前に目覚めたときと、同じ光景。
病室の天井だ。窓の外には光る木が見える。あの夜から世界の真ん中に立ちつづけている、世界樹。今はもう、その存在をちゃんと知っている。
ただ、ひとつだけ。前と明確に違うところがある。
横から、凄まじい視線で睨まれていた。
僕の感覚が鋭いとか、そういう話じゃない。これだけ刺々しい気配を浴びせられたら、生まれたての赤ちゃんだって、わけもわからず泣き出すと思う。何がそこにあるのかは、見なくてもわかる。わかってしまうから、できればこのまま天井を眺めていたかった。
それでも、ゆっくりと、そちらへ顔を向ける。
ありえないほどの形相で、一言も発さずに僕を睨みつけている幼馴染が、そこにいた。
頭のてっぺんに、光る枝を一本ちょこんと乗せられた爆豪勝己が。ギリギリと奥歯を鳴らしそうな目で、こっちを睨んでいる。
「かっちゃん。あ、腕は……」
言いかけて、ようやくあの大怪我を思い出す。右肘から先を、自分の爆発で吹き飛ばしていたはずだ。慌てて彼の手元を見た。
跡形もなく消し飛んだはずの右腕が、何ごともなかったみたいに、綺麗にそこへ収まっている。
ああ、そうか。加護だ。ここでは、傷はぜんぶ無かったことになる。
すでに血走った目に、赤が何本か増えた気がした。今にも怒鳴り出しそうなのに、なぜか、かっちゃんはおとなしく座っている。あんなに静かなかっちゃんを、僕は知らない。あれは、もしかして、頭に乗っている枝が何か関係しているんだろうか。きっとそうだ。
考えていると、コンコン、とノックの音がした。
扉が開く。八百万さんと、それから麗日さんが入ってくる。
息が、一瞬止まった。
丸かった頬の輪郭が、すこしだけ細くなって。代わりに、その下の顎の線が、やわらかく大人びている。背も、たぶん伸びた。
目線の高さが、記憶のなかの彼女より、わずかに上にある。短く切りそろえていた髪は、肩につくくらいまで伸びて、毛先が首筋のあたりで軽く跳ねていた。
何より変わったのは、たたずまいだと思う。うまくは言えないが、なんかこう。女性っ!て感じだ。
何度も思い知らされれる三年という重み。
改めてずしりと重みを持って迫ってくる。僕だけが、その三年を眠って飛ばしてしまった。彼女が一日ずつ積み上げてきた時間の、どのひとつにも、僕は立ち会えていない。
それなのに。
綺麗だな、と思ってしまった。不謹慎なくらい、まっすぐに。
「起きたようで、よかったですわ。緑谷さん、大丈夫そうですね」
八百万さんの声で、ようやく我に返る。麗日さんに見とれていたのを見透かされた気がして、僕はあわてて居住まいを正した。
「顎の骨折に、首の捻挫。それから、重度の脳震盪。……といっても、四肢の欠損ですら当日中に治ってしまうのが、今の世界ですけれど」
さらりと、とんでもない単語が並べられた。自分の体のことなのに、まるで他人の話を聞いているみたいだ。顎が折れて、首をひねって、脳が揺れた。なのに、こうしてもう口も首もちゃんと動く。
「あの右手……爆豪さんが、それくらいなさるのは知っていました。あなたも当然、知っていると思っていましたわ」
「うん。ウチら同級生は、みんなデクくんが一番最初だったもんね。自分の体が壊れてもいいから、って動く人を見たの」
麗日さんが、やわらかく笑う。
その一言が、思っていたよりずっと深く刺さった。
僕にとっては当たり前すぎて、わざわざ考えたこともなかったそれは。みんなは、それをちゃんと覚えていたのか。
「腕が壊れてもお構いなし、というスタイルを、誰よりも先に実践してみせた人が。まさか、そのご本人が想定していなかったとは。……これこそ、想定外ですわ」
戦術にまで組み込まれているなんて、ぐうの音も出ない。
「きっと、爆豪さんのこの怒りも。そのあたりに起因しているはずです」
八百万さんが、ちらりと隣へ目をやった。
「あら、すごい。本当にお怒りで、髪の毛が空を突きそう。ふふ。良いですわね。あなたに勝ったのは、これが初めてですから。これくらいは、させてください」
言うが早いか、八百万さんは、天を衝くトサカみたいに逆立ったかっちゃんの髪を、上からポフポフと押し潰しはじめた。
「あ、危ない!」
なんてことを!噛まれるぞ!こんなの、いつものかっちゃんなら、とっくに手首を掴まれて投げ飛ばされている。なのに、当のかっちゃんは、髪を潰されるたびに眉間の皺を一段深くするだけで、指一本動かさない。睨むことしかできないでいる。
「大丈夫です。爆豪さんは今、動けませんから」
僕の顔を見て、八百万さんが種を明かす。
「世界樹によって、体を動かせなくされているんです。強制的な、絶対安静というわけですわね」
「急に治すんは、体に負担かかるしね。基本は一晩くらいかけて、ゆっくり馴染ませるんよ。タフな人らは、治りきる前に飛び出てっちゃいがちやけど。今回は百ちゃんと、ちゃんと捕まえられたから」
麗日さんが、八百万さんへ手のひらを向ける。
ぱちん、と小気味よい音を立てて、二人がハイタッチを交わした。
息の合った、女子のじゃれ合いだ。いや二人ともすっかり大人びている。女性たちの、と言い直すべきなのかもしれない。
どちらにしても、目のやり場に少し困った。
その気まずさを感じ取ったのか、話が本題へと切り替わる。
「麗日さんと、お話ししたいこともあるでしょう。すぐに退散いたします。ですから、私からは謝罪だけを、お伝えしますね」
ふいに、八百万さんの声から温度が引いた。
さっきまでのじゃれ合いの余韻は、もうどこにもない。彼女は背筋を伸ばしたまま、ゆっくりと腰を折る。お辞儀の角度が、やけに深かった。
「私はヒーローとして失格の、最低な行為を行いました」
頭を下げた姿勢のまま、八百万さんが言い放つ。
ひゅっ、と喉が鳴る。
「い、いや。いやいやいや!そんなこと!」
「最後にきっと、麗日さんが来てくれたんだよね?あの浮遊感のなかで気を失ってたから、なんとなくはわかるんだ。でも、そうでもしなきゃ勝てなかったと思うし、それに僕は嘘が苦手だから、隠してたのは合理的っていうか……!」
それでも、八百万さんは顔を上げない。
「いいえ。そちらでは、ありません」
静かな声だった。
「まさに言っていただいた通り、それについてはヒーローとしても、ぎりぎり許される範囲かと思っています」
「あ、そうなんだ。けっこう、柔軟になってるね。飯田くんもそうだったし、やっぱりみんな、大人になってるなぁ」
ほっと息を吐きかけて、すぐに引っかかる。
それなら、八百万さんはいったい何を謝っているんだろう。
「私は、緑谷さんを信頼していませんでした」
え、と思う間もなく、言葉が続いた。
「だからこそ、自分にできるすべてを使って、自分の空白を知るために。それこそ誰より早く、私は法を破っていたのです」
「トガさんよりも!?」
素っ頓狂な声が出る。
その瞬間、八百万さんが、ぱっと困った顔を上げた。
「いえ、さすがに彼女ほど常態的でも、早くもありませんが……」
一瞬だけ、お嬢様の仮面に亀裂が入る。けれどすぐに、彼女は咳払いをひとつ落とした。
「訂正しますが、それはどうでもいいんです!もう!話の腰を、折らないでください!」
「ご、ごめん」
顔を上げた八百万さんは、もう微笑んでいなかった。
「いいですか。私はあなたが目覚めてから、ずっと監視をしていました。盗聴も、盗撮も、当然のこととして。バイタルに至るまで、私の創造した非合法のナノマシンを、あなたの体に仕込んでいたのです」
「え、つまり……。そうなると……」
言いかけて、言葉が続かない。背中を、冷たいものが伝う。
「すべて、知っていますわ」
「緑谷さん。あなたは特に、考え事をするときに独り言が多い人ですから」
その一言で、足元が抜けた気がした。
僕がこの二日、自分のなかだけで転がしていたつもりのものは。ひとつ残らず、彼女の手のなかにあったのだ。
「他の方には、説明したでしょう。私が、もう一人いるかもしれないことを。人との対話に出たことは、確実に。言葉にしていなくても、この二日であなたがつぶやいた声は、すべて拾ってあります」
つまりそれの意味するところは……。
ごくり、と唾を飲む音が、やけに大きく聞こえた。
「わたくしと、淡輝さんが幼馴染であること」
心臓が、跳ねる。
「あなたが、爆豪さんを殺したこと」
すぐそばで、当のかっちゃんが、枝を乗せられたまま僕を睨みつけてくる。生きている。ちゃんと、生きている。なのに八百万さんは、殺した、と言った。間違いではない。あの一瞬を、僕はたしかに、この手で。
「麗日さんが、いないはずであること」
それだけは。それだけは、誰にも言っていないつもりだった。
八百万さんが、隣の麗日さんへ目をやる。
「麗日さんが、特に確信していました。あなたという人が、淡輝さんのことを口では誰かに託すように言いながら。その実、すべて自分ひとりで抱えこむ人だと」
麗日さんは、何も言わなかった。ただ、痛みをこらえるみたいに、まっすぐ僕を見ている。
「これは、私たち二人による、歴とした人権の侵害です」
「「本当に、ごめんなさい」」
二人そろって、深々と頭を下げた。
いや、そんなの。そんなのは、僕だって同じように隠していたんだから。だったら、こっちこそ……。
そこまで言いかけて、三方向から同時に睨まれた。
八百万さんと、麗日さんと、それから、かっちゃん。かっちゃんに至っては、もう言葉にならない圧を全身から噴き出している。動けないはずなのに、このまま放っておいたら血管のほうが先に切れそうだ。蓋を押さえつけられた圧力鍋。今のかっちゃんは、まさにそれだった。
だめだ。落ち着け、僕。
いや、違う。今のは違う。隠していたのは悪いことだ。でも、それなら僕のほうがずっと悪い。みんなのことを、みんなに関わることを、僕だけが知っていて黙っていた。お互い様なんかじゃない。これは、どう転んでも、僕が頭を下げる側の話だ。
「みんなのことなのに、隠してて。……ごめん」
今の僕にできる、ぎりぎりいっぱいまで。声と背中をぜんぶ使って、誠心誠意、頭を下げる。
「許しませんわ」
返ってきたのは、まっすぐな拒絶だった。
「だから、ここからは私たちのことを、きちんと人間として扱ってください。守るべき対象ではなく、人として、対等に」
顔を上げた僕の目を、八百万さんが正面から射抜く。
「これから、お友達のところへ意思を聞きに行くのでしょう。その身近なお友達に嘘をついていて、いったいどうするんですの」
ぐうの音も、出なかった。
まったく反論の余地がない。ここ最近、こんなのばっかりだ。誰かに何かを言われて、ぐうの音も出ずに黙りこむ。三年眠っていたぶん、僕はずいぶん、言い返す筋肉をなくしてしまったらしい。
「飯田さんの言うとおり、よく考えて。切島さんの伝えたとおり、正直に。トガさんのように、目的を忘れずに」
ひとつずつ、指を折るみたいに、八百万さんが並べていく。
「ご友人から学べることは、きっと多いはずです。三年も休んでいれば、ブランクがあって当然。でしたら、その当然のぶんだけ、私たちを頼っていただきたいのです。私たちにはそれぞれ、自分の目的があるのですから」
そこまでひと息に説教しきって、八百万さんは満足げにひとつ頷いた。
「では、ここまでで失礼いたしますわ。あとのことは、よろしくお願いいたします」
足音もほとんど立てずに、彼女が病室を出ていく。
残ったのは、麗日さんと、僕と。それから、いまだ爆発寸前のままのかっちゃんだけになった。
少しの間があって、ようやく話が始まる。
「デクくん。久しぶり、だね。まずは……起きて、本当によかった!ずっと心配で、できるだけお見舞いには来てたんやけど。起きたときにいれんくて、ごめんね?」
ああ。
麗日さんが、そこにいる。
あの日、僕を助けてくれた人。そして、僕が救えなかった人が。本物の重さをまとって、すぐ目の前で笑っている。胸の奥が、うまく言葉にならない形でつまった。
「それでさ。私が、なんなのか。あれから色々、考えたんよ。でも、やっぱりわかんなくて。だからこそ、自分の足で確かめにいかなきゃって、そう思うんだ」
麗日さんが、すこし首をかしげる。
「それに、それにね。デクくんが行くなら、私は絶対、一緒に行くから。もう、見てるだけじゃない。待ってるだけじゃないんやって、デクくんもわかったでしょ?」
イタズラっぽく、彼女が笑った。
たしかに、わかった。さっきのあれが、その答えだ。僕という餌をぶら下げて、かっちゃんなんていう途方もない存在を釣り上げてみせた。あんな芸当をやってのける人たちの腕前を、今さら疑う余地なんて、どこにもない。
「こちらこそ、その。……よろしくお願いします」
「もしちゃんと帰ってこれたら、お話があるんよ。その時に、聞いてくれる?」
いったい、なんの話だろう。見当もつかない。それでも、不思議と不安はなかった。麗日さんとなら、いつだって、何だって話したいと思う。
「うん。きっと、帰ってくるから」
「よし。約束ね」
そう言って、麗日さんはぱっと両手を打ち合わせた。
「今日は、このくらいで!爆豪くんもいるし、なんか恥ずいしね!じゃあ、またね。デクくん」
慌ただしく窓を開ける。次の瞬間には、彼女の体が、重力をどこかへ置き忘れたみたいに、ふわりと跳ねていた。
すでに高く昇った太陽を背にして、小さくなっていく背中を、僕はいつまでも見送っていた。
麗日さんが帰ってからも、僕はずっと考えつづけていた。
窓の外で、世界樹がゆっくりと色を変えていく。気づけば、あたりはすっかり夜になっていた。
ぱき、と乾いた音がした。
かっちゃんの頭のてっぺんに乗っていた光る枝が、根元からそっと離れて、宙へ溶けていく。まだ立って出歩けるほどではないらしい。それでも、口だけは自由になったみたいだった。
身構えなかったといえば嘘になる。けれど、その頃にはかっちゃんもさすがに頭が冷えていたのか、枝が外れた瞬間に飛びかかってくる、なんてことはなかった。
「……何で殺した」
低い声だった。
「テメエにそんな真似、できねえだろ。よっぽどのことでもなきゃよ」
その問いが来ることは、ずっとわかっていた。わかっていて、答えを用意できないまま、僕はここまで来てしまった。
「……君に、初めて頼まれたんだ」
声が、思ったより掠れる。
「もう、獣の病の進行が止められなくて。あの南米のときよりも、ずっと、どこにも救いがなくて。それで」
その先は、言葉にならなかった。する必要も、なかったのかもしれない。
「よくやった」
え。
聞き間違いかと思った。なんで、とか。どうして、とか。そういう言葉が返ってくるものだとばかり、覚悟していたから。
「……え。なんで。そんな」
「ああ?」
かっちゃんが、うっとうしそうに鼻を鳴らす。
「人のこと無視しまくって、いい年こいて叱られたばっかだろうが、テメエは。それでもよ。あんときテメエは、俺の意思を捨てなかったんだろうがよ」
言葉に、詰まった。
「感謝、してやる」
そこで、長い、長い沈黙が挟まる。何かと格闘するみたいに、かっちゃんは奥歯を噛んで、天井を睨んで。やがて、その喉の奥から、絞り出すように。
「…………………ありがとな」
きっと、すさまじい葛藤がそのあいだに詰まっていた。普段から子供たちに、感謝はちゃんと言葉にして伝えろ、と説いて回っているのは、ほかでもないかっちゃん自身だ。だからこそ、自分が言う番になると、こんなにも難儀するんだろう。
僕の知っているかっちゃんとは、ほんのすこしだけ、別人になっていた。
人というのは変わるものらしい。三年もまるごとスキップしなくたって、本当はそうなのかもしれない。なかなか変わらないように見えて、ふと気づくと、もう変わっている。そういうものなんだろう。
「……なんか、柄にもないこと言わないでよ。不吉な感じがするから」
「ガキみてえなこと、ぬかしてんじゃ……」
そこで言葉を切って、かっちゃんがふん、と短く笑った。
「いや。テメエは、まだガキだったな。クソが」
小さい頃以来かもしれない。いや。もしかしたら、これが初めてだったのかもしれない。
その晩、緑谷出久と爆豪勝己は、はじめて、ちゃんと語り合ったのだった。
最後の章は一週間後に!
さぁ、夢の終わりに向かって眠ろう!