病室の扉を開けると、廊下とは違って柔らかな匂いが漂ってくる。窓際のベッドで外を見る彼女は差し込む陽の光に照らされて、病弱な深窓の令嬢とも見える様子だった。
「おはよう、来那」
僕の声に振り返った来那は、僕の姿を認めて柔らかな笑みを浮かべる。
「美琴……来てくれたんですね」
「うん、大丈夫そうで良かった」
「ええ、この入院も経過観察と言う事ですから、すぐ退院できるらしいです」
「そっか」
椅子に座り目線を来那に合わせる。病衣を着て頭に包帯をしている以外は普通に見える。
いや。
「その……美琴」
「なに?」
「あの、何と言うか、私にそっくりな人の事、何か知ってますか?」
気になって仕方ない、と言う顔だった。そうか、来那は知らないのか。身代わりの事をわざわざ言う必要も無いと言う是空の判断だろう。
「あー……それは」
「知っているのですね」
「……うん。来那も知るべきだとは思う。けど、落ち着いてからの方が良いと思う」
「でも……」
「それにほら、ここじゃ誰が聞いてるか分からないし」
「それは……確かにそうですね。分かりました」
引き下がった来那は、あっと何かに気付く。
「そうです美琴、連絡先です」
「え?」
「私達、交換していませんよね?しましょう、交換?」
「あ、確かに……でもいるかなぁ?」
「いらないんですか!?」
「だって来那が危ない時はどこにいるか分かるし……」
「そうなんですか!?……いやそうではなくて、別に危険じゃない時も会いに来て欲しいと言いますか……」
「あ、あー、成程、そうだね」
凄く乙女心の理解が低い発言をしてしまった。
「はい、交換、です!」
ずいとスマホが差し出される。画面にはメッセージアプリのQRコードが表示されていて、読み取れと促す様にくいくいと揺れる。来那から今までに無い強い圧を感じる。
「わ、分かった、分かりました……」
押された訳じゃないけどアプリを起動してコードを読み取り、連絡先を登録する。それを見た来那は満足そうに頷く。
「ふふっ、これで何時でも呼べますね、私の騎士様」
「き、騎士!?え、どうしてそれを……」
「え?前に襲われた時悪魔が言ってませんでした?」
「あ、あー、確かにそうだね」
あの様子でいて実は騎士について知っていたのかとびっくりした。そうだよね、そんな事無いよね……。
「ところで美琴、その箱は?」
「そうこれ、食べるかなって」
存在を忘れかけていた紙箱を開ける。中に入っているのは……。
「まあ、プリンですね!」
「うん、こう言うの病院にいる間は食べられないかなと思って」
「嬉しいです、それに6つも……ありがとうございます」
「いえいえ、良かったら食べて」
「そうですね、いただきましょう」
来那は一つ取って封を解き、付いていたスプーンでプリンを掬って口に運ぶ。途端、頬が緩む。
「美味しいです……」
「良かった」
ぱくぱくと食べ続ける来那を見ていると、不意に目が合う。そしてじっと見つめてくる。
「な、何?」
「美琴は食べないのですか?」
「え?これ来那のだよ?」
「じゃあ美琴も食べてください、ほら」
と言って来那は一つ僕の前に置く。
「良いの?」
「勿論、と言うか、そのつもりで買ってきたのかと」
「ありがとう、いただきます」
僕も一口食べてみる。予想していたよりも牛乳と卵の風味が強く、しっかりとした旨味があった。甘さも程良くて思わず頬が緩む。どうやら大正解だったようだ。
「ほんとだ、美味しい」
「こんなに美味しいの、知ってたんですね」
「また今度一緒に行こう……何か飲み物あっても良いかもね、何が良い?」
「美琴と同じ物が良いです」
「ブラックコーヒーにしようと思ってたけど、飲める?」
「意外かもしれませんけど、結構好きなんですよ」
「意外……じゃあ買ってくるね」
「ありがとうございます」
病室を後にして廊下を歩く。朝早くだけど看護師さん達はせわしなく動いて、こう言う言い方が適切なのかは分からないけど活気がある。白い無機質な光の中、確かに命の営みがあるのを感じる。生きているんだなぁと思う。
暫く進んだ先にある自販機を目指して歩く内に、そう言った人の気配は徐々に消えていった。先の見えないトンネルを進んでいる様な、そんな不気味さだ。大した距離は歩いていないはずなのに、来那がとても遠く感じる。
自販機の周りには誰もいなかった。缶コーヒーとペットボトルとで迷って、ペットボトルの方を選んだ。300円入れて、取り敢えず一つ。勢いの良い音を立てて黒いラベルのペットボトルが出てくる。それを取って、もう一度ボタンを押して同じ物を買う。両手に持って、来た道を戻ろうとした。
途端に、足音がした。いや無意識に聞こうとしなかったのか。足音の主は案外近くにいた。
「藍……」
険しい顔をした藍がいた。
「コーヒー飲む?」
「いや、いい」
「……そうだよね」
病院を出て少し離れた所にある広場。まだ誰もいない朝露に濡れたベンチにコーヒーを置く。飲み物片手にゆっくりと、と言う訳にはいかないようだ。
「ねえ藍、少し話を——」
「話す事なんて無い」
「……あるよ。僕も知ったから」
何も分からなかった昨日とは違う、知っている。僕達と彼女達の真実も、藍がやろうとしている事も、僕達が本当は何をしなければならないのかも、分かっているつもりだ。
「なら尚更話す事は無いだろう。俺とお前の目的は違うだろ」
「ううん、話さないといけない。僕達は分かり合えるはずだ」
「そんな余地、無いと思うが」
きっと僕を睨みつける藍。今まで向けられた事の無い感情が、少し怖い。でも怯まない。
「藍がやろうとしている事は、きっと間違ってる。まだ方法はあるはず」
「……なんだと?」
藍の目が一層鋭くなる。一歩また一歩と、藍が近づいてくる。
「方法がある……?じゃあ言ってみろ。ライナの寿命を延ばす方法を、何か一つでも」
「それは……それをこれから話しに——」
「ある訳ないだろ、そんな方法!」
藍が僕に掴みかかった。今まで見た事無いくらい必死で、怖くて、真摯な顔だった。
「藍……」
「だから俺は……悪魔に頼るしかないんだ……」
「……まだ分からない、可能性はゼロじゃないはず。いつかきっと——」
「そのいつかを待っている内に!ライナは死ぬかもしれないんだ!人より短い命と知って、あんなに苦しんで!広い世界を知らないで死んでいくのを……そんなの幸せなんかじゃない……」
「だからって、代わりに来那を犠牲にするのは間違ってる」
「……もう良い。やっぱり話しても無駄だ」
僕の服の襟を摑んでいた腕が力無く下がり、そして次の瞬間突き飛ばされる。
「っ……藍!」
「俺と戦え、美琴!俺が勝てば、お前の来那を貰っていく」
「……僕が勝ったら、それは諦めてもらうよ」
互いを睨みつける、凍った様な時間。それは一瞬の事で、僕と藍の腰に宝石が出現する事で破られる。
そして僕と藍は同時に騎士へと姿を変える。
変身を終えた美琴と藍は同時に走り出す。接敵するやいなや拳を振りかぶり、互いの頬に撃つ。両者共に怯んで距離が出来るが、すぐさま藍が組み付こうとする。寸での所でそれを振り解いた美琴はハイキックを繰り出す。それを藍が防いだ瞬間に翼を広げ後ろに跳躍、再び距離を取る。
素手での戦いは素人の美琴に対し、藍は幼い頃から体術を習っている。故にこのままでは不利と判断した美琴は光の中から剣を引き抜く。それも両手に一つずつ、二刀流の構えを取る。
それを見た藍も光から剣を二本取り出す。しかし両手に持つのではなく持ち手の部分を連結、双頭剣として構える。
先に動いたのは美琴。翼で空気を押し出し生まれた推進力で一気に突撃する。振るわれた白い剣を赤い剣が受け止め火花が散る。勢いに負けて赤い剣が押し込まれた隙にもう一つの白い剣が藍の肩を狙って一閃、藍の肩に付いている武装を斬り裂く。
「ちっ……!」
藍は押し込む力が緩んだのを感じ、両腕に力を込めて白い剣を押し返して弾く。そして生成された白い銃を弾丸が発射される前に両断する。
美琴は即座に銃を捨てて移動、弾き飛ばされた剣を拾い再び二刀を構える。また突撃し、今度は二刀同時に振り下ろす。それを藍は双頭剣で受け止め、力が拮抗する。
仮面越しに視線がぶつかり火花を散らす。互いに相手の気配を探り、次の攻めを伺う。相手を良く知るが故の、高次の心理戦——。
だが、一枚上手だったのは藍の方だった。
藍が握る双頭剣、その連結が外れ、同時に後ろに下がる。
「なっ……!」
美琴の斬撃は空を斬り、気付いた時には赤い斬撃が目の前まで迫っている。
そしてそれをもろに受けた美琴は吹き飛ばされる。鎧にはひびが入り、なんとか立ち上がれば破片が砂粒の様に零れ落ちる。
藍は攻撃の手を緩めない。受け止めようとした剣を弾き飛ばし、再び連結させた双頭剣で何度も美琴の鎧を斬りつける。鮮血の様に火花が散り、次第に美琴の纏う鎧の色がくすみ始める。
立ち上がろうとした美琴は、しかし思った様に動けない事に気付く。今までに感じた事の無い重さ。傷を負ったからではなく、鎧の力そのものが低下していると美琴は直感した。
「どうした!その程度か!」
傷だらけの美琴に藍は容赦無く斬りかかる。重い腕で防ぎ、しかし防ぎきれずに後退る美琴のがら空きになった胴に藍の蹴りが刺さる。
力無く崩れ落ちた美琴。それでも諦めずに立ち上がろうとするも、身体は既に限界だった。荒い息をする美琴の視界に、赤い剣の切っ先が映る。
「終わりだ」
そして藍は最後の一撃を、美琴に放つ。
負けられない。
立ち上がれ、戦え。限界だとしても、それを越えて。
立て!戦え!
大事なものを守るのが、僕の運命だろ!
だから。
負けるな!
その瞬間、美琴の中で何かが弾けた。
色を失った美琴の赤い瞳が、眩い金に光る。
振り下ろされた赤い斬撃を転がって避け、美琴が立ち上がる。驚いた藍がそちらを向いた瞬間、美琴の拳が藍の頬を撃つ。
「なにっ……!?」
体勢を立て直した藍が剣を振るう。それを紙一重で躱した美琴は、藍のすぐ横を通り過ぎる。それを追おうとした藍が見たのは、回転しながら飛翔する赤い刃……自身の左肩に装備されていたはずの武装だった。交錯した一瞬で、美琴は藍の肩からそれを引き抜き投擲していたのだ。
咄嗟に剣で受けた藍を、上からの衝撃が襲う。跳躍した美琴が藍を踏みつけ、更に高く飛ぶ。
美琴の影が太陽に重なる。高高度から落下する美琴は体勢を入れ替え、右脚を突き出す。
「うおおおおおおおっ!」
白い光を纏ったキックが藍に迫る。剣で防御する藍だったが、一瞬で剣は砕け脚が胴を撃った。
大きく吹き飛ばされた藍の鎧が光に還る。傷だらけの藍が体中の痛みに悶える。
「僕の勝ちだ、藍」
同じく美琴の鎧も光に還り、傷だらけの美琴が息も絶え絶えながらに藍を見下ろす。勝者と敗者は、残酷なまでに明らかだった。
「言った通り、諦めてくれるんだよね」
「っ……」
美琴の問いに藍は答えず、立ち上がる。そしてそのまま美琴に背を向けた。
「藍!話を——」
「お前とする話なんて無い!」
美琴が伸ばした手を、藍は拒絶した。
藍は足を引きずりながらその場から去る。それを引き留める力が、美琴には残っていなかった。
ちくしょう。
ちくしょう、ちくしょう、ちくしょう!
負けた。
勝たなければならなかったのに、負けてしまった。
「あああああああっ!」
無意識にブロック塀を叩いて叫んでいた。擦りむいた拳に血が滲んで、誰もいない道に声が虚しく響いた。
そんな事が全部、自分の弱さを責め立てている様な気がした。
何かにあたりたかった。喉を散々に掻きむしって、肉を抉ってしまいたかった。何度も壁を殴って、拳が駄目になるまで殴り続けたかった。何か自分に罰を与えないと気が済まない様に感じた。
でもできない。そんな事をしていたら悪魔と戦えなくなる。美琴と戦えなくなる。ライナを守れなくなる。だから自分への怒りを押し込めて、また歩くしかない。
だからまた一歩踏み出そうとした。
その体を、誰かが抱き留めた。
「ライ、ナ……」
その暖かさで彼女だと分かった。
顔を上げると、ライナが泣いているのが見えた。
「どうしたんだ……?どこか痛いのか?」
「はい、とても……胸が痛いのです」
「じゃあ、早く薬を……」
ライナは首を横に振った。
「視えていました、貴方の戦いが。凄くつらそうで、それが私も苦しいのです」
「……すまない、負けてしまって、でも次は必ず——」
「もう、戦うのはやめてください、藍」
ライナの言葉に、一瞬息が詰まる。
「なんで……俺は戦わないと、勝って、君に必ず命を——」
「でしたら、何故あんなにも苦しんでいるのですか?」
「それは……」
「本当はあの白い騎士……美琴さんと戦いたくないのでしょう?大切な友人ですもの」
大切な、友人。
それはそう、だけど。
「でも……それでも俺は戦わないと……」
「私のために、ですか?」
頷く事はできなかった。責任を全部ライナに押し付けている様な気がしたからだ。俺が戦うのは、俺がライナに生きて欲しいからだ。例えライナ自身が望んでいなくても。
「藍は、一つ間違っている事があります」
「……それは、なに?」
「私が幸せじゃないと仰っていましたよね……いいえ、そんな事はありません」
確かにそんな事を口にした気がする。
「だって君は、これからも生きて、もっと世界と繋がっていくべきで……それができないなんて、そんなの」
「いいえ藍、私は今幸せですよ」
「……どうして?」
不意に唇が塞がる。口づけを終えたライナは頬を赤らめ、目に涙をいっぱいに溜めたまま口を開く。
「私を想って戦う人が、私の想ってくれる人が傍にいるだけで、私は充分に幸せなのです。藍も、そうではありませんか?」
「俺は……俺も……」
「だから幸せじゃないなんて言わないでください。無理をして戦わないでください。貴方が隣にいてくれるだけで、私は幸せです」
「ああ……」
俺は馬鹿だな。
ライナが幸せじゃないと決めつけて。そんなの俺が一番やるべきでない事なのに。
結局、俺はライナと向き合えていなかったんだ。
馬鹿だよな、本当に。
いつの間にか流れていた涙は止まる気配が無くて。
ライナの胸に顔を埋めて、みっともなく泣いていた。
「もう良いのですか?」
「ああ……ごめん」
「良いのですよ……可愛かったですから、子どもみたいで」
「子どもって……もっと何か……あるだろう例え方が」
「ふふ、藍は泣き虫さんですね」
「おい!」
ひとしきり泣いて、そして帰路につく。
彼女の前で泣いてしまった事が凄く恥ずかしいけど、今は清々しい気分だ。
正直どうするべきかは分からない。ライナには生きていて欲しいのは変わらない。けど、そのために美琴と戦うのが正しいとは、今は思えない。
だから次会う時は話そう。
「藍、朝ご飯を食べていないでしょう?」
「そうだった。そう言えばお腹、凄く空いてる」
「ふふ、そうだと思って用意してますから」
「ありがとう、楽しみだ」
他愛の無い会話をしながら並んで歩く。こう言う幸せを、ここ何日かは忘れていた気がする。
だから大切にしよう。これからも、ずっと——。
「探したぞ」
冷たい、無機質な声がした。
いつの間にか俺達の目の前に何かが立っていた。
どう見ても人ではないシルエット。暗い灰色の鎧に身を包み、大きな盾を背負ったそれの瞳が緑に光る。
それはまるで……。
「騎士……?」
「貴方は……お父様の……!」
「一緒に来てもらうぞ」
灰色の騎士は俺ではなく、ライナを見据えていた。
お父様、とライナが言った。つまりは。
「是空の騎士か……下がれ、ライナ!」
宝石を出現させ、鎧を身に纏う。剣を引き抜き、騎士に向かって突撃しようとした。
瞬間、騎士の背後から複数の何かが飛び出し、それらから光線が発射される。光に全身を貫かれ、焼ける様な痛みが走る。
「藍!」
鎧が解除され、無様に地面に倒れる。騎士は俺には目もくれず、ライナに近づくと顔に手をかざした。
「あっ……ら、ん……」
気を失った様にライナは地面に倒れ、騎士はそれを抱きかかえた。そしてそのまま、大きな翼を広げて飛び立つ。
「ライナ……ライナ!」
動けない俺が伸ばした手は、どうしようもなく遠かった。
俺の意識は、そこで途切れてしまった。