施設のなかを少しだけ見せてもらってから、休憩をもぎ取ってきた八百万さんを待って、僕たちは食堂へ向かった。
正直なところ、外食はちょっと怖かった。
食べることそのものが昔ほどの意味を持たなくなった世界で手料理以外を食べた時、その違いを味わされれるのではないかと怖かった。
食べ物自体に期待していた部分が、今は警戒をしている。勝手に身構えているんだ。
その予想は、八百万さんが席につくなり吹き飛んだ。
彼女の前に並んだ料理が、見ているそばから消えていく。彼女の個性は、体内に蓄えた脂質を分解して、そこからあらゆるものを創り出すというものだ。だからよく食べるのは前から知っていたけれど、まさかここまでだったとは思わなかった。
フードファイターもかくや、という勢いで次々と口に運びながら、それでいてちゃんと味わってもいるらしい。
「この出汁、すこし煮干しを利かせてありますのね。あら、こちらのお野菜は今の時季だと、なかなか手に入らない希少なもので……」
ひとくちごとに、そんなうんちくがするすると出てくる。お嬢様らしい品の良さと、トレイを瞬く間に空にしていく速さが、まるで噛み合っていない。スプーンとフォークにナイフまで、当然はしも使っての四刀流だ。
けれど見ていると、なんだか妙に安心した。油断したのかつられて、自分の腹のほうもぐうと鳴る。
僕は、親子丼とうどんの定食を頼んでいる。
丼の蓋を取ると、半熟の卵がとろりと鶏肉と三つ葉を覆っていて、出汁の匂いがふわりと立ちのぼった。れんげで掬って口に入れると、甘辛い割り下がご飯にしみて、卵のまろやかさと一緒にほどけていく。
うどんのほうは、つゆを吸った揚げがじゅわっと汁をこぼすくらい柔らかい。麺はしっかり腰があって、噛むたびに小麦の香りが鼻へ抜けた。どれを食べても、最初の心配なんて思い出せなくなる。
ちゃんと美味い。口のなかでほぐすほど、奥から味がにじんでくる。
食がどうでも良くなるかもしれないなんて。あの勝手な想像を、料理のほうから激しく反論されている心地がした。
ふと隣を見ると、トガさんは血のしたたりそうなレアのステーキを、上機嫌で切り分けていた。
豪快でテーブルマナーにはない持ち方だけど、誰より刃物の扱いは上手い。
いよいよデザートというところで、夢中になっていた僕たちを現実に引き戻すように、トガさんが口を開いた。いちごジャムをたっぷり乗せたパンケーキのせいで、口元がべったりと赤く染まっている。さっき舐めていた血と同じ色なのが、見ていてどうにも落ち着かない。
「ていうか、これってパーティのお誘いですよね? 百ちゃんはどうせ断らないですし、さっさと誘っちゃいません?」
フォークをくるりと回しながら、彼女は続ける。
「というか、ヒーロー科の人たちなら全員二つ返事だと思うんですケド。一斉送信のチャットひとつで済むかもですよ」
自分の足で確かめろと言ったり、やっぱり一斉送信で済ませろと言ったり。口にすることがころころ変わるのに、不思議とどこにも矛盾を感じさせない。トガさんは、どこまでも本当にトガさんだった。
「あら。パーティのお誘いですの?」
八百万さんが、ぱっと顔を上げて小首をかしげる。その響きの軽さに、ああ、と思った。きっと彼女は、この話の意味を少し履き違えている。
これは、ドレスを着て出かけるような素敵な夜会の話じゃない。魔王城へ斬り込みにいく、決死隊の人選の話なのだ。
「でも、ちゃんとそれぞれに、聞いておかなきゃいけないことがあるんだ」
茶化される前に、僕は言葉を選んで切り出した。「だからこれは、僕にとっては大事な時間だって思ってる」
それから、まっすぐ八百万さんを見る。
「八百万さんは、今の生活ってどう? 幸せ、かな」
「ええ。そうですわね」
彼女はフォークを置いて、少しだけ考えるふうにした。
「充実は、しています。ヴィランの犯罪も、個性の暴走による事故も、ずいぶん減りました。それでも人と人との諍いだけは、いまだに数えきれないくらい残っていてる」
それでも確かな幸せが、言葉には滲んでいた。
「ヒーローとして、すべきことをして、人を助ける。子供の頃に夢見たことが、叶ったと言ってもいいと思いますわ」
きれいに整った答えだった。けれど、それで話が終わりではないことを、たぶんその場の全員が感じ取っていた。
「ただ……そうですわね」
八百万さんは伏し目がちに続ける。
「記憶をなくしたとき、一緒にどこかへ落としてきてしまったものが、ある気がするんです。それがずっと、心のどこかに引っかかったままで。うまく言葉にできないのですけれど、何かを探しているような感じが、どうしても消えなくて」
カップの縁を指でなぞりながら、彼女は小さく息をついた。
「でも、これはあの夜を経験した人なら、みんなが感じていることなんです。決して、わたくしひとりの話ではないと、ちゃんとわかっています。人は今あるものに満足できない生き物だということも、知っているつもりですわ。それでも、どこかにまだ何かが、なんて……つい考えてしまいますわね。足るを知るということを忘れないようにしなくては」
そこまで聞いて、僕は息をひとつ吸った。これから尋ねることが、彼女の足元を揺らすかもしれないと知りながら。
「その違和感を、八百万さんはどれくらい本気で確かめたいと思ってるかな? 変な質問なんだけど、ちょっと考えてみてほしいんだ」
ひとつずつ、言葉を慎重に置いていく。
「たとえば、その代わりに今の生活がぜんぶ壊れてしまうとしても。今の平和が、乱されてしまうとしても」
そこへ、トガさんが横から刃を差し込むように切り込んできた。さっきまでの軽さが嘘みたいに、声だけがすっと低くなっている。
「自分が自分じゃなくなって、根っこから崩れちゃってもいい。トガは、そう思ってますよ」
赤く汚れた口元のまま、彼女は八百万さんをのぞき込む。
「百ちゃんは、どうですか?」
八百万さんは、すぐには何も答えられなかった。ただ困ったように、僕とトガさんを見比べて、そのまま黙り込んでしまう。
「それって、どういう、ことでしょうか」
八百万さんの声がわずかに揺れた。困惑するのは当然だ。でも覚悟も何もないまま座っている本人に向かって、あなたは偽物かもしれない、なんてことはどうしても言えなかった。
「ごめん。確かなことは、まだ何も言えないんだ」
それでも、嘘だけはつきたくなかった。
「ただ、その違和感を、僕は確かめにいこうと思ってる。どんなリスクがあるのかも、正直わからない。それでも、これを無視することだけは、僕にはできないから」
言葉が足りているのか、自信はない。それでも続ける。
「誰かが助けを求めてるとか、そういう話じゃないんだと思う、きっと。だから、誰かのためじゃなくて、自分のために、自由に選んでほしい。人にはそれぞれの事情があるから。これは、ひとりひとりが自分で答えを出すべきことだって思ったから、こうして聞いていこうって思ってるんだ。ごめんね。変なこと聞いて」
口にしながら、嫌な気分が腹の底に残った。何も知らされないまま判断を迫られるのは、きっと辛い。なのに僕は、その辛さを承知のうえで、彼女に選べと言っている。
「今すぐじゃなくていい。でも、あんまり時間もないから、数日のうちに返事をもらえると助かるかな」
「……なるほど」
八百万さんは一語ずつ、確かめるように繰り返した。
「詳しくはわかりません。けれど、わかりましたわ。わたくしなりの答えを……そうですわね。明日までには、お知らせします」
それから、まっすぐに僕を見る。
「ちなみに。緑谷さんは、どれくらい危険だと感じていらっしゃるのでしょうか」
ごまかしてはいけない質問だった。
「……死んでしまうかもしれない。家族や、みんなを、悲しませることになるかもしれない。もっと多くの人の平和を乱してしまう可能性も捨てきれない。なんで自分でもやるべきだって思うのかわからないくらいには、危なそう、かな」
そこまで言って、僕は八百万さんと別れた。残りのデザートには、もう手をつけられそうになかった。
施設を出て、次の相手のもとへ歩きはじめた僕の隣で、トガさんがのんびりと口を開く。
「あれで良かったんです? ぜんぶ話しちゃったほうが、綺麗じゃないですか」
「うん、そうかもしれない。……わからないんだ」
正直に答えるしかなかった。
「わからないから、一歩ずつ行こうと思う」
「ヒーローっぽくていいですね。でも、あの聞き方。ヒーローなら、絶対にひけませんよ」
トガさんはこちらを見上げて、にこにこと笑っている。その笑顔のまま、彼女はやわらかく刃を滑り込ませてきた。
「それって、正々堂々って言えるんですかね」
「あらかじめ答えがわかってる問いかけって、残酷でいいなぁって。トガ、そう思います」
カラリとした笑顔で、優しく否定を放つ彼女は今まで関わったことがないタイプかもしれない。
その牙は否定できなくて、その毒は正しくて、自分の深いところに突き刺さって滲み出す。
時間が経つにつれて、体は動かしやすくなっているが、ここまで言われてしまっては考えるしかない。
自分は正しいことをしていないかもしれない。
その感覚が大きくなるほどに、体は重くなっていく。
助けてと言ってしまえば、自分が命をかけると言ってしまえばみんなは絶対に自分を見捨てたりしない。
というか、できないのだ。その選択肢がそもそもない。
それは果たして、選んだと言えるのだろうか。
ヴィランに人質を取られて戦うのを止める時と、一体何が違うのだろう。