昼下がりの穏やかな風が、静かに庭の木々を揺らしていた。
セシリアの実家──オルコット家の広い庭は、手入れの行き届いた芝生と、淡い色の花がいくつも咲き誇る美しい場所だった。
だけど、その中でもひときわ目を引くのは、庭の一角に小さく咲いた青い薔薇。
僕が、セシリアのために植えた薔薇だ。
「……ふふっ、今日もきれいに咲いてるわね」
セシリアが、麦わら帽子を指で押さえながら、僕の隣で柔らかく笑った。
あの頃の彼女──強がって、誰にも頼ろうとしなかった頃の彼女──とは、もう違っていた。
今の彼女は、少し肩の力を抜いて、時々、僕にちゃんと「甘える」ということを覚えてくれた。
「セシリア、帽子、もう少し深く被ったほうがいいよ。日焼けする」
「……あら。そうやって、私を気遣ってくれるところ、好きよ」
「お、おい……そんな、急に……」
「ふふっ。顔が赤いわよ」
からかうように笑う彼女の横顔が、どうしようもなく愛おしくて、僕はつい目を逸らしてしまった。
***
「ねえ。あの青い薔薇……貴方、なんでこれを選んだの?」
彼女がふと、そんなことを聞いてきた。
僕は、少し考えてから、正直に答えた。
「……昔、青い薔薇ブローチを買ったんだ。なんとなく、寂しそうに座ってる子にあげたくて」
「……その子って、私のこと?」
「うん。でも、あの時は名前も知らなくて。ただ、泣いてる君に何かしてあげたかっただけなんだ」
青い薔薇は、「不可能」や「奇跡」の花言葉を持つ。
幼かった僕は、そんな意味も知らずに、ただあの日、手渡した。
──もしかしたら、あの時の自分は、未来の彼女と、今日みたいな時間を、どこかで願っていたのかもしれない。
セシリアは、青い薔薇にそっと指を這わせながら、目を細めた。
「……私、あの日、貴方がくれたあのブローチを一生の宝物だって大事に持ってたの。小さい私はそれを大事に宝箱にしまったわ」
「うん、聞いたよ。チェルシーさんが教えてくれた」
「ふふ、あの人、余計なことを……」
彼女は、少し頬を染めながら、でもどこか嬉しそうに笑った。
「でもね、あの薔薇は枯れないブローチだったけど……今は、こうしてちゃんと生きている青い薔薇を、貴方と一緒に見ていられる。それが、私にとって──」
彼女は言葉を切り、僕を見つめた。
「──奇跡なのよ」
僕は、ふいに胸の奥が温かくなるのを感じた。
言葉は、きっといくらでもあるのに。
でも、僕はただ、静かに彼女の手を取ることしかできなかった。
「あの時、手を差し伸べてよかった」
「ええ、本当に」
少し照れたように、でも嬉しそうに笑い合った。
誰かのために生きることを怖がっていた彼女が、こうして誰かと歩いていくことを選んでくれた。
その「誰か」が、僕でよかったと、心の底から思った。
──もう、あの頃みたいに、彼女は一人じゃない。
もしまた、彼女が泣きたくなる日が来たら、今度は僕が隣で泣くよ。
そのときは、一緒に泣いて、一緒に笑って、一緒に歩けばいい。
青い薔薇の花は、優しい風に揺れていた。
──ただ、何でもない。けれど、かけがえのない昼下がり。
それが、きっと、僕たちが求めてきた「幸せ」なんだと思う。
✴︎✴︎✴︎
六月の空は、気まぐれだった。
朝は晴れていたのに、昼間を過ぎた頃にはすっかり曇り、今は小さな雨粒が屋敷の窓を静かに叩いている。
庭の青い薔薇も、雨に濡れながらしっとりと花弁を揺らしていた。
僕は、屋敷の客間のソファで、ぼんやりとその様子を眺めていた。
雨は外の世界をぼやけさせる。だから少し、苦手だ。
でも今日は──少しだけ、違った。
「……ふふ、雨音って、案外落ち着くのよ?」
セシリアが、ふんわりとした白いカーディガンを羽織りながら、隣に座った。
「僕は、やっぱり晴れてるほうが好きかな。気持ちも明るくなるし」
「私はどっちでも構わないわ。だって、今日は貴方がいるんだもの」
「……っ、そういうの、急に言うと反則だぞ」
「ふふふ、意外と、貴方って、からかわれると弱いのね」
彼女は、わざとらしく小さく笑った。
……最近、セシリアはよく僕をからかう。
以前の彼女は、強がりで、どこか距離を置くような態度だったのに。
今は──こうして、僕の隣で、素直に笑ってくれる。
僕は、その変化が、どうしようもなく嬉しかった。
***
「ねえ。お茶を淹れてもいいかしら?」
「うん。セシリアが淹れてくれるお茶、美味しいから」
「当然よ。オルコット家の名にかけて、私、紅茶にはうるさいんだから」
彼女はそう言って、立ち上がった。
窓辺に置かれた小さなティーセット。
いつもはメイドのチェルシーさんが用意してくれるけど、今日は珍しくセシリアが自分で淹れてくれるらしい。
「貴方の好み、覚えているわよ。アッサムティーに、少しだけ蜂蜜を」
「さすがだね。……僕、そんなにわかりやすい?」
「ふふ、貴方は単純なんだもの。可愛いわ」
……また、僕のことをからかってる。
でも、不思議とそれが心地よかった。
彼女が、僕にだけ見せてくれる、この穏やかな表情。
たぶん、昔の彼女はこんなふうに笑う余裕もなかったんだろう。
ポットから紅茶を注ぐ小さな音と、雨粒がガラスを叩くリズムが、静かに部屋に満ちていく。
なんでもない、ただの午後。
だけど、たぶん、これが「幸せ」ってやつなんだ。
「はい、どうぞ。熱いから、気をつけて」
「ありがとう」
受け取ったティーカップは、ほんのりと湯気を立てていた。
ひとくち飲むと、やわらかい蜂蜜の甘さと、茶葉の深い香りが広がる。
「あ、やっぱり美味しい」
「でしょ? ふふ、さすが私だわ」
満足げに笑う彼女を見ていると、自然と顔がゆるんだ。
***
「ねえ」
「ん?」
「たまには、何か私にして欲しいこと、言ってくれてもいいのよ?」
「え?」
「私ばっかり、貴方に甘えてばかりだもの。……少しだけ、私が貴方の役に立ちたいの」
そう言うセシリアは、どこか照れくさそうで、でもまっすぐだった。
「……じゃあ」
僕は少し考えてから、口を開く。
「……膝枕、して欲しい」
「……え?」
「ダメ?」
彼女は、数秒固まったあと、ふっと肩を震わせて笑った。
「ふふっ、いいわ。どうぞ、私の膝を使って」
「……じゃあ、遠慮なく」
そう言いながら、僕はソファに横になる。
少しだけ緊張しながら、彼女の膝に頭を預けた。
セシリアは、優しく俺の髪に触れながら、そっと指先で撫でてくれる。
「……こういうの、慣れてないのよ」
「僕も」
「ふふ、変なの。私たち、長い時間を一緒に過ごしてきたのに、まだ緊張しちゃうのね」
「……うん。でも、それが悪いわけじゃないと思う」
彼女の指が、ゆっくりと僕の髪を梳く。
静かな雨音と、紅茶の甘い香り。
こんなに安心するなんて、思ってもみなかった。
「……ねえ」
「ん?」
「貴方は、あの日──私に青い薔薇のブローチをくれた日──何を思っていたの?」
彼女の声は、どこか柔らかく、少しだけ切なかった。
「……うまく言えないけど」
俺は、膝の上で目を閉じたまま、ゆっくり言葉を選ぶ。
「あの日、君が一人で泣いているのを見て……どうしてだろう、助けたいとか、慰めたいとか、そんな立派な理由じゃなくて。……ただ、ブローチをあげたかったんだ」
「……ふふ、あなたらしいわね」
「今も、たぶん同じ。……僕は、君が笑ってくれるだけで嬉しいんだ。だから、何かをしてあげようとか、そういうの、あんまり考えたことない」
「……ええ、知ってる」
彼女の指が、そっと僕の頬に触れた。
「でもね。私、貴方にしてもらったこと、ぜんぶちゃんと覚えているの」
「……そっか」
「貴方が隣にいてくれること、私が泣いても、怒っても、いつも受け止めてくれたこと……私、全部、大事にしてる」
「……ありがとう」
たぶん、僕たちはどこか似ている。
言葉にするのが、あまり得意じゃないところとか。
想いを伝えるのに、少し時間がかかってしまうところとか。
でも、ゆっくりでいい。
少しずつ、すこしずつ──歩いていけばいい。
「ねえ」
「ん?」
「……今度、ふたりでどこか出かけない?」
「いいね。どこ行きたい?」
「どこでもいいわ。貴方と一緒なら、きっと楽しいもの」
彼女の声は、やわらかくて、心の奥にじんわりと染みてくる。
「……じゃあ、青い薔薇が咲くところに、もう一度行こう」
「ええ、約束よ」
膝の上で目を閉じたまま、僕は彼女の手を握り返す。
雨は、まだ静かに降り続いていた。
だけど、僕たちの午後は、あたたかく、やさしく、静かに流れていた。
──こんな日々を、きっと、ずっと大切にしたい。
このお話にて終了となります。
お付き合いくださった皆様ありがとうございました。
また機会があれば小説書きたいなと思うので見てくださったら嬉しいです。