眩しい光で目が覚めた。
新しい朝がきた。希望の朝になるだろうか。
目を開けてみればカーテンの隙間から差し込む陽は、目を閉じていた時に思っていたよりずっとやわらかい。
見上げれば、空をびっしり覆っているはずの世界樹の枝が半透明の葉ごしに朝日を淡く漉して、部屋いっぱいに乳白色のあかるさを撒いている。
ゆうべあんなにいろいろな話を聞かされたのに、目覚めだけはどうしようもなく清々しかった。光と希望でできた、新しい世界の朝。そう呼んでしまいたくなるくらい、何もかもが穏やかに整っている。
居間のほうから、テレビの音が低く流れていた。
そちらの方へ歩き出す。
画面のなかでは、昨日の戦いで命を落としたヒーローたちへの感謝と哀悼が静かに繰り返されている。それ以外に悲しい知らせはひとつもない。事件も事故も、争いの気配もない。咲いた花と、穏やかなアナウンサーの声と、行き交う人の笑顔ばかりが淡々と映し出されていた。
ゆうべ聞いた話が本当なら、あの追悼のいくらかは作りものなのだろう。そう思っても不思議と気持ちはささくれ立たなかった。傷ついた人が少ないのならいいことだ。
「出久!よかった。ごはんできたわよ」
台所から母さんの声がした。
ごはんの炊ける匂いと味噌汁のだしの香りが、廊下までいっぱいに満ちている。腹なんて減らないはずの世界で、母さんはわざわざ朝から火を入れて僕のために台所に立っていた。
食卓には、これでもかと料理が並んでいる。
炊きたての白いごはんはよそった先から湯気を立てて、一粒ずつが艶やかに光っていた。
具だくさんの味噌汁にはわかめと豆腐と刻んだ青ねぎがたっぷり浮いていて、椀を持ち上げると湯気と一緒にだしの匂いが顔を撫でる。
皮目をぱりっと焼いた鮭は、身のほうがほろりとほどけるくらいの絶妙な火加減で、添えられた大根おろしに醤油がじんわり染みていた。
出汁巻き卵は切り口から汁がにじむほどふっくらしていて、母さんが何度も巻いて作ったのが層になった断面でわかる。小鉢にはほうれん草のおひたしと、僕の好物の海苔の佃煮まで添えてあった。
旅館の朝食かな?ちょっと気合い入りすぎではある。でも、仕方ないか。
「冷めないうちに食べちゃってね」
いただきますと手を合わせて、まずは味噌汁をひとくちすすった。
体の芯までじんわりとほどけていく。思わずため息をつくくらい美味い、というか安心する。
なんだろう。味噌汁の安心感って旨味とも違う何かの味がある気がする。
鮭をほぐして白いごはんに乗せ、大根おろしごとかき込むと、塩気と脂と米の甘さが口のなかでひとつに溶けた。出汁巻きは噛んだ瞬間にじゅわっと出汁があふれて、思わず頬がゆるむ。海苔の佃煮をひと切れ乗せれば、それだけでまた一杯いけてしまう。
母さんは自分の箸をほとんどつけないまま、僕が食べるのを嬉しそうに見ていた。
おいしい。ただただ、本当においしい。
作りものかもしれない平和のまんなかで、この味噌汁の温かさと、僕を見て泣き笑いする母さんの顔だけは、どう疑ってみても本物だった。だったらまず守りたいのは、この一杯がちゃんとあるほうの世界だ。難しいことは全部、ごはんを食べ終えてから考えればいい。
そうして最後まで食べ終えて、先ほどまでの料理を噛み締めるようにして母さんと話をした。
いつまでもはそうしていられない。
玄関で靴を履く僕の背中に、母さんの声がかかった。
「いってらっしゃい、出久。気をつけてね」
振り返れば、泣き笑いの顔のまま母さんが小さく手を振っている。さっき食べた朝ごはんの温もりが、まだ体の真ん中にちゃんと残っていた。この温かさは本物だ。ついさっき、自分でそう決めたばかりじゃないか。
「ちゃんと、帰ってきてね」
なのにドアを閉めた瞬間から、昨日の疑問がまた足首に絡みついてくる。
だってこの世界には、八百万さんが二人いる。
ニュースのなかで怪獣と戦っていた八百万さんと、世界樹のなかでまだ戦い続けているという八百万さん。同じ人物が同じ時刻に、二つの場所に立っていることになる。どちらかが偽物なのだとしたら、いったいどちらが。
いや、と立ち止まった。脳内イメージの淡輝くんが。自分の中の合理的な部分がその思考を止めた。
『正しい問いを立てられていれば、問題は9割がた片付いていると言っていい』
聞いたことがある。アインシュタインの逸話を思い出した。
『もし、巨大な惑星が一時間以内に地球に衝突し地球上のすべてを破壊すると言われたら、
あなたならどうしますか?』
その質問に対して、アインシュタインはこう答えたのだとか。
「55分は問題を定義することについて考えることに費やす。そして、残りの5分でそれを解決しようと試みるだろう。」
これはちょっと直感的にどうなのかと思うが、でも正しいとこれまでのヒーロー活動の中でも何度も救われてきた思考だ。
どちらが偽物か。という問いは正しい感じがしない。
だけれど、実際問題として世界樹には偽装ができる。
昨日、ほかでもない自分で気づいたじゃないか。世界樹ほど何でもありの存在なら、人ひとりの偽物を仕立てることくらいわけもない。記憶も癖も笑い方も、寸分たがわずそっくりに。だとしたら偽物かどうかなんて、外から眺めて見分けられるはずがない。
昨日から再会した今まで僕の目の前にいた人たちは、本当に本物だったんだろうか。あの味噌汁を作ってくれた手は、僕を見て泣いてくれた目は、ちゃんと僕の知っている母さんのものだったのか。
そこまで考えて、根本的な基礎の部分が、根っこが崩れるような問いにぶつかる。
そもそも、本物ってなんだ。
仮にあれが母さんとまったく同じ記憶を持って、まったく同じだけ僕を愛している誰かだったとして。僕はいったい何を根拠に、それを偽物と呼べばいい。体なのか。記憶なのか。ずっと続いてきた時間なのか。それとも、向けてくれるあの愛情そのものなのか。
母さんを母さんと呼ぶとき、僕はいったい何を指さしているんだろう。
考えれば考えるほど、本物という言葉そのものが手のなかでさらさらと崩れていって、もう何ひとつ掴めなくなる。確かなはずだったあの朝の温もりごと、足元だけがゆっくり傾いていくようだった。
こういう話は本当に、淡輝くんのような人と語りたい。
僕には論理的な正しさを導く賢こさはない気がする。でも、感じることならある。
全部が嘘とは思えない。
それだけは、はっきりとした感覚だ。そして、今の世界の全部を肯定することもまたできない。
煮え切らない。ダブルスタンダードかもしれない。それでもこの気持ちに自分はずっと動かされてきたのだから。
今は動く足に任せてみようと思えている。
・・- ・-・・-- ・・- ・・・・-
堂々巡りの考えを、頭を振って追い払った。
今は確かめようのないことより、できることをやるべきだ。
まずは……。そうだ。トガさんと話すんだ。連絡の取り方は聞いてはいるが、初めてやるのは少し緊張する。
昨日、デバイス端末がいるかもしれないと尋ねたら、必要ないという答えが返ってきた。意味が分からずにいた僕に、母さんはこともなげに言ったのだ。連絡なら樹を使えばいいのよ、と。
歩きながら、ようやくその言葉の意味が呑み込めてきた。
この世界の人たちは、もう携帯端末というものからおおかた解放されているらしい。体の心配はいらなくなって、残った問題は心のほうだけ。そして手のなかの小さな画面は人の心にあまり良い影響を与えないと結論が出たぶん、よほどの田舎でもないかぎり誰も持ち歩かなくなったのだという。
昔の人に説明するなら、そこらにある電子機器に手を触れるだけで連絡が一瞬で済む世界、とでも言えばいいだろうか。樹はあまりにそこらじゅうに張りめぐらされているから、わざわざ自分専用の一台を抱える理由がない。もちろん走っている車にも電車にも、根はとっくに行き渡っている。
そうだ。人の暮らしは、根っこからすっかり作り替えられていた。
お金の意味すら、もう昔とは違うらしい。腹は減らず、家は与えられ、傷は治る。そんな世界で、新しい通貨がいったい何の価値を約束すればいいのか。その問いにだけは、世界もまだ答えを探している最中なのだという。
それでも、人は飢えない。人は死なない。
だから焦らなくていい。人類は今までにないくらいにじっくりと問題に取り組むことを許されているのだった。
いつの日か退屈が勝って、その時代の精神を病むようになるかもしれないが今ではない。
だいたい、現代は決して暇にはなっていない。問題は相変わらず山ほど積み残されているのに、退屈しないように怪獣まで律儀にやってきてくれる。
要するに、いま人類は満たされているらしい。
家を出て、さてどの根に触れたものかと一瞬だけ迷った。
そのときだった。うなじに吐息がかかるほどの距離で、囁かれる。
「おはようございます」
ゾワゾワとする感覚。耳の奥がくすぐられたような疼き。
声と同時に、首筋へと何かが触れた。全く痛くはない。
悪意も感じない。咄嗟に頼った危機感知も、ぴくりとも反応しない。なのに体だけが先に動いて、僕は跳ねるように距離を取って構えていた。
振り返った先に、目当ての人物はいる。
肩からゆったり落ちる生成り色の大きめのニットカーディガン。
袖は手の甲が半分隠れるくらい長く、折り返しの中身を僕はもう知っている。下は灰色のハイネックに、足首で絞れた濃紺のカーゴパンツ。
腰まわりのポケットのどれかが、中身の重みでわずかに垂れ下がっていた。注射器か刃物か、たぶん両方。足元は走っても音のしない黒のスニーカーで、腰には医療用じみた素っ気ないボディバッグが可愛らしくデコレーションされている。
やわらかくて、軽くて、良い匂いがしそうな女子である。ていうかいい匂いはした。
ただ口元にだけ、採ったばかりの赤い液体が口紅から溢れるようになっているのは彼女の不穏さを全て表している感じがする。
「へえ。こんなことになってるんですね」
赤い舌で唇をなぞりながら、彼女が嬉しそうに目を細める。
「なんで、こんなこと……」
心臓の音がうるさい。声が自然と硬くなって裏返る。
「昨日から、トガさんに驚かされてばかりだけど。これ、わざとだよね」
「昨日のは、感動の再会ってやつを味わってみたかったから。今日のは、時短と、あと色々味わいたかったから、です」
悪びれもせず、トガさんは指先についた血を舐めとった。
「でもおかげで、緑谷くんがいま何を考えてるか、大体わかっちゃいました。うーん。視覚の情報って感じじゃないんです。どっちかっていうと、追体験、かなあ」
血を吸った相手の、考えていることや記憶までも読めるのか。
そう僕が口にする前から、彼女はその問いを先回りしてあっさり答えた。とても怖い。
個性は進化する。たった一年で覚醒した仲間だって、いくらでもいた。三年も経っているんだ。誰がどんな成長を遂げていたところで、もう驚きはしなかった。
彼女が時短と言ったのは認めなければいけない。本当に話は全部わかっているようで、即座に本題へと切り込んでくれる。
「それで、誰といつ行くんです?トガも行きます。連れてってくれなきゃ、手当たり次第に刺しますよ」
脅しではない。彼女の脅威としての信頼はトップクラスだ。彼女ならやるという凄みと実績がある。でも、ちゃんと聞いておかないといけない。
これは、最悪は世界を台無しにするかもしれない。
最低限、みんな命がかかっているのだから。
「トガさんは、どうして行くの?」
「月の香りに、認めてもらったから」
うっとりと、彼女は遠くを見るような目をした。
「幸せを追っかけていいよって言ってくれた、優しい人。私、あの人になりたいんです。好きなだけ飲んだらきっと死んじゃうって、ずっと思ってたんですけど。今ならたぶん、飲み放題ですよね」
死なない世界。それがトガさんにとってどういう意味を持つのか、僕にもようやく分かる気がした。そして、あまりにも彼女を悪く捉えすぎていたかもしれないと反省だ。
「えらいね。トガさん、ずっと我慢してたんだ」
「……?我慢なんか、してませんよ」
きょとんと、本気で不思議そうに首をかしげる。
「死んじゃうのは悲しいけど、吸わない理由にはならないので。ずっと、淡輝くんは殺そうとしてました。遺跡でも見てましたよね?」
冷や汗がどっと噴き出す。ドン引きで一気に引いていった血が、まだ戻ってこない。
「さっきも、できれば飲むだけじゃなくて、首筋から飲みたかったんですけどね。あ〜。なんか、喉乾いてきちゃったかも」
やっぱりこの世界には、淡輝くんが必要だ。彼がいなければ世界そのものを憎んだままの人が、もっとたくさんいたんだろうと思うから。
ていうか僕には対応しきれない!ヒーローなのに警察を呼びそうになっている自分を抑えて、どうにか現実に目を戻す。
あれ。いない。
遠くを見つめて考えこんでいるうちに、トガさんの姿が消えていた。本当に神出鬼没だ。
でも、透明化まである程度自由に使えてしまうなら、かなりなんでもありじゃないか?
一体どこへ行ったのかと周囲を見渡すと、向こうの歩道橋の階段で老人がいままさに足を踏み外しかけていた。
考えるより先に、体が勝手に動いた。
もう足が地面を蹴っている。体のほうが僕より先に答えを出してしまう。
爪先で地面を弾いた瞬間、空気が後ろへ吹き飛ぶ。突風になったみたいに、僕の体は階段の下へ向かって一直線に伸びていった。視界の端で、老人の体がゆっくり前のめりに傾いでいくのが見える。間に合う。間に合わせる。
腕の先から黒い鞭が放たれた。
昔はこんなふうにはいかなかった。意思とは関係なく暴れて味方ごと薙ぎ倒す、手に負えない代物だったのに。今はもう、増えた指を動かすのと変わらない。何本もの黒鞭が宙でしなり、落ちていく小さな体の下へ滑り込んで、網のように広がって受け止める。
骨の細さは、触れる前から分かっていた。少しでも力を込めすぎれば、助けたはずの相手を壊してしまう。だから鞭は掴まずに、ただ抱くようにたわんで落下の勢いを何段にも分けて殺していった。
ふわりと、その軽い体が黒い腕の中に収まり、そして自分の腕までやってくる。
思っていたよりずっと軽かった。
「ひゃあ〜、ありがとねえ。ちょっと、向かいのお店まで行こうとしてねえ」
にこにこと笑うご老人を、僕はそのまま背負って運ぼうとした。その時だった。ズブリ、と音がした。
またしても危機感知は役に立たない。これに頼りきりになるのは危険だなと、こんな時にしみじみ思う。
さっきまで確かに老人だったはずの背中が、二十歳前後の女性に変わって僕の首筋に噛みついていた。深くはない。鋭い犬歯が、ちょうど刺さるくらい。
「トガさん。こういうのは、よくないと思う」
「はい。トガも、そう思います」
「じゃあ、やめてくれないかな」
「え?……ヤですけど」
何言ってんだこいつ、と本気で思っていそうな声だった。吸血は止まらない。
傷自体は回復の個性で問題ない範囲だけれど、女性とここまで密着していたら別の意味で身がもたない。だってさっきなんて、唇も……。
頭から蒸気が噴き出しそうになる。真面目にやらないといけないのに、思考だけがさっきからずっとから回っていた。
真面目に話そう。そう言いたいのに、口がうまく回らない。
「トガは真面目ですけど。顔真っ赤で変なこと考えてるのは、デクくんのほうですよね」
唇に人差し指を当てて小首をかしげるトガさんはどこまでも女性的で、挑発的に笑っている。確実におもちゃにされているが、こういうのにとことん慣れていなかった。
雄英で一番の成績を取ったあたりからだろうか。緑谷出久には、人に言えない悩みがあった。
女性のファンができてしまったのだ。挨拶も握手も、ヒーローなら当然応えるべきものだと頭では分かっているのに、いざその段になると体が一切動かなくなる。まるで金縛りにあったみたいに固まってしまう。
オールマイトに相談してみても、急用を思い出したとか口の中でぶつぶつ言いながら、のらりくらりとはぐらかされるばかりだった。
あの人の唯一の弱点が女性だというのは、前に淡輝くんがこっそり教えてくれていた。つまり女性の扱いだけは、憧れのオールマイトから学びようがなかったわけだ。
どうすりゃいいのさ。そう泣きついた相手に淡輝くんを選んだのも、いま思えば間違いだった。
「慣れるしかないと思うけどなあ。ていうかそれ、あんまり良くないからな。差別とまでは言わないけど、全然平等じゃないし」
ハリセンで軽くツッコまれるくらいのつもりで放った泣き言は、予想の何倍も重い鉄の棒で殴り返されたみたいな手応えになって返ってきた。
それ以来、自分のこの情けない醜態すら一種の差別になってしまうんじゃないかと、本気で悩むようになってしまった。
結局、土壇場でなら昔から気にならない。問題はいつだってなんでもない日常のほうにあって、その悩みだけは今も解決できないままだった。
「思春期も甘酸っぱくていいですけど、真面目に話しましょう」
本当にどの口が、と思うがその通りなので飲み込んだ。
「じゃあ、いつ行きます?」
まるでランチにでも誘うみたいな軽さ。
けれど彼女はもう、僕の知っていることをひとつ残らず知っている。あの突入がどれだけ危ういか、たぶん僕よりずっと正確に分かっている。そのうえでこの軽さなんだと思うと、背筋がうすら寒くなった。
「一週間後を考えてる。問題がなさそうなら、もっと早めてもいいかもしれない」
「誰を誘うんですか?」
「きっと、もう考えてくれてるよね。トガさん話を聞かせてもらいたいんだ」
「はい、ありますし。いいですよ。でも、デクくんが自分で選んだ人選も聞きたいな」
まずは誰から当たるべきか。答えは考えるまでもなく決まっていた。
「八百万さんから話そうと思う」
口に出した瞬間、マリアの言葉が胸の奥でちらついた。樹のなかにいるという、本物の八百万さん。いまこの世界で笑っている彼女と、どちらが。その問いにだけは、まだ触れないでおいた。
別サイトにはなりますがテーマ『スポーツ』で6000字程度の全く血の匂いがしない短編を書いてみました。青春しようぜ!
『中学 部活 入る 理由』
https://estar.jp/novels/26574774
よければご覧ください!