居酒屋で記憶をなくしてから、大学の美少女からやたらと飲みに誘われるようになった件について 作:古野ジョン
『……怜、怜なのか?』
その声を聞いたとき、サイトカインでぼやけていた自分の心が目覚めた気がした。間違うはずもない。今、俺が電話しているのは――夏織さんだ。
「夏織さん……」
『怜なんだな? 本当に……本当に怜なんだな?』
「は、はい。自分は岸本怜です」
『良かった。また、君と話すことが出来て……』
夏織さんの声は震えていた。また泣かせてしまったのかもしれない。二度も女性を泣かすなんて、自分は本当に罪深い行いをしてしまったな。
『えっと……怜、その……』
言葉に詰まり、言いよどんでいる夏織さん。何を言うべきか分からないのだろうけど、俺だって同じだ。どんな言葉を紡げばいい? どんな気持ちを伝えればいい? いや、違うな。……そんなの、一つに決まっている。
「あの日のこと、本当に申しわ『不徳の致すところ、本当にすまなかった!』
……えっ? なんて? 謝罪したつもりが、夏織さんの声に遮られる。
「か、夏織さん?」
『本当に面目ない。私がどれだけ君を傷つけてしまったのか、深く反省している』
「なんで、夏織さんがそんな――」
『謝らせてくれ! 桜からあの二人の正体を聞いたんだ。本当は私が向き合わなければならなかったのに、君に……』
電話の向こうで頭を下げている姿が容易に想像できるくらい、夏織さんはありとあらゆる謝罪のフレーズを並べ立てていた。どうしてこの人は……俺を責めずに、自分を責めることが出来るのだろう。
「あの、夏織さん」
『ど、どうした?』
ずっと謝られっぱなしというわけにはいかないので、こちらからも話を切り出した。もちろんあの夜のこともあるけど、まず俺が頭を下げなければならないのは――
「心配をかけて、申し訳ありませんでした」
『怜……』
あの日からずっと、夏織さんたちを心配させてしまったことに対してだ。いくら体調が悪かったとはいえ、音信不通では不安になるに決まっている。
「あの日から体調を崩して、ずっと大学を休んでいました。今は少し落ち着いています」
『怜が謝ることじゃない。しっかり休んでくれ』
「ありがとうございます。それで……」
『怜?』
伝えなければならないのは謝罪の言葉だけじゃない。もう一つ、今こそ言わなければならない気持ち。それは――
「肉豆腐、すごく美味しかったです。人生で一番でした」
『そっ、そんな! 怜は大げさに言い過ぎだ……』
「いえ、食べていて本当に幸せでした。心が元気になりました」
『そんなこと、ない……』
なぜだか、顔を赤くしている夏織さんの姿が頭に浮かんだ。さっきまで泣いていたみたいだけど、もう大丈夫みたいだな。安心した。
『そっ、そうだ!』
「?」
夏織さんが急に話題を変えた。照れ隠しなのかな、なんて。
『怜はいつから大学に来られるんだ?』
「えっ?」
『その……体調が戻ったら、また来てくれるんだろう?』
「ああ、えっと……」
そうだった、そこを説明しないとな。夏織さんとまた話せるようになって、心も落ち着いてきた。俺としても大学に行きたいのだけど――
「実は、しばらく実家に帰ることになりました」
『じ、実家?』
「前にも言った通り、自分は高三の頃に体を壊してるんです。今回の体調不良も、ちょっとそれを引きずっている面もあるみたいで」
『大丈夫なのか!?』
「ああいえ、命に別状はないですから! ただ……親が心配していまして。もう夏休みに入りますし、実家で静養するように言われました」
『そうか……』
今日は比較的マシだけど、体が万全ではないのも事実。まだテストが終わってない講義もあるけど、教員に連絡したらレポート提出で単位を貰えることになった。本当は夏織さんに直接会って頭を下げるべきなのだけれど、しばらくは無理だろう。
『い、いつ帰るんだ?』
「熱もだいぶ下がってきたので、今週末には帰ります。大丈夫ですから、どうか心配しないでください」
『……分かった』
夏織さんはすごく残念そうだった。だけど、こればかりは仕方ないか。こっちの家で倒れでもしたら洒落にならないし、両親が心配する気持ちも無下には出来ない。
『な、なんだ桜!? すまない怜、ちょっと電話を代わ――』
『もしもし、聞こえる!?』
な、なんだ!? 急に騒がしくなったと思えば、白兎の声が聞こえてくる。
「な、なんですか?」
『アンタが具合悪いのに夏織がいつまでも電話しそうだったから代わったの!』
「えっ!? あ、ありがとうございます」
すごい気遣いだな。というか、夏織さんという人間の特性をよく分かっているあたり、さすが高校時代からの付き合いだ。
「あの、白兎さんもありがとうございました。いろいろしてくれてたんですよね?」
『私の方こそ悪かったわ。隠れファンのこととか、アンタにもっと情報を伝えればよかった』
「いえ、もう終わったことですから。あまり気にしないでください」
『ありがと。それで、何? 実家に帰るの?』
「ええ、まあ」
『全く、アンタらは本当に手がかかるんだから……』
「えっ?」
『いいから! アンタはベッドで寝てなさい! じゃあっ!』
と、そこで電話が切れてしまった。夏織さんの前で俺のことを「アンタ」とか呼んで大丈夫なのかな。いろいろな意味で怒られそうな気がするけど……。
「怜くん、もういいかな?」
「あっ、お前の携帯だったな」
松岡は俺が差し出したスマホを受け取り、ズボンのポケットにしまっていた。今度こそ荷物をまとめて、ゆっくりと立ち上がる。
「じゃあ、今日は帰るよ。お大事にね、怜くん」
「いろいろとありがとな。助かったよ」
「気にしないでってば。じゃあね」
「ああ、またな」
リビングを出ていく松岡の背中を見送って、再びベッドに横になった。結局また、あの夜のことを打ち明けるチャンスを逃してしまったな。だけど夏織さんとの縁はまた繋がったんだ。大丈夫、もう一人じゃない。
自分にそう言い聞かせて、静かに目を閉じる。穏やかな気持ちで、まどろみの中に落ちていった……。