――阿部の前世は呪術師だった。
人々の平穏を脅かす呪霊なる生命体が蔓延る世界にて、彼は毎日のように呪霊を祓い続けていた。
死と隣り合わせの仕事ではあったが、苦と思ったことは一度も無い。それどころか呪霊を祓って人々を護ることが彼の生きがいだった。純粋な正義感が呪術師を続けていくうえでの原動力となっていたのだ。
何に対しても真面目で、心優しく、平等で。阿部はそういう人間だった。
しかし、仲の良かった呪術師たちの死が彼の心を徐々に荒ませていった。
仲間の返り血が顔に着く度に身体が震えた。
仲間の臓物を見る度に激しい吐き気に襲われた。
仲間の悲鳴を聞く度に死への恐怖に蝕まれていった。
――なんで僕たちを見捨てたの?
死んでいった仲間たちが問いかけてくる。
見捨てるつもりはなかった、そう答えようにも彼らは何度も何度も問いかけてくる。
――なんで君は生きているの?
その言葉に、息が止まった。
元々あった罪悪感が更に膨れ上がって、彼の中にあった宝石に亀裂を入れた。ピキリ、ピキリとゆっくりヒビが広がっていく。それは後々、修復しようにも手遅れな大きな傷となり、阿部を苦しめた。
命の重圧に、押しつぶされそうになっていた。
阿部はその苦痛に耐えきることができなかった。最初とは打って変わって心も身体もボロボロで、呪術師を続けていくことが苦でしかなくなった。やがてナイフを握ることさえできなくなった。
責任という名の鎖が阿部の身体を縛る。
手が、足が、動かない。声も出ない、頭も回らない。
戦う術を忘れた彼は、39歳という若さでこの世を去った。
胸部にポッカリ空いた穴をボンヤリ見つめ、静かに死んでいった。死への恐怖にとらわれ、最後まで怯えながら死んでいった。
それが、阿部という人間の人生だ。
そして阿部は、第二の人生を歩み始めることとなる。
ヒーローとヴィラン、そして個性なる能力が存在する世界に阿部は生まれ落ちた。
残念ながらこの世界にも呪いは存在した。
辺りを見渡せば呪霊、呪霊、呪霊。前世と殆ど変わらぬ光景がそこには広がっていた。
しかし、今の阿部に全盛期程の勢いはなかった。
呪力もある、術式もある、けれどもそれを使って人を救おうとはもう考えなかった。
前世で救えなかった人々の声がそれを拒むのだ。
――どうせ救えないくせに、護れないくせに。
頭の中でずっと響いている。
それと同時に死への恐怖が足を掴んでくるのだ。そして耳元で囁いてくる。
「護れないのであればはなから関わらない方がいい、責任なんて背負わなくていい」、そうやって黒い天使は阿部の弱さにつけこみ、甘い声で誘おうとする。
阿部はそれを聞いてこう思った。
確かにそうだ。ああ、その通りだ。
否定的な意見を抱くどころか、彼は天使の言葉をすんなりと受け入れた。
憔悴しきっていた彼には最早、正しい判断ができる程の能力は残っていなかったのだ。例えそれが非情な判断であったとて、それにさえ気づくことができなかったのだ。
その日から阿部は、呪霊に襲われている人間を見ても、呪いに苦しんでいる人間を見ても、見て見ぬフリをするよう心がけた。
そして目を逸らす度、罪悪感を押し殺して言い訳を並べるのだ。
俺は悪くない、俺には関係のなかったこと、あの人たちは運が悪かった。
何も見ないようにした。何も聞かないようにした。何も感じないようにした。
関わらないように、繋がりを持たないように。それが自分が生きていくうえでの最善の選択、そう言い聞かせて毎日自分の行いを無理やり正当化させていた。
しかし、阿部は未だに己の武器を手放すことができなかった。
それは彼にとってのなけなしの戒めだった。
あの日自分が救えなかった人々を忘れぬよう、無かったことにしないよう、これから見捨てていく人々を忘れぬようにするため、毎日ナイフを持ち歩くことを習慣づけた。
死んでいった人々から与えられる苦しみを一生背負っていく、それが阿部にとっての、阿部なりの贖罪だった。
だが、それでも阿部は立ち止まってしまった。心の奥底に抑え込んであった良心があの日、再び存在を主張し始めたのだった。
その日は特に用事もなく、映画でも見に行こうかと近場にあったショッピングモールへと足を運んでいた。
しかし、映画館へ向かう道中、ソレはいた。
人目も気にせず大きな欠伸を一つし、ノンビリとした足取りで映画館から出てくるソレ。
顔はツギハギだらけで、目の色は左右異なる紺と青、三つにまとめれた銀髪、血が通っていないのかと疑いたくなる程色味の無い肌。
独特な外見ではあるものの、人類の約八割が個性を有すと言われているこの世の中、異形型個性と呼ばれるものも存在する中で、特別奇怪な見た目というわけでもなかった。
だが、その男を見た途端、阿部の第六感がすぐさま反応した。
前世にて培われた危機察知能力が、逃げろと警鐘を鳴らしていた。
肌にビリビリと伝わってくるこの感じ、あの気配。
阿部には心当たりがあった。
――特級呪霊。
それに気づいたと同時に鳥肌が立つ。血の気がみるみるうちに引いて行き、顔は驚く程真っ青になっていく。
冷たい汗が背中を伝う。身体が全く動かない。
一見無害そうに見えるものの、その内側で渦巻く膨大な呪力が全てをひっくり返す。今確認できる呪力量だけで確信することができた。
特級呪霊で間違いない、呪術師として生きた時の感覚がそう告げている。
阿部はすぐに逃げようとした。この場にいてはロクなことに巻き込まれかねない、と。
だがどうにも足が動かない。
それは特級呪霊を前にしたことによる恐怖か。
――否、大勢の命を見捨てて自分だけが逃げることに対する躊躇いが阿部をその場に引き留めていたのだ。
しかしだからといって特級呪霊に挑みにいく、なんてことは流石に無い。
昔の彼であれば、人々の平穏を護るためと正面から突っ走っていたことだろうが、今のやさぐれて消沈しきってしまった彼にそんなことができる程の根性が残っているわけではなかった。
逃げるわけでも、祓いに行くわけでもない。
ただただ一人汗を垂らしながら立ち尽くすだけの時間が過ぎていく。
そんな時、ふと目についた赤いボタン。
――あ、これだ。
途端、先ほどまで石像のように固まっていた身体が動き出した。
フラリ、フラリと足を進め、祈るようにして目を閉じる。
そして縋る思いで人差し指を突き出した。