……ちょっと、というかあまりに衣服に染み付いた臭いが気になるので常時携帯している香水を軽く振り掛ける。
計ったことはないけど低血圧からだろうぼんやりした頭で、きつい匂いは好みではないのでほのかな優しい香りを選んだけれど、今ばかりはもうすこし強くても良かったかな、と思った。何せ馬小屋で染み付いた匂いである。そう簡単には消えてくれないし、隠せない。
この世界では毎日入浴をするわけではない。泥まみれになったとか特殊な例を除いて、精々が二、三日おきでの入浴である。
ハルケギニアで生まれ育った私が『俺』の記憶を得てからも、食事も服装も、社会のしきたりにも順応していた。ただお風呂だけは、日本での習慣を知ってからはどうにも我慢ならない。
ラヴァリエールの屋敷では毎日欠かさず入浴していたが、学院ではそうもいかないのが現状。いつか毎日入浴する習慣を根付かせてやろうと画策はしているものの、大量の水と火のメイジが必要になるため経済的な意味で実現は難しそうだ。
こうして、きつい匂いがついたり、全身が汚れたりするとあの日本風呂が恋しくなる。ボタンひとつでお湯が湧き出し、いつだって入浴可能な素晴らしき日本の風呂。ああ、遥か遠き理想郷よ。
あと、ふとした時にお味噌汁と白いご飯が食べたくなったりもするけど、それは今回は関係ない。あー、お腹減った。
なんにせよ、さらに全身に香水を振りたくった私はウンディーナにもう少し辛抱するように言って、自分の部屋へと向かったのだった。
どうやら身だしなみという名の消臭が思ったよりかかってしまっていたようだった。自分の部屋のドアを前にして思う。
部屋の中からは「服を着せて」だの「朝ごはんがどうの」だの聞こえてくるような気がする。……幻聴だろうか。
さぁ、部屋へ入らん、としたところで、後ろからドアが開く音がして思わず顔をそちらへと向けた。
まず目と水平の位置にあるので真っ先に視界に入るのは大きな胸。自分とは比べ物にならない。おのれ、こんなところに富の偏在が。見上げると赤いロングヘアーに大人びた顔立ちの美人さんがこちらを見ていた。
「おはよう、ルイズ」
キュルケである。何故だか知らないが私を見てにやりと笑っている。
ルイズ? 何を言ってるんだろうキュルケは。
「あれ? 貴女の使い魔はまだ部屋なの?」
「……んー? 私の使い魔なら馬小屋にいるけど。どうしたの? 朝から意地悪そうな笑みなんか浮かべちゃって。あ、そういえば今日は土の授業があったよね。ミセス・シュヴルーズの授業は初めて受けるから今から楽しみ」
「……貴女、調子でも悪いの? 変よ?」
「何を言うの、キュルケ。貴女こそ一体どうしたの?」
何というか、いつもに比べて余所余所しい気がする。この感じは入学した直後、初めてキュルケと出会った時以来ではないか?
「まぁ、いいわ。フレイムー! ……どう、サラマンダーよ。見てこの大きな尻尾の炎! 好事家に見せたら値段なんかつかないわよ! 正に、火の属性の私にぴったり!」
キュルケの部屋から出てきたサラマンダー。確かに見事。フレイム自体も大きいし、その炎もとてもきれいだ。フレイムと目が合ったので、微笑んだ。
「おめでとう、キュルケ。すごい立派なサラマンダー。フレイムっていうの。よろしくね、フレイム」
頭を撫でてあげると、フレイムは目を細めた。フレイムも気持ち良いのだろうか。私もフレイムがかなり暖かくて気持ちいい。是非、寒い夜には貸して欲しいものだ。
「寒い夜の日には、私のところにお泊りさせてくれてもいいよ。熱帯夜だったならご遠慮願うけどね。ふふふ」
「……なんか、調子狂うわ」
「えっと、本当に大丈夫? いつもなら笑って返してくれるのに。あ……もしかして風邪? そういえばここに……」
ポケットに薬の材料を入れておいたのを思い出す。これとこれを混ぜて、最後に魔法を……かけて。
「っと、出来上がり。これ、風邪薬だから朝食食べたら飲むといいよ」
「……ルイズが、魔法を!? いえ、そんな筈ない。きっと私、熱でもあるのよ。きっとそう。ダメだわ。こんな幻覚、相当重症だもの。今日は夜の予定を全部キャンセルして早く寝ましょう。あ、ありがとね。ルイズ。これ、貰っておくわ」
「いい。私とキュルケの仲じゃない」
最後にぴしり、と固まって、完成した薬を取ってふらふらと食堂の方へ歩いていってしまった。変なキュルケだった。お大事に、と心の中で心配しておく。
そこで、私の部屋のドアが開いた。部屋の主である私がここにいるのに、何故中から人が出てくるのか……と思ったところでようやくはっきり覚醒した。
この世界、私のいるハルケギニアじゃなかったんだった。前の世界でも馬小屋で寝るつもりだったから、寝惚けてその延長かと勘違いしていた。道理でキュルケが私に余所余所しい筈。気づけよ私、って話だ。
「ルイーズ、おはよ。丁度いいタイミングだわ。食堂に向かうわよ」
「おはようルイズ、才人。そしてごめんなさいルイズ」
「え?」
ドアから現れたルイズ、才人へ朝の挨拶を交わし、そしてそのままルイズに向かって頭を下げた。今回のことは私が迂闊だったという他ない。
「……朝一番から何よ?」
「私の知り合いのキュルケだと勘違いして、キュルケに風邪薬を精製してあげちゃった。こっちのキュルケと貴女って、仲が良いわけじゃなかったのね」
「へ!? 何、貴女って、ツェルプストーなんかと友人なの!?」
「……ルイズ。なんか、なんて言わないで。貴女はどうか知らないけれど、キュルケは私には無二の友人だったのだから。悪く言われていい気持ちはしない」
「ふん。貴女の家では知らないけど、ツェルプストーとヴァリエールは先祖代々からの因縁があるの!」
……うちの方でもそれはあったが、其れを踏まえた上で仲良くしていたんだけど。別に恋人を作る予定もないので、取られるようなものも何もないし。戦争やらはツェルプストーが起こしてる訳じゃなし。
「……ま、でも構わないわ。どうせそのうち貴女を紹介することになるだろうし、それがちょっと早くて、勝手にツェルプストーが勘違いしただけでしょ」
でも、ルイーズが魔法を使って目を丸くするあの女の姿も見てみたかったわね、とルイズはちょっとだけ残念そうに呟いた。
さて、アルヴィーズの食堂ではあるが、既に生徒たちは大方集まっていた。食事が始まるまでの束の間の時間を友人と談笑して過ごしているので、こちらに注目している生徒はいない。
「ルイーズ、貴女も学院長から施設使用の許可を頂いているから本来中で食事が出来るのだけど……」
「分かってる。ルイズと私が一緒に現れたら大騒ぎになってしまうもの。今日のところは別のところで頂くから安心して」
「……貴女も学院に通う貴族だったっていうのに、何だか悪いわ」
「構わない。だって私は、貴女の使い魔だもの」
それだけ言って、私は歩き出す。一度だけ振り向くと才人がこちらをみていたので微笑んでみる。反応を見る前に進行方向へと向き直った。
そうだ。どうせならウンディーナと一緒に食事を摂ろう。そう思った私は配膳を終えて厨房に戻ろうとしていたメイドに声をかけた。
「ねぇ、貴女。申し訳ないのだけれど使い魔のドラゴンの食事に生魚を十五尾ほどと、私の食事を広場に用意してもらえない? 学院長に許可はもらっているから」
「ミス・ヴァリエール!? あ、はい! わかりました、直ぐにご用意いたします!」
「ありがとう。お願い」
なにやらこのメイド、私をルイズだと思っているようだけどわざわざ訂正する必要もないだろう。ちなみに学院長の許可というのは、広場や食堂の施設利用許可だがまぁ拡大解釈すれば範疇だ。構うまい。
そういえばこのメイド、シエスタじゃなかろうか。……まぁいいか。前の世界でも見かけたけど特別に話したこともないし。
さて、ようやくウンディーナを馬小屋から別の場所に出してあげられる。あと、食事は生魚でよかったのだろうか。足りるのかどうかも不明だ。足りないようだったら、お昼に少し増量するようにして勘弁してもらおう。
――――ウンディーナと一緒に食事を摂っていると他の使い魔たちが寄ってくる。
使い魔同士で意思疎通は出来ているようだけど、生憎私にはわからない。ルイズの使い魔であるというのに。この子達と自由に話せたら面白いだろうな、と思いながらウンディーナの片言の通訳を介しながらそれなりに交流を行った。話を聞くにみんな気のいいやつばかりだった。
ちなみにウンディーナだけど、食事は魚でも構わないものの十五尾では少し物足りないらしい。どうやら成長期のようで直ぐお腹が減るとのこと。次からは二十尾くらい用意しよう。
食事が終われば次はミセス・シュヴルーズの【土】の授業だ。けど、私はどうすればいいのだろうか。キュルケに言ったように初めての受講ということもあって結構楽しみにしていたのだけれど。
「ルイーズ、貴女も授業に出る?」
「出るって……出ていいの?」
「学院長先生も仰ってたじゃない。ミセス・シュヴルーズにも貴女の話は通っているでしょうし。朝食の時間が限られてたから朝は遠慮してもらったけど、授業なら多少時間を取られたとしても大丈夫でしょう」
「それじゃ、私も参加する」
「わかったわ。ほら、あんたもぼーっとしてないで付いて来なさい」
何やら尊厳をグラム売りしてしまったような顔で、へいへい、と返事をあげる才人。
ルイズの教育のお陰で、未だに言葉遣いは直らないものの反抗するだけの元気がなくなりつつあるようだ。
「私もウンディーナを連れていったほうがいいかな、ルイズ」
「……そうね、メイジとして参加するなら、一緒に受けるに越したことはないけれど。あの子、教室に入れるかしら」
「あ、そうか。こればかりはどうしようもないか」
それに、食事が終わってから直ぐにうとうとしていたからきっと今頃は夢の中だろう。無理に起こすのも可哀相だ。またの機会でもいいかな。
大学の講義室のような部屋を廊下から覗くと、既に他の生徒は着席を終えていた。
中を窺っている私の横を抜けて、ルイズが才人を引き連れて入室していく。生徒達は一斉に振り向いて、ルイズと才人の姿を視界に収めるとくすくすと含み笑いを漏らし出した。その生徒の中、何故かキュルケだけはルイズを一目見てそっぽを向いてしまったが。
すたすたと中央の空いた席へと歩いていくルイズ。慌てて付いていく才人。私は一緒に入っていくタイミングを、完全に見失っていた。
視線を集めながら進んでいく二人を他所に、誰も出入り口に注意を払っていないこの瞬間、私は教室の一番後ろ、板書が見えずらい不人気な端の席に潜り込んだ。何でルイズと才人の位置まで付いて行かなかったのかは簡単だ。あの辺りに席が余ってないからだ。
移動中、唯一ルイズと才人から目を背けていたキュルケと目が合った。笑顔で手を振ると、キュルケは目をこすり、私の姿が確固として存在しているのを確認した後、頭を抱えて机に突っ伏してしまった。
周りの男子生徒が突然突っ伏したキュルケを心配するが、顔も上げず手で追い払っている。
返事代わりに私に手を振るぐらいしても構わないだろうに。失礼なキュルケだ。
ちょっと憤慨しながらそんなことを考えていると、ミセス・シュヴルーズが入室してきた。忍び笑いをしていた生徒たちが視線を前方へと向けて、座りなおす。
「皆さん、春の使い魔召喚は大成功のようですわね。このシュヴルーズ、こうして春の新学期に様々な使い魔を見ることが楽しみなのですよ」
教室の中、一人ルイズだけが顔を俯かせた。ここからだからわかるが、一人だけそんな行動をすると目立つのだ。
「おや、ミス・ヴァリエール。変わった使い魔を召喚したのですね」
その一言で教室中が沸いた。爆笑、というやつだ。
……ミスタ・コルベールは本当にミセス・シュヴルーズに話を通しておいてくれたのだろうか。この口ぶりだと、ルイズの使い魔について何も聞いていない可能性がある。
「ゼロのルイズ! 使い魔が召喚できないからってその辺を歩いていた平民を連れてくるなよ!」
「違うわ! きちんと召喚したもの! こいつが来ちゃっただけよ!」
「嘘つくな! サモンサーヴァントができなかったんだろう!」
あれは、マリコルヌか。あのお調子者め。ウケを狙っているのだろうけど、言われた側の気持ちがわからないからルイズを傷つけていることもわからないんだ。
「ミセス・シュヴルーズ! 侮辱されました! かぜっぴきのマリコルヌが私を侮辱したわ!」
「かぜっぴきだと? 俺は…………! …………!?」
ポケットのタクトを取り出して小さく振るう。密かに唱えたサイレントが、効果を表した。……位置を指定してのサイレントって何気にすっごい疲れる。
口を怒鳴るようにさせて慌てているのはマリコルヌ。けれど、音は発されない。立ち上がり、下手人は誰かと教室を見回している。
すると、ようやく私と目が合った。にっこり笑って手に持った
「いい加減に座りなさい、ミスタ・マリコルヌ。これでは授業が進みません」
驚愕に染まったマリコルヌの表情だが、異常に気づいていないミセス・シュヴルーズにより強制的に座らされたことで生徒の頭の中に隠れてしまう。サイレントは解いていないので、しばらくは静かになるだろう。
「では、授業を始めますよ」
ミセス・シュヴルーズの自己紹介が始まる。これから一年、【土】のトライアングルであるミセス・シュヴルーズが、【土】の授業を受け持つ旨を生徒たちに伝える。
――さて、私は【水】のトライアングルで、もちろん名の通り水系統が得意では在るのだけれど他の系統が使えない訳ではない。水の次に得意なのが風であり、続いて火、土となる。使った時の効果や効率もこれに比例していて、土系統は初歩のみでほぼ使えないといっていい程度である。
つまりは個人ごとに向き不向きがあり、土系統のミセス・シュヴルーズの錬金と、水系統の私の錬金では同じトライアングルでも歴然とした差があるということだ。
私が全ての系統魔法を満遍なく勉強をしたとして、一番伸びがいいのはやはり水系統であり、一番悪いのが土系統である。
けれど、不得意だからといって向上心がない訳ではない。むしろ、下手に使える【火】よりも何とかしてやろうという気持ちが強い。だから、この授業が楽しみだったのだ。
「さて魔法の四系統はご存知ですね? ミスタ・マリコルヌ」
「…………」
ミセス・シュヴルーズがマリコルヌに質問を投げかける。恐らく、先ほど騒いだことで目に付いていたのだろう。だが、答えられる訳がない。何故なら私の唱えたサイレントの効果はまだ持続中だからだ。
「……わからないのですか? 仕方ありません。【火】【水】【土】【風】に、失われた【虚無】を加えて全部で五つの系統があることは、メイジの最低限の常識なのですから知っておいて下さい。いいですね、ミスタ・マリコルヌ」
顔を真っ赤にしながら口をぱくぱくさせて首を必死に横に振るマリコルヌ。
それを見てミセス・シュヴルーズは小さくため息をついた。首をこれでもかと否定の意味で振り、喋れないことをアピールするマリコルヌだが、傍から見ると問いかけに対する拒否をしているように見える。
ミセス・シュヴルーズには勉強する意欲のない生徒に見えたのかもしれない。すっと視線からマリコルヌを外し、土系統の特徴への講義へと移っていく。
ミセス・シュヴルーズが錬金の実演をした後、今度は才人と喋っていたルイズが目を付けられた。みんなの前で錬金をしてみろ、とのことだ。しばらくの逡巡の後、ルイズは立ち上がり教室の前方へと歩き出す。
周囲の反対を振り切って教室の前方へと辿り着いた時、生徒達は机の下に潜り始めていた。潜っていないのは辺りをきょろきょろと見回して事態が掴めていない才人と、私だけだ。
まぁ、起こる大爆発を知っていて、わざわざ後片付けしなきゃいけないというのも馬鹿らしいので、被害を少なくしようか。机の下に皆が潜っているのをいいことに、つかつかと私も教室の前まで歩いていく。
ルイズがルーンを唱え、杖を振り下ろした瞬間に小石の全方位をウォーターシールドで包みこみ、ウインドブレイクを発動させる。
窓の外へと吹き飛びながら白く発光する小石。そして爆発。……ちょっと遅かった。
突然水に包まれた小石が輝き、そして目の前で爆発したことで、ミセス・シュヴルーズは目をぱちくりさせてから気絶した。
【水】のトライアングルである私のウォーターシールドが、ルイズの錬金の爆発で霧散した。いくらルイズが伝説の【虚無】だからといってこれは凹む。
まぁ、何にせよ爆風は私のウォーターシールドで阻ませたし、音も多少だが水が防音をした。周囲への被害は、思わぬ現象に気絶したミセス・シュヴルーズを除いて皆無といっていい。せいぜいこもった爆発音が響いただけだ。
「大丈夫? ルイズ」
「え? あ、うん。ありがと、ルイーズ」
横から歩み寄ると、きょとんとした顔で素直に私に礼を言うルイズ。私が唱えたウインドブレイクで乱れた髪の毛を、撫で付けて整えてあげる。
どうでもいいけど、水のメイジなのになんだか風系統ばかり使っている気がする。
次第に、教室の皆がそろそろと机の影から前方を伺い出す。爆発音はしたが、全く被害がないことに時間差起爆を警戒しているらしい。
前方を確認した誰かが、声高に叫んだ。
「ルイズが二人に増えた!」
「ゼロのルイズが、小石で自分を錬金した!!」
ルイズが二人に増殖する。それは生徒たちにとって暴走するに足る理由であったらしい。いい具合に狂乱し始めた生徒たち。止めようがないので、ルイズと並んでぼんやり眺めてみる。
響く怒号に、寝ていたサラマンダーが不機嫌になり火を吐いて、グリフォンが鳴きながら翼を羽ばたかせる。そうして連鎖し、使い魔たちが暴れ出す。絶叫が教室に木霊する。才人や、逃げ遅れた生徒たちが使い魔の暴走に巻き込まれていった。
……結局はこうなるらしい。ぼろぼろになっていく教室を見て、私に残ったのは疲労だけだった。