夕暮れの河川敷。
カラスがカァと一鳴きし、黒い翼を羽ばたかせて茜色の空へと消えていく。
阿部は虚ろげな瞳で夕日を眺める。その隣でホークスはいつにも増して深刻そうな顔をして口を開いた。
「アレは、何です」
アレ、それを聞いて昼に起きた公園での出来事が脳内でリプレイされる。
あの後、ホークスの活躍により誰一人被害を出すことなく場を収めることができた。捕獲された小人たちは現在専門機関に送られ、最近世間を騒がせている脳無との関連性も視野に調査が進んでいる。
事は想像以上に大きくなっていた。
今回の騒動に立ち合わせた人々が動画を拡散したことでありとあらゆるメディアがあの日の事を取り上げている。ネット上では様々な考察が繰り広げられており、中には事件の真相に近いものもチラホラ見られた。
まだ呪いの存在に気付いている者はいないが、それも時間の問題かもしれない。ここまで大事になれば国も流石に個性以外の可能性を考え始めることだろう。
そこで阿部が呪いの存在を進言したら――と、一瞬だけそんな考えが浮かんだがすぐに振り払う。
こんなただの一般人の言葉に向き合ってもらえるわけがないし、信じてもらえたとてそこから何ができるか、だ。
死への恐怖と責任にとらわれた今の阿部に、呪霊と戦う力は既に残っていない。前世に蓄えた知識を周囲にひけらかすことしかできない。
阿部はそんな自分に小さく絶望しながら、抑揚の無い声でホークスの質問に答えた。
「あの小人には魂を弄られた形跡がありました、多分あれが本来の姿ってわけじゃないと思います。
おそらくこれも変死事件の犯人の仕業でしょうね。術式は魂に干渉する云々といったところか……」
一人淡々と推測を進めていく阿部に、ホークスは「魂? 呪術師っていうのはそんなことまでわかるんですか」と興味本位で訊ねてみる。それに対して阿部は「俺が特殊ってだけです、気にしないでください」と目を逸らす。
「というか、ホークスさん」声がワントーン落ちる。「今後、この事件にはあまり関わり合いにならない方がよろしいかと」
忠告、それは阿部が呪術師としての視点からこの事件を見て判断したものだった。
呪力量然り、術式然り、知能然り、どの観点から見ても今回の呪霊は特級に値する力を有している。
前世にて阿部が知っている特級呪術師は三人。
九十九由紀、夏油傑、そして五条悟。特級の称号を得るための条件は至ってシンプル。
単独での国家転覆が可能であるか否か。
今現在阿部たちが相手にしている呪霊はそういうレベルの存在であり、決して軽い気持ちで挑んで良いような相手ではない。
ヴィランと呪霊は違う、呪力の籠っていない拳で殴ったとて意味がない。
それを踏まえた上で、術式どころか呪力さえ持ち合わせていないホークスがこれ以上この件に踏み込めば一体全体どういった最後を迎えることかは目に見えている。今までの凄惨な現場を間近で見てきたホークス自身もそれはよくわかっているはずだ。
阿部はホークスと行動するにあたり、少しだけだが、ホークスに対して情を抱いていた。
普段は能天気でふざけた調子の男であるが、ヒーローとして市民を想う気持ちは本物だ。
どんな小さな困り事も見過ごすことなく手を差し伸べ、それを鼻にかけることなくまた手を差し伸べて。軽薄そうなイメージとは裏腹に、その横顔からは、心の底から人々の安寧を望む温かな優しさが滲み出ていた。
そんな高い人間性に、阿部は密かに感心していた。
呪術師を全うしきれなかった自分と比べ、彼の心根の強さには目を見張るものがある。
人間としての模範、阿部から見たホークスという男は大袈裟に言ってしまえばそういう人間だった。
だからこそ、この男は今後の社会のためにも失うべきではないと、こんなことで命を落としていい人材ではないと、阿部は考えた。ただ、それだけのこと。
しかし、ホークスは阿部の忠告に対して首を横に振る。
その顔が何時しかの自分の姿と重なり、ズキリと心が痛んだ。
「アレを野放しにしてたら駄目ってことは今回の件で痛感しました。
阿部さん、もうしばらく俺に協力してください。貴方の呪いへの知識が――」
「ちゃんと言わないとわかりませんか? この件からは身を引いてくださいと言っているんです」
先ほどよりも強い言い方でホークスに忠告した。
その声には強い苛立ちと悲しみが交互に見え隠れしていて、その都度無気力の皮が剥がれていく。激情の片鱗が少しずつ姿を現し始めていた。
「貴方を見ていると、昔の自分を見ているようで酷く不快な気分になる」
己の正義を信じ、自己犠牲の精神で馬鹿みたいに突っ込んでいくそのスタイルに、少し前から阿部は既視感を覚えていた。故に、危惧していたのだ。ホークスが自分のような惨めな人生を歩み始めてしまうことに。
死を恐れ、幻聴に、幻覚に苛まれる日々を送ってほしくない。こちらの世界にこれ以上関わってほしくない。
自分のようには、なってほしくない。
阿部は苦しそうに顔を歪め、ホークスを引き留めようとした。
しかし、ホークスは阿部の忠告に背を向け、ニコリと笑って見せるのだ。
「阿部さん、俺のこと心配してくれてありがとうございます。
でもね――」
その先は聞かずともわかった。いや、なんとなくこの男ならこう言うのだろうと薄々気付いてはいた。
しかし、予想していたにしろカチンときた。平和のためと言い自ら地獄へと進んでいくその愚かさに、抑えていた阿部の怒りがピークに達する。
いつもの物静かな様子とは一転し、阿部はホークスの胸倉を掴み、人生で一番と言っていいほどの大声を上げた。
「何もできねぇくせして一丁前に命張ってんじゃねーよ!!」
口調も忘れてしまう程の、心からの叫びだった。
だが声を張り上げたのは、自己を顧みないホークスの考えに怒りを覚えただけが理由じゃない、自分の情けなさを誤魔化すためにあえて声を荒げたのだ。
呪力を持たないホークスが命を張ろうとしているのに、自分は何もせずただただ傍観し続けるだけ、護られているだけ。阿部は自分の弱さと無力さを恥じていた。
行き場の無い感情を抱えながら、下唇を噛みしめる。
「……アンタは十分に頑張ってんだから、こっちの世界のことまで構わなくていいんですよ」
さっきとは打って変わり弱々しくなった声。胸倉を掴む手を少しずつ緩めていく。
するとホークスはあっけらかんとした声でこう言った。
「じゃあ、呪霊ってのは俺が何かしなくてもどうにかなるもんなんですか?」
「……は?」
まだ抗うか、と最早怒りを通りこして呆れていた。
だが、その質問に阿部は答えることができなかった。
現状、阿部は自分以外に呪霊が見える人間と会ったことがなかった。それどころか、御三家も、高専も、呪術関連の組織もあるかさえもわかっていない。そんな世界で、誰が呪霊を相手にするか、誰が呪霊から人々を護るか。
答えなんてでるわけがなかった。
応えあぐねている阿部に対し、ホークスは「ほら、いないじゃないですか」と揚げ足を取るように小さく笑う。
「どっちにしろ、誰かがやらないといけないんです。
だったら俺しかいないでしょ?」
その無茶苦茶な理由付けに、阿部はすぐさま「無理がある、特級相手にそんな……!」と反論する。しかし、依然ホークスの目が揺らぐことはない。
真っ直ぐで、淀みを知らない綺麗な目だ。
「だから貴方に協力を仰いでるんですよ」
スッ、と手が差し出される。
ポカンとしている阿部に、ホークスは凛とした声で言ってのけた。
「俺と一緒に、命張ってください」
冗談で言っているわけではない、そんなことはわかっている。この男は本気だ。
しかし、ヒーローでもサイドキックでもない、ただの一般人に対してそんなことを言ってしまうホークスに、阿部は驚きのあまり言葉が出なかった。
ヒーローが一般人を危険に巻き込むようなことをしていいのか? そう言ってやりたかった。
呪いに関する有識者が自分しかいないからといって、その誘いを受ける義務はない。当然、すぐに断ろうとした。
だが、何故だか口が動かない。ハッキリ断ろうにも直前でストップがかかる。
迷っているのだ。
こんな断ってなんぼの誘いに、阿部は迷っているのだ。それは何故か? わからない。
阿部自身もそれが不思議で不思議で仕方がなかった。
耳元で黒い天使が囁く。
――また君は背負うの? 何もできないくせに、また背負うの?
しかし、阿部は初めて天使の言葉を否定した。
無意識に、力強く。
――今回は一人じゃない、一人で背負うわけじゃない。この男となら、成し遂げられるかもしれない。
鎖がほどけていく。視界が明るくなっていく。身体に纏わりついていた無数の手が離れていく。
現実と想像の境界線が徐々にハッキリしていき、鉛のように重かった身体が軽くなっていく。
――今なら、変われる。
そう思ったと同時に、自分がホークスの手を握っていることに気が付いた。
ホークスは一瞬だけ目を見開いた後、「ダメ元だったんですけど、よかったぁ」と笑みをこぼした。
我に返り、すぐ取り消そうとしたが「男に二言は無いですよね」と言われて逃げ場を失う。
阿部は観念したかのように諦めの溜息を吐き、ボソリと呟いた。
「……一回だけですからね」