しかしながら、本話は暗く、残酷なシーンを含んでおります。
また、本話を読まずに次の話をお待ちいただいても、物語を追う上で問題ございませんので、
もし過去の回想や、弐章・第1話などの描写が苦手な方は、避けていただけますと幸いです。
ビデン村での帰省を終え、王都へ向かう馬車。
窓の外には、穏やかな田園風景が広がっていた。
久しぶりの故郷。
懐かしい人々。
そして、かつて追い続けた父の背中を、今や超えたという実感。
ベリルは、静かに目を閉じた。
長旅の疲れもあったのだろう。
馬車の心地よい揺れに身を任せ、いつしか眠りへと落ちていく。
そして――。
◇ ◇ ◇
最初に聞こえたのは、歓声だった。
大勢の人間が、誰かを讃えている。
「助かったぞ!」
「もう大丈夫なんだな!?」
「ありがとう……本当に、ありがとう……!」
男の声。
女の声。
泣きじゃくる子供の声。
それらが幾重にも重なり、まるで祭りのように響いていた。
「…………?」
ベリルは、ゆっくりと目を開いた。
そこは、見知らぬ街だった。
石造りの建物が並ぶ大通り。
あちこちに破壊された荷車が転がり、壁には焼け焦げた跡が残っている。
道の端には、負傷した兵士たちが横たわっていた。
戦があったのだろう。
しかし、不思議なことに。
人々の顔には、安堵が浮かんでいた。
誰もが、同じ方向を見つめている。
「……ここは」
ベリルは、自分の手を見下ろした。
握り締めても感触がない。
地面を踏んでいる感覚も曖昧だった。
流石に三度目となれば、ベリルもこの事態が何か予想ができる。
夢だ。
ベリルは顔を上げた。
人々が集まる通りの先。
そこに、赤い外套が見えた。
「……エミヤ」
白い髪。
褐色の肌。
幾度も見慣れた、友人の姿。
ただし、その表情は、普段の彼とは少し違っていた。
エミヤは、人々の輪の中心に立っていた。
周囲には倒れた兵士たち。
そして、街を襲っていたのだろう武装した男たちの死体が、幾つも転がっている。
どうやら、戦いは終わったらしい。
「貴方が来てくれなければ、街は終わりでした」
年老いた男が、エミヤへ深々と頭を下げる。
「何と礼を言えばよいのか……」
エミヤは――答えない。
「……?」
ベリルは僅かに目を見開く。
何か、今まで見てきた過去と、空気が違うように感じる。
言葉では説明できない不安感に襲われながら、彼らのやり取りを見るベリルは気づく。
エミヤが彼らを見る目に、救ったことを喜ぶ色はなく――ただ、冷めた目をしていることに。
ベリルは、背筋に冷たいものが走るのを感じた。
エミヤが、街の奥へ視線を向けていた。
そこには、先ほど礼を述べていた老人と、数人の男たちがいた。
「……これで、ようやく終わった」
老人が呟く。
「奴らさえいなければ、我々はもう一度やり直せる」
「ええ。奪われた土地も、財産も、取り戻せます」
「捕らえた連中はどうします?」
一人の男が尋ねる。
老人は、しばし考えた。
「……生かしておけば、また同じことを繰り返す」
「今度こそ、根を絶たねばならん」
「捕虜も、協力者も、全てだ」
男たちが頷く。
その会話を聞いて、ベリルは眉を顰めた。
「……おいおい」
先ほどまで、街を守れたことを喜んでいた人々だ。
彼らが受けた仕打ちは、決して軽いものではなかったのだろう。
家を焼かれ、家族を失い、長い間苦しめられてきたのかもしれない。
だからこそ、憎しみを抱くことも理解できる。
しかし。
「……それでは、また戦になるじゃないか」
ベリルの声は、誰にも届かない。
男たちは、既に次の戦いについて話し始めていた。
誰を処刑するか。
どの村を制圧するか。
どこまで兵を進めるか。
守られたはずの街で、新たな争いの準備が、静かに進んでいく。
その様子を――エミヤは、ただ見ていた。
何も言わない。
老人たちを止めることも。
彼らの話に加わることもない。
ただ――結末がすでに分かっているような表情で、ただ、冷たく彼らを見ていた。
「……エミヤ?」
ベリルは、呼び掛けた。
当然、返事はない。
エミヤが、一歩踏み出す。
その手に光が集まり、剣を、取り出す。
「……待て」
ベリルは、思わず声を上げた。
彼にも、"先"の展開が、視えた。
そして当然――返事は、ない。
一歩。
もう一歩。
エミヤは、老人たちへ歩いていく。
老人が、ようやく彼に気付いた。
「おお、英雄殿。丁度よかった。貴方にも――」
言葉は、最後まで続かなかった。
白刃が閃き、老人の身体が崩れ落ちる。
「…………え?」
隣にいた男が、呆然と呟いた。
何が起きたのか、理解できなかったのだろう。
先ほどまで街を救ってくれた英雄が、自分たちの指導者を、斬り捨てた。
「な……何を……!」
男が叫ぶ。
エミヤは、答えない。
再び、剣が振るわれた。
剣が閃く。
次々と男たちが倒れていく。
抵抗しようとした者もいた。
武器を抜こうとした者もいた。
しかし、間に合わない。
そもそも、彼らとエミヤでは、あまりにも力が違いすぎた。
彼を止められるものは、何処にも、いない。
エミヤは、止まらなかった。
やがて、その場に立っている者は、一人だけになった。
赤い外套の男。
彼は、静かに剣を下ろした。
やがて、エミヤの身体が光の粒となって薄れていく。
血を染み込ませた赤い外套が、風に揺れた瞬間。
男の姿は、跡形もなく消えていた。
そこには、死体だけが残された。
先ほどまで、英雄を讃える声が響いていた街。
今は、誰の声も、聞こえなかった。
◇ ◇ ◇
景色が変わる。
今度は、雪だった。
白い大地。
吹き荒れる風。
視界の先まで続く、凍てついた平原。
「……っ」
ベリルは、思わず身を竦めた。
寒いと、感じた気がした。
夢なのだから、肌を刺す冷気などない。
それでも、目の前の光景は、あまりにも寒々しかった。
遠くに、小さな集落が見える。
木造の家々に薄く立ち上る煙。
その周囲を、武装した兵士たちが取り囲んでいた。
兵士たちの装備は、先ほどの街とは異なっている。
別の国、あるいは別の時代なのかもしれない。
その時、雪原の向こうに、エミヤが現れた。
先ほどと、まったく変わらない姿。
「……君は」
エミヤが、弓を構えた。
そして――戦いが始まった。
戦闘は、あまりにも一方的だった。
矢が放たれる。
遠くにいた兵士たちが、次々と倒れていく。
彼らも抵抗した。
盾を構え、弓を引き、魔術らしき光を放つ。
しかし――そのどれも、エミヤには届かない。
白い雪原に、赤い染みが広がっていく。
あまりにも、無駄がなかった。
一人を倒すために必要な動作。
次の敵を射抜くまでの時間。
全てが、ただ目的を達成するためだけに組み立てられている。
そこに、慈悲も、哀れみも、使命感さえも――ベリルには見出せなかった。
それは、戦士として戦う姿ではなかった。
ただ終わらせるために、人々を殺していった。
やがて、兵士たちは全滅した。
集落から、人々が姿を現す。
老人や女性、子供。
誰もが怯えた顔で、赤い外套の男を見つめていた。
一人の少女が、母親の背後から顔を覗かせる。
「……あの人が、助けてくれたの?」
母親は、答えなかった。
エミヤは、彼らへ近付かない。
ただ、集落の周囲を見渡している。
戦いは終わったはずだ。
この戦いに、どのような理由があったか分からないが、敵対していた兵士たちは倒れた。
それなのにエミヤは、弓を下ろさない。
集落の人々は、何もしていない。
ただ、兵士たちに囲まれ、怯えていただけだ。
エミヤが、弓を引いた。
「……っ!」
ベリルは、叫んだ。
「エミヤ!!」
矢が放たれる。
集落の入口に立っていた男が、倒れた。
「……え?」
誰かが呟いた。
次の矢が、人の命を、容易く奪う。
一射で、その人が積み上げてきた人生を、終わらせていく。
人々が、逃げ惑う。
悲鳴が上がる。
母親が子供を抱き締める。
老人が、雪の上に膝をつく。
「待ってくれ!」
「何故だ!」
「私たちは、何も――!」
声が、途切れる――頭蓋が吹き飛んだからだ。
ベリルは、立ち尽くしていた。
何故。
何故、彼らまで殺すのか。
先ほどの街では、まだ理由を推し量ることができた。
新たな争いを起こそうとしていた者たち。
その命を奪うことが正しいとは思わない。だが、少なくとも、エミヤが剣を向けた理由は想像できた。
では、この人々は彼らが何をしたというのか。
彼らが生きていることで、いったい何が起こるというのか。
ベリルには、何も分からなかった。
「……やめてくれ」
声が、震えた。
「……頼む」
しかし、エミヤは止まらない。
やがて、集落から人の声が消えた。
雪だけが、降り続いていた。
白い大地に、赤い染みが幾つも広がっている。
エミヤは、最後の矢を放った後、静かに弓を下ろした。
何も言わない。
何も、残さない。
そして、また、消えた。
◇ ◇ ◇
「……何故だ」
ベリルは呟く。
答える者はいない。
夢は、終わらない。
見渡す限り、乾いた大地が広がっている。
崩れた城壁。
砂に埋もれた建物。
風に煽られ、千切れかけた旗が音を立てていた。
その中央に、赤い外套の男が立っていた。
目の前には、また大勢の人間がいた。
男たちは武器を握っている。
女たちは荷物を抱えている。
子供たちは、崩れた建物の陰に隠れていた。
何かから逃げているのだろう。
誰もが疲れ果てていた。
一人の老人が、赤い外套の男へ歩み寄る。
「……助けて、くれるのか?」
掠れた声だった。
老人は、震える手を差し出した。
「もう、戦いたくないんだ」
エミヤは、答えなかった。
ただ、老人を見つめていた。
「頼む……」
老人が、膝をつく。
「子供たちだけでも……」
その言葉に、ベリルは思わず目を閉じそうになった。
同じような言葉を聞いた。
子供だけでも。
せめて、この子だけは。
どうか、助けてくれ。
それは、どこの世界でも変わらない願いだった。
赤い外套の男は、静かに右手を上げた。
光が集まる。
老人が、剣を見上げる。
老人が倒れた。
一拍遅れて、悲鳴が上がり、人々が走り出す。
「逃げろ!」
「子供を連れて行け!」
「何なんだ、あいつは!」
ベリルは、ただ見ていた。
剣を握れるなら、あの男の前へ立ちはだかりたかった。
何故なのかと問い詰めたかった。
だが、知っている。
この場所で、自分には何もできない。
声は届かない。
手も届かない。
これは、既に終わった出来事なのだ。
血に濡れた、英雄の歩みだ。
剣が閃き、悲鳴が上がる。
射出された剣で、人が縫い付けられる。
最後まで我が子を護ると庇った勇敢な母の背中から、子と共に貫かれた剣が見える。
やがて、声が減っていく。
最後には、風の音だけが残った。
赤い外套の男が、剣を下ろす。
その周囲には、誰も立っていなかった。
◇ ◇ ◇
景色が変わる。
海だった。
荒れ狂う波、黒い雲。
海上には、幾隻もの船が浮かんでいる。
その甲板で、人々が争っていた。
赤い外套の男が、船の上に現れる。
矢が放たれ、一隻の船が、炎に包まれた。
船上の兵士たちが、慌てて海へ飛び込む。
しかし、次の矢が放たれ、海面が激しく爆ぜる。
悲鳴が、波音に呑まれていく。
船が沈んだ。
人が死んだ。
そして、戦いが終わった。
◇ ◇ ◇
病に侵された街だった。
門は閉ざされ、その内側には無数の人々が集まっている。
「開けてくれ!」
「ここにいたら死んでしまう!」
人々は、必死に門を叩いていた。
その向こうには、まだ病の広がっていない街があるのだろう。
遠くに、明かりが見えた。
暖かな灯りは人が暮らしている証だった。
そして、門の前には、赤い外套の男が立つ。
「……お願いだ」
門の内側から、男が声を上げた。
「俺たちは、何も悪いことなんてしていない!」
その言葉は、正しかったのだろう。
病に罹ったことは、罪ではない。
逃げたいと願うことも。
生きたいと願うことも。
何一つ、間違ってはいない。
「……開けてくれ」
男が、泣きながら訴える。
「頼む……」
エミヤは、答えなかった。
ただ、弓を構えた。
狙いは、門ではない。
その上に築かれた、巨大な城壁だった。
矢が放たれる。
轟音と共に石壁が崩れ落ち、無数の瓦礫が門の前へ雪崩れ込んだ。
人々の悲鳴が上がる。
「……あ」
誰かが、呆然と呟いた。
逃げ道が、消えていた。
積み重なった瓦礫の向こうには、まだ人々の暮らす街がある。
暖かな灯りも、生き延びるための場所も、確かにある。
だが、もう誰も、そこへ辿り着くことはできない。
エミヤは、静かに弓を下ろした。
誰も、助けには来なかった。
◇ ◇ ◇
次は、戦場だった。
次は、雪山だった。
次は、地下深くの研究施設だった。
次は、見知らぬ国の王宮だった。
次は、森だった。
次は、砂漠だった。
次は。
次は。
次は。
◇ ◇ ◇
「…………」
ベリルは、いつしか数えることをやめていた。
何度、景色が変わったのだろう。
十度では済まない、もっと、ずっと多く、何度も続いた。
夢の中だからか、時間の感覚が、失われていた。
……いや、こんな体験をすれば、きっと彼本人だって、時間の感覚もないはずだ。
休みはなく、救いもなく、希望も、ない。
景色が変わり、国が変わり、時代が変わっても、彼は独りだった。
幾度戦っても、幾度傷ついても、次の場所に現れる時には、同じ姿に戻っている。
歳を取らない。
傷を残さない。
そして――死ぬこともない。
そんな終わりは、彼には許されなかった。
「…………」
ベリルは、赤い外套の男を見つめていた。
ある場所では、剣を振るっていた。
ある場所では、弓を引いていた。
ある場所では、無数の剣を降らせていた。
戦場には、善人も悪人もいた。
武器を持つ者、持たぬ者もいた。
誰かを殺そうとしていた者がいた。
誰かを守ろうとしていた者がいた。
そして、その誰もが等しく、倒れていった。
「…………」
銃声が響き爆発が起こる。 / 戦争の音が、耳に残る。
助けを求める声が聞こえる。 / 絶叫と懇願が、耳に残る。
そして、彼が通り過ぎた場所から、人の声が消えていく。
最後に残ったのは、炎が瓦礫を焼く音。
崩れた建物の下で、何かが燻る音。
そして、無数の死体に囲まれた、赤い外套の男だけ。
「…………」
ベリルは、その光景を見つめる。
そこには、勝者などいなかった。
戦いに敗れた誉ある敗者さえ、残っていない。
ただ、全てが終わった場所に、独りで立っている。
「……掃除屋、か」
不意に、そんな言葉が浮かんだ。
過去、剣の丘で対峙したアーチャーの言葉だ。
その言葉の重みの一部を、ベリルは思い知らされている。
戦士ではない。
英雄でもない。
誰かを守るために、戦場へ駆けつけた救世主でもない。
争いを終わらせるために。
あるいは、これから起こる争いを未然に防ぐために。
その原因も、結果も、そこにいた人々さえも、残らず片付けていく。
世界の後始末をするためだけに、呼び出される存在。
ベリルは、唇を噛んだ。
彼は、誰かを救いたいと願っていた。
ただ、人々が笑って暮らせる世界を望んでいた。
そのために剣を取り。
そのために、自らの命を差し出した。
死んだ後も誰かを救えるのなら、それは願ってもないことだと。
あの時の青年は、確かに笑っていた。
「……こんな」
ベリルの声が、掠れた。
「こんなものが……君に与えられた未来だったのか」
当然、返事はない。
赤い外套の男は、静かに立っていた。
やがて、その身体が光の粒となって崩れ始める。
ここでの任務(掃除)が、終わったのだ。
男の姿が消えていく。
そして、また景色が変わる。
◇ ◇ ◇
次の戦場は、静かだった。
既に戦いは終わりかけているらしい。
見渡す限りの荒野には、幾つもの武器が突き刺さっていた。
その中央で、赤い外套の男が一人の兵士と向き合っていた。
年の頃は、アリューシアたちとそう変わらないだろう。
鎧は砕け、片足を引きずっている。
握っている剣も、刃が半ばから折れていた。
それでも、彼は立っていた。
「……来るな」
震える声だった。
「来るな……!」
エミヤは、歩みを止めない。
兵士は折れた剣を構えた。
「俺には……!」
その声が、裏返る。
「帰らなきゃいけない場所があるんだ!」
兵士は、懐から何かを取り出した。
小さな布袋だった。
汚れた布地には、不器用な刺繍が施されている。
中から、一つの木彫りの人形が零れ落ちた。
その小さな人形は、子供が作ったものだろう。
顔は歪で、手足の長さも揃っていない。
だが、大切にされていたのだろう。
何度も握り締められたように、表面が滑らかになっていた。
「娘が……待ってるんだ……」
兵士が、呟く。
「まだ、小さいんだよ……」
折れた剣が、震えていた。
「帰ったら、一緒に遊ぶって……約束したんだ……」
エミヤは、何も言わなかった。
兵士が、涙を流す。
「頼む……」
剣が、地面へ落ちた。
「殺さないでくれ……」
その場に膝をつく。
「俺は……もう、戦わない……」
ベリルは、思わず一歩踏み出した。
「……エミヤ」
目の前の兵士は、既に戦意を失っている。
武器を捨てた。
命乞いをしている。
これ以上、戦う必要などないはずだった。
しかし、赤い外套の男は、剣を下ろさない。
「……お願いだ」
その瞳には、恐怖があった。
そして、ほんの僅かな希望があった。
もしかしたら、この男は自分を見逃してくれるかもしれない。
そう、信じたかったのだろう。
エミヤが剣を振り上げ、刃が振り下ろされる。
兵士の身体が、崩れ落ちた。
「…………」
ベリルは、動けなかった。
兵士は、もう動かない。
その傍らに、小さな木彫りの人形が転がっている。
エミヤは、地面に落ちた人形を拾い上げた。
血と土で汚れた、小さな人形。
それを、じっと見つめる。
そして、人形についた土を指先で払い、倒れた兵士の手の中へ、人形を戻した。
景色が変わった。
◇ ◇ ◇
何もない場所だった。
空は灰色。
大地は白く、どこまでも続いている。
建物もない。
木々もない。
人の姿もない。
ただ、赤い外套の男だけが立っていた。
「…………」
ベリルは、ゆっくりと顔を上げた。
今度は、戦場ではないらしい。
敵もいない。
助けを求める人々もいない。
エミヤは、剣を握っていなかった。
弓も持っていない。
ただ、そこに立っていた。
「…………」
風さえ、吹いていない。
音もない。
まるで、世界そのものが止まってしまったかのようだった。
ベリルは、男の横顔を見つめた。
白い髪。
褐色の肌。
赤い外套。
幾度も見てきた姿だった。
だが、不思議なことに、今のエミヤは、これまで以上に遠く感じられた。
「…………」
彼は、何もしていない。
誰かを殺しているわけでもない。
剣を振るっているわけでもない。
ただ、立っているだけ。
それなのにベリルには、その姿が何よりも痛ましく見えた。
「……エミヤ」
呼び掛ける。
返事はない。
「……ここには、誰もいないんだね」
何もない世界。
誰もいない場所。
そこに、男が一人。
「……君は、ずっと……」
言葉が、途切れた。
ずっと、一人だったのか。
そう尋ねようとして、やめた。
エミヤが、ほんの一瞬、静かに目を閉じた。
それだけだった。
そして、彼の身体が光に包まれた。
「……っ!」
ベリルは、反射的に手を伸ばした。
「待ってくれ!」
声が響く。
「もう、十分だろう!」
届かない。
「これ以上、何を……!」
赤い外套が、光の中へ消えていく。
「エミヤ!!」
男は、振り返らなかった。
そして――次はベリルが、置いて行かれた。
◇ ◇ ◇
「…………っ!」
ベリルは、目を開いた。
馬車の天井だった。
車輪が、石を踏む音が聞こえる。
規則正しい振動が、身体へ伝わってきた。
「……先生、大丈夫っす?」
聞き慣れた声だった。
顔を向けると、クルニが心配そうにこちらを覗き込んでいた。
隣では、ヘンブリッツも眉を寄せている。
ミュイに至っては、何も言わずにベリルの顔を見つめていた。
「……ごめん。ちょっと、夢見が悪くてね。大丈夫だよ」
いつものように笑ってみせる。
年長者として皆に心配をかけてはいけないと、ベリルは返事をした。
気を抜くと、今も夢で聞こえた悲鳴が蘇るが、ここにはミュイがいる。
なおさら、少女を不安にさせてはいけない。
だが、思ったよりも上手く笑えなかったらしい。
「ベリル殿、顔色が優れませんな。少し休憩を入れましょうか」
ヘンブリッツが、御者の方へ目を向ける。
「いや、大丈夫だよ。もう王都も近いしね」
「でも、先生。水くらい飲んだ方がいいっすよ」
クルニが、水筒を差し出してくれた。
「……ありがとう、クルニ」
受け取った水を、ゆっくりと喉へ流し込む。
冷たい水だった。
そして、深呼吸を数度行い、気持ちを落ち着かせる。
夢の中で聞いた悲鳴が、まだ耳の奥に残っている。
目を閉じれば、赤い外套の男が、また次の戦場へ消えていく光景が浮かびそうだった。
「……おっさん」
隣から、小さな声がした。
「無理すんなよ」
ミュイは、それだけ言って窓の外へ顔を向けた。
ベリルは、三人を見回した。
誰も、夢の内容を聞こうとはしない。
ただ、彼の様子を心配してくれている。
「……うん。ありがとう」
そう答えると、ベリルは窓の外へ目を向けた。
穏やかな空だった。
遠くには、王都の城壁が見え始めている。
馬車は、王都へ向かって進んでいく。
その揺れに身を任せながら、ベリルはもう一度、目を閉じた。
今度は、眠らなかった。
◇ ◇ ◇
王都へ戻った頃には、日が傾き始めていた。
ヘンブリッツやクルニと別れた後、ミュイと共に自宅に帰ったベリルは、家の前に書置きを見つけた。
それはエミヤからのものであり、内容は端的だった。
「――え?エミヤが村に?」
ベリルが、目を瞬かせる。
どうやら、おやじ殿に呼ばれたらしく、入れ違いの形ですでに王都を出ているらしい。
ビデン村では、エミヤを呼び戻す話は聞いていなかった。
それなら最初から、一緒に帰るよう言えばよかったし、ベリルに伝言すればよかったはずだが、おやじ殿の考えは読めない。
悩んでも仕方ないと、思考を変えて夕食の話を出そうとしたとき、ミュイから声がかかる。
「……おっさん、外で吞んで来いよ」
「え?いやいや、一緒に食べようよ?」
「いい。あたしは一人で勝手に食べる。だから、今日は外に行って」
「どうして?何か、ミュイを怒らせること、しちゃったかな?」
「そういうことじゃねぇって」
ミュイは、面倒くさそうに頭を掻いた。
「帰りに見た夢、悪かったんだろ」
「……うん。まあ、そうだね」
「だったら、気分転換してこいよ。あたしに気ぃ遣って、無理にここにいることねぇだろ」
「でも、ミュイの夕食は?」
「自分で何とかできるって。もう子供じゃねぇんだから」
そう言って、ミュイはそっぽを向いた。
ベリルは、思わず小さく笑ってしまう。
いつの間にか、こんなふうに人を気遣えるようになっていたらしい。
少しばかり申し訳なさもある。
だが、それ以上に、少女の成長が嬉しかった。
「……ありがとう、ミュイ。じゃあ、お言葉に甘えようかな」
「おう。楽しんでこいよ」
そうしてベリルは、久しぶりに一人で夜の街へ出ることになった。
◇ ◇ ◇
そして、酒場で一人吞んでいたベリルだったが、いつの間にか見つかったのか、気づけば弟子たちに囲まれていた。
アリューシア、ヘンブリッツ、クルニだ。
騎士団メンバーということもあり、時間が合うときは一緒に吞むこともあった。
……とはいえ、今日に関しては、恐らく偶然ではない。
ヘンブリッツ君が、気をまわしてくれたのだろう。
直接教えてもらえなくても、そうした温かな配慮に、ベリルは静かに感謝していた。
酒席の話題は次々と変わるもので、初めはビデン村の出来事の報告や、両親の現況を話した後、不在中の王都の話に移り変わった。
「さすがはエミヤ殿。不在の間に弓兵への対処を想定した訓練までされていたとは。私も参加したかったですな」
ヘンブリッツが、感心したように頷いた。
「騎士団の皆も、非常に勉強になったと話していました。次も予定されているそうですから、その際はヘンブリッツもクルニも参加できるといいですね」
アリューシアが答える。
「そういえば、エミヤさんの話なら、私もさっきバルデルさんの所で聞いたっす!」
「ほう。鍛冶屋ですか」
「スレナさんと一緒に来てたみたいっすよ。何か、色々と見せてもらったとか」
「リサンデラと、ですか?エミヤさんが武器を購入する姿は想像しにくいですが、剣士として興味があったのかもしれませんね」
「そういうことでしたら、私もエミヤ殿の話を聞きましたよ」
ヘンブリッツが笑いながら話す。
「先ほど、魔術学院に言伝を届けた際、フィッセル殿とお会いしまして」
「フィスちゃんっすか!?」
「ええ。どうやら、エミヤ殿と一日中模擬戦を繰り返していたそうです」
「一日中……さすがフィスちゃんっす……普通、そこまでやらないっすよ」
「彼女にとって、エミヤさんはまだ恐怖を感じてもおかしくない相手です。克服しようとされたのでしょうか。さすがは魔法師団の若きエースですね」
「うーん、多分フィスちゃんは、負けず嫌いの方が大きいと思うっす」
その言葉に、アリューシアとヘンブリッツが笑った。
ベリルも、思わず口元を緩める。
フィッセルらしい話だった。
次々と、ベリルたちが不在の間に行っていた彼の生活を聞いていく。
きっと、ヘンブリッツ君だけでなく、二人にも気を使わせてしまったのだろう。
そこから話題は、エミヤの料理や、今後の騎士団での指南へと移っていった。
どれも、他愛のない話だった。
誰かが笑い、誰かが呆れ、また別の誰かが思い出を語る。
先ほどまで会話の中心にいた彼は、今、この席にはいない。
それでも。
「…………」
ベリルは、静かに杯を傾けた。
夢の中で、彼はいつも一人だった。
戦いが終われば、誰にも見送られずに消えていく。
けれど今は、こうして、彼がいない場所でも彼の話をする人たちがいる。
彼の知らないところで、彼を思い出して笑う人たちがいる。
「……そうか」
ベリルは、小さく笑った。
「……良かった」
「先生?」
アリューシアが、不思議そうに首を傾げる。
「いや、何でもないよ」
ベリルは、いつもの穏やかな笑みを浮かべた。
「ただ、君たちの話を聞けて良かったと思ってね」
そう答え、もう一度杯を傾ける。
酒場には、笑い声が響いていた。