居酒屋で記憶をなくしてから、大学の美少女からやたらと飲みに誘われるようになった件について   作:古野ジョン

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第50話 抜け駆け

 大声を出しただけなのに、咳き込みそうになった。一歩を踏み出しただけなのに、息が切れそうになった。他人を追いかけられる状態でないことは、自分が一番理解している。それでも駆けださずにはいられなかった。

 

「夏織さんッ!」

 

 小さくなっていく背中に、無我夢中で手を伸ばす。届くはずもないけど、届くような気がしたからだ。嫌われても仕方がない、そう思っていた自分はもう消えた。俺はまだ――夏織さんを諦めたくないっ!

 

「ぐっ……!」

 

 足がもつれる。倦怠感に飼い慣らされていた体が、一瞬の神経伝達に応じてくれるはずもなかった。僅かな凸凹に躓き、前に倒れこむ。辛うじて受け身を取ったけれど、もろに地面に激突してしまった。

 

「っ……!」

 

 大きな音が響いて、衝撃の凄まじさを物語る。ずっと横になっていた体を目覚めさせるような、そんな強烈な一撃だった。長袖長ズボンの服装が功を奏して、擦りむいてはいないみたいだ。

 

 今すぐ起き上がって夏織さんを追いかけたかったけど、全身の痛みがそれを阻んでくる。立て、立つんだと脳が命じても筋肉が応じない。地面に這いつくばって、ただ動かぬまま。なんて惨めだろうか。

 

「はは……」

 

 変な笑いが出てきた。大事な人を追いかけることすら出来ないなんてな。夏織さんにとって、今の俺はどういう風に映っているのだろう。自分を騙し続けた悪い男、とでも思っているかな。……寂しいな。

 

 こんな状況に置かれても、まだ夏織さんを追いかけようと思う自分がいた。起き上がれないなら、地面を這って行けばいい。必死に両手両足を動かし、もがく。もがいて前に進む。

 

「ぐっ……!」

 

 痛みを堪えて、ただひたすら前進する。服は泥だらけになっているだろうけど、構うもんか。一センチでも一ミリでもいい。少しでも夏織さんに近づければ、それで――

 

「――怜っ!!」

「……へっ?」

 

 その時、前に動かそうとした俺の右手を掴む者がいた。顔を上げると、そこにいたのは――息を切らし、目を真っ赤に腫らした夏織さんだった。驚きのあまり、思考が停止するかのように感じる。

 

「怪我をしてないか、怜っ!」

「夏織さん、どうして……」

「いいから、私に掴まれっ!」

 

 言われるがまま、無我夢中で体を起こし、夏織さんの身体にしがみつく。自分の服が汚れていることをすっかり忘れていたけど、夏織さんは気にも留めていないようだった。

 

「起き上がれるかっ、怜!?」

「はっ、はい。なんとか……」

 

 肩を借りて何とか立ち上がった。夏織さんと一緒に、一歩ずつ足を進める。そのまま歩いていって、俺は車椅子に戻ることが出来た。

 

「良かった。大した怪我はしていないみたいだな!」

「なんで……」

「ん?」

「なんで戻ってきてくれたんですか、夏織さん……」

「そっ! それは……」

 

 困惑しながら尋ねると、夏織さんは照れ臭そうに頬をかいた。あんな風に駆け出していったのに、この人は戻ってきてくれた。何が……何が、そうしてくれたのだろう。

 

「すまない。その……さっきは、つい逃げ出してしまったんだ」

「えっ?」

「覚えてないと言われて、頭が真っ白になった。怜に裏切られたような気がして、どうすればいいのか分からなくなったんだ」

「……そうでしたか」

「でも、すごい音がしたから我に返った。戻らないといけない、そんな気がしたんだ」

 

 夏織さんはにっこりと笑った。その眩しさに、思わず心がとらわれてしまいそうになる。いや……あるいは既に、とらわれてしまっているかも。転んだ物音で気づいてくれたってことなら、車椅子から立ち上がった甲斐があったというものだ。

 

「だいたい、怜を置いて逃げ出すなんてどうかしていた。怜はいろいろなことを教えてくれた、共に楽しく過ごしてくれた……恩人なのだからな」

「夏織さん……」

「『嘘つき』なんて言ってすまなかった。むしろ、怜は正直だから打ち明けてくれたのだろう?」

「でも、僕はずっと――」

「いいんだ。わっ、私はただ……」

「ど、どうしました?」

「わたっ、私は……」

 

 滔々と話していた夏織さんが、突然言葉に詰まった。もじもじと何かを言いよどんでいるみたいで、首をかしげる。こんな光景もよく見たなあ。夏織さんが発する言葉がいつも予想外で、驚かされて――

 

「過去の自分を斬ってしまいたいと思っているんだ!!」

「!?」

 

 何の話!? 過去の自分!? 今度は何を言い出すつもりなんだ!?

 

「つまり、その……地下鉄の駅で会ったとき、私は何も知らない男に電話番号を渡したということだろう!?」

「僕からすれば、まあ……」

「しかも私は君を飲みに誘ってしまった! これでは街中で婦人に声を掛ける色男と何も違わないではないか!?」

「えっと、それは……」

 

 違いますよ、と否定してあげたかったが……事実なので仕方がない! ほいほい誘いに乗った俺が不用心なだけで、あの時の夏織さんの行動ってナンパそのものだよな。

 

「本当に自分が恥ずかしい! 怜、どうか私を斬ってくれ! 君にしか出来ないことなんだ!」

「そんなこと出来るわけないじゃないですか!?」

「やっ、やっぱり怜が悪いぞ!」

「えっ!?」

「『お嫁さんに貰ってもいいくらい』だなんて言って! どう責任を取ってくれる!?」

「だから覚えてないんですって!」

「あ~そうだった! これでは私が勝手に舞い上がっただけではないか! 女子校育ちはこれだから駄目なんだ!」

「え、でも白兎さんには彼氏が」

「うるさい! 桜は裏切り者だ!」

「えええっ!?」

 

 せっかく松島まで連れてきたのに裏切り者呼ばわりとは、白兎もなかなか不憫な奴である。なんだか今日の夏織さん、いつもよりもはっちゃけているな。いろいろ思っていたことをぶちまけているのかもしれない。でも、こんな姿も……すごく愛おしく思える。

 

「だいたい、さっきの怜だって!」

「さっき?」

「『打ち明けなければいけないことがある』とか言うから、告白されるのではないかと思ったじゃないか!」

「!?」

 

 告白!? ちょっ、何段飛ばしの話をしているんですか夏織さん!?

 

「そっ、それは誤解ですって!」

「誤解!? 『お嫁さんに貰っても』って言ったのに!?」

「だから覚えてないんですってば!」

「さっきから開き直っていないか!?」

「居直ってます!」

「意味は同じだろう!? それになんだか随分と元気じゃないか! 私の心配は何だったんだ!?」

「体が動かないだけですから! ちゃんと頭では考えてますって!」

「ああもう! 私はっ、私はだなっ……!」

 

 顔を真っ赤にしてああでもないこうでもないと騒いでいた夏織さんだったが、また何か言いよどんでいる。さっきまではお互いに泣いたり悲しんだりしていたのに、これじゃあまるでコメディ漫画――

 

「自分から告白しようと思ったのにっ、怜に先を越されるのかと思って焦っただけなんだっ!」

「……へっ?」

 

 時が止まったような気がした。……いまなんて言った? 自分から告白しようと思った? 夏織さん、それってもう告白と同義じゃないですか? 今度はこっちの頭が真っ白なんですが。

 

「ん、どうしたんだ? そんな驚いた顔をして」

「……夏織さん、先に告白しようと思ってたんですか?」

「それが何か?」

「自分で気づいてないんですか?」

「何の話だ? 怜は変なことを言うな――」

 

 と言いかけたところで、夏織さんが固まった。ようやく事態が把握できたみたいで、今まで見たことないくらいに顔が赤く染まっていく。

 

「あ……ああっ! 怜っ、これはその……冗談と言うか、えっと……」

 

 夏織さんは激しく気が動転して、視線が右往左往している。いや……俺だって動揺しているな。

 

 自分に対して夏織さんが特別な感情を向けていることは、薄々感じ取っていた。不器用に距離を詰めてくる様子も、俺との会話を無邪気に楽しむ様子も、ただただ可愛らしいと思って眺めていた。だけど……いざはっきり形になると、どうすればいいのか分からない。

 

「わっ、私はっ! そのっ、怜に告白しようってその……いやっ、そうじゃなくて!」

「夏織さん」

「なんだ!?」

 

 力を振り絞って、再び車椅子から立ち上がった。たぶん、夏織さんは俺のことが好きだ。じゃあ、俺は夏織さんが好きか? 自分に問いかける。

 

 どんな言葉でも形容できないくらい美しくて、何を伝えるのにも不器用で、ひたすらに真っすぐで、挙げ出したらきりがないくらい良いところがたくさんあって。夏織さん以上の女性が考えられるか?

 

 ……そんな難題を考えるより、自分の気持ちを確かめる方がよっぽど簡単だな!

 

「先に謝ります。抜け駆けしてすいません」

「なっ、何の話だ――」

 

 困惑している夏織さんに向かって、倒れこむようにしがみついた。背中に手を回し、力の限り抱きしめる。温かい。夏という文字が表しているように、本当に温かい人だ。

 

「れっ、怜!?」

 

 戸惑う声も気にせず、そっと耳元に口を寄せる。何と言えばいいだろう。洒落た言葉は思いつかないし、今更飾っても仕方ないか。

 

 思い切り息を吸い込む。伝えるべきことはシンプルに。素直な夏織さんに、まっすぐ受け止めてもらえるように――

 

 

「好きです」

 

 

 精一杯、言葉を紡いだ。

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