対消滅という現象がある。それはこの宇宙ができた時に起こったと言われている現象だ。
それを知ったのは数年前、とある大学でのこと。
少し窮屈な椅子だったという印象が強い。世界最強のヒーローが、大学の研究室の折りたたみ椅子に座っていた。ノートを置いて、ペンを持っていた。
教授はいつもの調子らしく、たった一人の教え子に向けて語りかけてくれている。
六十代くらいだ。白衣を着ていて、眼鏡をかけていた。髪が薄くて、背中が少し丸い。米国最強の軍事力。その化身と向かい合っていても、特に緊張した様子がなかった。
黒板に数式が書かれていたが、その半分も何が書いてあるのかわからない。
けれど、理解した範囲で対消滅について語るなら、こうだ。
ビッグバンの直後、この宇宙には物質と反物質が同じ量だけ存在していたとされている。陽子と反陽子、電子と陽電子。全てが対になっていた。それらが接触した瞬間に互いを打ち消し合って、エネルギーだけが残った。なぜ今の宇宙に物質が残っているのかは、反物質よりわずかに物質が多かったからだという説が有力だ。その差がこの宇宙の全てを作っている。
電荷が逆になるということは、その物質を反物質に変えるということだ。
反物質が通常の物質に触れると、質量の全てがエネルギーに変換される。E=mc²だ。1グラムの反物質が1グラムの通常物質と対消滅した場合、解放されるエネルギーは約1.8×10の14乗ジュール。広島型原爆の約4倍に相当する。
今回、指定したのは1立方メートル。
空気の密度は約1.2キログラム毎立方メートルだ。1.2キログラムの反物質が同量の通常物質と対消滅すれば、解放されるエネルギーは約2.16×10の17乗ジュール。広島型原爆の換算で約4000発分になる。
しかもその空間はエントロピーが増大しないという絶対の境界で閉じられている。
通常の爆発ならエネルギーは四方に拡散して減衰する。しかしあの閉鎖空間の中ではエネルギーが散逸できない。反射して蓄積し続ける。決して壊れない圧力容器の中で爆発が起き続けているような状態だ。外に逃げるエネルギーがないということは、内部の密度は変わらない。
その内側に何かがあれば、それこそ原子核レベルで元の構成を保てるわけもない。『超再生』など無意味であり、何の効果も発揮しないのは間違いない。
教授は物理の仕組みを説くが、こちらはとにかく実用した場合の想定を話している。これが一番早いから申し訳ないけど付き合ってもらう。
「たとえば対消滅の力を閉じ込めたとして、それをどんな風に処理すれば?『素粒子の運動はゼロになる』で良いのかな」
「……いや、それはやめておいた方がいい。そう思います。厳密には何が起こるのか断言できませんが、それがこの宇宙の物理法則を根本から崩壊させてしまうこともありうる。ただでさえ個性によって揺らいでいる法則ではありますが、光速度不変の原理は未だ破られていないのだから。わざわざ破壊することもない」
疑問が生まれた。そんなことを気にするのだろうか。
「でもほら。『光は、掴める』これは原理を壊していることにならない?」
その手に集まる光。それを物理学者に見せるという暴力性をまだ理解できていない。
「いや、それは空間を歪めているのかもしれないですし、時間を変更しているのかも。光が光速から変わっているように見えるからと言って、実際そうであるとは言えません。その状態の光について調べるには我々の技術は未熟すぎます。今回の想定では、実際に光子を含む素粒子の運動がゼロになるので、その先の現象は誰も見たことがない」
さらに言えばと、深刻そうに続ける。
「想像できる最悪はこうです。『真空崩壊』という言葉を聞いたことは?……素粒子の状態を強制的に書き換えた領域は、周囲の空間との境界で量子的な揺らぎを引き起こす。それが連鎖すれば、宇宙そのものの相転移が始まるかもしれない。……そうなれば、止める術はありません」
その後も専門用語を用いてその危険性を説いているが、その言葉の6割は理解のできない内容だった。彼らと自分は本当に同じ文化圏の人間なのか確信が持てない。
「ヘイヘイ。ティーチャー。置いてかないで欲しい。ハイゼンベルグさんの不確定性原理も、ボース=アインシュタイン凝縮っていうのも明らかに私の理解を超えている。ひとまずは、そうね。相転移っていうのは?」
「相転移というのは、そうですね。想像してください。水が氷に変わるように、この『空間のルール』が書き換わっていく様を。ただし、変わるのは物質の状態じゃない。世界そのものです。私たちが知る宇宙は、光速や重力定数といった精密な『数字』の積み木の上に辛うじて立っている。その数字が一つでも狂えば、原子は形を保てず、電子は行き場を失い、生命という構造は霧散する。かもしれない。……あなたも、私も、この地球も、ただの意味を持たない素粒子のスープに逆戻り。かもしれない。数多の個性で物理法則が否定されても、宇宙は未だに存在している。だからそうならないかもしれない。けれど、ここまでの改変は前代未聞だということは間違いない」
科学者というのは断言をしないものだ。けれどあまりにリスクが高すぎることはわかった。教授がそこまで言うのは相当だ。
「ああ、もうわかったよ。興味本位で『素粒子の運動をゼロ』にすることはダメだということがわかった。じゃあ、そんな危険な状態をどうすれば良い?」
「物理を習えば、そう簡単にゼロとは言えなくなるはずです。言いたいことはまだありますが、そうですね。たとえばこんなルールを追加するなら安全かもしれません」
『前方250mの素粒子は 互いに透過し干渉しない』
教えてもらった爆弾解除の言葉を呟き。そして勝利を確信する。人類史上最も高い圧力がたったそれだけで無となって消える。これもまた反則が過ぎる一言である。
この宇宙から幾らかの素粒子が相互に干渉されなくなって消える。ルールを解けば戻るのだろうが、それは先ほどの状態にそのままは戻らない。人から見て無害となった素粒子たちが大気の中に広がるだけだ。それ以前に、透過したものは慣性やあらゆるものから解放され宇宙へと取り残されていく。
戻した後の状態を確認することもできないだろう。
さて、報告だ。
「オールフォーワンの一人を殺したよ。間違いなくね。ステイツの中だからここまでできた。けれどいい加減に私はUAIのために独断で動きすぎた。今回は議会の承認もないからこれは違法行為だ。しばらくはワシントンから動けなくなるし、ヒーロー資格は剥奪かもしれない。うわぁ、アグパー司令から連絡が来てる……。逃げようかな」
『そうはさせませんよ。安心してください』
「ナイトアイでもなんでもできるわけじゃない。ホワイトハウスに狩人が来たなら私が直々に倒さなくちゃいけないから、そのつもりでね。それより私はもう戻る。脅威は去ったと確信しても?」
『無理を言いました。助けてくれてありがとう。スターアンドストライプ。もう一旦は大丈夫です。ただ、オールマイトはもう戦えない。決して戦わせない。これからの世界を一緒に守っていきましょう』
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実際のところ、襲撃自体はこれで片付いている。
他にも1000名規模の個性を満載にした戦闘員が送られてきたり、色々あるにはあるのだがその全てに対応済みである。具体的に言えば事前に空爆をしておいた。UAIの動かせるヒーロー戦力はスターの不足を補うために全米へと派遣しているが、問題はない。
そう。問題はなかった。完勝であり、そのはずだ。
呆気なくなんて感慨はない。すでにやり直しは4桁を目前になっていて、ここまで苦難は久々だったから実感はある。けれど違和感が拭えない。
何より、もう一人いるはずのオールフォーワン。人工呼吸器をつけたあの不完全な手負いの魔王がどこにもいないのだ。
どれだけ探しても見つからなかった。変装と潜入の線を疑って、ループの中で一度も死ななかったものはいないという状態まで探しつづけた。それこそ、全員を一度殺して確かめたのにいなかった。
近距離と遠距離の全一君たちは、最後に奇襲をかけると思い込んでいたしその計画があったらしいが、それは一切起こっていなかった。
最大まで高まった圧が解放されずにどこかへ消えてしまったような違和感だった。
この不気味な静寂を受けれなければいけないということだろうか。
完勝した状態での世界の確定。それができずに二の足を踏み続けているが、そろそろ検証すべきことも見当たらない。
狩峰淡輝は、嫌な予感を抱えながら。それでも長きにわたる戦いを終わらせる決意をしたのだった。