女性化するのはこれが二度目。と言葉にすると妙な感じがする。
このなんでもありの個性社会においても珍しい方だろう。その上で自分は繰り返しも含めれば結構女体経験者でもある。
その度に思うのは、慣れないということだ。
視界が変わり、自身のつま先が見えなくなる。筋肉量と脂肪の比率が調整されて、男であった時の均衡を失っていく。
体の重心が変わり、思わず前につんのめりそうになるが背筋で持ち堪えた。
今自分の意識は全て現実世界へと割り振られていて、その視界には自分がいる。
女性ものの制服を着てすやすやと寝ている自分。狩峰淡輝の見た目の姉は、ベッドで幸せそうに寝ていた。きっと5年より前にしかなかったその安眠の表情は今の自分が失ったものだ。
そう。失っていると思ったが、ずっと隣にあったのだ。
それはどこかで感じていたんだと思う。
それを改めて理解して、不思議なことが起きた。羨み、妬み、恨む気持ちが湧いてきてもおかしくないのに、それが無性にありがたくて。ただただ感謝しか思い浮かべることができない。
「ありがとう」
雫月の声で自分に向かって話しかけると、思いが止まらなくなってくる。
双子であることで巻き込んでしまった負い目や、自分は悪くないという抗弁も。全ての葛藤を置き去りにして、その寝顔を見てどこか救われてしまったように感じている。
「よく頑張った。お前は本当に、すごいやつだ」
自分のことを褒めてあげたくなってしまった。だってこんなに頑張っているんだ。誰かが褒めてやらないとおかしいだろ。
まだ何もできてない。でも自分の気持ちに整理がついていく。今まで押さえつけて忘れていた恐怖。心の奥底にしまい込んだその封印を解いていく感覚がある。
爪が剥がれるほどの力で縛ったその封は、優しく触れるだけで崩れ落ちていく。
出てきた柔らかな弱い自分を、素直に笑える自分をその寝床に託して。狩峰淡輝という人間を預けてしまって、自分は前を向く。
きっとこの気持ちは正しくない。でも、救われてしまったものは仕方ない。
自分が何をしようが、どんな状態になろうが。ここに平穏があるならそれは価値のあることだと確信してしまう。
自分の心はとっくの昔にバラバラになっていて。それをどうにか誤魔化していたけれど、ここにきて無事だった部分を見つけることができて。抱きしめることができたように思う。
今ようやくわかった。
きっと、今まで何でもやっていたようでできていないことがあったことを。最後の最後、自分のかけらを失ってしまうかもしれないと思ってできなかったこと。
ひいばあちゃんも同じくできなかったことを、今の自分ならできる気がする。
・・- ・-・・-- ・・- ・・・・-
穏やかな自分から目を逸らし。自らの足元に目を落とす。
大きくなった胸で足元は相変わらず見えないが、その景色が変わってきた。
双丘の奥から日が登るようにして、自分の腹が膨らんでくるのが見える。
これは本当にグロテスクな経験だ。自分が自分じゃなくなる感覚、などでは言い表せない。自分を急速に変えられるという感覚は、それだけで発狂に値する。
どんなことが起きればこんな状態が可能なのかはわからない。体が急速に作り変えられていき、あっという間に母になることを強いられた。
もう立っていられない。平穏な自分の隣に、倒れるようにして転がり込み。視線で合図し、生きるための最善を尽くさなきゃいけない。
『本当に妊娠している。なんだこれは。何が入り込んでいる。本当に気色が悪いな。初めて吐き気というものを覚えるよ』
「おい。頼むぞ。これでお前が発狂するなら御破算だ。いきなり俺が『オールフォーワン』を使いこなせる訳ないんだからさ。『目覚め』を使いまくってどうにかしてくれって。ほら、みんな待ってるから早くしろ」
個性を取り込むために、有用な個性持ちはすでに手配してあった。
ここからは、まるで雫月へのお見舞いという見た目の異様な握手会が繰り返されることになる。
中年の女性で、作業着を着ている。ベッドの横に膝をついて、布団から出ている手を両手で包んだ。数秒間、下を向いていた。そのまま立って次の人間に場所を譲る。
次は杖をついている老人だ。ゆっくりベッドの横まで来て、杖を片手に持ち替えて空いた手で握る。皺だらけの手だった。数秒後に目を閉じて、それから立ち上がる。
学生もいる。手を握る前に少し躊躇して、それでも握った。握ったまま天井を見ていた。数秒後に手を離して後ろに下がる。個性を失うということがどういうことか、彼はちゃんと理解している。
列が続いていた。廊下の先まで続いている。誰一人として急がない。最初に睡眠関連の個性を持った人々が、変わるがわる自分の手を握っていく。
UAIが燃え上がるこの時に、集まってくれた人々から個性を吸い上げていく。さらには超再生や精神的な回復を見込める個性を次々に取り込んでいく。
オールフォーワンが乗り移れば即座に殺すことは言うまでも無い。もはや一蓮托生なのだ。このところずっと一緒に話していたし、もう親友だろこれ。
ああ、だめだ。いよいよ辛くなってきた。
ぐるぐると世界が回るような、重く沈み込むような吐き気が断続的にやってくる。
胃の奥の方で何かが動いている感じがして、次の瞬間にそれが全部喉まで上がってくる。
気持ち悪い、という言葉じゃ全く足りない。きっと普通の妊婦や出産とも違う体験なのだろうが、それでも辛い。
臭いがどんどんダメになっていく。さっきまで何も感じなかった空気の臭いが、急に密度を持って鼻に押し入ってくる。何の臭いかも分からないのに耐えられない。握手をしに来た人間の体温の臭いすら無理。
『世界が強制的に塗り変わっていく感覚だ。やられるのは不快だね。今まで女の体に入らなくてよかったよ』
「絶対これ普通じゃないから。謂れのない差別はやめろ……」
頭が重い。重量があるというより引っ張られている感じがする。後頭部から何かに引かれて視界が揺れていた。立っているのか寝ているのか、体が正確に把握できていない。
なんだかやけに唾液が増えていた。
飲み込むたびにまた増える。飲み込む動作自体が吐き気を呼んで、飲み込まないと溢れる。どちらに転んでも悪かった。
体が熱かった。
内側から焦げているような感覚で、でも汗は出ていなかった。放熱できないまま熱が籠っていく。体がだるかった。だるい、というより全身に砂が詰まっているような重さで、動かす前から疲れていた。
すでに発狂していて、さらに脳内で仇敵語りかけてくる状態で、その上で言うが、頭がおかしくなりそうだった。
そうして望むと望まざるとに関わらず。
十月十日を待たずに、およそ10分10秒後。月に臨む時がやってきた。
これまで見守ってきた雫月の出産は、それこそ難産というわけではなかったと思う。
理由は生まれてくる子どもの大きさもあるかもしれない。それは未熟児であるように見えた。ひいばあちゃんの記憶を辿れば、違和感が非常に大きくて。きっと双子であることが関係あるのだろう。
通常の半分のサイズしかないその子は、生まれてから一日と経たずに死んでしまうだろう。
それを見届けたことは一度もないが、今度は逃げない。
最初からずっと、そして最後まで世話になるのだろう。マリアの人形がやってきた。
「淡輝様。私がサポートを最後までします。どのような結果になっても、最後までご一緒します。狩人様……」
これで準備は万端だ。用意すべき手札は揃ったと言える。
『それで?超再生を加減しないと産むことすら困難で、しかし超再生をなくして耐えられるのか?どうやって発狂するのかなど、わかっていないのだろう。私としてはこの個性を使わない選択肢はないぞ』
「別に、それでいい。ここからは、作戦名『プロメテウス』だ」
プロメテウスと聞いてピンと来る人はどれだけいるだろう。そこそこ有名な神話だと思う。
人間に火を与えた罰として、岩に鎖で縛りつけられた。毎日鷲が来て肝臓を食い荒らす。夜になると肝臓は再生して、翌朝また鷲が来る。それが永遠に続く。不死であるがゆえの拷問という、非常に共感できるお話である。
再生するから死ねない。死ねないから毎日食われ続ける。終わりがないことが罰の本質で、ギリシャ人はその残酷さを神話に刻んだ。多くの教訓があるが、こいつもその文脈で知っているのだろう。
『それは面白い。超再生があるなら肝臓も食べ放題だろう。君の肉でどんな鳥が育つのかは見ものだ……っいい加減にこの感覚はどうにかならないのか』
「まだ陣痛が始まってすらないぞ。それにさ、これだから教養がない奴は嫌なんだ。おすすめされたゲームとアニメだけ見て満足してたんだろ。神話ももちろんだけど、俺が言ってるのはエイリアンの方だっての」
困惑の感情が強く波打つ。全一君はリドリー・スコット監督の映画を見ないらしい。いや、エイリアン2で見るのをやめたパターンかもしれない。
元ネタを知らない奴に説明するほど悲しいこともない。だから、実践して見せつけてやることにした。
「……爪、使わせろよ。引力のやつもだ」
そしていよいよ陣痛がやってきた。
腹の奥が締めつけられる感覚から始まったそれは、最初は鈍くかすかな痛みだ。ズーンとした重さが下腹部に来て、それが少しずつ強くなっていく。張っているお腹が苦しい。波があった。来て、引いて、また来る。間隔がくり返されていく。
凄まじい速さで間隔が縮んでいく。
最初は遠かった波がだんだん近づいてきて、引いている時間が短くなる。締めつけが強くなる。鈍い痛みが鋭くなって、腰まで届くようになっていく。
まじできつい。もちろんこれより辛い経験をしたこともあるが、こんな違和感は初めてだった。
「っつぁ……。マリア、十月十日を、十分十秒に圧縮すると、どれくらいだ?」
「約四万倍の進行速度です。なぜ淡輝様がまだ存命であるのか、科学的には説明できません」
「処女受胎なんて、冗談じゃ、ねえ。なんで俺がマリア様になるんだよ……ああ!いってえ……」
声が掠れて涙が出てくる。
息ができなかった。波が来るたびに呼吸が止まる。下腹部から腰、背中、全部が一度に締めつけられて、その間は何も考えられない。引いた瞬間に息を吸う。吸い終わる前にまた来る。
汗が出ていた。
さっきまで出なかった汗が一気に噴き出している。額から、首から、背中から。体が何かを排出しようとしていた。シーツが濡れていく。
腹が動いた。
内側から押される感覚があって、何かが下に向かって移動しようとしている。骨盤が開かれる感覚があった。骨が軋む音が体の内側から聞こえてくる。
波が止まらなくなった。
『がぁ!?……ぁああ!やめ、やめろ!これを止めろ!』
そういえば魔王は苦痛には弱いらしい。生まれてからずっと、勝ち続けてきた弊害だろう。初めての鮮やかな敗北もほとんど痛打はもらっていなかったはずだし。オールマイトに叩き潰された記憶はこいつにはない。
200年近い人生経験があっても、そこに苦しみや痛みの記憶は欠如しているようだった。
いよいよ産気付いてくると、余裕がなくなってくるはずがそこは超再生によるカバーが入る。
『イルカ』『マガモ』によって脳を片方ずつ眠らせることができている。睡眠と覚醒によって、精神は落ち着き払っていた。
死ぬほど痛いし苦しいが、体は健康を維持している。
超再生が体を維持し、出産という傷を無かったことにしようとしている。おそらくだが、再生系の個性を強く持った女性は妊娠はできないだろう。
俺は今、史上最悪の体調を更新しているのに一番調子が良いという矛盾した状態に至っている。陣痛の激痛と、何かが始まるという冒涜的感覚。何よりも自分がこれからすることについて怖気が背筋を凍らせる。
いまさら、そんなことで止まるはずもない。
夢の中で散々自分を刻んだ刃のような爪が右手から伸びる。
左手はものを引き付けて寄せることのできる個性が発動できる状態だ。
『まさか……おい。それなら鎮痛系の個性をっ!麻酔でもいい。なぜ使わない!?お前は馬鹿か!』
もうそんな時間はないし、今更必要性もない。だから、思いっきりやってしまう。
その行為の代償は、物理的な面では怖くない。それでも恐ろしかったが、手は動いてくれた。
爪が縦に一閃し、そして満月のような腹が割れて、その奥から赤が吹き出した。
超再生が反応し、傷口が閉じようとする前に人形が俺の両足を思い切り開いてそれを阻止する。
『あ゛あ゛あ゛あ゛ああぁぁあ゛っっぁああああ!!!!』
内心で絶叫する魔王を放置して個性を使い、左手に中にいた赤子を引き寄せる。
同時に手早く人形が狩人を真似た内臓攻撃のような手腕で、胎盤を奪い取る。
世界で最も早く雑な帝王切開手術が行われた。処女受胎した赤子を取り上げるのがマリアとは、洒落が効きすぎている。
ブヨブヨとした、赤い塊が飛び込んできた。
『っなんだそれは、……悍ましい』
赤い、というより剥かれた色だ。皮膚と呼んでいいのか分からない薄い膜が張って、その下を細い管が透けて走っている。濡れて光るのは生まれたてだからなのか、本来そういう質感なのか、見ただけでは決められない。
大きめの猫くらいあるかもしれない。手はあるのに、人間の赤ん坊とは骨の通り方が違う。関節が一つ多い。指は細くて長く、何かを掴むためというより、触れて確かめるために伸びている。
足の代わりにある尾のようなものが流れて、時々ゆっくり波打つ。呼吸とは合っていない。別の都合で動いている。
悍ましいと。
そう言われれば納得する部分はあるが、それでも自分の本能はこの赤子を愛おしいと感じている。
これだ。この感覚が、人間としての感覚だ。
曽祖母が最後まで捨てず、故に悪夢を彷徨い続けた元凶であり。ずっと人でいられた
そして俺はもう、人であることは託してしまったから。気にしない。
気にしないことにした。決して。
「そんなこと言うなよ。可愛いだろ」
反論は虚しく響く。明確な拒絶と嫌悪感が叩きつけられ、ようやく俺という存在を理解してくれたらしい。
『個性は効いている。正気のはず、そのはずだ。なぜ、可愛いと言いながら、そんなことをしている?』
ごもっともだ。
だから何度も言っているだろうが。俺はもう狂っているのだと。
可愛いと口で言いながら、俺の手は赤子の首を握り。そのままに折った。
霞のように消えていくあの子は、夢幻のように消えていく。
手に残っているのは、三本目のへその緒だけ。
実のところ、オールフォーワンにとってはこの出産時が最大のチャンスだった。これは明確に自分にとっての弱みであって、勝つためになら苦痛など無視して動きべきだったのだ。
こちらの奇行に注目している暇など無かった。彼は、その捨てきれない人間性によって敗北し、それを捨てた俺に上回られてしまった。
へその緒を握り潰すと、赤と青の輝きが溢れ。そして流れ込んでくる。
三本目の、『三本目のへその緒』がついに自分の中に混ざり、一体となった。
これは当然の帰結だった。人を超えられるという意味もわからない。なぜそんなことが可能かも知らない。
でも、オールフォーワンは人類で最も強い精神を持っていて。
それでも個性の所持や運用には限界があり、俺の目的はその遥か先にあるのだから仕方ない。
我が子を殺し、その血を啜り。俺は人間であることをやめることにした。