今は確かめようのないことより、できることを。そう自分に言い聞かせた矢先だった。トガさんが、道端の街路樹に何気なく手をのせる。幹に触れた部分が光って応えた。
「さっそく、百ちゃんのところに行きましょう。今はちょうど個性支援センターです。ヒーロー活動していない時は大体あそこです」
樹から手を離して、彼女は当たり前のように続ける。個性支援センター。またしても聞き慣れない名前だった。
「個性支援センターって、どういう場所なのかな?」
口にしてから、トガさんがほんの少し冷静な目で僕を見ているのに気づいた。何かよくないことを聞いてしまったのだろうか。今の世界の常識がないというのはやりにくい。
「デク君、起きて急いでるのはわかりますケド。聞いてばっかりじゃなくて、自分で見に行ったほうが良くないです?」
ぐ、と喉の奥で言葉が詰まる。
「私の言ってること、淡輝君ならちゃんと疑ってかかりますよ。そうしないと、痛いことになるから」
図星を突かれて心臓が小さく跳ねた。
それは、そうかもしれない。いや、そうすべきだった。
この世界の人たちは、記憶を失うどころか書き換えられている可能性だってあるんだから。だとしたら、誰かに教えてもらった情報そのものが、もう疑わしい。自分の目で見て、自分の足で確かめたものしか、足場にはできないはずだ。
「そうだね。ヒーローなら、自分の足で状況を確認しなきゃ」
声に出すと、さっきまで足首にまとわりついていた堂々巡りが、ほんの少しだけ軽くなった。確かめようのないことを延々と転がすより、確かめにいけることを確かめる。それなら、今の僕にもできる。
「あは。いいですねえ。久しぶりにヒーローごっこ。トガもします」
嬉しそうに目を細めて、トガさんが僕の半歩前へ出る。ヒーローごっこ、という言葉の置きかたが彼女らしくて、笑っていいのか身構えるべきなのか、いつものように決めかねた。
そういえばヒーロー科でヒーローにならないと宣言していた問題児はトガさんと淡輝君の二人だったっけ。
街を一区画こえるごとに、この文明のかたちが少しずつ呑み込めてくる。
スチームパンクとか、サイバーパンクとか、そういう言葉なら聞いたことがある。歯車と蒸気の街。ネオンと配線の裏町。でもこれはイメージに今までなかった。あらゆる機械のあいだを、植物がいっさい邪魔せずに生えている世界なんて、僕は一度も見たことがない。
信号機の支柱には蔦が巻きついているのに、レンズの一枚も隠していない。鉄骨の継ぎ目からは若い葉が顔を出して、構造をびくともさせないまま日を受ける。電線の代わりみたいに細い根が建物の壁を這って、窓のへりで器用に途切れていた。金属と樹皮が、どちらも譲らないまま、ぴたりと境を分けあっている。
異物が綺麗に交わっているのが、この新しい世界のようんだった。
風景を見ながらたどり着いたのは、学校のような雰囲気の建物だった。それこそ、雄英高校を思い出すような輪郭をしている。
「南極の雄英高校ですよ。あれ。その一部でやってるんです」
トガさんがあっさり言って、僕は思わず建物を見直した。言われてみれば、たしかに見覚えがあるマークが遠くに見えた。
門をくぐると、広い運動場が開ける。校庭のように見えるけれど、たぶん学校のものではないのだろう。そこには年齢のばらばらな人々が集まっていて、未就学の子供から腰の曲がった老人まで、本当に多様だった。
そして、その一人ひとりに付き添うように、人型のロボットやドローンがそこらじゅうにいる。彼らをサポートしているのは見ればわかる。ただ、何のために何を支えているのかは、僕にはまるで読めなかった。
近いところで、炎の個性を使う少年が、手のひらの上に小さな火球を浮かべて静止していた。そのかたわらでは大人がひとり手元の板に何かを書きつけ、頭上のロボが少年の炎をのぞき込むようにして見守っている。
その向こうでは、僕と同じくらいの年の女子が、自分の背丈の倍はある重機と力比べをしていた。油圧の腕が軋み、彼女の足がじりじりと地面にめり込んでいく。勝ち負けを競っているというより、どこまで出せるかを測られている感じだった。
少し離れた一角では、まだ小さな子供が、ふわふわと地面から浮いている。浮遊の個性だろうか。人型ロボがすぐ下に手を添えて、落ちないように見守りながら、滞空した時間をひとつずつ数えているらしい。
その隣で、ひとりの老人が地面の根に手のひらを当てていた。すると土のあいだから若芽が一本、するすると伸びてくる。ドローンが上からそれを記録すると、芽はちょうどいい高さで成長を止めた。樹を育てる個性なのかもしれない。だとしたら、この街じゅうの樹のいくらかは、こうやって人の手で伸ばされたものなのか。
「あ、百ちゃんだ。今日もカアイイねえ」
てってって、と軽い足どりで駆け出したトガさんは、いつの間にか別の誰かに変わっていた。どこにでもいそうな女性や男性の背中に変わったと思えば、次の瞬間には子供になって場に溶ける。
きっと何人かぶんをストックしておいて、自由に切り替えられるのだろう。だとしたら、彼女が本気で逃げようと思ったとき、もう誰にも捕まえられないんじゃないか。
ていうか、と足が止まりかける。昨日は葉隠さんの透明だって再現していなかったか。
そこでようやく気づけた。トガさんの個性は、見た目だけの再現だったはずなのに。
まるで物間君のコピーみたいに進化している。いやそれ以上かもしれない。物間君が触れた相手の力を一時的に借りるだけなのに対して、トガさんのそれは記憶も肉体もまるごと模倣している。借り物ですらない。それは、それはとても大変なことじゃなかろうか。誰かに本気で成り代わろうと思ったとき、いまの彼女にできないことなんて、はたして残っているのか。
そんな人物を見失ったことにゾッとした。
彼女の衝動は、もう知っている。今朝、いやというほど思い知らされたばかりだ。そのうえでこれほど万能に近い力を手にしているなら、なんでもできてしまうんじゃないか。この懸念を杞憂だと片づけられるだろうか。
危機感知は、相変わらず少しも反応しない。それでも自分のなかの理性のほうが、あれは大変なやつだと静かに断言していた。
「なんとかしなくちゃ!」
視線を運動場の中央へ戻す。八百万さんのほうへ近づいていく人影が三つ。子供がひとり、老人がひとり、それから若い女性がひとり。どれも見るからに無害そうで、けれどそのうちの誰かひとりが、まちがいなく血を狙っているはずだ。
今のうちに声をかけて止めるべきか。一瞬だけ迷って、すぐに飲み込む。こちらが八百万さんに注目を集めれば、かえってトガさんに噛みつく隙を与えてしまいそうだった。
だから僕にできるのは、人混みをかき分けて急ぐことと、どうか血が流れませんようにと、間の抜けたお祈りをすることくらいしかなかった。
結果から言えば、心配は杞憂ではなかった。けれど、どうやら余計なお世話だったらしい。
老人が、差し出された八百万さんの白い手首へ歯を突き立てようとして、その歯が一切通らない。キラリと光る金属の鱗のようなものが、いつのまにか彼女の腕をびっしり覆って守っていた。
「トガさん。おはようございますわ」
八百万さんは噛みつかれかけた腕をそのままに、まるで朝の挨拶でも交わすみたいに微笑んだ。
「言ってくだされば血はあげますのに、毎度毎度奇襲なさるのは、おやめくださいな」
「えへへ。吸血衝動って、そういうものではないのです。ガバっと襲いたくなるのも、ちゃんとセットなんですよ」
老人の姿のまま、トガさんがけろりと言い返す。
その瞬間、八百万さんの体からまるで意思でもあるみたいに樹が生え出した。何本もの細い枝がしなって伸びて、トガさんの体へ巻きついていく。
「痛くしないでください〜」
口ではそう言いながら、トガさんはちゃんと抵抗している。それでももう腕の一本は根に絡め取られて、逃げる隙はどこにもなかった。じたばたするうちに、運動場の真ん中に、なんとも不思議な盆栽が一鉢できあがる。
おお〜!と周囲から歓声が上がった。老人たちは盆栽の品評を始めている。
よ、よかった。事件にならなくて。
胸を撫でおろしかけて、すぐに別の引っかかりがやってくる。というか、こうして難なく防げなきゃ、今のはヴィラン扱い一直線だったんじゃないのか。
いや、今さらか。ずっと淡輝くんは、こういうのを当たり前みたいに対応し続けてきたってことなんだ。
安心したが、頭の奥がズキリと痛んだ。
樹がトガさんを包んでいく光景に、ほんの少しだけ、あのとき樹に飲まれていった人たちの姿が重なる。けれど、根のあいだから覗くトガさんの顔があんまり楽しそうだったから、大丈夫だと頭を振って追い払った。
そこで、ふっと力が抜けた。
膝から下が急に頼りなくなって、近くのベンチに座り込む。まだ本調子じゃないらしい。気の抜けた拍子に、自分でも驚くくらいすとんと腰が落ちてしまった。
「あら。緑谷さん」
声に顔を上げる。樹を引っ込めた八百万さんが、こちらに気づいて歩み寄ってきていた。
「もう、お体のほうはよろしいのですか?」
昨日も顔を合わせたはずなのに、こうして明るいところで向き合うと、まるで知らない人みたいだった。ゆるく結い上げた髪から後れ毛がいくつもこぼれて、頬杖をついていたときの線が、そのまま立ち姿の余裕に繋がっている。リブの効いたノースリーブから伸びた肩も腕も、すっかり大人の女性のものだ。背は僕より高くて、見下ろされるというより、見守られているような心地がした。
なんだろう。昨日は気づかなかったけど、八百万さんって、すごく大人の女性って感じだ。緊張する。ていうかみんな、もう大人で自分だけなんであの時と変わっていないんだ!?
「み、緑谷さん? 顔色が……」
心配そうに、彼女が僕の顔をのぞき込もうと腰を屈める。距離が、近い。整った顔がまっすぐこちらを向いて、おまけにいい匂いまでして、僕の思考はそこで完全に固まった。
「だ、大丈夫、です。ちょっと、休めば」
声が情けなく裏返る。視線をどこへ置けばいいのかわからなくて、結局トガさんの盆栽のほうへ逃がした。
すると、逃げた先へとカウンターを合わせるように水着の女性に変身して、ウインクを返された。
「がはっ!」
完全に遊ばれている。ノックアウトだ。降参させてください。
心配してくれる八百万さんからも適切な距離をとっておき、ようやく一心地つけた、ような気がする。そういうことにしておく。
なんとか視線を立て直して、僕は手近な話題のほうへどうにか逃げ込んむ。
「ここって。どんなことをしているの? 訓練を手伝っているように見えたけど」
「はい。その通りですわ」
八百万さんは屈めていた腰を伸ばして、運動場のほうへ目をやった。
「ここは、個性訓練の場所ですの。慣れない個性は、事故のもとですから。いろいろな個性に合わせて、体に馴染ませていく公共施設ですのよ」
それから、ほんの少しだけ誇らしげに胸を張る。
「ここで組まれた最新のカリキュラムが、世界じゅうの個性支援施設へ広がっていくのです。こんなにやりがいのあるお仕事も、なかなかありませんわ」
聞いていて、ひとつ引っかかった。
おかしい。子供たちのための施設だというならわかる。でも運動場には、いい大人がそれもかなり高齢の人も何人も混じっていた。なんで彼らが、いまさら自分の個性に慣れていないんだろう。個性をうまく扱えなくて悩むなんて、ワンフォーオールをもらったばかりの頃の僕みたいな話で、そうそう何人も経験することじゃないはずなのに。
その疑問も、八百万さんは僕の表情から読んだらしい。
「いまや個性は、可変のものになりましたの」
可変?どういうことかわからない。
「危険すぎる。体質に合っていない。そのせいで社会生活が難しい。さまざまな理由で、個性は返納できるんです。世界樹に触れて、願うだけですわ。そして返すときに、自分に合った個性を新しく願うこともできます。ぴたりとマッチするものがあれば、その個性を改めて宿せるんですの。これが、世界樹の個性革命ですわ」
絶句した。
そういえば、と思い当たる。この街に来てから、異形型の個性の人がやけに少ない気がしていた。てっきりあの夜で命を落とした人ばかりなんだと、勝手にそう片づけていた。でも、そうじゃなかったのか。
個性をなくすことができる。そのうえで、別の個性を選んで得ることもできる。生まれ持った宿命でもなんでもない。
「後から付けかえられる、洋服みたいだ」
ぽろりと、そんな言葉がこぼれる。
「そこまで気軽ではないですけれどね」
八百万さんがくすりと笑った。
「でも、そうですわね。二十一世紀でいう、整形手術くらいのハードルではないでしょうか」
言ってから、彼女はハッとして口元を押さえる。
「ごめんなさい。二十一世紀のお話なんて、例えにしてもわかりづらいですわよね」
「いや! いや、そんなことないよ」
つい声が大きくなった。
「二十一世紀の話は、友達がすごく好きだったから、僕も結構知ってるんだ。っていうか、八百万さんこそ、なんで知ってるの?」
「まあ。難しいことをお尋ねになりますわね。ただの趣味なのですが……」
八百万さんは少し困ったように首をかしげる。
「好きなものに、いちいち理由なんて考えないものでしょう。小学生の頃に興味を持って、それからずっと、いろいろ調べてきただけですわ。というか、雄英でも流行っていたじゃありませんか。あの頃のジャンプ漫画や、古いヒーローもの。緑谷さんだって、一緒に楽しんでいたでしょう」
ああ、そうか。
全部が消えてしまったわけじゃないんだ。あの二十一世紀オタクがまわりに撒き散らしていった熱量の、その全部が消え失せるわけがなかった。こんなところに、ちゃんと残っている。
でも、と胸の奥が少しだけ冷えた。八百万さんの記憶からあの友達が抜け落ちているとしたら、それは、よほど大変なことになっていたんじゃないだろうか。二人は幼馴染で、与えあった影響はきっと、僕なんかよりずっと深いはずだから。
「百ちゃん、しばらく記憶障害で大変でしたからねえ」
いつのまにか盆栽から抜け出していたトガさんが、すぐ後ろで言った。樹の拘束は、八百万さんが説明にかまけているあいだに、するりとほどけていたらしい。そうか、子供に変身すれば拘束も抜けられるんだ。
「だからきっと、デク君の気持ち、わかるんじゃないかな」
含みのある言い方だった。
納得してしまう。自分を形づくっていた大きすぎる何かが、ごっそり欠けてしまえば、人はもう、自分を自分のかたちに保っていられなくなる。それくらいのことは、僕にも想像がついた。
「八百万さん。ひとつ、聞いてもいい?」
意を決して切り出す。
「僕が眠ってしまった、あの夜。そのときのことって、覚えてる?」
「……ごめんなさい」
八百万さんの声が、わずかにしぼんだ。
「ちょうどその頃の記憶が、ほとんどなくて。ハワイで、みんなと一緒にバレンタインを過ごしたのが、わたくしの最後の記憶で。そこから先のことは、あとから聞かされたことしか……」
自分の知っていることを、相手は知らない。
自分が一緒に体験したはずのことを、相手は覚えていない。
そういうとき胸に湧いてくる、この気持ちはなんなんだろう。寂しい、というひとことだけでは、まるで足りなかった。名前のつかない孤独が、足首を掴んだまま離してくれない。
「あら。緑谷さん、大丈夫ですか」
「だ、大丈夫です! 大丈夫!」
「とても、なんだかとっても、放っておけないお顔をしてますわ!」
八百万さんは僕の返事をまるきり信じていない顔で、ぐっと拳を握った。
「いますぐ休憩をいただいてきます。一緒に、ランチにしましょう!そうしましょう!」
そう決めるが早いか、彼女は引き止める間もなく、運動場の向こうへ駆けていってしまう。お嬢様然とした見た目のわりに、決めてからが早い。出かかった言葉は、僕の口のなかで行き場をなくした。
ふと気づくと、トガさんがこちらを、本当に嬉しそうな顔で見ていた。
なんで、と僕が疑問符を浮かべるより早く、彼女はその心を読んだみたいに答えをくれる。
「さっきの表情。とっても淡輝君に似てました。よく、そういう顔してたなぁって」
ああ、そうか。
彼がずっと感じていた感覚というのは、こういうものだったのかもしれない。みんなと同じ場所にいるはずなのに、自分だけが少しずつ世界からずれていく感じ。
言い表しようもないくらいの、ひとりぼっち。
今になって、ようやくその一端に手が届いた気がした。