お付き合いいただけたら嬉しいです。
雨が降り続けた。
季節は梅雨に入り、まるで空が、何かを洗い流そうとしているかのように、毎日、静かに、そして長く降り続けた。
僕はいつの間にか、放課後になると屋上へ行くのが習慣になっていた。
そこは、生徒たちがほとんど来ない場所だった。雨の日は、なおさらだ。
屋上には、仄かに雨の匂いが満ちていて、濡れたアスファルトの色は、どこか懐かしく、そして少しだけ寂しかった。
ときどき、その屋上に、セシリアがふらりとやって来ることがあった。
彼女は、最初のうちは屋上に来るたび、どこか戸惑っているようだった。
でも最近は、まるで「そこに行くのが当然」という顔をして、僕の隣に立つようになっていた。
「……また、ここで会いましたわね」
彼女は、あの日と同じように、今日も傘を差していない。
「雨、濡れるよ」
「いいの。……こうしていると、少しだけ子どもの頃を思い出せますから」
彼女の横顔は、どこか遠くを見ていた。
「ねえ」
「ん?」
「あなたは、怖いものって……ある?」
彼女は、ふいに、そんなことを訊いてきた。
怖いもの。
考えたことがないようで、いつも考えていることだった。
「……たぶん、忘れられること、かな」
「忘れられる?」
「うん。僕が誰かと、すごく大事な思い出を作っても、その人が僕のことを忘れてしまったら……きっと、それはすごく寂しいんだと思う」
セシリアは、小さく目を瞬かせた。
彼女は、ゆっくりと、唇を開いた。
「……私は、忘れる方が怖いですわ」
「え?」
「自分が、大事だったものを、何かを、心から好きだったものを、……自分の方から忘れてしまうのが、いちばん怖いの」
彼女は、ゆっくりと雨に濡れる地面を見つめた。
「私、ほんとうは……思い出って得意じゃないの。大事なことなのに、少しずつ曖昧になっていくことが、怖くてたまらない」
「……うん」
「だから、ブローチも、私、ずっと捨てられないの」
彼女は、制服のポケットから、小さな青い薔薇のブローチを取り出した。
少し色褪せて、所々傷がついているようだった。なんてことないブローチだった。
でも、彼女はそれを、まるで宝物のように、大事に持っていた。
「小さい頃、私を助けてくれた男の子からもらったブローチ」
僕は、黙ってそのブローチと彼女を見つめた。
「……その人の顔は、もう思い出せない。でも、どうしても捨てられなくて……。私、このブローチを捨てたら、その人のことまで、消えてしまうような気がしていて」
「……それでもいいんじゃないかな」
「え?」
「人って、忘れてしまう生き物だよ。……でも、大事なものって、きっと無意識のうちに残ってる。だから、たとえ忘れてしまったとしても、その人はきっと、セシリアの中にちゃんといるよ」
セシリアは、じっと僕を見つめた。
「……それって、あなたの願いかしら」
「願い……かもね」
ふっと、彼女は笑った。
その笑顔は、どこか壊れそうで、でもたしかにそこにあった。
「ねえ」
「ん?」
「もし私が、その男の子のことを忘れそうになったら、あなたが教えてくれる?」
「……うん、きっと」
「約束よ」
「うん、約束する」
雨音だけが響く屋上で、僕たちは誰にも聞こえない、小さな約束を交わした。
遠くで雷が鳴った。
雨は少し強くなり、僕たちの肩を冷たく濡らしていった。
けれど、どういうわけか、僕はあの日、ほんの少しだけ、心があたたかくなっていくのを感じた。