ご感想や反応、励みになります!!
皆さまから頂いている感想から話に取り入れさせていただいてまして、私も楽しんで続けております。
本話から新章になります。
交友祭が終わってから、数週間。
王都を埋め尽くしていた色鮮やかな旗や露店はすっかり姿を消し、街にはいつもの日常が戻っていた。
祭りの間、警備や要人の護衛へ駆り出されていたレベリオ騎士団も同様だ。
負傷者の治療や事後処理こそ残っているものの、修練場には以前と変わらず木剣を打ち合わせる音が響いている。
騎士団修練場は熱気に包まれ、騎士たちも声を張り上げながら稽古に励んでいた。
空を見上げれば、初夏の太陽が等しく人々を照らしていた。
そんな、ある日のことだった。
「――おやじから?」
「ああ。今朝届いたらしい」
午前の訓練を終えた修練場の片隅。
休憩のために設けられた長椅子へ腰掛けたベリルが、一通の手紙を広げていた。
差出人はモルデア・ガーデナント。
ビデン村で暮らす、ベリルの父親である。
その隣では、許可を貰ったアリューシアがベリルと共に手紙を覗き込み、少し離れた場所ではヘンブリッツが汗を拭っている。
エミヤもまた、壁際へ立ったまま水筒を傾けていた。
……もっとも、ベリルと肩を寄せて手紙を覗き込むアリューシアは、どこか嬉しそうでもある。
あれで内容が頭に入っているのかは疑問だが。
とはいえ、手紙の内容自体、特別頭を悩ませるものではなかった。
「何と書かれているんですか?」
ヘンブリッツが尋ねる。
「んー……」
ベリルが手紙へ視線を戻した。
「ミュイの話と……そろそろ一度、村に顔を出せってさ」
「いいではありませんか!」
アリューシアが嬉しそうに言う。
「指南役として王都へ来ていただいてから、先生には随分と無理をお願いしてしまいました。交友祭も終わりましたし、この機会にゆっくりされては?」
「そうだねえ」
ベリルが頭を掻く。
「別に帰りたくないわけじゃないんだけどさ。こっちでの生活にも慣れてきたし、なんだかんだ忙しかったからね」
「それを帰っていない理由として挙げる時点で、十分働き過ぎだと思うがね」
「君に言われると納得いかないなあ」
ベリルが苦笑する。
「エミヤの方が働いてるじゃないか。騎士団で剣を教えて、店をやって、ギルドの依頼まで受けてるって聞いたよ?」
「必要なことをしているだけだ」
「ほら、それ」
「何かね」
「いや。何でもないよ」
ベリルは手紙へ戻る。
その時だった。
「……ああ、そうか」
何かを思い出したように呟く。
「どうされました?」
「いや、この時期ならそろそろ出る頃だなと思って」
「……たしかに、この季節でしたね」
アリューシアが思い出したように納得する。
ビデン村の事情であれば、いち早く気づきそうな二人だったが、訓練の熱で思考が少し固まっていたのかもしれない。
……もっとも、アリューシアについては別の理由で気付かなかった気もするが。
エミヤは初めから察していたからか、特別驚くことなく話を見守っていた。
「サーベルボアだよ」
その名前に、ヘンブリッツが反応した。
「魔猪の?」
「ああ。ビデン村の近くには山があるんだけどね。毎年このくらいの時期になると、餌を求めて山から下りてくることがあるんだ」
ベリルは手紙を軽く振る。
「おやじもそのことを書いてる。今のところ村に被害はないらしいけど、ランドリドが既に何頭か見かけたってさ」
「サーベルボア……」
ヘンブリッツが顎へ手を当てる。
「確か、成体なら一般の兵士が単独で相手取るのは推奨されない魔物でしたね」
「詳しいね」
「騎士として当然です」
真面目な顔で答えたあと、ヘンブリッツは少し考える。
「……ベリル殿」
「うん?」
「もし差し支えなければ、私も同行させてもらえないでしょうか」
「君も?」
「はい」
ヘンブリッツが頷いた。
「王都周辺での任務経験は増えましたが、地方での活動経験はまだ十分とは言えません。村落周辺の警戒や魔物への対処を実際に経験出来るなら、良い勉強になると思います」
「なるほどねえ」
「無論、ご家族との帰省を邪魔するつもりはありません。ベリル殿が難しいと判断されるのであれば――」
「いやいや、そこまで畏まらなくていいよ」
ベリルが笑う。
「おやじなら、むしろ喜ぶんじゃないかな。俺が王都で何をしてるのか聞きたがるだろうし」
「では」
「ああ。一緒に行こうか」
「ありがとうございます!」
ヘンブリッツが頭を下げる。
その様子を見ていたアリューシアも、どこか満足そうに頷いた。
「良い機会かもしれませんね。ヘンブリッツには、先生の故郷を見ることも良い経験になるでしょう」
「団長には迷惑をおかけするかもしれませんが……」
「構いません。そもそも同じ時期でヘンブリッツには休暇の指示を出すつもりでした……私が行きたいのは山々ですが」
一瞬だけ本気で悩む顔をして。
「私は王都に残ります」
「残念そうだねえ」
「大変残念ですが……通常の騎士業務の他に、"例の封印"の件もありますから」
後半、声を潜めて話すアリューシア。
ここに集まる皆が共通認識をしている件、すなわちロノ・アンブロシアの処置だ。
「たしか、今のところの計画では夏の終わり、だよね」
「えぇ。交友祭が終わった後なので騎士団としては可能ですが、どうもギルド側と魔術学院側で別件調査が入ったようでして」
「どこも大変なんだねぇ」
「ルーシーさんの話では警戒態勢でいる必要までは無いとのことですが、念のため騎士団は私かヘンブリッツのどちらかが動けるようにします」
アリューシアはそう言い切った後に『ですので、先生も気にされず帰郷されてください』と配慮の言葉を加えた。
エミヤとしても、単独で解決出来るものなら済ませてしまいたい。
だが、彼だけは魔術学院の地下へ入ることが出来ない以上、この件では出来ることが限られていた。
とはいえ、今までの監視体制でも目立った動きは無いとのことで、ルーシーが問題ないと言うなら過剰な心配は不要なのだろう。
「そういえば」
ベリルが再び手紙を見る。
「ミュイも連れていこうかな」
「ミュイさんも?」
「ああ」
少しだけ、声音が柔らかくなる。
「一緒に暮らすようになってから、おやじたちにはまだ直接会わせてないからね」
王都へ来てから出来た縁。
そして、今では同じ家で暮らす少女。
手紙で多少の話は伝えているのだろうが、それと実際に顔を合わせるのでは話が違う。
「良いのではないか?」
それまで黙っていたエミヤが口を開いた。
「君の両親も気になっているだろう」
「だよねえ、帰ったら聞いてみるよ」
「ああ」
話がまとまりかける。
その時、ベリルの視線が再び手紙の下へ落ちた。
「…………」
僅かに眉が動いた。
「どうしました?」
アリューシアが尋ねる。
「いや」
ベリルは一度エミヤを見て、それからもう一度文面を見る。
「おやじ、エミヤのことも書いてる」
「私を?」
「ああ」
エミヤが水筒を置く。
「何と?」
「ええと……」
ベリルが読み上げる。
「『エミヤ君については、王都で仕事もあるだろう。こちらの都合に付き合わせる必要はないので、無理に帰省へ同行してもらわなくて構わない』」
「…………」
「だってさ」
沈黙。
アリューシアが少し困ったようにエミヤを見る。
「気を遣われているのでしょうか」
「だろうな」
エミヤはあっさりと答えた。
「久方ぶりの帰省なのだろう。家族で過ごせということだ」
「でもさ」
ベリルが手紙を畳みながら言う。
「君も来ればいいじゃないか」
「私が?」
「ああ」
さも当然のことのように。
「ビデン村なら君も一年暮らしてたんだし。おやじもお袋も君と話したいはずだ」
「それはそうだが」
「だったら別にいいじゃないか。久しぶりに村の人たちにも会えるしさ」
エミヤは少しだけ考えた。
けれど。
「いや。私は残ろう」
返事は早かった。
「そう?」
「ああ」
エミヤは何でもないことのように続ける。
「店もある。騎士団の訓練もある。それに、君たちが帰省している間まで指南役が二人とも不在になる必要もあるまい」
「それは……」
アリューシアが口を開く。
「数日程度なら問題ありません。交友祭も終わりましたし、訓練についてはこちらで――」
「気遣いは不要だ」
「ですが」
「私が残りたいだけだよ」
そう言われてしまえば、アリューシアもそれ以上は続けられなかった。
ベリルだけが、僅かに首を傾げる。
「本当にいいの?」
「ああ」
「おやじのことなら気にしなくていいと思うよ。たぶん、単純に君へ気を遣っただけだろうし」
「だからこそだ」
エミヤが小さく肩を竦める。
「その気遣いを素直に受け取ればいい」
「…………」
「久しぶりに家族で過ごすのだろう?」
「まあ、そうだけど」
「ならば私がついて行ってどうする」
あまりにも自然な言葉だった。
寂しそうでもない。
遠慮しているようにも見えない。
本当に、それが当然だと思っている顔。
「それに」
エミヤはヘンブリッツを見る。
「今回は彼も同行するのだろう?」
「はい」
「ならばサーベルボアが多く出たところで問題あるまい。ベリル一人でも十分過ぎるが、彼がいれば心配は不要だ」
「お任せください」
ヘンブリッツが胸を張る。
「先生の故郷に被害が出ないよう、私も全力を尽くします」
「まあ、そういうことだ。こちらのことは気にせず行ってきたまえ」
「……分かったよ」
ベリルは頷いた。
別に、おかしなことを言われたわけではない。
エミヤにはエミヤの生活がある。
騎士団の指南も、店の営業もある。
そもそも今回の帰省は、モルデアからベリルへ送られてきた話だ。
エミヤが同行しなければならない理由など、どこにもない。
だから。
「…………」
何故だろう。
ほんの少しだけ。
その返事が、引っ掛かった。
「休憩は終わりでいいかね?」
エミヤの声に、ベリルが顔を上げる。
「え?」
「我々も再び訓練に戻ろう。ヘンブリッツもまだまだ剣を交えたいと見える」
「えぇ、もう一度挑ませていただきたい。次こそ、その鉄壁の守りを崩させていただく」
「ふっ、意気込みは買うが、そう易々と貫かせるつもりはないさ」
闘志みなぎるヘンブリッツに言葉を返しながら、エミヤたちは修練場へ戻っていく。
木剣を手に取る。
いつもの訓練。
いつもの会話。
つい先ほど届いた帰省の知らせも、すぐに日常の中へ紛れていった。
「では、もう一度だ」
エミヤの声が響く。
ヘンブリッツが構え。
ベリルも、その動きを見る。
いつもと何も変わらない。
少なくとも、この時は。
ベリルもそう思っていた。
◇ ◇ ◇
その日の夕刻。
王都の空が茜色に染まり始めた頃、エミヤは一人、街の中心部から少し離れた場所を歩いていた。
騎士団での指南を終え、一度店へ戻った後である。
その片手には、小さな包み。
中身が崩れないよう、普段よりも僅かに慎重な足取りで目的地へ向かう。
やがて辿り着いたのは、見慣れた屋敷だった。
「…………」
扉の前で立ち止まり。
軽く、叩く。
ほどなくして、中から足音が聞こえてきた。
扉が開く。
姿を見せたのは、この屋敷に仕える使用人。
ハルウィだった。
「これは、エミヤ様」
「突然すまない。ルーシーはいるかね?」
「はい。いらっしゃいます」
ハルウィはエミヤを見る。
次いで、その手に持たれた包みへ視線を落とした。
「そちらは?」
「手土産だ」
「まあ」
「世話になっているのでね」
「ふふ。それでしたら、ルーシー様もお喜びになると思います」
「君たちの分も用意している。主に取られないようにしてくれ」
「あらまぁ、ルーシー様がそのようなことをしないと分かっていて、エミヤ様もお人が悪い」
そのままハルウィに促され、エミヤは屋敷の中へ入った。
◇ ◇ ◇
「――それで?」
部屋へ入るなり、ルーシーは机に向かったままそう言った。
「今日はまた、何を持ち込んできたのじゃ?」
「随分な言い草だな」
「当然じゃ」
ようやく顔を上げる。
相変わらず幼い少女にしか見えない姿。
だが、その表情には隠そうともしない呆れが浮かんでいた。
「この前は夜中に突然やって来て、今にも死にそうな人間を預けられたからのぉ」
「緊急だったのでね」
「だからって普通、最高位の魔術師の家を救急治療所代わりに使うかの?」
「結果として助かったのだから、適切な判断だったと思うが」
「少しは悪びれるもんじゃ」
ルーシーが呆れ顔で話す。
エミヤは気にした様子もなく、向かいの椅子へ腰掛けた。
数週間前。
交友祭を翌日に控えた夜。
偶然遭遇した戦闘の末に、エミヤは一人の老女を救出した。
スフェンドヤードバニア第一王子グレンの親衛隊に属するフェイ。
「それで、彼女の容態は?」
エミヤは尋ねる。
ルーシーの表情から、僅かに呆れが薄れる。
「……順調じゃ」
「そうか」
「少なくとも、もう今すぐ命がどうこうという状態ではないわ」
その返答に、エミヤの肩からほんの僅かに力が抜けた。
「ならば何よりだ」
「とはいえ」
ルーシーが指を一本立てる。
「お主が連れてきた時は、本当に酷い状態だったからのぉ」
「ああ」
「出血もそうだけど、身体のあちこちに深い傷があった。特に脚。あれだけ損傷しておったら、以前と同じように動ける保証はできん」
「…………」
「治癒魔術で出来る限りは修復したし、薬も使っとる。あとは身体が回復する時間が必要じゃ」
「意識は?」
「まだ」
短い返事。
「ただ、身体の状態は安定しとる。そう遠くないうちに目を覚ますんじゃないかのぉ」
「そうか」
もう一度。
今度は先ほどより静かに、エミヤが答えた。
「ならば、引き続き頼む」
「簡単に言ってくれるの」
「君以上の適任者を知らないのでね」
「褒めても何も出ん」
「事実を言っただけだ」
「はいはい」
ルーシーは肩を竦めた。
だが、治療そのものを断る様子はない。
エミヤもそれを分かっているからこそ、彼女へ預けている。
「グレン王子からも内密で依頼があったからの」
エミヤが僅かに目を細める。
「直接か?」
「使いを通してね。事情もある程度聞いとる」
ルーシーは頬杖をつく。
「フェイという人の身分。それから、今は生きていることを伏せておきたい事情も」
「そうか」
「しばらくはここで匿いながら治療を続けてほしいそうじゃ」
「君は了承したのか?」
「当然じゃ」
即答だった。
「王子様から直々に事情を説明されて、命を狙われている重傷者を放り出せるわけないじゃろ」
「なるほど」
エミヤは何も言わず、ルーシーを見続ける。
ルーシーがじろりと睨む。
「何じゃ?」
「いや」
僅かに口元を緩める。
「やはり君に任せて正解だったと思っただけだ」
「……彼女が回復した後は、お主にも拾ってきた責任を取ってもらうからの」
「善処しよう」
「ところで」
ルーシーの視線が、先ほどから机の端へ置かれていた包みに向いた。
「それは、何じゃ?」
「ああ、忘れるところだった」
エミヤも思い出したように手を伸ばす。
包みを開く。
中から現れたのは、小さく切り分けられた焼き菓子だった。
果実を練り込んだ生地を焼き上げ、その上から薄く蜜を塗ったもの。
「菓子?」
「店で出すものを試しに作ってみた」
「お礼の気持ち、と捉えていいのかのぉ?」
「その認識で構わない。流石に手土産なしでは尋ねないさ」
「まったく、お主は本当に素直じゃないの」
彼女の反応を見ながら、エミヤは椅子から立ち上がった。
「では、私はそろそろ戻る」
「お主も一緒に食べていかんのか?」
「君が多忙な身であることは理解している。長居するつもりはない」
「その割には都合のいいように頼られた気がするのじゃが?」
「今更、互いに遠慮する間柄でもないだろう」
ルーシーは一度だけ、隣の部屋へ視線を向けた。
その先、扉を隔てた部屋では、一人の老女が今も眠っている。
「あやつのことなら任せておくのじゃ」
「ああ、頼む」
エミヤの言葉にうなずいたルーシーに礼を告げ、エミヤは立ち去った。
◇ ◇ ◇
屋敷を出る頃には、日はほとんど沈んでいた。
夕暮れと夜の境目。
王都の街灯へ、一つ、また一つと明かりが灯り始めている。
「…………」
エミヤは一度だけ、背後の屋敷を振り返った。
フェイは助かる。
少なくとも、今すぐその命が失われることはない。
ならば、自分に出来ることは、もうない。
引き続き、専門家へ任せればいい。
そう判断し、前を向く。
明日になれば、また騎士団の指南もある。
そして数日後には、ベリルたちも王都を発つことになるだろう。
しばらく、普段より静かになる。
「……さて」
小さく呟き、エミヤは何でもないことのように歩き出した。
今の自分にできることを行い、日々を過ごす。
あらためてそう考えた彼は、宿へ戻っていった。
◇ ◇ ◇
ビデン村出立前夜。
ベリルは、夢を見ていた。
◇ ◇ ◇
最初に感じたのは、熱だった。
肌を焼くような熱気。
鼻を刺す、焦げた臭い。
そして。
「…………」
呻き声。
一人ではない。
何人、何十人も。
助けを求める声が、そこかしこから聞こえてくる。
「……なんだ、ここ」
ベリルは辺りを見回した。
知らない場所だった。
前の経験から、今回のエミヤの夢を見たのだと考える。
見慣れない建物。
見たこともない服を着た人々。
そして、何より――酷い有様だった。
何か、大きな災害でも起きたのだろうか。
崩れた建物。
立ち上る煙。
傷付き、倒れている人々。
泣いている者もいる。
誰かの名前を叫んでいる者もいる。
けれど、当然のようにベリルには、何も出来ない。
「っ!」
思わず、倒れている者へ駆け寄ろうとする。
しかし、身体が動かない。
そして、視界の先に立つ一人の青年。
「エミヤ……?」
「…………」
エミヤは周囲を見ていた。
否――見ていることしか出来なかった。
助けを求める者たち。
傷付き。
苦しみ。
このままでは、死ぬ。
あまりにも多くの者が、皆息絶える。
それを前にして、彼は拳を握っていた。
助けたい。
その感情だけは、言葉にされなくても伝わってきた。
助けなければ。
目の前にいる者たちを、一人でも多く。
だが――届かない。
例え彼に常人より力があったとしても、この悲劇を覆すには足りない。
あまりにも、足りなかった。
「…………」
エミヤが歯を食い縛る。
ベリルは、何も言えなかった。
彼が何を考えているのか、分かってしまう。
――助けたい。
ただ、それだけ。
目の前で失われようとしている命を、助けたい。
見ず知らずの人々にも関わらず、到底一人の人間だけでは不可能だと分かりきっている惨状を前にしても。
それでも彼は――救えない、ということを受け入れられない。
その時だった。
「……?」
何かが、そこに現れた。
姿はない。
声が聞こえたわけでもない。
だが、確かに。
何かが、彼へ手を差し伸べた。
それが何なのか、ベリルには分からない。
魔術やエミヤの世界の道理を理解できない自分では、どのような現象なのか見当がつかない。
ただ、一つだけ理解出来た。
――力を貸そう。
それは、今の彼では届かない命へ、その手を届かせるための力。
"奇跡"、そう呼ぶしかないものを、それは与えると言っている。
「…………」
代わりに、求められたものがあった。
金でも、名誉でもない。
いわゆる人生の前借、寿命といったものでもない。
――死後。
その男が生涯を終えた、その先。
死した後の自分を、差し出せと。
「……待て」
ベリルが呟いた。
「それは……」
おかしい。
そう思った。
何故なのかは分からない。
対価で求められたのは死んだ後なのだ、生きている間ではない。
今、この場所で失われようとしている大勢の命。
もう片側には、一人の人間の死後。
そもそも、そんなものを秤に載せていいのか?
ベリルには分からなかった。
長く生きてきた。剣を振るい、多くの人間を見てきた。
それでも、そんな選択を迫られたことなど一度もない。
だからこそ――目の前の男に迷いがないことが、何よりも理解出来なかった。
「…………」
大勢を救える。
そして、この先も。
自分の生が終わった後でさえ、誰かを救うために力を振るえる。
ならば――願ってもないことではないか。
そんな感情が、言葉ではなく流れ込んでくる。
「…………」
ベリルは何も言えなかった。
目の前の青年は笑ってすらいない。
ただ、心の底から納得していた。
自分が死んだ後まで誰かの役に立てることを。
――良かった、と。
「……そうか」
ベリルは少しだけ寂しそうに、小さく呟いた。
それなら、エミヤなら選ぶのかもしれない。
今日だってそうだった。
自分たちが家族で過ごせるのなら、自分は残ると言った。
何でもないことのように。
いつだって、彼は、自分のことを後にする。
「…………」
それでも何故か、ベリルの胸に残った小さな違和感だけは、消えてくれなかった。
目の前の男が、契約を受け入れる。
その瞬間、世界が変わった。
奇跡が起こる。
彼一人では届かなかった命へ、その手が届いた。
一つ。
また一つ。
失われるはずだった命が、救われていく。
「…………」
ベリルは、それを見ていた。
彼も、それを見ていた。
安堵していた。
救うことができた、その事実を心から喜んでいる。
「…………」
だったら良かったではないか。
そう思う。
大勢が助かった。
エミヤも、それを望んでいた。
そして、死後も誰かを救う。
それも、彼が望んでいることなのだろう。
なら、何も。
間違っていない。
――本当に?
胸の奥、小さな何かが引っ掛かったまま。
◇ ◇ ◇
景色が変わる。
一瞬だった。
「――っ」
ベリルが目を見開く。
先ほどまでとは違う。
澱んだ空。
赤い地面。
黒い――"死体の山"。
「…………?」
理解が追い付かない。
これは、なんだ?
「……エミヤ?」
男がいた。
背中だけが見える。
白い髪、褐色の肌、赤い外套。
ベリルの知る、今のエミヤ。
その両手には、血に濡れた剣が握られていた。
「…………」
その周囲には誰も立っていない。
いや。
一人だけ、まだ動いている。
倒れた人間が助けを求めて、震える腕を伸ばしていた。
エミヤは、その人間へ歩いていく。
「エミヤ」
一歩。
「エミヤ!」
もう一歩。
「……何を」
剣を、持ち上げる。
「まて!」
その顔は――見えない。
「何をしてるんだ、君は!」
声は届かない。
当然だ。
これは夢だ――過去だ。
既に起きたこと、彼の歩みは変えられない。
それでも。
「エミヤ!!」
叫んだ。
剣が。
振り下ろされる。