反応や投稿直後に気にかけていただけること、とても嬉しいです。
また、過去投稿文への感想なども、いつもありがとうございます。
本話は閑話となります。
アニメ剣聖、三期おめでとうございます!!
エミヤの店で働きたい。
ミュイが恐る恐る話を切り出したとき、初めは何か欲しいものでもあるのかと心配したベリルだったが、事情を聞けば、思っていたよりもあっさり許可は下りた。
「いいんじゃないかな」
ベリルは少し嬉しそうに笑って続ける。
「ミュイが自分でやりたいと思ったなら、俺は応援するよ」
ただし、無理はしないこと。
学院の勉強を疎かにしないこと。
帰りが遅くなる時はちゃんと伝えること。
そんな約束をいくつか追加され。
そうして今日。
ミュイは――
「……なんで落ちねえんだよ、これ」
Arbor Havenの厨房で、皿と格闘していた。
◇ ◇ ◇
「力を入れればいいというものではない」
「入れなきゃ落ちねえだろ!」
「その結果、先ほど皿を一枚落としかけたのは誰だったかね?」
「落としてねえだろ!」
「私が受け止めたからな」
「…………」
反論出来ない。
ミュイは不満げに口を尖らせながら、手元の皿へ視線を戻した。
エミヤの店、Arbor Haven。
何度か客として来た場所。
けれど、カウンターの内側へ入ってみると、全く別の場所だった。
洗っても洗っても皿は増える。
客が帰れば机を拭く。
水が減っていれば補充する。
厨房から料理が出れば運ぶ。
空いた皿があれば下げる。
その合間にもエミヤから、
「ミュイ、三番へ水を」
だの。
「その皿はそちらではない」
だの。
「床が濡れている。先に拭け」
だの。
次々と指示が飛んでくる。
(客で来てた時、こんな忙しかったか……?)
窓際の席で料理を食べていた頃には、まるで気付かなかった。
何食わぬ顔をしたエミヤが一人で料理を作り、注文を聞き、客へ運び、片付けまでしていた。
時折誰かに手伝ってもらうことはあるらしいが、基本的には一人で回している。
その事実を知ったミュイから出てくる感想なんて、一つしかない。
(こいつ、やっぱ変だろ)
「手が止まっているぞ」
「分かってるよ!」
慌てて皿を洗う。
泡を流して、水気を切って、言われた場所へ重ねる。
今度は落とさない。
「……よし」
思わず小さく呟いた。
「ミュイ」
「今度は何だよ」
「それはそちらではない」
「え?」
見る。
置いた皿の隣の棚。
もう一度、皿。
「…………」
「…………」
「同じだろ、これ!」
「大きさが違う」
「ちょっとじゃねえか!」
「だから分けている」
「面倒くせえ!」
「仕事とはそういうものだ」
「くっそ……!」
エミヤの背後から、客の笑い声が聞こえた。
どうやら今のやり取りを聞かれていたらしい。
恥ずかしくなりながら、皿を正しい場所へ移す。
働きたいと言ったのは自分だ。
ここで文句を言って投げ出したら、絶対にエミヤに笑われる。
……いや。
こいつは笑わない。
多分いつもの顔で、
『そうか。なら今日はここまでにしたまえ』
とか言う。絶対言う。
それは……もっと腹が立つ。
「……やってやる」
「何をだ?」
「何でもねえ!」
エミヤが僅かに首を傾げる。
ミュイは無視して、次の皿へ手を伸ばした。
◇ ◇ ◇
しばらくして。
「皆さん、このお店です!隠れた名店と噂の美味しいお店でして!」
「シンディはよく知ってるね。確かに静かで素敵な場所だ」
「いらっしゃいませ」
入口から、自分とそう変わらない年頃の声が聞こえ、扉の開閉に合わせて奥からエミヤの声が聞こえた。
ミュイは皿を拭きながら、何となくそちらを見る。
そして、固まった。
「――あ」
向こうも止まった。
魔術学院の制服。
見覚えがあるどころではない。
普段、教室で顔を合わせている同級生たちだった。
というか、入ってくる前からシンディの名前まで聞こえていたのだ。
察してもよかったのに、仕事のことで頭がいっぱいになって気付けなかった。
「……ミュイ?」
「…………」
数秒。
誰も動かない。
やがて。
「なんでミュイがここにいるのー!?」
その一言で。
「わ、悪いかよ!」
反射的に言い返していた。
「いや、悪いなんて言ってないけど……」
「じゃあ何だよ!」
「エプロンしてるから」
「…………」
自分を見る。
エプロン姿で、手には布巾。
どう見ても店員だった。
「……働いてんだよ」
観念して答える。
「ここで?」
「そうだよ」
「ミュイが?」
「何回聞くんだよ!」
思わず声が大きくなる。
すると厨房から。
「ミュイ」
「……わりぃ」
反射的に返事をしてしまった。
同級生たちの視線が一斉にこちらへ集まる。
「…………」
「…………」
「何だよ!」
「いや……」
そのうちの一人、ネイジアが何とも言えない顔をする。
「ちゃんと働いてるんだなって」
「ぶっ飛ばすぞ」
「褒めたのに!?」
そのやり取りに、別の子が笑った。
ミュイは顔が熱くなるのを感じながら、そっぽを向く。
「客なら座れよ。邪魔だろ」
「あ、うん」
「好きなとこでいいの?」
「ここが空いてる」
そう言いながら、席へ案内する。
(……なんでこいつら、ずっとこっち見てんだよ)
後から知ったことだが、この日のことは学院でもしばらく話の種にされた。
……ついでに、店主のエミヤとの関係についても、後日しっかり問い詰められた。
◇ ◇ ◇
「へえ。ここだったんだ」
その日の午後、今度は聞き覚えのある女性の声がした。
「いらっしゃいま――」
言いかけて、ミュイは相手を見た。
何度か店で見かけたことがある。
騎士団の事務員だった。
以前も他の事務員と一緒に来ていた女性で、何故かエミヤと話す時だけ妙に声が上擦る。
今日は、よく似た年上の女性を連れていた。
「こんにちは」
「あ、ああ」
ミュイが返事をする。
姉らしき女性が、ミュイを見て目を細めた。
「あら。可愛い店員さん」
「……どうも」
こういう褒め方は苦手だ。
「最近働き始めたの?」
「……あぁ」
「そうなんだ」
にこにこしている。
悪い人ではなさそうだが、やっぱり少し苦手だ。
二人を席へ案内する。
「注文、決まったら呼んで」
そう言って、ミュイは一度店の奥へ戻る。
それから、何となくもう一度二人を覗き見た。
会話から、どうやら姉妹のようだった。
二人の顔を見比べているうちに、ふと昔の記憶が頭をよぎった。
姉妹。
その言葉を意識した途端、胸の奥が少しだけ重くなる。
「……」
ミュイは一度だけ息を吐いた。
今は仕事中だ。
そのまま厨房へ戻ろうとして。
「ミュイ」
「ん?」
エミヤに呼ばれた。
「今日、帰りはどうする」
「帰り?」
「予定より少し遅くなるかもしれん」
「あー」
そういえば。
「オッサンには言ってある。遅かったら迎えに来るって」
「そうか。なら構わん」
「一人で帰れるけどな」
「夜なら送る」
「だから子供扱いすんなって」
「子供だろう」
「うるせえ!」
いつものやり取り。
だから、ミュイは気付かなかった。
客席で、事務員の姉が妹へ顔を寄せていた。
「……ねえ」
「な、何?」
「あの子って」
ちらり。
ミュイを見る。
そして、エミヤを見る。
「もしかして、連れ子?」
「――っ!?」
妹が盛大にむせた。
「ち、違うと思う!」
「思う?」
「だってそんな話聞いてないし!」
「でも、随分慣れてない?」
「それは……」
「帰りの心配までしてるし」
「…………」
事務員の顔が、見る見る青くなる。
そこへ、エミヤ本人がやってきた。
「注文は決まったかね?」
「は、はい!」
背筋が伸びる。
姉はそんな妹を見てから、改めてエミヤを見る。
「あの」
「何か?」
「こちらの子は……娘さん?」
「ミュイか?知人の娘だ」
「娘じゃねえよ!」
「知人の保護下にある少女だ」
「最初からそう言えよ!」
「大差あるまい」
「ある!」
姉が「あら」と口元へ手を当てる。
一方。
事務員の顔には、露骨な安堵が浮かんだ。
「そ、そうですよね!」
「何がだ?」
「いえ!何でもありません!」
エミヤが怪訝そうな顔をする。
姉は妹の反応を見て、何かを察したらしい。
「ふふ」
「お姉ちゃん!」
「何も言ってないわよ」
絶対何かある。
ミュイが二人を訝しげに見る。
「何なんだ?」
「ミュイ」
エミヤが口を挟んだ。
「客の事情を詮索するな」
「分かってるよ」
「それより、先ほどの皿を片付けたまえ」
「はいはい」
踵を返す、その背中へ。
「返事は一度」
「うるせえ!」
店内に笑い声が広がった。
◇ ◇ ◇
それから数日。
ミュイは、少しだけ仕事に慣れていた。
少なくとも、皿を置く場所は覚えた。
注文も三人くらいまでなら、一度で聞き取れる。
字については――まだエミヤから文句を言われるが。
「読めればいいだろ」
「私以外にも読める字を書きたまえ」
「読めてんじゃねえか!」
そんなやり取りも、何度目か分からない。
学院が終われば、予定を確認してArbor Havenへ向かう。
お店が休みの日や、学院が長引いた日は無理をしないで、そのまま家に帰りベリルと過ごす。
そんな生活にも、少しずつ慣れてきた。
◇ ◇ ◇
その日は、少し妙だった。
「エミヤ」
返事がない。
ミュイは厨房から顔を出した。
「エミヤ?」
やはりいない。
つい先ほどまで、厨房にいたはずだった。
店内を見渡す。
夕食には少し早い時間。
客は二組。
一人は本を読みながら茶を飲んでいる。
もう一組は老夫婦。
どちらも急ぎではなさそうだった。
「どこ行ったんだよ……」
水でも汲みに行ったのだろうか。
それとも、何か仕入れでも忘れたか。
まあいい。
今のところ、料理の注文は入っていない。
エミヤが戻るまで、自分に出来ることをやればいい。
ミュイは空いた皿を下げる。
そのまま厨房へ戻ろうとして。
――がた。
裏口の扉が開く音がした。
エミヤが帰ってきたのか、と顔を向けた。
しかし入ってきたのは、客ではなかった。
裏口に立っていたのは、小さな子供。
男の子。
自分より年下だろう。
服は汚れている。
袖も随分傷んでいた。
髪も伸び放題。
何より、痩せていた。
ミュイには、その子が一目で南東区の孤児だと分かった。
そういう子供を、ミュイは嫌というほど知っていた。
何より、自分自身も少し前まで似た場所にいた。
とはいえ、いきなり裏口から現れたことに理解が追い付かない。
緊張や警戒を残す表情だったが、初めて侵入したようには思えない。
裏口の構造を知るような迷いのなさから、まるで前にも侵入したことがあるようだった。
そして人がいる中で侵入してきたことにも理解できない。
盗みをするにも、夜中や不在を狙うのが常套手段だ。
店主が不在だとしても、他に人がいる時を狙うか?
とはいえ、イレギュラーな存在の登場にミュイは警戒をする。
(金か?)
ミュイは少年から目を離さないまま、厨房にある刃物の位置を思い浮かべた。
何かあれば、すぐに動ける。
そう身構えたのは、昔の癖だった。
「おい」
声を掛ける。
少年の肩が跳ねた。
「客か?」
返事はない。
「腹減ってんの?」
少年は答えない。
ただ。
視線だけが動いた。
裏口近くの台の上。
そこに置かれている籠。
エミヤがたまに自分用の食事として残す場所に、今は焼いたパンがいくつか入っている。
少年が動いた。
「――あ」
速かった。
籠からパンを二つ掴む。
そのまま裏口へ。
「お、おい!」
少年が走る。
「待て!」
ミュイも反射的に追った。
扉を開ける。
少年は既に通りへ飛び出している。
「待ちやがれ!」
足には自信がある。
それに相手は自分より小さい。
追いつける。
そう思って、地面を蹴ろうとした瞬間。
「ミュイ」
後ろから声がした。
同時に、肩を掴まれた。
「うわっ!?」
身体が止まる。
振り返る。
「何すんだよ!」
そこには、買い物袋を片手に持ったエミヤがいた。
「離せ!」
「何をしている」
「何って!」
ミュイは通りを指差す。
「泥棒だよ!」
エミヤがそちらを見る。
少年の背中は、既に随分遠い。
路地へ曲がる。
姿が消えた。
「あーっ!」
「…………」
「逃げたじゃねえか!」
「そうだな」
「そうだな、じゃねえよ!」
ミュイはエミヤの手を振り払う。
「パン盗られたぞ!」
「ああ」
「じゃあなんで止めたんだよ!」
エミヤは答えない。
そのまま店へ入る。
「おい!」
「客の前だ」
「……っ」
言われて、ミュイは店内を見る。
二組の客がこちらを見ていた。
老夫婦の方は、少し心配そうな顔をしている。
エミヤは何事もなかったように頭を下げた。
「騒がせて申し訳ない」
それだけ言って、厨房へ向かう。
「…………」
納得いかない。
全然納得いかない。
それでも、ミュイは一度口を閉じた。
◇ ◇ ◇
最後の客が帰った。
扉を閉め、ミュイはすぐにエミヤへ向き直った。
「説明しろ」
「随分と偉そうだな」
「いいから!」
エミヤは店の片付けを続けている。
「何故追わなかったのか、という話か?」
「それ以外ねえだろ!」
「必要がなかったからだ」
「は?」
あっさりと。
本当に何でもないことのように言われた。
「必要ないって……盗まれたんだぞ?」
「パンを二つな」
「二つでも泥棒だろ!」
「そうだな」
「だったら!」
「ミュイ」
エミヤが手を止めた。
「君は、あの子供を捕まえてどうするつもりだった?」
「どうするって……」
止まる。
「パン返してもらって……」
「その後は?」
「その後?」
「衛兵へ引き渡すか?」
「…………」
そこまでは、考えていなかった。
「じゃあ……悪いことすんなって」
「言って、それで?」
「それでって……」
エミヤは責めるような口調ではない。
ただ、一つずつ確認しているだけ。
それが逆に答えづらい。
捕まえた後、どうするかなんて考えていなかった。
ここは自分の店じゃない。
パンを盗られたところで、自分の金が減るわけでもない。
まして、昔の自分がされたように、大人たちに袋叩きにされればいいなんて思ったわけでもなかった。
ただ、自分が働いている店の物が盗られた。
だから、捕まえなきゃと思った。
本当に、それだけだった。
「腹が減ったから盗んだのであれば、叱ったところで腹は満たされん」
「じゃあ飯食わせればいいだろ」
「そうだな」
即答。
ミュイが眉を寄せる。
「だったら最初から――」
「やったよ」
「……え?」
エミヤは再び食器を片付け始めた。
「あの子供に食事を渡そうとしたことなら、以前にもある」
ミュイが目を瞬く。
「知ってたのか?」
「ああ」
「じゃあ、なんで……」
「あの子だけではない。君ならいう必要はないが、あの辺りには、身寄りのない子供が何人かいる」
エミヤは淡々と続ける。
「以前、店の残り物を持って帰るよう声を掛けた」
「……食ったの?」
「逃げられた」
「は?」
「随分警戒されていたようでね」
少しだけ肩を竦める。
「私が近付けば逃げる。こちらから食事を差し出しても受け取らん」
言われて、ミュイは黙った。
警戒する理由なら、ミュイにも分かった。
親切そうな大人から食べ物を貰った子が、そのまま帰ってこなかったこともある。
飯に何かを混ぜられ、眠ったところを連れていかれる。
そんな話は、あの辺りでは珍しくもなかった。
――知らない大人を信用するな。
それは、生き残るための知恵だった。
本当に善意で手を差し伸べる者がいることも、今のミュイなら知っている。
それでも、あの場所で暮らす子供に、それを見分けろという方が無理なのだ。
そして、どんなに幼くても、自衛できなければ助けはない。
「だから」
エミヤが続ける。
「一度だけ伝えた」
「何を?」
「店の裏口に、余った物を置くことがある、と」
ミュイが顔を上げる。
「裏口?」
「ああ」
「……あれ」
思い出す。
店の裏の木箱に時々、パンや包みが置いてある。
「あれ、そうなの?」
「全てではないがな」
「…………」
「閉店後に置く。必要なら持っていけ、とだけ伝えた」
「来てるの?」
「時々」
「知ってるなら捕まえられるじゃん」
「何故捕まえる必要がある?」
「いや……」
それは、そうなのだが。
何か、話が変な気がする。
「だったら、あたしに言っとけよ」
「それは私の落ち度だな」
素直に認められた。
「次からは伝えておこう」
「……おう」
そこで終わりそうになる。
けれど、やっぱり引っ掛かった。
「でもさ」
「何だ」
「店の物だろ?」
「ああ」
「勝手に持ってかれたんだぞ?」
「そうだな」
「……いいの?」
「何がだ」
「店」
エミヤがこちらを見る。
「損してんじゃん」
「パン二つで店が潰れるなら、そもそも経営が成り立っていない」
「そうじゃなくて!」
上手く言えない。
働き始めて、少しだけ分かった。
食材には金が掛かる。
薪にも掛かる。
水も、皿も。
壊せば新しい物を買わなければならない。
客から貰う金があって。
そこから色々払って、残ったものが。
多分、利益というやつだ。
「盗られたら、その分損するだろ」
「するな」
「だったら気にしろよ!」
「何故だ?」
「何故って……!」
本気で分かっていない顔。
ミュイは思わず言葉を失った。
「……店やってんだろ?」
「ああ」
「金稼ぐために」
「それも理由の一つだ」
「じゃあ!」
「ミュイ」
エミヤが小さく息を吐いた。
「店の利益と、子供が今夜腹を空かせることを同じ秤に載せる必要はない」
「…………」
「パン二つ程度なら、私が少し余分に働けば済む」
あまりにも簡単に言う。
「それだけの話だ」
「それだけって……」
「店の経営に支障が出るほど持っていかれるなら考えるがね」
「…………」
「現状では、その必要はない」
エミヤは食器を棚へ戻す。
話は終わり。
そういう様子だった。
でも、ミュイには終われなかった。
「……変だよ」
手が止まった。
「何がだ?」
「エミヤ」
「…………」
「変だ」
もう一度言う。
エミヤは怒らない。
「そうかね?」
「だって」
ミュイは自分の給金を思い出した。
働いた。
皿を洗って、掃除して、注文を取って。
その分、金を貰った。
金は金だ。
今まで盗んで手に入れたものも、働いて受け取ったものも、同じ硬貨のはずだった。
けれど、自分で働いて受け取ったそれには、額面以上の何かがあるような気がしていた。
一方、それまでの自分の生き方や孤児の実情もミュイは知っている。
綺麗事では飢えは満たせない。
それが続けば、後は惨めに死ぬだけだ。
孤児の命なんて、そんなもの、なのだ。
だから、うまく言葉にできない。
そうしたミュイの内情まで察したのか、エミヤは静かに話す。
「君にはベリルがいる」
「…………」
「学院へ通うことが出来る」
「…………」
「働きたいと言えば、私が雇うことも出来た」
一つずつ、事実を並べる。
「そして、失敗しても次の日にもう一度来ることが出来る」
ミュイは何も言えない。
「それは、君が努力した結果でもある」
エミヤは否定しない。
「だが、努力したくとも、その機会すら与えられない者もいる」
「…………」
「身寄りのない子供を、誰もが雇うわけではない。読み書きも出来ず、身元を保証する者もいない。盗みをした経験があれば尚更だ」
「でも……」
「腹は減る」
短い言葉。
「君も知っての通り、働き口が見つかるまで、腹が減るのを待ってはくれん」
「…………」
ミュイは俯いた。
分からない。
いや、言っていることは分かる。
でも、何か。
胸の奥が落ち着かない。
「じゃあ……」
小さく聞く。
「盗んでもいいってこと?」
「いいとは言っていない」
即答だった。
「盗みは盗みだ」
「じゃあ捕まえろよ」
「必要ならな」
「必要って何だよ」
エミヤは少し考えた。
「誰かを傷付けるようになれば止める」
「…………」
「必要以上に奪うようになれば、それも止める」
「…………」
「だが、今日、あの子供はパンを二つ持って逃げた」
「そうだよ」
「武器は持っていなかった」
「……うん」
「君へ手を出すこともなかった」
「…………」
「走り方を見れば、衰弱しきっているわけでもない。今夜食う物が手に入れば、少なくともすぐに死ぬ状態ではないだろう」
ミュイが顔を上げた。
「……え?」
エミヤは平然としている。
「何?」
「いや」
ミュイは。
今の言葉を頭の中でもう一度繰り返した。
「なんで……」
「何だ」
「なんで、そんなことまで分かるんだよ」
エミヤが止まる。
「走り方とか」
「…………」
「死ぬとか」
「…………」
「普通、そんなの見て分かるのか?」
沈黙。
エミヤは少しだけ目を伏せた。
「慣れだ」
「何の?」
「そういう人間を見ることに」
ぞくり。
何故か、ほんの少しだけ背中が冷たくなった。
「……いっぱい見たのか?」
「ああ」
「腹減ってる子供?」
「それも」
それも。
その言葉が、妙に嫌だった。
「死にそうな奴も?」
「…………」
エミヤは答えなかった。
答えないことが、答えに思えた。
少し前に、この店で話したことを思い出す。
エミヤは料理が好きだと言った。
「……やっぱ変だ」
「先ほども聞いたな」
「変だよ」
ミュイは今度こそ、はっきりと言った。
「優しいとか、そういうんじゃなくて」
言葉を探す。
「何か……変」
エミヤは黙って聞いている。
「普通もっと、怒るだろ」
「そうかもしれんな」
「店の物盗られたら」
「ああ」
「自分が損したら」
「そうだな」
「なのにあんた」
ミュイはエミヤを見る。
「自分が損すること、全然気にしてないじゃん」
沈黙。
ほんの少しだけ、エミヤの目が細くなった。
「……そう見えるかね」
「見える」
「…………」
「それって」
ミュイは続けようとして、やめた。
何を言えばいいのか。
自分でも分からなかった。
ただ、少しだけ怖かった。
この男は、きっと優しい人なのだと思う。
なのに。
その中に、時々。
何か変なものが混じる。
まるで、自分のことだけが、数に入っていないような。
「……ミュイ」
「何だよ」
「君が気にすることではない」
「何だよ、それ」
「今日はもう帰れ」
「子供扱いすんな」
いつもの言葉。
「子供だろう」
いつもの返事。
なのに、今日は少しだけ違って聞こえた。
「……分かったよ」
エプロンを外す。
畳んで、いつもの場所へ置く。
その時、ふと思い出して。
「なあ」
「何だ」
「裏口」
エミヤが振り返る。
「今日も置くの?」
少しだけ間。
「ああ」
「……そっか」
それだけ聞いて、ミュイは店を出た。
◇ ◇ ◇
その日の夜。
閉店したArbor Havenの裏口。
誰もいない細い路地に、小さな包みが置かれていた。
中身は、パンがいくつか。
冷めても食べられる料理。
それから、小さな果物が一つ。
誰の名前も書かれていない。
礼を求める言葉も。
次は盗むなという説教も。
何もない。
ただ、必要なら持っていけるように。
そこへ置かれていた。
本話は、剣聖二期のエンディング絵から、本作品に入れさせていただきたいと思いました。