背後から呼び止められる。
振り返ると、アリューシアは先ほどよりも少し穏やかな表情をしていた。
「無事に戻ってきてくださって、本当によかったです」
飾りのない言葉だった。
エミヤは、一瞬だけ返答に迷い――やがて、静かに頷いた。
「……心配を掛けた」
それだけ告げ、執務室を後にした。
◇ ◇ ◇
騎士団施設を出たエミヤは、そのままベリルの家へ向かった。
ベリルが目を覚ましていない以上、確認しておかなければならないことがあった。
ミュイだ。
ベリルと共に生活するようになってから、彼女は以前よりも落ち着いたように見える。
だが、つい最近まで、ミュイは唯一の肉親だった姉の死者蘇生という大人の悪意に巻き込まれていた少女だ。
ようやく頼れる大人との生活を始めたばかりのミュイにとって、ベリルが目を覚まさない状況は、過去の喪失を思い起こさせるには十分だった。
ルーシーが生活面を整えているとしても、心まで放置してよい理由にはならない。
やがて、見慣れた家が視界へ入った。
そこで、門の前に立つ、一人の女性へ気づく。
赤髪に引き締まった身体。
ブラックランクを示すプレートを下げる彼女、スレナ・リサンデラだった。
「スレナ」
エミヤが呼び掛ける。
スレナは振り返り、こちらの姿を認識した瞬間、僅かに目を見開いた。
「エミヤ」
驚きはすぐに消えた。
だが、足早に近づいてくる様子から、心配していたことは隠せていない。
「目を覚ましたのか」
「ああ。つい先ほどな」
「つい先ほど?」
聞き覚えのある反応だった。
エミヤは内心で小さく息を吐く。
今日は何度、同じことを聞かれるのだろうか。
「身体は問題ない」
「その言葉は、あまり信用できないな」
「君までそう言うのかね」
「顔色が悪い」
エミヤが僅かに反応したのを見て、スレナは目を細める。
「……やはり、自分でも万全ではないと分かっているんだな」
「鎌をかけたのか。趣味が悪いぞ」
スレナは呆れながらも、僅かに安堵したようだった。
「君の方はどうなのかね」
エミヤは話題を変える。
「地下では、浅くない傷を負っていたと聞いた」
「問題ない」
「……なるほど」
エミヤが目を細める。
「人のことを言えた立場ではないらしいな」
スレナは一瞬だけ言葉に詰まり、気まずそうに視線を逸らした。
「……まあ、私も浅くない傷は負ったが、その後すぐに治療を受けられた。問題ない。
――また、先生に護られてしまった」
その声音には、誇らしさと悔しさが入り混じっていた。
エミヤもまた、彼女の窮地を救ったベリルを誇らしく感じていた。
エミヤは家へ視線を向ける。
「君も、ミュイの様子を見に?」
「そのつもりだ」
スレナは頷く。
「先生が眠ったままだと聞いた。あの子が一人でいるのではないかと気になってな」
「考えることは同じらしい」
「エミヤもか」
「ああ」
エミヤが扉へ手を伸ばしかけた時。
内側から、何かが落ちる音がした。
慌ただしい足音が近づいて、扉が勢いよく開いた。
「誰だよ――」
姿を現したミュイは門の前に立つ二人を見て、固まった。
◇ ◇ ◇
室内には、掃除を始めたばかりの形跡があった。
そして、部屋の隅には畳み途中の衣類が積まれていた。
何かをまとめている途中だったのだろう。
エミヤが尋ねると、ミュイは積まれた荷物へ視線を向けた。
「オッサンの着替えとか、必要そうなものを持っていこうと思って」
「お前、先生のことをオッサンなどと……」
「うぅ……」
スレナがミュイの呼び方に釘を刺す。
ベリル自身は気にしないが、この辺りはベリルが育ての親の一人だったスレナは気にするのだろう。
二人の間には、まだ互いの距離を測りかねている部分があるらしい。
エミヤは助け舟を出す。
「ミュイは食事を取れているのかね?」
「ああ、今はババ……ルーシー、さんの屋敷に泊めてもらってる。
飯も出してくれるし、部屋もある」
「なら、今日はどうしてこちらへ?」
「……一回家に戻った方がいいって言われた」
ミュイは、僅かに唇を尖らせた。
「ずっとオッサンの近くにいても、何もできねえから。着替えを取って、掃除でもしてこいってさ」
おそらくルーシーなりに、ミュイを一度病室から離そうとしたのだ。
眠ったままのベリルを見続けていれば、不安は膨らむ一方だろう。
適度に身体を動かし、慣れた家へ戻り、気持ちを切り替える時間を作る。
理に適った判断だった。
「なるほどな」
エミヤは室内を見回す。
「話は分かった。だが、まずは座るといい」
「え?」
「二人ともだ」
エミヤは上着を脱ぎ、当然のように台所へ向かう。
「何してんだよ」
「見れば分かるだろう。茶を淹れる」
「いや、病み上がりなんだろ?」
「茶を淹れる程度で倒れはしない」
スレナも止めようとするが、エミヤは振り返らない。
「君たちは客だ。座っていたまえ」
「ここ、オッサンの家だけど」
「今は不在だ。ならば、留守を預かる者が応対するしかないだろう」
「誰が留守を預けたんだよ」
「細かいことを気にするな」
ミュイは何か言い返そうとしたがエミヤが迷いなく湯を沸かし始めたため、諦めたように椅子へ腰を下ろした。
スレナも、その向かいへ座る。
二人の間には、妙な沈黙が落ちた。
「…………」
「…………」
敵意はない。
スレナがミュイのことを心配していることは、ミュイにもわかっていた。
だからこそ、何を話せばよいのか、分からないらしい。
エミヤは横目で二人の様子を確認しながら、茶葉を選び、簡単な軽食の用意を始める。
やがて、紅茶の香りが部屋へ広がっていく。
エミヤは三人分のカップと皿を机へ運んだ。
「待たせたな」
エミヤは二人の前へカップを置き、最後に自分も腰を下ろした。
「冷める前に飲むといい」
ミュイは、恐る恐るカップへ手を伸ばす。
一口、紅茶を飲み、僅かに肩の力を抜いた。
スレナも同様に口を付ける。
「……美味いな」
「それは何よりだ」
先ほどまで張り詰めていた空気が、温かな湯気と共に少しずつ解けていく。
それを確認した後、エミヤはミュイへ尋ねた。
「それで」
「何だよ」
「食事は、きちんと取っているかね」
ミュイの手が止まった。
その反応だけで、答えは分かった。
「ルーシーの屋敷では、食事が出ているのだろう」
「出てるよ」
「食べているか、と聞いている」
「……少しは」
「どの程度だ」
「うるせえな」
ミュイは目を逸らした。
机の上の軽食にも、まだ手を付けていない。
エミヤの声に責める色はない。
「満足に眠れてもいないようだな」
「別に」
「目の下に隈がある」
ミュイは黙り込んだ。
やがて、カップを両手で包みながら、小さく呟く。
「……寝てるだけだって、皆言うんだ」
エミヤもスレナも、口を挟まない。
「身体は治ってるし、後は起きるのを待つだけだって」
「ああ」
「でもさ」
ミュイの指先が、カップを強く握る。
「前にも、起きなかったから」
その一言で、エミヤは彼女が何を恐れているのか理解した。
ミュイの声が震える。
「オッサンも、そのまま起きなかったらって思うと……」
それ以上、言葉は続かなかった。
俯いたまま涙を見せまいと、歯を食いしばっている。
スレナが、静かに口を開いた。
「待つことしかできない時間は、怖い」
ミュイが、僅かに顔を上げる。
「私も、そういう時間は嫌いだ」
スレナは、実感のこもった声で続ける。
「だから、不安になるなとは言わない。
だが、先生は生きている」
迷いのない声だった。
「先生は今も戻ろうとしている。だから、私たちも先生が戻ってきた時に迎えられるようにしておこう」
ミュイは、スレナの言葉を聞きながら。
唇を強く結んでいた。
「……分かってるよ」
しばらくして、掠れた声が落ちる。
「アタシが何かしたって、オッサンが早く起きるわけじゃないことも。
飯を食わなきゃ駄目なのも、寝なきゃいけないのも」
カップの中で、紅茶が僅かに揺れる。
エミヤは静かに口を開いた。
「ならば、引き続き君にベリルの看病を任せよう。
私たちも君をベリルから遠ざけたい訳ではない」
ミュイが顔を上げる。
「いいのか?」
ミュイは、予想外の言葉に目を丸くした。
「ああ。ただし、条件がある」
「条件?」
「決まった時間に食事を取ること。そして、一人で抱え込まないことだ」
エミヤは、机の上に残された軽食へ視線を向ける。
「朝と夕方は、私の喫茶店へ来い。食事はこちらで用意する」
「でも、店は……」
「明日から再開する」
「もう働くのかよ!?」
ミュイだけでなく隣に座るスレナまで、呆れた視線を向けてくる。
「身体は問題ない」
「先ほどから、そればかりだな」
スレナが低く呟く。
「便利な言葉だからな」
「便利に使うな」
即座に返され、エミヤは僅かに視線を逸らした。
「ともかく」
話を戻す。
エミヤは、少しだけ声音を和らげる。
「君が倒れれば、ベリルが目を覚ました時に心配する。
あの男は、そういう性格だろう」
「……うん」
「ならば、ベリルが戻ってくる場所を守るのも、看病のうちだ」
ミュイはしばらく考え、やがて小さく頷いた。
そして、ようやく机の上の軽食へ手を伸ばした。
小さくかじる。
ゆっくりと咀嚼し、もう一口。
その様子を見て、エミヤは僅かに肩の力を抜いた。
「……なあ」
ミュイが、食べる手を止めずに尋ねる。
「何かね」
「どうして、そこまでしてくれるんだ?」
エミヤは目を細める。
「どういう意味だ」
「だって」
ミュイは、困ったように眉を寄せた。
「アンタは、アタシの家族じゃないだろ。オッサンみたいに、一緒に暮らしてるわけでもない」
エミヤは、すぐには答えなかった。
隣ではスレナもまた、静かにミュイを見つめている。
「理由が必要かね?」
「え?」
「君はまだ子供で、私たちは大人だ。それで十分だろう」
ミュイは目を瞬く。
スレナも静かに頷いた。
「子供が一人で抱えることではない。助けるのに、家族である必要もない」
「……変な奴ら」
小さく呟き、俯いた顔には僅かな笑みが浮かんでいた。
◇ ◇ ◇
その後、エミヤは家に残っていた食材で夕食を作り、持ち帰れるようミュイへ渡した。
スレナにも、後日改めて今回の件を説明すると約束し、彼女と別れた後、一人で帰路に就いた。
外は、すでに日が傾き始めていた。
街並みが、淡い橙色に染まっている。
エミヤは、しばらく普段と変わらない歩調を保っていた。
角を一つ曲がり、誰の姿も見えなくなったところで、足が止まる。
「……っ」
壁へ手をつく。
身体の奥に溜まっていた疲労が今になって、一気に押し寄せてきた。
魔術回路が軋み、呼吸が浅くなる。
視界の端が、僅かに暗く染まった。
「やはり……少し、動きすぎたか」
壁へ背を預けたまま、今日出会った者たちの顔を思い返す。
まだ、この世界で自分にできることは残っていた。
エミヤは静かに空を見上げる。
元より。
自分は、この世界にとって部外者だ。
突然迷い込み、幾つかの縁に拾われただけの漂流者。
無銘へ魔力を渡した時、自分が消えても残された者たちならば、問題なく歩いていけると考えた。
事実、それは間違いではない。
ベリルも、アリューシアたちも。
自分がいなくとも、きっと立ち続ける。
だが。
「任せられることと」
小さく呟く。
「私が消えてよいことは、同じではない……か」
今日一日だけでも、自分を心配した者がいた。
自分を必要としてくれる場所があった。
まだ目を覚まさない友もいる。
消えることを正しいと思ったわけではない。
ただ、自分には相応しい結末だと受け入れていた。
エミヤは、自分の胸元へ手を当てる。
そこには今も、宝石のように澄んだ懐かしい魔力が僅かに残っていた。
「……余計なことをしてくれたものだ」
再び皮肉を零す。
今度は、口元に僅かな笑みがあった。
「礼を言う機会くらい、残してくれてもよかっただろうに」
返事はない。
届かぬと知りながら、エミヤは胸の内で、静かに言葉を送った。
――ありがとう。
風が吹く。
思えば、彼女ならこう告げるのかもしれない。
――必ず、また会える。
彼女なら、そう言って笑うのだろう。
次元の旅人――紅の魔術師が、この地を再び訪れることはない。
だが、それは悲観することではないと、紅い弓兵は知っている。
たとえ世界が、物語が異なっても――また会えるのだから。