ノイズ「こっちくんな」
あと、どれくらい走ればいいのだろう。あと、どれだけの距離を走り続ければこの苦しみから解放されるのだろう。走れども走れども背後から迫る
イヤだ。死にたくない。楽になりたい。そうは思っても少女は手に握った幼子の手を確り繋いだまま離さない。一人になれば逃げ切れるだろうに、少女が手にした手を離せば、少なくとも自身は助かる確率は上がる。
ノイズは明確な意思も理由もなく、ただ人間だけを殺すために存在する災害。近くに人間がいればそれを優先して狙ってくるのが奴等の習性の一つ、それを利用し、活用すれば未だ体力に余裕のある少女だけは助かる可能性も生まれてくる。
しかし、そんな選択肢など初めから少女の中には存在しなかった。それが自己犠牲から来る葛藤なのか、それとも単なる正義感から来たものなのかは定かではない。
“繋いだこの手は離さない” 我武者羅に走り続ける少女の内にあるのはただそれのみ、生き延びる為の打算や考えなど、最初から少女の頭の中には存在していなかったのだ。
目的もなく、理由もなく、ただ走り続け、やがて歩けなくなった幼子を背負いながら、それでも走り続けた少女が最後に行き着いたのは…………人気のなくなった工場、その屋上だった。
ここに来て体力の限界、痙攣して動けない己の足を恨めしく思いながら、少女は背負った幼子を下ろして乱れた呼吸を整える。
込み上げてくる吐き気を堪えながら少しでも体力を回復させようと勤しむ少女の耳に入ってきたのは自分よりも一回り以上小さい女の子の嗚咽の声。
「私…………死んじゃうの?」
「…………っ、」
それは掠れながらも生への執着の声だった。怖くて怖くて仕方がなくて、それでも生きたいと願うちっぽけだけど確かな叫び、その声を耳にした瞬間、少女の────響の胸の内側から熱い何かが脈動した。
嫌だ。死にたくない。お母さんに会いたい。助けて、そう叫ぶ幼子を守るように響はその手を離さず握り締めた。
そんな時だ。二年前にも確か似たような事があったなと、響は一瞬当時の事を思い出す。それは虚ろで、不確かなもの、鮮明に思い出すことも出来ず、色褪せてしまった過去の悲劇。
けれどその時、確かに受け取ったモノがある。それは何処までも暖かくて、力強くて、死の淵にいた自分を呼び戻してくれた魔法の言葉。
“生きるのを諦めないで!”
その言葉がトリガーとなった瞬間、響の肉体は変質する。胸の奥から沸き上がってくる熱く激しい衝動は、響の肉体を突き破り、彼女の肉体そのものを変化させていく。
変異し、変質していく肉体。衝動が収まる頃には響の姿は一変していた。まるで特撮のヒーローが着る様なパワースーツ、一体全体何がどうなっていると混乱していると。
「お姉ちゃん、格好いい!」
「え? そ、そう?」
隣で目を輝かせている幼子を前に響は取り敢えずまぁいいかと自身を納得させた。それよりも何とかしなければならないのは今の状況だ。ジリジリと自分達を追い詰めてくるノイズ達から逃げるために響はまだ走り続けなければならない。
だが、不思議と疲労は無かった。それどころか全身に力が満ちていき、今も体の奥底から溢れてきて止まらない。いや、力だけではない。胸の奥から込み上げてくる
人の限界を超えた驚異的な脚力による跳躍力、自身に起きた劇的な変化に戸惑いながらもどうにか下へと降りていく響。
一度の跳躍で随分距離が稼げた。これなら逃げ切れる。そう思い安心しながら前に振り向いた響が目にしたのは見上げるほどに巨大なノイズだった。
「───嘘」
まるで怪獣。ただそこにいるだけで前方が塞がれ、頭上からは先程撒いた筈のノイズが雨霰となって降り注いでくる。このままではこの娘まで───そう思って響が自らの体を楯にしようとした時。
「よく頑張った」
そいつは現れた。
男性特有の低い声、自分達以外はいない筈の第三者、何だと思い顔を上げた響が目にしたのは蒼い仮面を被り、白いコートを身に纏った男が自分と大型ノイズの間に割って入っていた。
普通とは明らかに異なった雰囲気を纏う男、すると男は頭上から降り注いでくるノイズを一瞥した瞬間。
「───ふっ!」
一呼吸の直後、男が自らの脚に力を込めた瞬間、男を中心に地面に亀裂が走り、広がった亀裂は段差を造り上げ、大地を切り裂いた。
“震脚”後に響が師と仰ぐ人物から教わる武術の歩法、これにより大型ノイズはバランスを崩したのかその場で膝を突き、その間震脚を放った影響で舞い上がった石礫を男は頭上から降ってくるノイズに向けて蹴り放った。
回し蹴りの要領で撃たれた石礫、その全ては襲い掛かってくるノイズの全てに激突し、ノイズは男が放った石礫と共に炭化し消滅。響と幼子の少女はどうにか助かる事になった。
だが、まだ全て終わった訳ではない。膝を突いた大型ノイズが再び立ち上がろうとしている。さて、これからどうしよう。立ち上がる大型ノイズを前に男は呑気にふーんと考え事をするように仮面越しに顎を擦ると、大型ノイズの背後から一振りの槍が貫き、次いで青の衝撃波が大型ノイズの体を両断した。
倒れ、爆散していくノイズ。爆風に視界が奪われた響が次の瞬間目にしたのは今の自分と似たような恰好をした二人の先輩の姿だった。
「立花、お前…………なのか?」
「え? 翼さん、奏さんまで…………何が一体、どうなってるの?」
混乱する響、後に彼女が連れられるある組織で自身の肉体の事、そして親しかった先輩達の本当の姿を目の当たりにした響は後に今後の人生において重大な選択を突き付けられる事になる。
故に、響は気付かない。自分を助けてくれた仮面の男がいつの間にか消えていた事に、彼女達の遥か上空、燦々と輝く月を背に蒼く巨大な魔神が響達を静かに見下ろしていた事に、最後まで気付くことはなかった。
◇
@月*日
ノイズ発生から翌日、どうにか無事生き延びることが出来た自分は今日も元気に店の運営に勤しんでいた。売り上げの方は上々、仕事の合間に休憩に来たりするサラリーマンの人達に珈琲を差し出したり、特製麻婆を勧めたり、断られたり等をして店への貢献はそれなりのものとなった。
新しく開店したという事で興味本意で来たお客さんが殆んどだけど、今回の対応でお客さん達には随分好印象を与えられたと思う。昨日はノイズの邪魔が入り初日の営業は儘らなかったけど、今日はその分の遅れも取り戻せたと思う。
こういうお客の流れというのも商店街ならではという話もあるし、今度の休みの日には商店街の皆さんに親睦を兼ねて珈琲のご馳走のお誘いをしようと思う。こういう御近所付き合いって大事らしいしね。
フラワーの女将も今度ウチにくる学生の子達にも紹介してあげると言ってくれたし、今後は客層も厚くなりそうだ。実にやり甲斐がある。
そう言えば客層で思い出したが、特異災害ニ課だっけ? 日本政府からその扱いづらさから“突起物” なんて揶揄される
意外とご近所さんなんだな。なんて思いながら注文を訊ねると、ここのお勧めをと言われたので自分の得意料理である麻婆を大盛りでご馳走した。無論、大盛りは新装開店記念に無料、値段の方も通常の五割以下に設定、開店から一週間という期間限定の一品である。
赤く煮えたぎる麻婆、旨さと辛さを極限にまで詰め込んだ至高の一品、未来ちゃんや響ちゃんからは酷評を受けている料理だが通の人には分かる筈。そんな自慢の一品を司令官さんは残さず完食、この世界に来て史上初完食してくれたその人に自分は感心と共に惜しみ無い拍手を送った。まぁその後テーブルに伏して動かなくなったんだけど。
暫くした後、黒スーツの男性が店にやって来て驚きながら司令官さんを連れて店を後にした。あの足運びといい、体捌きといい、あの黒スーツの人は恐らく自分と同じかくれんぼを得意とする人なんだろう。
なんか、この街で上手くやっていけそうな気がする。そんな希望を抱きながら自分は明日の仕込みに備える事にした。
ボッチ、人知れずOTONAを撃破(胃袋的に)