蝉がミンミンとやかましく鳴き、アスファルトを溶かすような暑い夏の日。俺は久しぶりに地元の土を踏んでいた。幼いころ、親の仕事の都合で離れざるを得なかった故郷。田舎なんて何もないと思っていたが、この蒸し暑い空気と草の匂いは、不思議と体に馴染んだ。
「んー!久しぶりの我が地元!やっぱり田舎は空気が違いますなあ!」
隣で妹が大きく伸びをする。
「お兄ちゃんも心なしか元気いっぱいじゃん。来る前の車の中じゃ、『めんどくさい』だの『田舎なんて何もないからつまらない』だの言ってたのにさ」
「うるさいな…。まあ、思ったよりは悪くないってだけだ。空気がうまいのは認める」
「ふふん、素直じゃないんだから。じゃあ私は先に民泊に行ってるからね!」
妹はそう言うと、予約していた小さな宿へと入っていった。一人残された俺は、このまま宿に入るのも手持ち無沙汰に感じていた。
「さて…どうすっかな。せっかくだし、少し歩いてみるか」
俺は、記憶を辿るように村を散策することにした。
見渡す限り田んぼと山。昔と何も変わらない、しかし、それが妙に落ち着く風景だった。
「…こっちじゃ…」
「ん…?」
ふと、山のほうからか細い声が聞こえた気がした。空耳か、と首を傾げる。
「…早う…儂のもとへ来ておくれ…」
いや、違うな…確かに聞こえる。誰かいるのか…?
今度ははっきりと聞こえた。不思議と不気味さはなく、むしろ懐かしいような、心惹かれる声だった。俺は、まるで操られるかのように、声のする山の中へと足を踏み入れていた。
「…そうじゃ、こっちじゃ…」
草木をかき分け、獣道のような場所を進むたびに、声が近くなっていく。
「(こんな道、あったか…?)」
「…おぬしの顔を、儂に見せておくれ…」
小枝が肌を掠め、小さな傷がいくつもできる。そんなことも構わずに進んでいると、森の奥にぽつんと、寂れた神社が姿を現した。鳥居は朽ちかけ、社も色褪せている。
「うわ…すごい寂れてるな。こんなところに神社なんてあったか…?」
社に近づいた、その時だった。
「…っ!?」
背後から、ふわりと柔らかな何者かに抱き着かれた。甘く、花のようないい香りが鼻をくすぐる。驚いて身動きが取れない俺の耳元で、あの声が囁いた。
「おぬし…遅かったじゃないか。いままでどこに行っておったのじゃ…」
「なっ…誰だ!?離せ!」
急いでその腕を振りほどき、振り返る。そこに立っていたのは、白を基調とした着物のような服をまとい、美しい銀髪と、まるで狐のような耳と尻尾を持つ、人間離れした美しさの女性だった。
「あんたこそ、誰なんだ…?俺に何か用か?」
俺の言葉に、彼女は信じられないといったように、大きく目を見開いた。
「おぬし、儂を覚えてないじゃと…?」
「そうか…。儂は…おぬしと別れてから、片時も忘れることなどなかったというのに…。毎日、毎日、おぬしのことだけを考えておったのに…忘れられてしもうたか」
俯く彼女の肩が、小さく震えている。罪悪感のようなものがこみ上げてくるが、どうしても思い出せない。
「…まあ、それでもよい」
顔を上げた彼女は、先ほどまでの悲しげな表情とは打って変わって、恍惚とした笑みを浮かべていた。
「おぬしがこうして再び儂のもとへ戻ってきた…。それだけで、十分じゃ」
そう言うと、彼女は廃れた社の階段にちょこんと腰掛けた。
「ほれ、さっさとこっちにこんか」
「ひっ…」
その声は、先ほどまでの安心する響きとは違い、脳を痺れさせるような蠱惑的な響きを帯びていた。ぞわり、と背筋に悪寒が走り、俺は無意識に後ずさっていた。
「(なんだよ…その目は…。さっきと、全然違うじゃないか…!)」
「ん?どうした。そっちに儂はいりゃせんぞ?」
彼女はくすりと笑うと、すっと立ち上がり、一歩、また一歩と俺に近づいてくる。
「それとも、儂から行ってほしいんか?」
その言葉に、本能が警鐘を鳴らす。これ以上近づかれてはいけないと。
「あ、あぁ!そうだ、今日はもう帰らないと!飯の約束があるんだ!」
我ながら情けない声だった。だが、今はとにかくこの場を離れたかった。俺の言葉に、彼女はぴたりと足を止める。
「食事の、約束か…」
顎に手を当て、何かを考える素振りを見せる。その沈黙が、恐ろしく長い時間に感じられた。
「………。」
「まあ、そうじゃな。先約があるのならば仕方ない。今日はもう帰るといいのじゃ」
ふっと雰囲気を和らげ、彼女はあっさりとそう言った。あまりの変わりように戸惑いながらも、俺は安堵の息を漏らす。
「そ、そうか!じゃ、じゃあな!」
一刻も早くこの場を離れたい一心で背を向け、もと来た道を戻ろうとした、その時。
「ああ、少し待て」
引き留める声に、足が縫い付けられたように止まる。
「その先約とやらが終わった後、もちろんまた儂に会いに来てくれるんじゃな?」
二度と来るつもりなんてなかった。だが、ここで下手に刺激してはいけない。俺は早くこの場を離れたい一心で、こくこくと頷いた。
「そうかそうか!それはよかった!それならもちろん…」
彼女は満面の笑みを浮かべると、俺の目の前に立ち、そっと俺の右手を取った。
「(やめろ、触るな…!)」
「'約束'、交わしてくれるじゃろ?」
そういうと、彼女は俺の小指に自分のそれを絡ませ、指切りの形を作る。ひんやりとした彼女の指の感触に、心臓が跳ねた。
「指切りげんまん、嘘ついたら…」
彼女は妖艶に微笑み、囁いた。
『おぬしを引き込むからの?』
「―――っ!!」
底知れぬ恐怖。俺は彼女の指を振り払い、もと来た道をがむしゃらに走り出した。背後から彼女のくすくすという笑い声が聞こえる。
「もうおぬしは儂から逃れられん。永遠の時を、共に紡ごうじゃないか」
「はぁっ、はぁっ…!おい!」
息を切らして民泊に転がり込むと、ちょうど外に出てきた妹と鉢合わせた。俺はわけもわからず妹の肩に泣きついた。
「頼む!早くここから出よう!今すぐ帰るんだ!」
「ちょっ、ちょっと!?どうしたのいきなり!」
「はあ!?今すぐに帰りたい!?今日来たばっかりだよ!?」
「(やばい、やばい、やばい…!あいつが来る!)」
「うーーん…」
妹は頭を抱えて悩んでいたが、必死な形相に何かを感じ取ったらしい。
「…わかった!そんなにお兄ちゃんが慌ててることなんて滅多にないし、何か事情があるんでしょ」
「まだ荷物も出してないし、とっとと車出すから先に乗ってて!」
その言葉に、俺は心の底から歓喜した。
車が走り出すと、緊張の糸が切れた。
「にしてもさっきのお兄ちゃんの顔!マジで面白かった~!」
後部座席でぐったりしている俺を、バックミラー越しに妹がからかう。ムッとはしたが、急な願いを聞いてくれた手前、何も言えなかった。
「で、急にどうしたの?いきなりあんなお願いして」
妹の問いに、俺は答えられなかった。
「(言えるわけないだろ…山奥の神社で、狐みたいな女に追いかけられたなんて…!言ったら、こいつまで巻き込んじまう…!)」
「…まあ、答えにくいこともあるよね。とりあえず疲れてそうだし、家に着くまで寝てていいよ」
妹の優しさに甘え、俺はゆっくりと目を閉じた。意識が遠のいていく…。
『…ひどい嘘つきじゃのう…』
「…!」
はっと目が覚めると、俺はあの神社に立っていた。月明かりが、闇に沈む社をぼんやりと照らしている。
「嘘だろ…。また、ここかよ…」
「おやおや、随分と夜更けに来てくれたのう」
声のする方を見ると、彼女が階段に座り、楽しそうに足を揺らしていた。
「まあよい。ほれ、【こっちに来るのじゃ】」
その言葉をかけられた瞬間、俺の意思とは関係なく、体が勝手に一歩、また一歩と彼女の方へ進み始める。
「やめろ…!なんで、足が、勝手に…!動け!俺の体だろ、言うことを聞け…!」
抵抗も虚しく、俺の体はついに彼女のもとへたどり着いてしまう。彼女は立ち上がると、愛おしそうに俺の頬を撫でた。
「よーしよし。おぬしはいい子じゃのう。こうしてまた儂のもとに会いに来てくれて、うれしいぞ?」
抜け出そうともがく俺の動きが、ぴたりと止まる。周囲の空気が一変し、肌を刺すようなプレッシャーが俺を襲った。彼女の瞳から、光が消えていた。
「それはそれとして、おぬし」
地を這うような低い声が、鼓膜を震わせる。
『なぜ、'約束'を破った?』
「(約束…?あぁ、あの時の…指切りの…!)」
ぞっとする。全身の血が凍り付くような感覚。
「確かにわしは'約束'通りにおぬしが来たらおぬしを結界に閉じ込めておくつもりだったのじゃ。」
「だとしても、だとしてもじゃ。」
「おぬし'約束'を破ることはなかろう」
「これでは儂は、おぬしをこうして夢の中でしか愛でることができんじゃないか」
そっと、彼女の手が俺の頭に触れる。
「まあ、よい」
彼女は再び、妖しく微笑んだ。
「おぬしがこうして儂の夢を見るたび、儂とおぬしの存在は混じり合い、近づいてゆく。そしていずれは、おぬしを完全に…」
『手に入れることができるからのう』
「それまでの辛抱なのじゃ。なあに、すぐ終わる。おぬしも、毎晩儂に会いに来てくれていいからのう?」
「お兄ちゃん!!」
大きな呼び声と同時に体を勢いよく起こすと、ゴツン、と鈍い音がした。
「に゛ゃ゛あ゛ん!」
目の前で妹が頭を押さえてうずくまっている。どうやら俺の頭とぶつかったらしい。
「いったたた…ちょっと!急に起き上がらないでよ!!」
「わりぃ…って起こしたのはそっちだろ…」
文句を言いつつも、夢から覚めたことに安堵する。
「にしても大丈夫?すごいうなされてたよ。『やめろ』とか言って。まあいいや、とりあえず家に着いたから。鍵、よろしくね~」
妹はそう告げると、先に家に入っていった。俺は任された鍵を閉めるために車から降りる。ひんやりとした夜風が、汗ばんだ首筋を撫でた。その時だった。
『明日もまた、夢で会おうのう…おぬし…』
「…っ!」
反射的に振り向く。しかし、そこには濃い夜の闇が広がっているだけだった。
妹が聖人すぎる…。