聖堂を中心とした教育と医療の街を目前に、橋で獣と対峙している。
豊かな体毛が、赤い月光を受けて燃えるように揺らし、恐ろしい獣がやって来た。
口を開けたまま、橋の石畳を砕きながら突進してくる。巨体の全重量が前に乗っていた。止まる気がない。こちらを殺すまで加速し続けるような突進だ。
だから、避けない。一歩、前に踏み込んだ。
獣の体が力んで衝突に備えたのがわかる。獣の頭が目の前まで来た瞬間、体を低く落として顎の下に潜り込む。体を回転しながら、すれ違うように、獣の首筋に並走する形で滑った。
蛇腹を解放した杖の刃が遅れて狙ったところ刻んでいく、抵抗がなかった。
毛皮でも皮膚でもない、溶けた柔らかい場所に刃が入ったのだろう。光を失った獣の頭が跳ねた。そのまま伸ばした刃を足にかけると、足がもつれた。突進の勢いが殺せず、巨体がそのまま前へ傾いていく。
橋の欄干に突撃し、その勢いを必死に止めようと腕を伸ばしている。
それを散弾銃の射撃で弾く。
ガァン!!という音が右手の指をバラバラにして、掴ませない。
続く射撃が、左手の腱を肉ごと削って、力を入れさせない。
それでも最後の最後、尻尾を使ってバランスをとり、爪を地面に食い込ませてあわやというところで獣がどうにか踏ん張る。
その背中に飛び乗って、いや飛び蹴りをして離れる一瞬で散弾銃を押し当てる。
「息子さんは、ロブ君はきっと見つける。安心してくれ」
彼が溺愛していた息子のことは知っている。その言葉をかけた時、体が少し弛緩した。
その隙を見逃しはしない。引き金を引いた。
蹴りと鉛玉が獣の体を叩いて、絶妙なバランスを保っていた天秤が傾く。
前への勢いが取り返しのつかないほどに加速。獣の上半身が橋の外へ出た。後ろ足が石畳を引っ掻いたが、もう止まれなかった。
「ロバアァーーーート!」
濁った咆哮は、人の言葉に戻っている。けれど、その最後の言葉と共に落ちていった。
音は霧の下から来なかった。
硝煙だけが橋の上に残った。
RTAなどでは普通に戦わずに落としたりハメたりするのがセオリーだと知っているが、自分でやることになるとは思わなかった。
散弾銃を構え直して、大聖堂へ向かった。
大橋を通過し、聖堂街を駆け抜ける。そこにいるはずの人々の安否確認などはしない。
今はそれをすべき時じゃない。クリアを確信してからだ。
・・- ・-・・-- ・・- ・・・・-
聖母マリアではないマリアを崇める場所がカルブラには多くある。他の国ではインフォメーションと呼ばれるべき場所が、ここでは教会と呼ばれている。
その教会の一つを訪れると、そこには誰もいなかった。
扉に鍵はなく、押せば動いた。重い木の扉が軋みながら内側に開いて、温かい空気が流れ出てきた。外の霧の冷たさとは種類が違う温度だった。
天井がここまで高いのは以前の建築とは変わってしまっている。もはや異空間と化しているのだろう。南米の遺跡のように、現実のどこかに別のものを重ねているのだ。
石造りのアーチが頭上で交差して、その頂点から細い光が差している。窓はあるが小さく、光量よりも雰囲気のための窓だった。床は石畳で、中央に通路があり、両側に簡素な長椅子が並んでいた。
ところでここは、強烈な匂いがする、そうだ。香の匂いがした。
どこかで炊かれている。煙が空間に満ちていた。甘く、少し苦く、木が燃える手前のような匂いだ。
嗅いだことがある匂いだった。けれど、これで安心はできないような。そんな匂いである。
長椅子の一つに手をついて、教会の奥を見渡した。人の気配はない。倒れている者もいない。ここだけが、この街の外にあるような静けさを持っていた。
元のインフォメーションセンターの間取りを思い出せば、どこかにエレベーターがあるはずだ。
この構造なら、奥か、脇か。壁沿いを確認しながら歩いた。小さな扉を開くと、目当ての昇降機がある。
カルブラの設備として健在である。悪夢の意匠に侵食されながらも、箱の形と操作盤だけは現代のものが残っていた。上のボタンを押した。扉が閉まった。動いた。
上昇する間、香の匂いがまだしていた。それについて記憶を探っていると、目的の最上階まで辿り着く。
扉が開いた瞬間に、光を見た。
反射で体を横に投げた。弾が壁を削り、石の粉が顔に当たった。着地と同時に転がって、長椅子の影に体を押し込んで、そこで止まらずに壁を走る勢いでその部屋の奥まで着地する。
カメラのフラッシュが続くかのように光は続いていた。
止まらなかった。木が砕け、石が削れ、空気が弾に押しのけられる音が重なって、ようやく思考が追いついてくる。
考えるより先に、その攻撃をした相手に反撃していた。
飛ぶようにして壁を蹴り、そのまま杖と蹴りを同時に入れる。胸に入った杖をねじって、確実に殺す。
殺してから、ようやく状況を把握した。
その閃光を放っていたのは車椅子の老人である。白髪で、体が小さく、毛布が膝に掛かっていた。その膝の上に、膝よりずっと大きいガトリング銃が載っていた。老人の両手がそれを支えていた。細い腕に似合わない握り方で、しかし確かに構えていた。
体の右側が熱い。見なくても分かった。被弾していた。防寒着の内側が濡れていた。肋骨の下、脇腹の辺りに穴が空いている感触があったが、今は多少なり塞がったが出血がまだ止まらない。
「クソっ!上がった先でガトリング待ち伏せってのはどこの馬鹿が考えやがったんだ……」
弾は避けられない。
これは当たり前の話だ。秒速四百メートルで飛んでくるものを、人間の反応速度で捌ける道理がない。視覚で認識して、脳が判断して、体に命令が届くまで最短でも〇・二秒かかる。その間に弾はすでに八十メートルを移動している。
つまり撃たれてから避けるという行為は基本的に成立しない。だから銃は強いのだ。
自分が生きているのは、扉が開いた瞬間に体を投げたからだ。撃たれる前に動いた。正確には、何かを察知していたと言っていい。嫌な経験からくる確信が理由より先に足を動かした。
「その馬鹿な罠を予想できてる時点でおかしいぞやっぱ」
まだ暖かい死体を何度か切り刻んで血を浴びると、さらに傷は塞がるが。完全にとはいかなかった。
正直言って一人で来るかどうかは迷っていたが、一人でよかった。仲間と来ていれば誰かは確実に死んでいただろう。
そこから進むと、いよいよカルブラの景色は消えている。ここはどこだ?
屋上と言っていいのだろうか、開けた場所へと出た瞬間、風が来た。
高い。
おかしいほど高かった。さっきまで市街地の路地を歩いていたはずだ。教会は街の中にある建物で、そう何十階もある構造ではない。それでも眼下に広がっているのは、明らかに相当な高度から見下ろした景色だった。
見下ろすと、カルブラがある。
赤茶けた地面に打たれた杭、建設途中の居住棟、港のクレーン、時計塔の青白い光。見慣れた景色が眼下に広がっている。しかしその上に、別の街が重なっていた。石造りの建物の輪郭、ガス灯の橙色の点、霧が這う路地の網目。二つの街が同じ場所に存在していて、高度が上がった分だけその混ざり方がよく見える。
どこまでがカルブラで、どこからが見知らぬ街、おかしくなった住民の言葉を借りるならヤーナムなのか。
上から見ても、境界は見当たらず混ざり続ける様子を見ていると正気が削がれていく感覚がある。それを見るのをやめた。
前を見ればそこには塔がある。聖堂がその先、まだ上にあった。よかった消えてはいない。
物理的にありえない。あの塔がどれだけ高くても、聖堂がその上にある理屈は成立しない。
成立しないが、そこにある。夢みたいなものだと割り切ってしまうことにする。気にしても仕方がない。
この街はそういう場所だ。理屈が通らないなら、通らないまま進む。どこかに道があり、どこかに先がある。それだけを信じて上を目指せばいい。
眼下のカルブラと見慣れた見知らぬ街が、霧の中で揺れている。
目前の塔を使い、上へと進むことにする。狙撃をしてくる老人もいて、その威力と精度がおかしかったことに目を瞑れば特に問題はなかった。なんで車椅子の老人が一番の脅威なんだおかしいだろ。
だから、ゲールマンが苦手だったのだろうか。なんか、そんな気がする。車椅子に座っているジジイが碌なものじゃないという確信があるのだ。こんな差別的な意識が自分の中にあるとはショックだが、どうにも振り切れそうもない。
邪魔な敵を排除しながら塔を進んでいくが、途中で妙な手記を発見した。
それはそこらに落ちていた日記というようなものではない。一歩間違えれば塔を落ちていけるような際どい通路。そこに現れた使者たちが持っていた手記である。
これまで、彼らが文字のようなわかりやすいものを見せてきたことはない。これも夢の世界へと深く入ってきたからだろうか。
『上を目指すのに、なぜ上がっていく必要があるのか。一歩前に出てみたまえ。信じるものは救われる』
無視しようと思っていた感覚が、これのせいで無視できなくなっている。
そうだ。なぜかこの塔の下の方に行ったほうが良いような気がしていたのだが、それを無視しようとした途端にこれである。
使者のことはもう疑わないと決めているので、自分の直感を信じて前に一歩進んでみようか。
そうして、道を踏み外す覚悟を固め、踏み出した。
体を支える地面を失い、重力に従い落ちていく。
このままでは死ぬので壁を蹴った。
落下の軌道が変わった。対面の壁へ体が流れる。そちらの足で壁を踏んで、また反対へ。ジグザグに壁を使いながら速度を殺していく。一回、二回、三回。蹴るたびに衝撃が膝に来る。石壁は硬く、容赦がない。
まだ速い。
杖を横に構えた。
壁の出っ張りに引っかけるように当てた。石が削れる音がして火花が散り、速度が落ちた。落ちたが、止まらない。杖が滑って、出っ張りから外れた。
また落ちる。でも下が見えた。石畳の床が近い。
壁を両足で蹴って体を捻った。縦ではなく横の回転を加えて、着地の面積を広げる。杖の石突きを床に突き立てた。
衝撃が腕を通って肩まで来た。体が一回転して、床に転がった。そういえば怪我をしていることを忘れていた。いってえ。
天井を見上げると、落ちてきた高さが分かった。よく生きていた。そういう感想しか出てこない。
というかなんだろうか、このズルをした感は。すごい爽快感を感じている。
目の前にある扉を見ると、開けるべきという確信が深まっていく。
空があった。
扉を抜けた先に、天井がなかった。灰色の空が頭上に広がっていた。赤い月はここからは見えない。雲の向こうに沈んでいる。この場所だけ、別の空の下にあるようだった。
もう気にしない。今ある目の間の場所を調べよう。なぜ俺はここにくるべきだと思ったのだろう。
円形に近い中庭。石畳の床、石造りの壁、頭上だけが空に開いている。いつか夢で見たことがあるようなないような、そんな既視感をとにかく刺激される場所である。
でも、きっとここは初めて来たのだろう。全てが抜け落ちた残骸という印象だ。
建物の手前、くぼみに押し込まれるように置かれていた。蓋を開けると、衣服が入っていた。
一式だった。
帽子、服、手袋、スカート。どれも白く、丁寧な作りをしていた。しかし長い時間が経っていた。布地が脆くなっていて、触れると繊維がほつれる。袖の縫い目が細かく、既製品ではない手仕事の跡がある。動きやすさよりも見た目を優先した形の服だった。誰かの特別な一着だったものが、ここで静かに朽ちていた。
その帽子は、やけにひいばあちゃんの帽子に似ている。
建物の中に入るが、灯りはない。
壁際の棚に小さなものが置かれていた。髪飾りである。小さく、装飾が控えめで、しかし丁寧に作られていた。誰かが大切にしていたものの気配がある。棚の上に埃が積もっていたが、髪飾りの周囲だけは埃が少なかった。誰かが最後にここを訪れた時、それを手に取ろうとして、やめたのかもしれない。
拾い上げてもらっておく。収集癖が最近は満たせていなかったから、こんな時で悪いが必要だからと回収しておく。
ここは工房だったのだろう。
かつてここで何かが作られていた。武器か、道具か、あるいはそれ以外の何かか。作業台の傷跡と、床に残る金属の削りかすが、長い時間をかけた労働の痕跡を示していた。しかしその労働は終わり、作った者も去り、作られたものも散り散りになった。
生きている何かの気配はない。たった一つを除いてだが。
奥に祭壇があった。
簡素なもので。石の台に、布が掛けられている程度。布はほとんど原形を留めていない。しかしその上に、小さなものが置かれていた。それは、先日ヴァルトールが渡してきたグロテスクなひもである。自分がなぜかへその緒だと思ったそれがそこにある。
拾い上げて、今度はそれを大事に持って帰ることにする。無意識に握ってしまった前科があるので近くで拾った枝で拾ってポッケに入れた。
うん。これは、無駄足だったかもしれない。
自身の失策によって何か取り返しのつかないことが起きていないといいが。その場所を後にして、どうにか塔を登っていけるか。あまりに高い位置にあるスタート地点を睨んで、ため息をつくのだった。
宇宙は、空にある
次回は日曜日に!