南極に登る陽
UAIランドはまず、南極の安全を確認してから再接近を行うことに決めた。
メンシスと呼ばれる黒幕がいて、世界の惨状の大元がWHOであるのなら接近しすぎるのは危険だろう。
自分は空母で先行することになる。
モルヒネも確保したいま、積極的にこちらのループを崩す方法は既知のものにはない。上位者を操れるのなら恐ろしいが、それは人にできることではないと確信できる。邪魔が入る可能性は余裕であるが、それは予測不可能だ。
いや、死柄木弔というイレギュラーがいるがあれはメンシスを滅ぼすまでは大人しくしているという。果たしてそんなことがあるのかどうか。不確実な戦いばかりだ。
待ち構える相手はあの悪夢の主である。何があるか分かったものじゃない。油断はできないからこそまずは確認しにいく。
メンシスがそこにいるという情報を俺が知っているということ自体は流石に知られていないだろうが、それでも世界中の危機を放置して南極に向かうという航路をとっている以上、相手もそれなりに警戒をしているだろう。
難民国家『カルブラ』への難民避難という名目はあるが、それだけでないのは明白と言える。それでもカルブラの代表であるエメリアへの事前の連絡は非常に落ち着いたものになっている。
『皆様の到着を歓迎いたします。人類のために共にこの危機を乗り切りましょう』
修道女のような見た目の女は、白々しくそう言った。
以前にあれを拷問して殺した時にはそのような裏切りの前兆は全く捕まえていなかったが、どうにかして誤魔化す術を持っているらしい。
精神力や忍耐力といったレベルのものではない対策があったようだ。
こういう予想外のことはやめてほしい。変なことが起きてしまうと、ナイトアイの沽券に関わるのだから。
攻撃も妨害もなく、拍子抜けと言えるほどにスムーズに上陸は果たされる。
街の端が、昨日と違う場所にあるのが今のこの街の特徴かもしれない。
南極の赤茶けた地面に、新しい区画の杭が打たれている。測量ロボットが黙々と動き、杭の位置を計算しているのだろう。人間の作業員が後を追って資材を運ぶ。どちらが先導しているのか、端から見ていると判然としない。
第四次世界大戦が始まってから加速したが、それ以前の傾向も相まってカルブラの人口はだいたい倍になった。
毎日船が来る。毎日人が降りてくる。この地のAIであるマリアが管理する入港記録は更新され続けており、その数字を追いかけることに意味があるのかどうか、もはや誰も確信を持っていないだろう。
港のターミナルには、人が座り込んでいた。
立っている余裕のある人間は、まだ体力が残っている人間だ。長い航路を越えてきた人々は、陸に足をつけた安堵と疲労が同時に来て、その場に崩れるように座る。サポートロボットであるアングたちが水と食料を配って回るが、列は縮まらない。処理速度の問題ではなく、単純に来る人間の数が、さばける数を上回り続けているのだ。
新しく建てられた居住棟は、完成する前から人が入っていた。
壁がまだ半分しかない区画に、それでも人が集まる。屋根があれば十分だった。床が乾いていれば十分すぎた。南極の温暖化した気候は、かつてのイメージとは程遠い。しかしそれでも冷えるものは冷えるのだ。人々は体を寄せ合い、言葉の通じない隣人と肩を並べて眠った。
街の至る所で建設音がしている。
金属を打つ音、コンクリートを流す音、クレーンが唸る音。それらが重なって、港全体がひとつの巨大な工場のように響いていた。かつてここが氷だった頃の静寂を知る者は、もはやほとんどいない。
街の中心にある時計塔の光は、以前より遠くまで見えた。
新しい区画が広がるにつれて、マリアの端末も増設されている。街の隅々に光る小さな青白いパネルが、新参者たちに道を教え、言葉を訳し、空きのある居住区を案内する。百の言語が飛び交う広場で、マリアだけが全員に同時に話しかけることができた。
この場所は人を生かすために機能をし続けている。
南極で活躍しているマリアとは別の、馴染み深い分身である通話越しのマリアは喋り続けていた。
淡輝は折り畳み椅子の背もたれに体重を預け、防寒着のまま端末を膝に置いていた。南極の基地内は暖かすぎるくらいで、外の白夜がブラインド越しに白く滲んでいた。
『つまり現状、この座標における気象データはき……』
声が途切れた。
途切れ方がおかしい。通信が切れるときの無音ではなく、言葉の途中で何かが差し込まれたような、一瞬の白いノイズ。それから完全な沈黙が訪れる。
「?」
淡輝は端末を持ち直して確認しても画面はついている。接続表示はダメだ。何も送れず向こうからも来ない。テキストも、音声も。
あらゆる妨害電波などに対して対策をしていたにも関わらずこの状況だ。再接続を試みようとして、ふと気づいた。
気づいた瞬間に足が動いてかけだしている。
建物から出なくては、出口よりも近い窓を発見し強引に開けて外を見た。
空が白んでいる。
さっきまでと違う光り方をしていた。白夜の太陽は地平線を這うから、光は常に斜めで、薄く、黄みがかっている。しかし今のこの差し込んでいる光は、もっと青白い、もっと均質な光だった。影が消えていた。部屋の中にあった全ての影が、どこか一方向ではなく全方位から照らされたように、薄くなっていた。
淡輝は端末へのリトライをやめて走ることへと集中する。
ようやく外に出ると、息が白く凍る。最初の一秒は、ただ空を見上げた。
オーロラがあった。それ自体は珍しくない。
しかし空の半分を覆う深紅の幕は見たことがなかった。いつも流れているはずの緑の帯はすでにその下に沈んでいて、赤の中で溶けながら揺れていた。波紋のように広がる光の輪が南の空の一点を中心に広がり続けていて、輪が通り過ぎるたびに色が変わった。赤、紫、白、また赤。
何あれ〜綺麗、と誰かが楽しげに言う声がする。
最後にと思いインカムに触れる。指先で押さえても何も聞こえない。基地のどこかでアラームが鳴り始める音がしたが、鳴りかけて止まった。電子音が一声だけ上がって、そのまま死んだように黙っている。
淡輝は空を見たまま動けない。
氷原に影がなかった。どこからか分からない光が全方位から降り注いで、地面を平らに照らしていた。自分の足元だけが、かろうじて自分の輪郭を地面に落としている。
昼間のような明るさで、それにも負けないオーロラが煌々と光り輝いている。赤を基調に青い光が混ざっていて、なんとも言えない不気味な色へと仕上がっている。
太陽風が地磁気に当たって光るものをオーロラと呼ぶのなら、これは違う。オーロラに似ている光である。
理解が追いついた。あの光は核融合の光なのだ。太陽と同じ方式で、この南極を照らしている。
それはそうだ。なぜあれだけなどと思ったのだろうか。
主任が盗んで起動した核兵器。旧来の弾頭が生きていたというのに、たったそれだけだと思っていたのかもしれない。
そんなことが可能な偽装が存在するならば、いくらでもあってもおかしくないではないか。
強烈な光が世界を満たし見えない粒が熱よりも広範囲に広がっていく。
それは電子機器へと侵入し、まるで魔法のように文明の利器を破壊していく。
馴染み深いはずの核融合の光は、近くにあるだけですべての翼を溶かしてしまう。人が飛ぶ術を否定する。
ガンマ線が大気に触れた瞬間、コンプトン散乱と呼ばれる現象が起きた。空気の分子から電子が弾き出され、その電子たちが地球の磁場に捕まり、磁力線に沿って螺旋を描きながら整列した。無数の電子が同じ方向へ向かうとき、それは電流になる。電流が変化するとき、それは電磁波になる。
見えない。触れられない。匂いもしない。
しかし銅線の中を、回路の中を、基板の薄い層の中を、それは光速で駆け抜けた。
電子機器とはつまり、電子の流れを制御することで成立している。そこへ制御不能な電子の奔流が流れ込んだとき、何が起きるかは単純だった。砂浜の手作りダムに津波が来たようなものだった。精緻に設計された水路は一瞬で溢れ、二度と同じ形には戻らない。
基地のどこかで明かりが消えた。
発電機が唸りを上げようとして、止まった。
通信機は最後の一音も発しなかった。
状況証拠から現実を認めよう。どうやら水爆が上空で爆発したらしい。
高高度の核爆発、その余波のEMPによって南極のすべてのインフラは破壊され尽くした。
太陽と同じ仕組みの輝きが南極での悪夢の始まりを告げるのだ。
最新の機器はことごとく破壊されていて、機能しない。
AIによるサポートは受けられない。ACの追加派遣や支援砲撃も、衛星からの情報も受け取ることはできない。
身一つで異国の地に立つという不安のはずのその状況に、なぜか血が燃えるような高揚を感じているのだった。
・・- ・-・・-- ・・- ・・・・-
新たな太陽が輝くことで状況は変わった。
悲鳴がそこら中で上がっている。それは熱波や衝撃波のダメージではない。ロボットとAIが沈黙をしたから起こる混乱である。
この国はAIに頼って機械の力で運営されている。だからそこが失われれば、地盤が沈むような威力を発揮するのだろう。
これから不安に駆られた群衆が獣の病を発症し、そして殺し合いになるのだろう。
一旦、そのことは気にしない。問題はメンシスがどこにいるかであって、エメリアの身柄を確保するか殺すかしなくてはいけない。
彼らを最短で排除すれば、この爆発自体なかったことにできるかもしれない。
混乱が極まる前にこの街を駆け抜けて、獲物を狩ればそれでいい。あとでできるだけ救えるように頑張ろう。
そう思ったら、そこに使者たちがいることに気づいた。
石畳の間から次々と現れて、小さな手をこちらに伸ばしてくれている。結構可愛いが、この可愛さに女子は同意してくれない。というか、なんだかやけに多くないか?すると。
気づいた。以前の遺跡のように何かを渡してくれているのだった。
両手ですら足りないため、複数人で神輿でも担いでいるように持っているものを、頑張って差し出すように掲げていた。それは銃だった。短く、太い銃身。二連の散弾銃で、木製のグリップが使い込まれて黒光りしている。
どこで拾ってきたのか、あるいはどこから持ってきたのか、気になるが夢のようなものなのだろう。彼らのことはもう、味方にしか見えない。
迷わず受け取った。
重さがあった。夢の中の作り物ではない重さだ。金属の冷たさが手袋越しに伝わってくる。
ゾワゾワと、別のところから使者たちが湧き出て、今度は長いものを差し出した。
杖だった。細く、金属製で、握りの部分に複雑な意匠が施されている。しかしその重さと、握った瞬間の感触が、ただの杖ではないことを告げていた。ああ、これだ。
かつて作った杖のような武器は、きっとこれの感触を再現するために作っていたのだろう。
右手に仕込み杖と左手に散弾銃。そして、不要になったACのパーツは捨てつつ、鎧として纏えるところはそのままに、特に頭部はそのまま動くことにする。
いや、待てよ。なんで石畳なんてものがある?
そうだ石畳があるなんておかしい。
さっきまで赤茶けた地面だったはずの場所に、不規則な形の石が隙間なく敷き詰められている。古い石だ。継ぎ目が黒く染まり、低い場所へ向かって何かが筋を作っている。雨水ではない色だった。
淡輝は一歩引いて、来た道を確認する。
来た道が、なかった。
少し先にはさっきまでいた基地の出口はある。建物もある。しかしその建物が、さっきとは少し違う輪郭をしていた。窓枠が重くなっている。扉の上に尖ったアーチが生えている。壁の表面に、見覚えのない紋章が刻まれていた。車輪のような、目のような、花のような形。
南極の街の白い外壁が、石造りの暗褐色に侵食されていく。目で追えるほどゆっくりで、しかし確実に変わり続けていた。
上を見る。オーロラはまだある。深紅と青が空を覆い、混ざり切らずに紫になりそびれている。それだけは変わらない。しかしその下にある街が、少しずつ別の何かに塗り替えられていく。完成する前から人が入っていた居住棟の壁に、鉄格子がついている。ここで使われているのは強化ガラスだ。それより脆いはずの鉄格子を増設する意味などない。
どこかから、大きな獣の声がした。
犬ではない。人でもない。遠くて、しかし肺の底まで響く低さがある。一声だけ上がって、それきり静かになる。
人の声がする方向へ走った。
仮設の市場があった場所に路地ができていた。狭い。両側の建物が迫り出して、空が細い帯になる。霧が深くなっていく。すでに薄暗く、昼間とは思えない光量になっていた。
扉があった。重い木の扉に、閂の跡がある。ノータイムで散弾銃を放つが、破壊できない。
淡輝は拳で叩く。人の気配はするが、中は一体どうなっているんだ?
すると声が聞こえる。
「助けて!お父さんがおかしいの!」
子供の声だった。
「開けろ、怪我をしてるか?今開けられるか?」
返事がない。泣き声だけがくぐもって聞こえる。扉に手をかけて力を入れた。びくともしない。
見た目は木の扉のままで、叩けば木の音がする。指先が感じたのは、もっと非現実的な密度だ。この夢の中で生まれた扉は、夢の中の論理で閉じている。かつての遺跡の外壁のように破壊不可能なのだろう。
獣の声がまた聞こえた。
今度は近い。霧の向こう、路地の折れた先。何かが石畳を踏む音がする。四つ足の、重いものが歩く音だ。一歩ごとに石が軋み、その間隔がゆっくりと縮まってくる。
先ほどの扉の内側から、子供ではなく大人の男の声がする。そのおかしくなったお父さんだろうか。
「出ていけよそ者め。ヤーナムの医療が目当てで来たんだろう?こんな夜によそ者に語ることなどあるかよ」
ヤーナムという響きに脳みそを殴られたような衝撃を感じる。ああ、そうだ。ここはヤーナムだ。
「とぼけるな。血の医療を求めてくる余所者が後を絶たない。だからこんな夜になった。あんたらのせいだ」
それ以上は、喚き立てるだけ。話にならない。
「できるだけ刺激せずに隠れてろ!きっとお父さんは大丈夫!」
「……何が起きている」
泣き声と鳴き声は続いている。霧が濃く街を覆うようにして、輪郭の曖昧な何かが路地の奥で何かが止まる。
足音が消えた。唸りも、何もかも消えた。霧の向こうに輪郭だけがある。立っているのか蹲っているのかわからないが、大きさだけははっきりとわかった。人より、ずっと大きい。
空ではオーロラが気ままに燃えている。
街が混ざっている。どこまでがカルブラで、どこからがヤーナムなのか、境界はなかった。
遠くに見える時計塔、そして大聖堂のあるこの国の中心へと向かうべきだろう。
今までの地図は役に立たない、けれどなぜかヤーナムのことは知っている感じがする。
過去にあったのだ。この街はきっと実在した。ここを駆けた誰かの記憶が自分の中に存在している。
ここまでのカオスの中で、なぜか冷静さを保てている。
どこか納得しているところがあるのだ。核心に迫っている感覚がある。
今や人が獣となり、人を自称するものたちが人を殺す獣になっている。
その元凶こそ恐ろしい獣であろう。それを終わらせるために、俺はきた。
獣狩りの夜の始まりだ。