深い深い海へと潜り、昇っていくような感覚があった。
重くて静かな層としての海水を抜けるような、そんな印象がある。
それは誰にでも馴染み深く、意識もしないようなものであるが自分にとっては意味が大きく異なっている。
狩峰淡輝は、どこかの扉の前で意識を戻した。
まだ足元が砂浜だったような気がする。波の音が、まだ耳の奥に残っている気がする。
自分がこれを感じるのはほんの一瞬だ。なぜなら自分は即座に『目覚め』によって覚醒できるから。
みんなが体験する、寝ぼけるという状態はほとんど体験していない。
その上で今、俺は何をした?まるで朝のように起きなかったか。
そこまでようやく理解して血の気が引く。
建築様式からここがどこかは分かっている。カルブラの氷床下ドーム。その最上階に位置する来賓用の応接室の前だ。ここは地下から突き出ており特別に見晴らしの良いところに作られていて、同時に寒いので普段は使われていないはずの場所。
目的地の目前まで迫っているではないか。
扉は閉まっていて、向こうに気配がある。ACのセンサーが生体情報からそこには南極難民国家の長であるエメリア・ノドス=カルブラがいると示している。
会談の記憶を思い出す。人形越しに見た灰白の装束、正確な角度の一礼、揺れない声。オールマイトの背中。ナイトアイとして話した言葉の一つ一つ。
『心拍数が上昇。通信は依然として不通のままです。周囲の状況は不明。ですがこれは強力なジャミングによるものです。以前までとは異なる状況ではあります』
分かってる。この興奮は自分がここを起点にやり直しをさせられる場合を考えてパニックになりかけただけだ。大問題だが、確かめるわけにもいかない。死んでみるまではわからないから。
久々にいい報告もマリアから聞けた。通信はできないがそれは技術的な話であって、夢のような意味不明な断絶ではないということである。ここは現実だ。
嫌な緊張から来る汗を拭う。今自分は取り返しのつかない深みにハマっているかもしれないし、そうではないのかもしれない。
わからない。何も確かなことなんてない。
だから、すべきことをするために扉を開けた。
・・- ・-・・-- ・・- ・・・・-
エメリアは振り向いていこちらを見る。灰白の装束が室内の光を吸って、輪郭だけが浮いている。
その表情には控えめな驚きというものが浮かんでいる。自分がここにいるのはやはりおかしなことらしい。
「お前はメンシスか?WHOの行為を知っていたのか」
開口一番、挨拶もなしに。ナイトアイとしての声で、扉を開けた瞬間に尋問を開始する。
室内は広くはない。来賓用と言っても簡素で、テーブルが一つと椅子が向かい合わせに二脚、壁際に小さな棚があるだけだった。装飾がない。絵も花も旗もない。カルブラの建築はどこもそうだが、この部屋は特にそれが徹底されていた。もっと暗くてジメジメした雰囲気の方がまだ落ち着く。
淡く光るカルブラのマリアの端末が壁際に静止している。あれは敵だろうか。敵なんだろうな。南極にあるものは基本的に敵方のものとして動くべきだ。
「もちろん。あなたにも不可解なことがあるように、誰にでも秘密はあるものです」
言い訳も前置きもない一言で敵対が確定する。その一言が白い床に落ちて、あとは殺意で返せばいい。とはいえ情報は引き出しておかなくてはいけない。
「どうやって隠した?お前は実際に知らなかったはずだ。南極の重要人物たちは入念にチェックしていた」
「ええ。あなたの検査は苛烈であると警告をされていましたから、それに高度な科学を前に隠し事など。詳細ならまだしも、隠し事をしていること自体を隠すことはできない。だから記憶を消しておいたのです」
視線を逸らさない。真正面から返してくる。ああ、嫌だなこいつは。余裕がある敵は嫌いだ。
「記憶というものは命と同じです。消えれば戻らない。改竄すれば元には戻れない。だからこそ記憶は証拠になり、武器になる。あなたのような力を持つ方であれば、その価値はよくご存知のはずです」
「ああ、死ぬほどわかるさ。お前が理解してるとも思えないくらいにはそう思うぞ」
「そうなのでしょうね。私は所詮、一回の命ですから」
彼女は一歩も動いていなかった。テーブルの端に手を置いたまま、重心が微動だにしない。話しながら体が揺れない人間というのは珍しい。普通は呼吸に合わせてわずかに動く。
「あなたがどのような手段で嘘を暴くとしても、元から知らなければ暴くものがない。秘密というのは持った瞬間から漏れる可能性が生まれます。持つ者がいなければ、漏れることもない。私はそう判断しました。結果として守ることができたものもある。秘匿とは、まるで存在しないかのようにできればそれが最善ですから」
やけにネタバレに抵抗がない。やはり個人的にはここまで協力的な相手の態度は悪い予感しかしない。時間稼ぎか、すでに何かを達成した後なのか。余裕がなければ現実にはペラペラ話すヴィランなどあまりいない。
いや、そんなことないか。割といるが、まともなヴィランであればそうしないというだけだ。
「その手法はまるで誰かのようだ。オールフォーワンとお前の方が組んでいたのか?それは意外すぎると思うが」
「いいえ。そして、はいです。オールフォーワンも同じことをする能力がある。自身の計画の核心を記憶から切り離すことで検査をパスする。その昔とあるトラウマから保身をするための一つの手段として開発されていたそうです」
彼ならそういう形で暴力検査を抜けられると、ひいばあちゃんがオールフォーワンにその手のアドバイスを渡していたということは知っていた。勘弁してくれとは思ったが、戦後秩序の形成あっての今の自分でもあるから文句は言えない。
足元が少し遠くなった気がして、すぐ戻した。
「じゃあお前らはグルなのか。はっきり答えろ」
「そうは見えない、ということはご自身でも分かっているのではないですか」
仲間には見えない。利害が一致していただけで、目的も手段も違う。メンシスが、彼女が何を目指しているかわからないが、オールフォーワンと同じ方向を向いているとは思えない。あれは自分の庭を荒らされて心底苛立っているのは間違いない。
「彼は目立ちます。それ自体が有用でした。世界の視線が彼に集まっている間、こちらは動けた。囮として役立っていただいたというのが正直なところです。彼がそれを知れば不快でしょうが、事実です。そして彼に最も近かった人物が、様々な準備を整えてくれました」
「我々の目的はすでに達成されています。だからゆっくりといくらでもお話をしましょう」
口の端が一瞬動いて、それだけだった。笑ったのかもしれない。
「紹介しましょう。お会いいただきたい方が、お二人いますので」
鐘の音が響く。これは警戒をしろと言われていた、嫌な音だ。
科学的なセンサーはこの空間と周辺を網羅している。周囲に人はいないはず。それでもなぜか、どこからか。影のようなものがそこから湧いて出てくる。
「ドクターと呼ばれていたようですから、私たちもそれに倣っています」
世界へと侵入を果たすように出てきたのは、人だった。
小柄な老人。エメリアより頭一つ分低く、横幅だけが妙にある。白衣が体の輪郭に沿わず、纏わりついている感じがした。完全に禿げた頭が白い室内の照明を反射して、その下に大きな口髭が生えていた。顔の下半分がそれで埋まっている。目にはゴーグルのようなメガネをかけている。
皺はある。手の甲に、首に、顔に。でも動きが老人のそれではなかった。
「やぁやぁ!ナイトアイの偽物君!正体不明の当代の狩人よ!」
白い部屋に大きく響いた。両手を広げていた。歓迎しているのか威嚇しているのか、どちらとも取れる動作だった。
「お会いできて光栄じゃよ!未来予知の如きその力はどうやって成立しているのかと興味があった。ナイトアイの個性なら特異であるが、大した脅威ではない。けれど君のは一線を画す!素晴らしい個性じゃ!ワシはずっと気になっておってな……。繰り返しとは言われても、それで納得などできるはずもない」
「……自己紹介が先ではありませんか。ドクター」
「おっとそうじゃな!失礼失礼!」
全く失礼だと思っていない声で答える。
「殻木球大。色々あっての偽名じゃがな。志賀丸太という名前で動いていたこともある。ご存知かな?」
「指名手配の記録がある。人でなしだったらしい。名前を変えて正解だな」
「くだらない社会の反発じゃい!倫理委員会というものはいつも科学の進歩を妨げる。死体を使ったことも、生きた人間を使ったことも、全人類を救うためには些細な犠牲であると、少しでもまともに考えることができるならわかりそうなものだが。しかし、それはどうも非常に希少な思考らしい」
愉快そうに興奮して捲し立てる。彼は自分の偉業を語った。恍惚の表情で非道な実験とその成果を語っていた。
しかし自分は真っ直ぐに否定的な感情は抱けなかった。単純にすごいことを言っているからだ。それはよくよく歴史に起こる無意味な殺戮とは違う次元のものだったから。
個性因子の科学的複製と記憶のコピーなど。それは神の領域と言っていい。再現性のある化学でやってのけたのは偉業だと言われて頭から否定ができるわけがない。
「やはり、努力をするものには転機が訪れる。今回もまさしくそれよ」
両手を叩いた。乾いた音が白い壁に反射した。
「100年以上前のこと!茨城の海岸に流れ着いたものがあった。あれを異形型の水死体など、とんでもない!あれは人類以外の何かじゃった!ワシには分かった!すぐに分かった!百二十年生きてきて、あれほど興奮したことはなかった!」
興奮している彼は別に何もせずとも全てを明かしてくれるつもりらしい。助かるが、一体なぜ?
「それらの貴重なサンプルを抱えて、時の権力者。オールフォーワンの元でサンプルを集め、実験の日々。個性とは何か。そして個性因子という人の遺伝子の中に眠る記憶、その解明に全てを注いだ。遺伝子に刻まれた記憶は存在する。何百年もかけて積み上がった記憶。それを読めば、人間がどこから来てどこへ向かうかが分かる。ワシはそれが知りたかった!」
声に熱が入った。老人の体から出るには過剰な熱だった。
「そして、とある血族の因子を調べておった時のことじゃ。やけに重層的で、無視できないものを見つけた。古い、とても古い記憶が幾重にも重なって、そこだけ密度が違う。これは何じゃと思って、客観的にはどうしてもわからない。だから自分に取り込んでみたんじゃよ」
動いた。
白衣の内側から何かを取り出す動作が速かった。懐に収まるような大きさではないのに、それを頭に被った。まるでおばあちゃんが装備を瞬時に切り替えた時のような動きである。
金属製だった。檻のような形をして頭部を覆うように展開した異形の頭部防具。メンシスの檻という名前であると今は知っている。
これまでに集めた情報だけでも、嫌な予測を立てることができる。
きっとこれは、自分が摂取した曽祖母の血と似たものだ。主任に宿ったヴァルトールも同じだろう。
そしてこいつは、メンシス学派の存在をその身に宿したということだ。
それは人類にとってあまりに致命的な出来事である。
色々と説明がつく。条件付きでの記憶の封印はオールフォーワンしかできないはず。けれどドクターならばその因子をコピーできるではないか。
いや、待てよ。もっと嫌な。最悪の想像がガラスに爪を立てるようにして掻き立てられていく。
「さぁゆこう!ミコラーシュ君!!一緒に瞳を!超越的思考を!出来損ないの脳ではなく、真の瞳を今こそぉおおおおおおお!」
興奮で開き切った瞳孔と、全身の毛が逆立つような緊張はその体に全力の力が込められている。
その緊張が、ふっと切れたようだった。
「おぉ、素晴らしい!夢の夢。その夢の中でも狩人とは!」
動きが変わる。どこか優雅で滑らかな動きに変わっている。
「けれど、けれどね——」
その言葉ははっきりと聞こえるが、先ほどのような。がなる咆哮ではない。
「「悪夢は巡り、そして終わらないものだろう!」」
ドクターの声に、別の声が完全に重なった。
振り返った。
エメリアが同じ姿勢で立っている。ただし頭に、同じ檻を被っていた。灰白の装束のままで、両腕を柔らかく前に差し出している。祈りのような形で。口が動いていた。
メンシスのミコラーシュを、こいつはコピーして人に植え付けることができている。そんな事実がゆっくりと染み込んでくるように近づいてきた。
どこからか赤子の泣き声が、やけにうるさく聞こえている。
おぎゃあ。おぎゃあと。
何かを呼ぶようにして泣いていた。