カチャリ、と玄関のドアが開く音に、俺の心臓が大きく跳ねた。ビクリと震える肩を必死に押さえつけ、リビングのソファから立ち上がる。帰ってきた。彼女が。
「ただいまー。はぁ…もう最悪。聞いてくれる?部長、私が昨日徹夜して作った資料に目を通しもせずに、『なんか違う』ですって。信じられる?私の努力、何だと思ってんのかしら」
重い足取りで部屋に入ってきた彼女は、バッグをソファに放り投げると、俺の隣にどさりと腰を下ろし、その勢いのまま肩に頭を預けてきた。
「…で?あんたは今日、何してたの?ちゃんとお留守番してた?私がいない間、変な電話とかかかってきてないでしょうね?いい子にしてた?」
「…うん。ちゃんとしてたよ。電話も、なかった」
俺はか細い声で答える。機嫌を損ねるな。息を殺せ。ただ嵐が過ぎ去るのを待つように。彼女はしばらく仕事の愚痴をこぼしていたが、不意に何かを思い出したように体を起こし、バッグに手を突っ込んだ。
「あ、そうそう、お土産。これ見てよ。会社の帰り道で、変なのが落ちてたから拾っちゃった」
そう言って彼女が取り出し、俺の手のひらに乗せたものを見て、俺は息をのんだ。
「これ…まさか…」
それは、先日こっそりと電話で助けを求めた大学時代の友人が、SNSで「お気に入り」だと自慢していた、特徴的なデザインのスマホケースだった。片方の角は砕け、痛々しいヒビが無数に入っている。
全身から急速に血の気が引いていく。恐怖で凍りつき、指先が冷たくなっていくのを感じた。
「どうしたの?そんなに真っ青になって。面白いデザインだよね。…でもこれ、どこかで見たことあるような気もするんだよねえ。もしかして、あんたがこないだこそこそ電話してた『お友達』のじゃない?違うかな?人違いかなあ?」
「ちが…う。人違いだ…」
震える声で否定するのが精一杯だった。彼女は俺の顔を覗き込み、心底楽しそうに笑う。その目は、全く笑っていなかった。
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夕食が終わり、食器を片付け終えた頃。テレビの音が響くだけのリビングで、彼女はリモコンで電源を消した。部屋が、不気味な静寂に包まれる。
「ねえ、こっち座んなさいよ」
低い声で命じられ、体が強張る。
「やめ…てくれ…」
「何か言った?」
「…なんでもないです」
俺は震える足で彼女の正面の床に座る。彼女はソファの上から、俺を見下ろしていた。俺が黙り込んでいると、彼女は呆れたように大きなため息をついた。
「はぁ…まだ白状しないんだ。しょうがないなあ。あんたが誰に何を話したか、私が知らないとでも思ってるの?」
彼女は自分のスマートフォンを取り出すと、画面を数回タップした。次の瞬間、スピーカーから流れ出した音声に、俺は全身の血が凍り付くのを感じた。
『だから、警察に行きましょう!俺くんを助けなきゃ!』
『ダメだ!あいつに見つかったら…!』
「なんで…どうやって…」
絶望に染まる俺の呟きを、彼女は満足げに聞いている。
「どう?これで分かった?あんたがこの家で話すことは、ぜーんぶ私に聞こえてるんだよ。当たり前でしょ?あんたが悪い虫にそそのかされないように、この部屋中に盗聴器を仕掛けてあるんだから。全部、あんたを守るため」
彼女は録音を止めると、スマートフォンをテーブルに置いた。
「『警察に行きましょう』だって。笑わせるよね。あの女、あんたを私から奪おうとしたんだよ?万死に値すると思わない?」
次の瞬間、俺の髪が強く掴まれ、無理やり顔を上げさせられた。
「ぐっ…!離せ…!」
目の前には、怒りに燃える彼女の瞳がある。
「この裏切り者!私がどれだけあんたを愛して、面倒を見てやってるか、これっぽっちも分かってないのね!?」
答えを求める間もなく、頬に稲妻が走った。
「ごめんなさい…!」
「痛い?痛いよね!私の心はもっと痛いんだよ!あんたに裏切られて!」
床に倒れ込んでも、容赦のない蹴りが腹部に何度も叩き込まれる。
「うぐっ…!もう…しません…許して…ください…!」
「どうして私だけを見てくれないの!私がいないと何もできないくせに!」
罵声と暴力が、嵐のように俺に降り注ぐ。抵抗する気力も、助けを呼ぶ声も、とうの昔に失われていた。
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どれくらいの時間が経ったのか。暴力の嵐が過ぎ去り、俺はフローリングの上でぐったりと横たわっていた。荒い呼吸を繰り返す彼女の足元で、ただ痛みに耐えていると、不意にしゃくりあげるような嗚咽が聞こえた。
「うっ…ひっく…ごめ、なさい…。殴るつもりなんて、なかったの…。でも、あんたが…あんたが私からいなくなるって考えたら、頭が真っ白になっちゃって…怖くて…」
彼女は俺のそばに崩れ落ちると、震える手で俺を抱き起こした。その腕は、先程まで暴力を振るっていたものと同一とは思えないほど、優しく感じられた。それが余計に恐ろしかった。
「ああ、見て、こんなに痣になっちゃって…。ごめんね、本当にごめん。痛かったよね。でも、これもお仕置きだから。私を裏切った罰なの。でも愛してるの。愛してるから、ついカッとなっちゃうのよ…。分かるでしょ?」
「…はい」
恐怖に支配された口が、勝手に肯定の言葉を紡ぐ。
彼女は救急箱を持ってくると、俺の顔や腕にできた傷に、丁寧に消毒液を塗り始めた。
「ほら、ここも擦りむいてるじゃない。動かないで、薬塗ってあげるから。こんな綺麗な肌に傷つけちゃって、私って本当に馬鹿…」
沁みる痛みに俺が「いっ…!」と声を漏らすと、彼女は悲しそうに眉を寄せた。
その日の夜、彼女は傷だらけの俺をベッドまで運ぶと、強く、強く抱きしめてきた。
「愛してるよ。本当に、心から愛してる。もう大丈夫。もう誰もあんたを奪いに来たりしない。私が守ってあげるから。ずっとずーっと、この腕の中で愛してあげる。だから、もう二度と、私から離れようとなんて考えないでね。約束よ?」
背中に回された彼女の腕の力強さに、俺はもはや抵抗することもできず、ただ暗い天井を見つめることしかできなかった。
今更だけどヤンデレじゃないよね