そこには何もなかった。光どころか闇もなく、ただ己だけが在る。しかしその己というのも観測することができなければ、自己認識ができずいずれは崩壊し無となる。
そこは魂の漂白場。悲惨な記憶と膨らみ過ぎた因業を洗い流し、生命というエネルギーを再利用できる状態に戻す場所。
そこに人の秤に拠る善悪などなく、ただただそういうシステムがあり、墜ちるべき存在が死後はそれに委ねられるという事実があった。
そんな空間にいつからか、いた。生前の姿と己が何者であるかを失くし、ほとんどの記憶も透明にされた存在。
しかし、それのたった1つの祈りだけは、何者にも消し去ることはできなかった。
“まるふーしゃねえさん”
何処の言語か意味さえも理解できなくなっていたが、その響きを思うだけで蘇える烈しい感情。それだけは決して、失くすことはなかった。
唐突に視界が生まれた、闇だ。その闇の中を上下に揺れている。
誰かにおんぶされていたのだ。顔は見えない、だが壮年の男性に思えた。不思議と安心できたその広い背中の上で意識が薄れていく。
次に気がついたとき、別の誰かにおぶわれていた。少し薄暗いその道をゆっくりと歩いている。
『あら、ようやくお目覚めかしら。交代でみんなに背負われてたけど、あなたずっと起きなかったのよ。お寝坊ね』
若い女性の笑い声だ。顔を上げると目の前に、ゆらゆら揺れる緑色のリボンが見えた。誰なのかはわからないけど、とても安らぐ。
『頑張ったのねスネジンカ。でも、あんなになってまで戦うなんて、正直見てられなかった』
少し涙ぐんだその声に心がきゅーっとなる。泣いて欲しくなくて強く抱きしめた。
『……ありがとう。もうあんな思いはしなくていいの。あなたみたいな優しい子は、たくさんたくさん幸せになるの。いいわね?』
その声に頷くとまた眠気に襲われた。瞼を開けていられない。
『うん、おやすみなさい。次に―――たら――』
意識が落ちる。それでも自分に語り掛けてくる声がとても嬉しくて、いつまでもこうしていたいと思ってしまった。
どれだけ時間が経ったのだろうか。次に目が覚めた時には別の女性の背中だった。
『久しぶりねスネジンカちゃん』
茶色の髪のおさげと軟らかい声音、とても安心する。守られているという実感を強く感じた。
『辛かったね……でももう大丈夫だよ、今は休んでいいから。あ、でももう少しで着くから、起きてられたらそのほうがいいわね』
この先に、何かあるのだろうか?
『“ビオン”のこと、ありがとう。スネジンカちゃんの行動であの世界の未来は変わって、“私”と“ビオン”はきっと幸せになる』
何を言っているのかよくわからないが、褒めてくれているようで気分がいい。
ふと行先から光が差しているのがわかる。そこに誰かいるようで黒い影が見えた。
「本当はこのままスネジンカちゃんを私の妹にしたいけど、そうしたら怒られちゃうからね。あそこでお別れだよ」
また会いたい、と伝える。こんなに優しい人とここでお別れは寂しい。
『……嬉しい。それじゃあいつか、必ず会いましょう?その時はまたお友達になってね』
そう言って笑う彼女に頷く。
どうやら目的の場所についたようだ。そこで背中から降ろされ、自分の足で立った。まるで初めからあったように感じる自分の身体に不思議な感じがする。どうやら背丈が低いようで、目の前の2人の女性を見上げる身長だった。
『ここまで、ありがとうございます』
『いえいえ。なにせ私たちとスネジンカちゃんには家族のような絆があるんですから、へっちゃらです』
『……実の姉妹の絆には敵わないよ、絶対に。スネジンカは私の妹だ。これからもずっと』
『あらあら♪なら邪魔者は消えようかしら。それじゃあまた会いましょうね、スネジンカちゃん』
そう言って2人きりになった。残った人を見上げる。知らない女性だ、
『あっ、どうしたのスネジンカ?』
けれどすごく愛おしい気持ちが溢れて、抱き着いてしまった。熱い感情が止まらない。永い、とても永い時間の果て、念願の人に会えたかのようなこの気持ち。この人が、まるふーしゃねえさんなんだ。わたしは、ここに帰るために戦ってきたんだ。
『うん、また会えて私も嬉しい。それにこれからも一緒なんだから、もう寂しくないよ』
本当?本当に一緒にいられるの?もうひとりは嫌だよ。
『大丈夫。姉さんとの約束だよ。ほら手をつなごう、ね?』
やわらかくて華奢な手だ。でも自分の左手はそれよりもっと小さい。手のひらから伝わるあたたかさが、とても心地よい。
『――それじゃあ行こうか。少し、待ちくたびれちゃった』
どこに行くの?その問いにまるふーしゃねえさんは微笑む。優しく手を引かれ、私たちは光の中を歩いていく。
全身を包む眩しさに眼が焼かれそうになる錯覚を覚えるが、手のひらから伝わる感触で不安などない。それよりも感じるのは安堵だ。
もう何も心配することはない、だってまるふーしゃねえさんがいる、離れることもない。
その感情で一杯になって、ゆっくりと意識が薄れていった。
次が最終話、エピローグです。