地球で一番南にあるこの大陸に訪れた静かな朝は、この三年で一番賑やかかもしれない。
世界樹の根元にもっとも近いこの集結地でも、朝はちゃんと来る。光る枝の隙間から、白っぽい陽が仮設テントの群れに落ちていた。
炊き出しのにおいが、あちこちから流れてくる。香辛料の効いた汁物のにおいと、焼けた小麦のにおいと、名前のわからない発酵食品のにおいが、ひとつの空気に溶けて鼻をくすぐる。世界中から人が来ているのだと、においだけでわかる。
食堂と呼ぶには、あまりに雑多な場所だった。長机がいくつも並んで、肌の色も背格好もばらばらの人々が、肩を寄せて椀をかきこんでいる。
その一角に、僕が腰を下ろせば別の言葉で非難めいた言葉をかけられる。
「おいおい。お前みたいな子供もいるのか。止めやしないが、日本人だろ?わざわざこんなところに来なくても良いだろうによ」
ひと目で歴戦のヒーローだとわかる男は、その親切心から文句があるようだ。
鍛え上げた肩に、深紅のマントが無造作に引っかかっている。胸当ては鈍く光る金属製で、表面には古い刀傷みたいな擦り跡が幾筋も走っていた。両腕には肘まである装甲のガントレット。角ばった顎には、剃り残しの無精髭が影を落としている。
「ヨーロッパの方の、ヒーローですか?」
「誰も知らないさ。俺は大したヒーローじゃなかった」
眉の上を斜めに割る古傷が、そのまま彼の経歴を語っているようだった。コミックから抜け出してきたみたいな、絵に描いたヒーローの姿。それが今は薄汚れて、その金髪のように荒れている。
傷だらけの手で器を持ち上げて、湯気の向こうからこちらを見ている。それほど文句にもプレッシャーを感じていないとわかるなり、話を続けたいようだった。ちょっとは認めてくれたのだろうか。
「知ってるか」
ふいに、男が口を開いた。
「ここに集まってる奴らの体はな、前のまんまのやつが多い。緑の髪になってるのが少ないだろ」
言われて、食堂をぐるりと見回す。光る枝の色を髪に宿した者は、たしかに数えるほどしかいない。そういえばこの熱気はどこか懐かしい。ここに集まる人の多くは葉緑素を持っていないから、昔のようにいっぱい食べるのだ。
「まだ何とも断言はできないみたいだけどな。世界樹に影響されると、色々と変わっちまうらしい」
男が、湯気の立つ汁物を豪快にすすった。骨つきの肉を指でつまんで、かぶりつく。咀嚼するたびに無精髭の顎が大きく動いて、見ているこっちまで腹が鳴りそうになる。本当に旨そうに食う男だった。
僕は椀に口をつけた。スープの味わいが舌の上に広がるのに、うまく頭まで届かない。
「変わるって、どういうふうにですか」
男が、にやりと口の端を上げた。脂の浮いた唇を、手の甲でぐいと拭う。
「俺たちはさ、人を攻撃すると嬉しいだろ。楽しいって思ったことがないなんて、言わせないぜ」
胃の底がすっと冷える。手のなかの箸が行き場をなくす。それはどこかで同意していて、それでいて肯定したくないことだったからに他ならない。
「そうやって俺たちは、昔から生き残ってきたんだからな。当たり前さ。その延長でヒーローやってるやつも多いし、そういう軍人に国ってのは守られてんだ」
ヒーローを志して、誰かを助けるたびに、確かに胸の真ん中が熱くなった。でもそれと同じくらいに敵を打ち倒した瞬間の、あの突き上げてくる感覚を、僕は知っている。
「生存に有利な価値。生存価って言葉があってな。生きるために必要な俺たちに備わって残ってる本能とか機能を指す言葉なんだってよ」
男がスプーンの先を、僕の胸へ向けてくる。
「他人を殺せるのも、そうした方が生き残れるからだ。俺らは全員が、戦って殺して、勝った方の末裔さ」
「それは、そうだと思いますけど……」
返す言葉を探した。見つからない。男はその間にも、パンを汁に浸して口へ放り込んでいる。
「別にそれが正しいって言ってるわけじゃない。暴力は反対さ。でもほら見ろよ、あいつ」
男が、少し離れた机の大男を顎で示す。腹のたっぷり出た、大柄な兵士だった。
「太ってんだろ。明らかに肥満だ。健康を損ねるし、医療費もかかって迷惑だ。電車でも邪魔だろうな。でもああしたほうが、冬を超えられた」
箸を止めた。僕の器は、さっきからほとんど減っていない。
「あとは、そうだな。これは噂に過ぎないらしいんだが、どうにも子供が減っているらしい。なかなかやる気ってやつが、起きないんだと」
男が身を乗り出す。器の縁に、ひびの入った指がかかった。
「わかるか。世界が変わってから暴力事件、強姦事件。過食、肥満。他にも人間が今まで生存のためにやってきた悪癖が、徐々に減ってるんだと。あの世界樹さまは、明らかに人類の品種改良をやってくれてる。現代の倫理に俺たちの体は遅れすぎてた。その間に合わせさ」
男の声が、低く沈んだ。
「人類は技術的には100年前に余裕でできるのに、やらなかったことをやってくれてんだな」
スプーンが、空になった器の底を鳴らす。男のぶんはとっくに平らげられて、僕のぶんだけが手つかずのまま冷えていく。
「飢餓はない。暴力も減ってる。病や怪我も治る」
そこで男は、食堂じゅうの兵士たちを、ぐるりと見渡した。荒くれた顔も、傷だらけの腕も、ぜんぶ視界に収めるみたいに。
「そしてその変化に対応しきれない馬鹿どもは、こうやって一斉処分まで。ケツ拭くとこまでやってもらえるなんてな。とっても合理的じゃないか。人類を赤ちゃん扱いしてるあの木が異常か、それに反発する俺らが幼稚なのか、俺にはわからんね」
僕は、握った箸の先を見ていた。
「あの夜を忘れたいくせに、人に忘れさせられたくもない奴らが集まってんのさ。成長したいくせに、人に育ててもらうのは嫌ってなワガママの子供さ」
男が、欠けた歯を見せて笑う。マントの裾が、その動きでわずかに揺れた。
「人類の残りカス。最後まで一緒のろくでなし共だ。よろしくな」
僕は、椀をそっと机に置いた。
理屈は、わかってしまった。彼の言う生存価も、世界樹のやっていることの輪郭も、頭のなかでひとつの形に組み上がっていく。冷たくて、隙のない形だった。
それでも、僕は口を開く。
「そこまでわかってて、あなたはここに座ってる。死ぬかもしれない非合理な行動。なのに、朝ごはんを僕と食べてて、美味しそうな顔をしてる」
男の笑みが、わずかに止まった。
「合理的じゃない人が目の前にいます。でも、僕にはあなたが不幸に見えないです」
しばらくの沈黙のあと、男は鼻を鳴らして、最後のパンを口へ放り込んだ。
「……変なガキだ。待てよ、なんか見覚えがある気もするな……お前、どこかで……」
冷えてしまったご飯を、それでも美味しく急いで平らげる。
もうすぐ戦いが始まる。ここに来てよかった。話せて、よかった。
「ありがとうございました。最近ずっと考えが堂々巡りになっていたけれど、大事なものを思い出せました」
体から黒鞭を伸ばして、浮遊する。振り返らずにそこを飛び出した。
黒い翼と尾をもつ何かが、誰より自由に羽ばたいている。
「雄英主席!オリンピックのヒーローじゃねえか!!」
驚愕の叫びが、後から追いつく。その名声に追いつかれるのが怖かった。でも今はもうあまり気にならない。
彼は思い出させてくれた。何が大事なのかを。淡輝くんに言うべきことが今ははっきりとわかる。
目覚めてから一番自由に、緑谷出久は空を飛んだ。
いろいろな短編を書いてみているのですが、200文字でホラーを書くというお題がありました
え?200文字でホラーを!?できらぁ!
と勢いで書いてみたのでよければご覧ください
ちなみにこの後書きが140文字です
https://www.no-ichigo.jp/book/n1785085/1