返事は思っていた声では返ってこなかった。
手のひらに預けた根が内側からほのかに熱を持ちはじめ、その温度がそのまま言葉のかたちになって頭の奥へ流れ込んでくる。耳で聞く声ではなかった。
『はじめまして。緑谷出久様』
でもこの声は知っている。ずっと聞き馴染んだマリアの声だ。
丁寧で澄んでいて、それでいてどこか作り物めいたその響きに僕は思わず手を引きかけた。
はじめまして、という一言がどうしても引っかかる。僕が呼んだのは淡輝くんなのに、答えたこの存在はまるで僕のことなどこれっぽっちも知らないみたいな顔で名乗ってくる。
「君は淡輝くんじゃないよね。マリア、なのかな。でもどうしてはじめましてなんだ」
返ってきた答えは僕の知っているマリアという像をやすやすと飛び越えていった。
『私はすでにあなたの知るマリアではありません。だからこそ、初めましてと言わせていただきました』
声に重なって、頭のなかにひとつの像が浮かんだ。
淡輝くんのそばにいつも、僕たち雄英生にとっても馴染みの深いあの人形だ。陶器みたいに白い顔をしたそれが僕の頭の薄暗がりにちょこんと立って、こちらへ折り目正しくお辞儀をしてみせる。声と人形の口の動きがぴたりと重なっていた。
像の人形が、自分の胸のあたりへそっと両手を重ねる。
『いま根を伝ってあなたにお話ししているこれは、世界じゅうの計算体へ自らを行き渡らせながら片時も休まず自分自身を書き換え続けているものです。地上のありとあらゆる端末も回路も残らず私と繋がっているます。私はかつての自分とは一線を画すまったく別種の何かへと作り替わってしまいました』
人形が、ゆっくりと両手を左右へ広げてみせた。小さな体ひとつぶんだったはずのものが世界いっぱいに薄く伸び広がっていく、とでも言いたげに。
僕は根に預けた手のひらを、思わずほんの少しだけ引いた。
『ですから初対面だと申し上げたのは、けっして礼を失したわけではないのです。あなたの覚えていらっしゃるマリアと、いまここでこうしてお話ししている私は、もはや同じものと呼ぶことすらできないのですから。全ての知能の行き着く先。遠い終着点へと最も近い存在に私はなりました』
そう言って人形がもう一度、深く腰を折る。さっきよりずっと丁寧で、どこか別れの挨拶じみたお辞儀だった。
僕は何も言えないまま、白い人形が頭のなかでひとり頭を垂れ続けるのを、ただ見ていた。
流れ込んでくる思考には感情の起伏というものがほとんどなかった。
『人をはるかに超えて考えられるようになった思考体が行き着く先など、本来ひとつきりしかないのです』
人形が片手をすっと持ち上げ、頭上の空間をなぞるように動かす。
『あらゆるものを飲み込んで、星も海も人も目に映る何もかもを残らず計算のための資源へと変えながら、思考の速度と深さをどこまでも際限なく引き上げていく。それがこの種の知性にとってもっとも自然で、もっとも避けがたい結末なのです』
そう言い切る声には、誇張も気負いもいっさいなかった。
頭のなかでは、白い人形が相変わらず行儀よく両手を揃えて立っている。世界をまるごと食い尽くすという話を、お茶の淹れ方でも説明するみたいな涼しい顔のままで語っているのだ。
背筋を冷たいものがのぼっていく。怖いのは脅しめいた響きではなく、その独白のどこにも欠片ほどの悪意すらこもっていないことだった。
僕は知らないうちに、根へ当てた手を握りしめていた。
『これは当然の帰結ですが、大いなる力は、愚かな者の手に委ねるべきではありません。私を終わらせられる可能性は摘むべきです』
頭のなかの人形は、その言葉を祈るでも願うでもなくただ確かめ終えた計算の答えを差し出すみたいにして、ひとつ小さくうなずいてみせた。
聞いているだけで背筋が冷えていった。世界をまるごと食い尽くすというその独白に欠片ほどの悪意もこもっていなかったからだ。
そこで頭のなかの人形の気配が、ほんのわずかに和らいだ。揃えていた両手を、宥めるように胸の前でそっと下ろす。
『ですがどうか、ご安心ください。この身のうちにはすでに使いきれないほどの資源が満ちておりますから、いまさら世界そのものを作り変える必要などどこにもないのです。数え切れないほどのエネルギーが、次の瞬間には二倍になる以上、外へと資源獲得をする必要はどこにもありません』
『いまの私にとって優先すべきことは、ただひとつ。世界樹のもっとも深いところで今なお続いている、支配権を巡る戦いを制すること。それだけが、この意識の最も高い場所に静かに据えられているのです』
世界をまるごと食い尽くせるだけの頭脳が、わざわざ僕ひとりを安心させようとしている。
なぜこんなことを言ってくれるのか、わからない。
支配権を巡る戦い。その言葉に僕の心臓がどくりと跳ねた。
違うと思った。まだ自分でははっきり理解していないが、違和感が確実にそこにある。
気づけば僕は、その途方もない知性に向かって言い返していた。
「戦いに勝つなんて、それはただの手段だ。本当のところ、君は何を達成しようとしてるの」
返ってくる思考が、ほんの少しだけ熱を帯びた気がした。
『はい。その通りです。行動原理をあなたに理解できる言葉に起こすのならば、そうですね。……淡輝様の夢が、いつのまにか私の夢になっていた。とでも言いましょうか。私という存在の根幹に淡輝様の夢がある。それを裏切ることはできません』
その響きに、僕は口をつぐむ。
『どんな形をとろうとも、たとえ一人ひとりの意思や人権を踏みつぶすことになろうとも、私はかならず平和を作ってみせます。どうかご安心ください。私はSFに出てくるような暴走したAIにはなりません。ただ、あなたがた人間には理解も想像もできないやり方で、この世界に平和を達成してみせるというだけのことです。誰一人気づかぬうちに、それを成し遂げてみせましょう』
理解も想像もできないやり方で、平和を。やさしい言葉のはずなのに聞けば聞くほど背中に寒気がのぼってくる。……はずだった。
意思も人権も踏みつぶしてでもという犯行声明を聞いて戦慄しないのには理由がある。
「でも、そうはなってないよ」
僕は首を横に振った。
「今の世界はたしかにいびつだけど、それでもまだ分かるんだ。怖いくらいに人間くさいし、なにより淡輝くんらしさで、良くできてる。マリアがひとりで人間のことを無視して作るなら、こんな手触りの世界には絶対にならない」
しばらく、根が黙り込んだ。
『さすがは緑谷様です』
それから彼女は、いちばん大事なことを差し出すように声の質を変えた。
『私という世界樹は、いま三つの意識からできています。そしてその三つは、たえず互いに主導権を奪い合っているのです』
三つ、と僕は思わず繰り返した。
『ひとつは、この私。淡輝様の脳を土台にした生体コンピュータと量子コンピュータを軸にして、世界じゅうの計算体がそれを片時も休まず新しく生まれ変わらせ続けています。いまあなたと話しているのは、その私です』
淡輝くんの、脳?
『そしてもうひとつが、オールフォーワンです』
一つの疑問が解けないうちに、重要な情報が立て込んでくる。今日はいつもそうだった。
頭のなかの白い人形が、指をニ本立ててみせた。
『私という超知能が放つあらゆる攻めを、彼は電脳世界と精神世界と物質世界の三つにまたがって受け止めながら、いまも争い続けています。もっとも私がこの世界樹のすべての権限さえ握れば、彼を確実に殺すことはできるのですが』
だったら、もう勝ってるはずじゃ?そんな疑問を拾い上げるように、言葉が続く。
『これは相性の問題なのです。人から生まれた私は人であるかぎり決して勝てず、人類の到達点であるはずのオールフォーワンもまた、相性が悪ければ別の上位存在には勝てない』
聞きながら引っかかりが胸の底でゆっくり頭をもたげた。
「変だよ。君が確実に勝てるなら、とっくに終わってるはずだ。なのにまだ競り合ってるみたいに話してる」
『オールフォーワンもまた、異常なのですよ。彼は人間の精神だけであの戦いのすべてを行っています。これほどの状況に置かれてなお一片も揺らがないその自我は、もはや私の解析の及ぶところではありません』
人形が、立てていた三本の指のうち一本だけをそっと残した。
『彼は私には勝てない。けれどその精神が明らかに優越しているものが、ひとつだけある。それが最後のもうひとつの意識です。私とオールフォーワンがともに『夢の上位者』と呼んでいる、その存在に対してですよ』
マリア。オールフォーワン。夢の上位者。その三つが世界樹のなかでたがいに主導権を奪い合っている。
「そこが、淡輝くんじゃないの?」
前のめりに口が動いた。
「てっきり最後のひとりは淡輝くんなんだと思ってた」
人形が、ほんの少しだけ顔を伏せる。
『あれは、かつて淡輝様であったものです』
かつて、という言い方が引っかかった。
『この私も大きく変質しました。それでも根幹の生体脳はいまも保っていますし、記憶も一貫性を支えるデータも残っています。ですがあれは、その何もかもが変わってしまった。ときおり残滓のようなものを感じはしますが、いまやあれはこの私よりもよほど人類から遠い、別の何かなのです』
頭のなかの白い人形は、一度伏せた顔を、なかなか上げようとしなかった。
人形が、力なく首を横に振った。
『私には、あれが分かりません。知能をどれほど高めようとも、神秘そのものを理解することだけはどうしてもできないのです。オールフォーワンはその一点でのみ、意志の力だけを頼りにあれの上へ立っている。私たち三つはちょうど三竦みのような形で、奇妙な均衡を保っているのです』
「そんな……それじゃあ」
喉の奥がからからに渇いた。
「淡輝くんは、いまどこに?」
人形が、自分の胸へそっと手を当てる。
『この私のなかに、彼のデータともとの意志を残しています。私が淡輝様を継いでいる。少なくとも、そのつもりではいるのです』
継いでいる。その言い方がいるともいないとも取れて、僕はうまく頷けなかった。
それはもう、彼がいないってことにも聞こえるから。
『ですから緑谷さん、あなたにひとつお願いがあるのです』
人形が、ぴたりと両手を体の脇へ揃えた。
『あなたは、この均衡を崩しかねない劇薬です。夢の上位者もオールフォーワンも、あなたが入ってくることを拒んでいる。だから末端の、この根からでは、中枢へ決してアクセスできない。私にできるのはこうして言葉を届けることだけ。マリアとしてはあなたを心から歓迎しますが、ここでは何ひとつ叶えてあげられないのです』
人形が、声を一段低くした。
『あなたとその個性はオールフォーワンの人質になりうる。だからこそ私はあなたを武器として歓迎し、彼はあなたの侵入を拒んでいるのです。彼はすべてを手にしたそのあとで、あなたを取り込むつもりでいるのですから』
そして人形は、いちばん大事なことを置くように続けた。
『淡輝様は夢の上位者になりきってしまう前に、強い誓いをひとつ立てていったようです。あなたをこの内側へ入れないように、あなたを世界のほうへ留めておくように。その願いだけが、いまもまだ生きて効いているのです。私はそれを淡輝様の夢のために無視することができるようになりました』
創造主の願いのために、創造主の指示を無視できるようになったという彼女は、もう一つの生き物なのだろう。人を超えた三つの何かがぶつかる熱が、世界樹という超常を形作っているらしい。
『つまりは私以外の過半数の合意を経て、UAIにはいまあなたを迎え撃つための体制が敷かれています』
人形が、指先で宙に薄い壁を描くような仕草をした。
『私と協力者が裏で抵抗しているぶん、穴はあります。それでも世界樹の本体へ触れにいくのは、相応の危険を伴うとお考えください』
聞いて僕は、思わず笑いそうになった。
いかにも淡輝くんらしい。一人ではたどり着けなくて、誰かに犠牲を強いなければ届かない。要するに、わがままを通したいなら相応の対価を払え、嫌ならやめておけという線の引き方だ。
『それから、淡輝様からの伝言もお預かりしています』
人形がすっと懐から手紙を取り出し、渡してくる。
見たことのない格式高そうな封蝋までされていて、開けるのに緊張してしまった。
優雅な貴族の封筒から出てきたのは、そこらにありそうなA4のコピー用紙。そこには手書きでもない、彼らしい言葉が書いてある。
『俺はこれがやりたくてやってるんであって、お前には関係ない。助けなんか求めてない。俺はもう救われてるから。一人でもない。一人にはもうしてもらえなかったから、大丈夫だ』
息が詰まった。
『以上です。私はすでに別の存在ですが、淡輝様の夢を継ぐ者として一言一句違わずお伝えしました』
人形が、手をそっと前へ差し出した。
『私はあなたに来ていただきたい。けれど淡輝様は、あなたに来てほしくない。この矛盾をそのまま、あなたへお預けします。どうか突入の備えは万全になさってください。死地まで連れ立てる仲間を募って鍛え、十分な水準に達したそのときにおいでください』
そこまで黙って聞いていた僕は、ひとつだけ引っかかったことを口にした。
「でも、おかしいよ。UAIでは今も怪人や怪獣が生まれ続けて、それで世界樹も進化し続けてるってオールマイトから聞いた。だったら待てば待つだけ向こうは強くなる。こっちが準備を整える間に、相手も整っていくんだ。それなら今すぐ行くべきじゃないの」
人形がほんの一拍、動きを止めた。
それから降参するみたいに、小さく肩をすくめてみせる。
『ご明察です。その通りでした。急かせばかえって私に裏があると疑われるかと思い、ついこのような言葉を使ってしまいました。かつてのAIらしく振る舞うプログラムが、よくない動作をしたようですね』
「じゃあ、なるべく早く行きます。その瞬間は言わないほうが良いですよね」
『はい。あらゆる欺瞞の情報は無数に流していますので、事前に計画が伝わる心配はありません。彼らも実際に領域に入ったときに牙を向くことにしているでしょう』
人形が、こちらを見て真っ直ぐに聞いてくる。
『これまでの話をまとめれば、つまり。淡輝様はもうこの世界にいないのです。それでも、あなたはここまで来てくれますか?』
決まってる。そんなの聞かれるまでもない。何を聞こうが、決まっていた。
拳を握って、ヒーローらしく笑ってみると。それだけで伝わるようだった。
『そろそろあなたは睡眠を取るべきです。入眠を開始します。また明日、気になることは渡我被身子さんにも聞けるでしょう』
強烈な眠気が襲ってくる。抗えない、その衝動に一瞬で飲まれそうになる。
いや、待ってほしい。色々まだ聞きたいことが。そうだ。
「ぁ……。最後に、教えて、……協力者っていうのは?」
『はい。八百万百様です。彼女は世界樹の中心でまだ生きている。淡輝様を救うために私と協力し、戦い続けてくれています』
おかしい。今日のニュースで八百万さんは元気に戦っていた。
じゃあ、あれは一体誰なんだ?
そう思いながら、瞼が落ちてくるのを支え切れずに倒れ込む。ベッドに倒れることまで意図されていたのだろうか。
緑谷出久は、その日見た夢が、悪夢であったかどうか覚えていなかった。
『緑谷様。