離れて聞こえる周囲でけたたましく上げられている男たちの声で才人は目を覚ました。
空気に妙な違和感を覚えて辺りを見回すと、そこはかび臭く、そしてぼんやりと薄暗い部屋の中。才人は自分が置かれている状況を、遅れて理解した。
才人たちは今、飛空船に乗って、浮き島であるというアルビオンへ向かっているのだ。
昨夜、仮面の男による襲撃を受けた後にルイズたち一行は追っ手から逃れるように一隻の貨物船に乗って、急ぎアルビオンへと出航した。
船長らは揚力を持つ『風石』という動力燃料が足りないと言って渋っていたのだが、【風】のスクウェアであるワルドがスペルによって『風石』を補うこと。また積載している硫黄の運賃と同額を支払うことを約束すると、手のひらを返すように出港準備を始めたのだった。
そして才人は出航して間もなく腕に受けたダメージからか、宛がわれた一室の壁にもたれかかるようにして、あっという間に意識を失ったのだ。
「ぐ!?」
そこまでを思い出して体を起こそうとした途端、才人の左腕に痛みが走っていった。
「くそ。つい、いつもの癖で左腕を使っちまった」
顔を顰めて、床につけていた左手から力を抜く。それでも、じんじんとした痛みが変わらず才人の左腕に巣食っている。
だが、それにしてもおかしい。昨夜受けたばかりの傷にしては、痛みの治まりが早くなっている気がする。動かしても、多少なら我慢できるほどだった。昨夜のままならば、まずこの左肩から下を動かす気すらも起きなかっただろう。
確かめるように左腕を眺めていると、昨夜にはなかったものが腕に巻かれ、袖の下からちらりと覗いていた。
「これ、ルイーズのハンカチ?」
見覚えのあるそれは、一昨日からルイーズの左手に巻かれていた桃色のハンカチだった。
思わず右手で触ってみれば、それは湿っていた。濡れた手を口元へ持ってくると、何度か嗅いだことのある臭い。そして昨日にも嗅いだ臭い。どうやら、治療用に精製した水の秘薬で湿らせてあるようだった。
才人は昨夜から左腕の痛みを悟られないよう、何でもない風を装っていたつもりだったが、ルイーズにはあっさりと看破されてしまっていたようだ。そもそも装っていたなんて大層なものでもなく、会話をするのも億劫なほど疲弊していたのでさっさと眠ってしまっただけなのだが、治療されていたことに気がつかないほど熟睡していたようである。
左腕に負担を掛けないように今度こそ立ち上がって、才人は甲板へと出て行った。そして、暗がりから出てきた才人の網膜に煌々とした太陽の光が刺さる。思わず顔を逸らした才人に、声がかかった。
「まったく、ようやく起きたの?」
今しがた逸らした方向からの声に、才人は視線を向けた。船首への階段の上には、太陽の光を背にして小柄な少女が立っていた。才人は目を細めてみたが、わかるのはそこまでだった。
「ん? えっと、ルイズか?」
「あ……ち、違うわ。違う。ほらっ!」
すっと、おそらくは一昨日から識別の目安になっている左手を見せてくれているのだろうが、生憎今の才人はそれを確認できない。
こうして見ても案の定視界は真っ白で、そこに腕があることぐらいしか判別できないでいる。
「悪い。まだ目が光に慣れてないみたいで、何も見えねえ。ちょっと待ってくれ」
「そ、そうなの? 私、ルイーズだからね」
ようやく辺りを識別できるようになってきた才人が見ると、確かにその左手には、今才人の腕に巻かれている桃色のハンカチの変わりに、薄汚れているハンカチが巻かれていた。
それにもまた見覚えがある。先日ワルドと立会いを終えた後、ルイーズが才人の治療に使ってくれていたものだった。こびりついている黒い染みは立会いの時に拭った才人の血が固まったものだろう。荷物を宿に置いたまま出てきてしまったために、一度使ったハンカチを使い回す他なかったようだ。
「ああ、ごめん。ルイーズだったのか。おはよう、ルイーズ。……あと、これサンキュな。やってくれたの、ルイーズなんだろ?」
「あ、う、うん」
痛みが走らない程度に、才人は小さく左腕を叩いた。対してルイーズは頷きこそしたものの、何故だかはっきりとは返事をしない。
「どうかしたのか?」
「ううん。水の秘薬が昨日の残りの分しかなかったから、本当に酷いところにしか塗れなかったの。ごめんなさい。【治癒】と調合が出来れば、サイトの傷も、きっとほとんど治るのに」
「いや、そんなの気にしないでくれよ。ほんと楽になってるし、助かってるんだからさ。荷物を取ってくる暇もなかったから、その水の秘薬の材料とかも置いてきちゃったんだろ?」
「……」
「あ、あー。その、えっと。ルイズの奴と、ワルドはどうしたんだ?」
きょろきょろと辺りを見回した才人はルイーズへと問いかける。甲板には乗組員と、ルイーズ、才人、そしてマストに鎖で繋がれているワルドのグリフォンしか見えない。
それにしても、何だか会話がいつもどおりにいってくれない。才人とルイーズの間の空気がおかしい。才人は、ルイーズを目の前にしてなんだか気恥ずかしくなってしまう。ただ、その原因が才人にはわからない。
「る、ルイズは、私たちの分も一緒に食事を受け取りに。ワルドは『風石』の代わりをスペルで補っていたから、上陸までに出来るだけ精神力を回復しておきたいって」
「へぇ。そりゃ、これから戦争してるとこに乗り込むんだもんな。MP、じゃなくって、精神力は温存しといたほうがいいのか。……ああ、そういやルイーズも会う前からワルドのことを知っているようだったけど……、その、ルイーズのいたところでも、ルイーズの婚約者はワルドだったのか?」
出来るだけ気負いせずに問いかけたつもりであったが、ルイーズにはどう聞こえただろうか。
かすかに震えた声を上げながらも、才人はそんなことが気になっていた。何気ない世間話のようだが、けれども才人にとっては身を投げるようにして勇気を振り絞った質問であった。
才人は、最初こそは嫌々ながら、けれどもルイズを支えてきたつもりだった。
個人的な感情にしても、一緒にいて安らげるのはルイーズだが、危なっかしくて放っておけない、一緒にいて色んな意味でドキドキする女の子は間違いなくルイズだ。喧嘩は多いし、それに才人を平民と侮辱するけれど、そこまで嫌われてはいないだろうことも流石に気がついてはいた。
だけれど、婚約者だというあのワルドと同じ天秤に乗せられては、分が悪いのは間違いなかった。常識的に考えたなら普通はワルドを選ぶだろう。現に、学院を出発してからルイズはワルドかルイーズとばかり話していて、二人で会話できたのは昨日の夕方の、ほんの僅かな時間だけである。
きっと、ルイズはワルドのことが好きなんだろう。いや、そもそもからして、ワルドはルイズの婚約者だ。
かたや婚約者。かたや使い魔。それこそ雲と泥とでも例えられそうな、才人にとっては絶望的な組み合わせだった。
それでもルイーズの話では、ルイズは才人を必要としてくれているらしい。
婚約者でしかない今ならばそれでもいい。だけど、このままルイズがワルドと結婚してしまったなら、たとえルイズが必要としていたとしてもその傍に才人の居場所はなくなるだろう。
日本に帰る方法が見つかるならまだ救いはある。けれど、帰る方法がまったく見つからず、ルイズの使い魔を続けなければならなくなったとしたら、才人はどうすればいいのだろう。
二人を護ってやるという誓いの為に、ワルドと結婚したルイズの使い魔として、変わらず世話になって生きるのだろうか。考えてみるも、才人はすぐに頭の中からその案を消し去った。――そんなことは、一人の男として出来るはずもないことだ。
ならば、ルイズに関してはワルドに任せてしまって、せめて身寄りのないルイーズを護りながら、この世界で生きていくのか。でも、もしルイーズまでもワルドを慕っていて世話になるのを良しとするならば、才人はきっと二人に別れを告げて出て行くことになるだろう。
使い魔としての役割を奪われ、二人を護るという誓いを果たすことも出来ずに、だというのにそれら全てを奪っていった男の世話になるなんて、そんな環境で生きていけるわけがない。
ルイーズの天秤までがワルドへ傾けば、才人はワルドに全てにおいて敗れることになる。主人を捨て、誓いを捨て、そして才人は人間としても男としても、本当に必要のない存在に成り下がるだろう。
今のルイーズへの質問には、そんな才人の感情が隠されていた。二人の前で仮面の刺客にやられて傷を負い、密かに気が滅入ってしまっていたのだった。
声の震えも、彼女にまで必要とされなくなったらここでの自分の存在価値がなくなるだろう恐怖からのものだ。
才人はごくりと唾を飲み込み、目の前の小さな少女を見つめる。質問を受けてから俯き、じっと考え込んでいたルイーズは、目を伏せたまま吟味するように小さく口を開いた。
「そう、みたい」
「みたい?」
返ってきた曖昧な言葉に、才人は反射的に疑問の声を上げていた。才人にとっては意を決した問いかけだったのだ。それの返答があやふやでは気が休まってくれそうにない。
俯いてすぐには言葉を返さなかったルイーズを、才人はじっと黙って見つめ続ける。ルイーズは、僅かに時間を置いてからおずおずと口を開いた。
「……ワルドとの婚約は、本当に幼い頃に親に決められただけのものだもの。幼少のみぎりにお会いしてから、それからワルドは忙しくなって、ラ・ヴァリエールへと顔を出すこともなくなっちゃったし。だから、きっとこうして会うのは、すごい久し振りなんだと思う」
「ワルドのこと、好き、なのか?」
才人の問いかけに、ルイーズは間髪いれずに首をいやいやと振った。
「わからない。小さい頃はずっと、憧れていたわ。お父様からワルドが婚約者って聞いて、すごい嬉しかったのを覚えてる。でも、ずっと忘れていたのよ、私。婚約のことも、ワルドのことも」
「……そっか」
質問をしておいて、才人が返せたのはそれだけだった。ルイーズもまた、かつての婚約者を前にして一人で悩んでいたのかもしれなかった。才人はそれにも気づかず、自分のことばかりに気を取られて考えが及んでいなかった。
護るだ何だと言っておいて、肝心のその相手がしっかりと見えていないそんな自分に、才人は苛立ちを覚える。
「あっ。そ、それより、もうそろそろアルビオンが見えてくる頃だから。ほら、あっちの方向。サイトは見たことないだろうけど、本当に大きくて、すごいのよ」
「……うん」
しんみりとしてしまった空気を打ち払うように、ルイーズが中空を指で指して明るい声を上げた。才人も言われるままに視線を向けて、そこで雲の中にルイーズの言う、アルビオンを見つけた。
「すっげえ……」
あまりの光景に才人の今までの思考は感動で塗り潰されて、呆然とした声を漏らしていた。
まるまる、大陸が浮いているのだ。才人が生きてきて見てきた、あらゆるものよりも大きい。視界がアルビオンで埋め尽くされている。地表には山々。大陸の端からは川が流れ落ちていて、空中でばらけて霧となり、そして雲となってアルビオンの下方を覆っている。そのスケールの大きさに、才人は圧倒されていた。
「船長! 右舷上方300メイル、雲に隠れて空船が見えます! こちらへと向かって接近中!」
「貴族派のもんだろう。手旗でこちらの身元を教えてやれ。おたくらの物資を届けに来てやった、ってな」
「駄目です、反応ありません! 依然、空船は接近中!」
「何だって! 旗印をすぐに確認しろ!」
そんな二人の下に、船員たちの怒声が届いた。つられてそちらを見れば、今才人たちが乗っている船より一回り大きな黒船がぐんぐんと近づいてきていた。戦闘艦らしく、大きな大砲がずらりと20門並んでいる。才人の気のせいかそれは、こちらへと狙いをつけているように見えた。
「旗印……確認できません!」
「な、なんてこった、空賊かよ! 取り舵いっぱい! 全速で逃げるぞ!」
「駄目です、追いつかれます!」
若い操舵手だろう男の声を打ち消すように、どかん、と耳をつんざくような火薬の音が響いた。大砲が火を噴いて、この船の進路先へと砲弾を飛ばしたのだ。
空気を振動させて撃たれたそれは、乗員全員にそのあまりある威力をうかがわせた。顔を青くする船長以下、乗組員たち。
そしてそれを見計らったようにするすると黒船の甲板に四色の旗が張られた。停船命令だった。
「一発でも打ち込まれりゃ、荷も俺たちも関係なく落とされちまうぞ」
船長のそんな慄いた声から間もおかずに、船室で休んでいたらしいワルドが甲板へと駆け上ってくる。
眉をハの字にして震える船長は、今しがた現れたワルドへとすがるような視線を向けるのだが、そのワルドは状況を把握するなり首を振った。どうやら、まだ精神力が回復しきってはいないらしい。船長は、見てわかるほどにがくりと肩を落とした。
「くそ、裏帆を打て! 停船だ!」
船長が怒鳴りつけるように船員へと命令した。
黒船から鉤爪のついたロープが掛けられ、それを伝って男たちが乗り移ってくる。全員が斧やら剣やらを持って武装していた。
「空賊だ、動くなよ! 抵抗すりゃ、ドカンだぜ!」
乗り込んできた男たちが得物を突きつけて怒鳴り上げる。一連の流れを眺めていた才人が、隣で不安気にして寄り添っているルイーズへと問いかけた。
「なぁ、ルイーズ。これってもしかして、やばいのか?」
「あ、当たり前じゃない!」
「……だよなぁ」
震えているルイーズの声を聞いて、才人は静かにデルフリンガーの柄に手をかけた。
力を入れるどころか、動かしただけで痛む。だが、痛みを我慢して無理をすれば握れないほどではない。才人はいつでもデルフリンガーを抜き放てるように身構える。
「やめておきなさい」
「ルイズ!」
そんな中、客室からのんびり上ってきたのはルイズだった。眉をしかめてはいるが、こんな状況だというのに不安そうにしている様子はない。こんな非常事態の中でマントを風になびかせて堂々と歩いているルイズに、才人は食って掛かった。
「おい。やめとけって、どういうことだよ」
「下手に抵抗したってこの船ごとやられるだけってことよ。ここにいるやつらを全員倒したとしても、あの船ばかりはどうしようもないわ。それに、相手の戦力がどうなってるかもわからないのに、動いてもしょうがないでしょう。ほら、見てなさい」
ルイズがつい、と目をやると、甲板にくくりつけられ、鳴き喚いていたワルドのグリフォンがどさりと倒れた。どうやら眠っているらしく、寝息を立てている。グリフォンの顔付近には、青白い靄がかかっていた。
「スリープ・クラウド……」
呆然とルイーズが呟いた。才人も聞いたことがある魔法だ。ルイーズの得意な【水】のスペル。その一種で、強烈な眠気を誘って相手を無効化するものだという。
下手に動いていれば、才人もグリフォンの二の舞となっていただろう。それにルイズの言うとおり黒船にも乗員は残っているようで、砲台の向きが今も調節されている。
「相手方にはどうやら、確実にメイジがいるようだな」
いつの間にか、ワルドが空賊を警戒しながらもじりじりとこちらへと近づいてきていた。位置が遠かった為に目に留められなかったのだろう。だが、すぐに才人たちも武装した男たちに囲まれてしまった。
「おお、貴族がいるぜ!」
「お頭、こっちだ!」
声を上げる男たちの中から、一人派手な姿の男が歩いてきた。片目に眼帯、ぼさぼさの長い黒髪を赤い布でまとめたこの男が空賊の頭なようだった。男が歩いてくるその向こうでは、この船の船長が屈辱からか項垂れているところ、空賊に引き摺られていた。
歩み寄ってきた男は、じろじろとワルド、ルイズとルイーズの二人、そして二人を庇うように立つ才人を眺めて、にやりと笑みを深くした。
「こいつはついてるな! 積荷だけじゃなく、身代金までたんまりと貰えそうだ! おい、てめえら! 貴族さまを船倉に閉じ込めておけ! ぐずぐずするなよ!」
言うなり空賊の頭は背を向けて、洋々と歩いていった。空賊らは武器を突きつけながら周囲を取り囲み、まず手強く見えるであろうワルドから杖を取り上げた。
ついでルイズやルイーズからも杖を奪って、才人からは鞘ごとデルフリンガーを取り上げる。
「っ!」
「ぐあっ!」
そこまでしてようやく安心したのか、男たちがワルドと才人を地面に引き倒した。ワルドからはくぐもった声、才人の口からは悲鳴が漏れた。火傷のある左腕を押さえつけられて、才人の腕に焼けるような痛みが走っていた。今のでさらに傷が悪化したことだろう。
空賊の一人が立ったままのルイズとルイーズに向かって、恭しく言った。
「それでは準備が済みましたので、ご案内させていただきます。貴族のお嬢さまがた」
周囲の男たちから笑い声が沸き上がった。ルイーズは怒りから唇を噛み締め、ルイズは才人を押さえつける男を憎憎しげに睨みつけていた。