「ねえねえ、俺パン屋寄りたい」
「さっきピザまん買ってあげたばっかりでしょ、流石に食べすぎです。太りますよ?」
「呪霊は太りませーん」
時と場が変わり、休日の駅前。
真人の我儘を聞き流しつつ、阿部は静かにある人物を待っていた。
人の行き来をボンヤリと眺めながら今日の晩御飯を考える。
縛りを結んでからというもの、真人が色んな食べ物をねだってくるようになったので阿部の料理スキルはグンと上がった。キッチンには新しい調理器具も増え、本棚は料理本ばかり。
阿部と真人は主従関係であり、当然ながら主である阿部の方が立場は上だ。しかし、何かと子供っぽいところが多い真人にはどうしても甘くなってしまうのだ。
おかげで今じゃ作れる料理のレパートリーも増え、最近ではフランス料理も作れるようになった。阿部は案外押しに弱い、真人の悪知恵である。
「あ、いたいた。阿部先輩!」
今日はハンバーグでも作ろうか、なんてことを考えていた阿部に駆け寄ってくる男が一人。
男は「お待たせしました」と白い歯を見せながら爽やかな笑みを浮かべる。
今日は大学の後輩と映画鑑賞の約束をしており、その待ち合わせのため駅に訪れていた。
内向的に見えて、案外人付き合いは上手な阿部。見た目は大学生でも中身は一応立派なおじさん、世渡りはお手の物である。
「じゃあ行きましょうか、今日は全部俺が奢りますよ。
今週中で大学辞めるんで、最後くらいは先輩っぽいところを見せておきたいですしね」
「いいんですか? ではお言葉に甘えます」
映画が待ち遠しいあまりかソワソワしている後輩の姿を見て、阿部は思わず表情が緩んだ。そしてホッと心の内で安心するのだった。
「今日は楽しみましょう、夏油君」
今世の彼は幸せそうに生きているな、と。
ーーーー夏油傑。
100人以上もの非術師を皆殺しにし、呪術界の歴史に深く名を刻んだ最悪の特級呪詛師。
夏油の離反を知った当初、阿部は衝撃のあまり頭が真っ白になった。
常に礼儀正しく、気配りができ、冷静で、論理的で。そんな好青年が離反だなんて、到底信じられるはずもなかった。
一体何を思って人々を殺めたのか、何を思って呪術界に逆らったのか。
阿部は知りたかった、あの青年が誤った道へと進んでしまった理由を。
しかし真実を知るよりも先に任務で命を落としてしまい、夏油が離反した理由どころか、離反後にどういった人生を歩み、どういった最後を迎えたのかさえわからなかった。
阿部は今でも後悔している。
後輩の苦悩に、変化に気付いてあげられなかった、寄り添ってあげられなかった。
死の間際も、阿部は夏油のことを考えていた。
夏油という青年は、阿部にとっての唯一の心残りと言ってもよかった。
だから今世で彼と出会った時、思わず自分から声をかけにいってしまった。
何故声をかけたのかは今でもよくわかっていない。ただただ話しかけなければという一心でその肩を掴んだ。
しかし、残念ながら前世の記憶は持ち合わせていないようで「どうも……? 初め、まして」という困惑気味の挨拶を返されただけ。
呪霊も見えていないようで、寧ろオカルトの類は一切信じていない根っからのリアリスト。
見えないフリをしているという可能性もあったが、阿部に嘘は通用しない。
術式の性質上、阿部は魂を視認することが可能だ。
魂とは心であり、心とは魂である。表裏一体、故に嘘を吐けば魂は揺れる。
夏油傑は呪霊が見えない。それを教えてくれたのは紛れもない、夏油傑の魂だった。
どこにでもいるような、極々平凡な大学生。それが今世の夏油傑である。
阿部は安堵した。
夏油が呪いとは縁のない幸せな生活を送っているということを知り、胸を撫でおろした。
呪術師はヒーローとは違い、孤独な職業だ。
仕事をこなしたとて、その功績が表立って公表されるわけでも、大勢からの名声を得られるわけでもない。
社会の裏で静かに命をかけ、静かに死んでいく。それで終わり、そこに悲しみや同情はない。何故ならそれが、彼らにとっての日常なのだから。
そんな世界を夏油が知る必要なんてない、知らなくていい。
綺麗な世界だけを見て、普通に生きてほしい。
それが阿部の願いだった。
幸せな人生を歩んでほしい、危ないことに巻き込ませたくない。
しかし、そう考えていた矢先に事件は起きてしまった。
映画館に向かう道中現れたソイツに、阿部は一瞬だけ思考が停止した。
黒く巨大な体躯に、さらけでた脳みそ、頬まで裂けた口。
そんな怪物が、阿部たち目指して物凄い勢いで迫ってきているのだ。他の人々には目もくれず、こちらに真っ直ぐ向かってきている。
状況がよく呑み込めずフリーズする阿部と夏油。
唯一真人だけは「わあ、これあれじゃない? 脳無ってやつ」と呑気にケラケラ笑っていた。
脳無、ヴィラン連合により作り出された改造人間。常軌を逸したパワーと複数の個性を持ち、雄英高校襲撃事件ではオールマイトをも圧倒した。
それが今、目の前にいるのだ。
だが、阿部が驚いた点はそこだけじゃない。
「呪力を、持っている……!?」
呪力を纏っているのだ。
あの脳無は呪術師同様に、全身に呪力を纏わせることで元々高い身体能力を更に強化している。
真人は愉快そうに「これって、呪霊対策課の出番なんじゃない」と舌なめずり。
やる気は湧かないが、確かにその通りだ。呪霊ではないものの、呪力が確認できる以上、動かないわけにはいかない。
阿部は意を決し、リュックからナイフを取り出す。しかし、夏油は阿部の腕を掴んで「何やってんですか、早く逃げましょう!」と脳無に立ち向かおうとしていた阿部を引き留める。
それと同時に、通報を受けて駆け付けたであろうヒーローが「お前たち何をやっている! 速く此処から逃げなさい!」と避難を促す。
だが阿部がそれに従うことはない。
「俺は公安の人間です、協力させてください」
身分はなるべく明かさないようにと公安の方から言われていたものの、今回ばかりは仕方がない。
阿部はヒーローの男を正面から見据えた。
「俺ならヤツを止められる」
力強く、真っ直ぐな目でそう言ってのける阿部。
ヒーローの男は一瞬迷いを見せたものの、少し考える素振りを見せてから「俺は相澤、何か考えがあるのであればアンタに合わせる。指示を出せ」と、ヒーロー相澤は阿部の言葉を信じることにした。
一人置いてけぼりな夏油に阿部は「夏油君は先に逃げて」と言い、脳無へと立ち向かっていった。
「んで、どうすんのご主人様。やれるの?」
「やれるも何も、ヤツを殺せるのは呪力のある人間だけです。結局は俺たちがやらないといけないことに変わりはない。
君にも見えるでしょ、あの核が」
阿部の前世では、傀儡操術と呼ばれる術式があった。
傀儡操術の使い手は呪力により傀儡を操作する他、呪骸の製造が可能だ。呪骸には心臓の代わりに核が代用されており、その核を壊せば動きは止まる。
そしてあの脳無にも傀儡操術によるものと思われる核が確認できた。
しかも見たところ、呪力の自己保管もできている。術者から供給される呪力で動いているわけでもない。
――完全自立型人工呪骸。
かつての友人、夜蛾正道の存在が脳裏を過る。
完全な自立を可能とした呪骸の製造を成し遂げたのは阿部の記憶上、あの男しかいない。
嫌な考えが浮かぶも、すぐにかき消す。
今考えるべきは目の前の敵、全てはそれが終わってからだ。
「真人君は相澤さんのサポートに回ってください、俺の許可なく勝手なことはしないように」
「りょーかい」
阿部はナイフを握り、正面の敵を見据える。
今回の相手は呪骸、魂が存在しないが故に阿部の術式は通用しない。
呪力によって格段と強度を増したあの肉体に刃を突き立てるには、阿部の全呪力をナイフに籠め、全力の一撃をお見舞いしてやる必要がある。でなければ刃が核に到達するよりも先に筋肉に拒まれてしまう。
しかし、当然ながらそんな全力攻撃が何度も行えるわけではない。
阿部が武器として持ち歩いているナイフはどこにでも売っているような市販のナイフだ。呪力と衝撃のダブルパンチにより生み出される強い負荷に耐えられる程のスペックがあるとは到底思えない。良くて三回が限界だろう。
脳無の核は三つだ。
もし三つ目の核を壊す前にナイフがキャパを超えてしまった場合は真人に頼ることとなるが、まだまだ未熟な面が目立つ彼に任せるのは些か不安だ。あまり期待はできない。
己のターンで全てを終わらせる、その覚悟で静かに戦闘態勢に入った。
呼吸の度に集中力を研ぎらせ、全ての動きを見過ごさないよう慎重に観察する。
タイミングを見計らい、常にクリティカルヒットを狙う勢いで動かなければ核は壊せない。
瞬き無しで動きを一つ一つ負う。
戦いによって生じる隙が必ずどこかにある、絶対に見逃すな。探せ、探せ、探せ。
その直後、相澤の捕縛布と、縄状に変形した真人の腕が脳無の身体に巻き付く。
明らかに動きが鈍くなった。
――今だ。
地面を強く蹴り、脳無との距離を瞬時に詰める。
そして目にもとまらぬ速さでナイフを突き出した。そのまま貫通してしまうのではという勢いで刃が深々と刺さる。
しかし、それと同時に脳無は拘束されていなかった足で阿部を蹴り飛ばした。
壁に全身を強打する阿部、あばら骨に激痛が走り顔を歪める。一瞬だけ意識が飛びかけるも、なんとか寸前で耐えてフラリと立ち上がった。
そんな阿部をみかねた相澤がすぐさま駆け寄ろうとするが、阿部は右手でそれを制止する。
「……あと、二回だ」
絶対に殺す、何が何でも殺す。
怒りによる殺意では決してない、己に与えられた使命を全うするための殺意が阿部から発せられていた。その執念はまさに一種の狂気。
呪術師だからイカレているわけではない、イカレているから呪術師なのだ。
鼻血をベロリと舐め、ナイフを構え直す。
脳無は真人と相澤の拘束を力技で解き、阿部に襲い掛かる。
相澤の個性、抹消により脳無に付与された個性は抑えられているにせよ、元々肉体に備わっている破壊力、スピードはプロヒーローたちと難なく渡り合えるレベルのものだ。
だが、そんな脳無の攻撃を阿部は冷静に見極め、いなし、かわし、反撃の時を伺っている。
場数を踏んできた歴戦のプロヒーローと遜色の無いその近接戦闘のスキルに、相澤は静かに驚愕していた。
そして、再び阿部の刃が光る。
素早い動きに翻弄された脳無のラグに一早く反応し、刃を突き刺す。
二つ目の核が壊れた感触、それと同時に迫ってくる脳無の拳。
受け身の態勢を取るが、衝撃が襲ってくるよりも先に真人が阿部の身体を引き寄せたことで脳無の攻撃からは免れられた。
「ははっ、ボロボロじゃん。俺と代わる?」
「いや、問題ないです。
今の貴方にはヤツを仕留めるための経験も力もまだ備わっていない。引き続きサポートに回ってください」
「めっちゃ言うじゃん、まあいいけどさ」
持ち場へと戻っていく真人を横目に、阿部はゆっくりと息を吸い、「相澤さん」と捕縛布を構えているヒーローの名を呼ぶ。
目を細め、口角を僅かに上げた後、阿部は穏やかな声音でこう宣言した。
「あと少しで終わりますから、終わらせますから」
相澤の背に冷たい汗が伝う。
殺意と冷酷さ、そして仄かな優しさが入り混じる奇妙な空気に、ゴクリと唾を飲み込む。
大学生が浮かべるにはあまりにも不気味で狂気的な笑みとそのオーラに、相澤は早くも阿部の異常性に気付き始めていた。ヒーローには無い、呪術師だけが持つその歪を。
脳無もそれを感じ取ったのか、耳をつんざくような甲高い奇声を上げる。
阿部は臆することなくナイフを強く握り、その目で最後の核を捕らえた。
逃がさない、絶対に殺す、壊す。
ボルテージ、集中力、並びに呪力の上昇。今までに感じたことの無いその高揚感に頬が紅潮する。
血の巡りが速くなり、次自分がどう動けばいいかは感覚的に理解することができた。
阿部の中にある全てが今、最高潮に達していた。
「――黒閃」
脳無の肉体に刃先が触れるその瞬間、呪力は黒い光を帯び、火花を散らせた。
0.000001秒の奇跡を宿らせた銀の刃が最後の核を粉砕、まるで稲妻が駆け巡ったかの如き衝撃が脳無を襲った。
しかし2.5乗の暴力は核を壊すだけにとどまらず、その屈強な肉体をも破壊し始める。黒い肉塊がそこら中に飛び散り、ラストを飾る酷くむごたらしい花火を咲かせた。
三つの核を失った脳無はとうとう動きを停止させ、電源を落としたロボットのように脱力する。
勝利の花火を眺めた後、対象が地に伏すのを確認した阿部は疲弊がこもった息を静かに吐いた。
「……つかれた」
今まで抑えていた疲労と激痛の波が押し寄せ、バタリとその場に倒れる。脳がグラグラと揺れていて、視界が水の中みたいに歪み、ぼやけている。耳鳴りが激しい。
真人の「あれ、死んじゃった?」という不謹慎すぎる声が聞こえてきたのを最後に、阿部の意識はそこでプツリと途切れた。