夢のヒーローアカデミア   作:ZAT23

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交信

僕は今、どこかの図書館にいる。

多分小学校なのだろう。けれど知らない場所で窓からの風景も見覚えはない。

 

高い天井まで届く書架が、規則正しく並んでいる。窓は西向きらしい。傾いた陽が硝子を通して橙に染まり、床へ長い影を落としていた。光の帯の中を、細かな埃が音もなく漂っている。時間が止まったような、優しい夕暮れだった。

 

なぜか、懐かしかった。来たこともない場所なのに、

 

自分の体を見下ろしてみるとさっきと同じ格好だった。同じ装備、同じ汚れ。狩人と斬り結んだときの返り血が、まだ乾ききらずに袖へこびりついている。

 

誰もいない図書館に、人影がひとつだけあった。

書架のあいだ、窓際の机にその人は座っていた。特徴的なポニーテール。着崩さずに纏った雄英の制服。顔を見るまでもなく、八百万さんだとわかった。

 

彼女は本を開いて、小さく声に出して読んでいた。音読を。誰もいないこの場所で、たった一人、自分の声だけを聞くように。その声が、僕の足音に気づいて止まる。

 

ゆっくりと顔が上がった。

 

「緑谷さん」

 

困ったように、少しだけ笑う。

 

「あなたも、ここまで来てしまいましたのね。人のことは言えませんけど。つくづく、バカなことをしてしまいますね。私たちは」

 

そこにいるのは3年後に再会した同級生たちと比べても、見た目はまるで変わっていない。自分と同じで高校生のままの八百万さんだ。

 

だが、雰囲気が違う。

うまく言えない。寂しさと、諦めと。そのどちらでもない、もっと遠くを見ているような目。何度も同じ景色を見て、それでも見続けることをやめなかった者の目だ。その目に、僕は見覚えがあった。

 

「淡輝くんに、似てるね」

 

言ってから、自分でも驚いた。だがそれ以外に言いようがなかった。この達観した眼差しは、彼のものだ。

 

「この夢では……」

 

八百万さんは、本を閉じずに言った。

 

「あーくんの、彼の繰り返される日常を追体験できるんです。というか、強制なのですけれど。朝起きて、登校して、図書館に来て。夜になるまでここにいれば、そこで途切れて、また朝が来る。その繰り返しですわ」

 

彼女がどれだけここにいたのか、僕にはわからない。本当に3年間なのだろうか。この、朝と夕暮れしかない一日を、いったい何百回。いや何千回繰り返したのだろう。

 

そうして、彼女は体ごとこちらへ向いた。

 

その腕に、あれを抱えていた。

青白い、けれど暗く濁った体表の生き物だった。大きさは赤ん坊ほどだけれど体長はそこそこある。頭部にあたる場所が、開いた花のように幾つもの触手へと裂けて広がっている。ナメクジと、花と、それ以外の何か。

 

危機感知の残滓のようなものが、反応しかけた。

敵意などどこにも感じない。攻撃してくる気配もない。なのに、それがそこに在るというだけで、危険だと体が理解してしまう。存在そのものが圧になっている。輪郭を目で追おうとすると、認識が滑る。

 

その圧が、じわりと滲み出して、こちらへ入ってこようとしている。

 

目の、奥。

 

ゾワゾワと目の奥が蠢いている。まぶたの裏側で何かが動いて、視神経をたどって内側へ。耳の奥の螺旋のかたちが、急に手に取るようにわかった。かたつむりのように巻いた管の、その一巻きごとの角度まで。そこに、何かいる。音がする。奥のほうで湿った何かがうごめく音が、はっきりと聞こえる。

 

取り出さないと。指を耳へ突っ込んで、爪切りで、あの螺旋を全部、根元から切って、それで、磨いたほうが良いだろうか。便利に伸びた指で、螺旋を、床の埃が舞って光る夕暮れがずっと朝が来ない中で唐突に……

 

そう。唐突に、口腔へ何かが突っ込まれた。

 

「むが!」

 

赤い味が、口いっぱいに広がる。

濁っていない、フレッシュな赤。皮の弾ける瞬間の青い酸味。追いかけて、日に温められた果肉の甘みが舌の奥へ落ちていく。種のまわりの、とろりとした部分の塩気めいたコク。喉を通るときの、わずかな青臭さ。

 

トマトだ。

その圧倒的に具体的な味が、輪郭を体へ引き戻してくれた。書架。夕陽。埃の匂い。世界が、元の位置に並び直す。

 

「……トマトジュース?」

 

口の端を拭いながら、どうにか声を出す。

 

「なんか、血みたいな感じがするけど」

 

「血液のようなトマトジュースではありませんわ」

 

八百万さんは、空になった容器を引きながら、こともなげに言った。

 

「トマトジュースのような血です」

 

「…………」

 

「世界で一番飲みやすい血液の開発に、成功しましたの。ですから、その成果を披露する時だと思ったのです。自分以外に味わう人がいませんでしたから、確信はできなかったのですけれど。どうでしたか?」

 

成果発表の顔だった。文化祭で新作を出すときの、あの顔をして血液をお出しされている。

 

「いや、全然。美味しかったけど……でも」

 

美味しかった。それが一番怖い感想だという自覚はある。

 

「濃厚な人血は、狂気を鎮めてくれるらしいのです。こんなに狂った文言は他にあまり知りませんが、どうやら本当のようです。人の血を飲んで正気を保っているわたくしたちは、いったい何なんでしょうね」

 

その口調は、いつもの丁寧さのままだった。それが逆に恐ろしい。

 

「この状態の彼——『夢の上位者』を見つめすぎると、心に毒です。お気をつけてくださいね」

 

八百万さんは、腕の中のそれへ目を落とした。

彼女がそれを、淡輝くんとは呼ばないことに、僕は気づいた。

 

八百万さんは、僕の気づきを読み取ったように頷いた。

 

「人は変わるものですけれど、ここまでの変容を以前の彼と同じということは、難しいですわ。感覚も、思考も、目的も。まるっきり構造から変わってしまっているようです」

 

腕の中のそれを、彼女は見下ろす。

 

「気持ちだけでどうにかなるなら、わたくしにもできることがあると思っていました。けれど、どうにもできませんでしたわ。緑谷さん」

 

顔が上がる。

 

「あなたになら、できるのでしょうか」

 

そして彼女は、上位者を抱え直すと、赤子を渡すように、それをこちらへ差し出してきた。

 

受け取る。

 

重さは、思ったよりなかった。そのはずなのに、腕にかかったのは重量ではない何かだった。

濡れているのに乾いている。どこまでが僕の腕なのか。抱えているのか、抱えられているのか。境目が、指の先から順に曖昧になって、ああ、これは楽だ、境目なんてなくていい、最初からなかったのだから戻るだけで、戻る、還る、開いた花の中心のあの暗いところへ

 

また赤い味。

二度目のトマトが、喉を焼くように通った。

 

「……ありがとう、ございます」

 

息を整える。二度目だから、少しだけ、戻りが早い。それでも自力では戻れなかった。この生き物の前で、僕の正気は僕のものではない。八百万さんの血が繋いでくれている。

 

「話しかけてみてください。何かを、感じますか?」

 

腕の中のそれへ、目を落とす。見つめすぎないように。焦点を少しずらして。

 

「淡輝くん。きたよ」

 

返事はない。

 

「もう、話せないのかな」

 

触手は揺れない。表皮も動かない。応答と呼べるものは、何ひとつなかった。

八百万さんが手を伸ばし、触手の先端をひとつ、そっと握った。

 

「ふふ。でも、喜んでいる感じがしますわ。ちゃんと嬉しいみたいです。よかったね、あーくん」

 

わからなかった。

彼女はそれを感じ取れるらしい。でも僕にはさっぱりだ。触手は握られたまま動かず、そこに喜びがあるのかどうか、僕には何の手がかりもない。これは、彼女の思い込みではないのだろうか。

長い時間を経過した後の狂気の人形遊びである可能性を否定しきれない。

 

そう思ったことを、口には出さなかった。でも、頷きもしなかった。

 

「上位者となっても、元のあーくんの影響を消すことも、またできないのです」

 

八百万さんは、触手を握ったまま話し続ける。

 

「こんな淡い感情の波だけを感じ取って、ずいぶん長い間、ずっと二人でいました。ごくたまにマリアともお話しできますけれど。数年に、数分程度ですね。だから、緑谷さん。あなたと話せて嬉しいですわ」

 

彼女は笑った。夕暮れの赤いオレンジにその笑顔が眩しい。

 

「そして、よかった。本当に、よかったですわ」

「よかった?」

「ここまでやって、わたくしが何もできない状況を、あなたが一瞬で解決なんてされてしまったら」

 

声のトーンは、変わらない。これまで通りの再開に喜ぶ抑揚だ。

 

「きっと、あなたを殺してしまっていたかもしれません。ああ、本当に良かった」

 

嫉妬なんて、簡単な言葉じゃない。そこにあるのは、誰にも理解できない激情だった。何を語ってもはっきりとした応答もなく語るだけ。波ひとつを頼りに、この夕暮れの中に在り続けた者の。

 

どこかオールマイトを彷彿とさせるほどの圧が、彼女の静かな笑顔から放たれている。現実を曲げてしまいそうな、強迫観念に近い何か。

 

怖い、とは思わなかった。

いや、あれとずっと一緒にいて、これくらいで済んでいるなら。相応では、きっとない。想像もできないくらいに、八百万さんは強いんだ。

 

「大丈夫」

 

僕は言った。

 

「僕は、友達に僕を殺させるなんて、絶対にしないよ。みんなを助けたいって思ってる。そうなって欲しいと、八百万さんも思っているんだよね?」

 

「ふふ。ええ、その通りですわ。さすがヒーロー。そう来なくては」

 

圧が、すっと引いた。

 

「ずっとこうしているのもいいかも、と。そんなことを考えてから長く経ちましたけれど。それでもやっぱり、こうやって人と話すのは、どうしようもなく楽しくて、怖くて。とても良いものですわね」

 

彼女は、腕の中を覗き込んだ。

 

「また、あーくんと話したいなぁ」

 

ちゃんと、救うべき人がいる。

彼女をこのままにしておくことを、彼が望むのだろうか。そう考えかけて、やめた。

違う。これは、もうしないと決めた考え方だ。淡輝くんの望みや意思を、僕が決めることなんてできない。だから、僕にできることは限られているんだ。

 

腕の中のそれへ、僕は改めて向き直った。

 

「君の作った世界を見たよ」

 

言葉が届いているのかは、わからない。それでも続ける。

 

「第一印象は、正直あんまり良くなかった。違和感だらけでさ。自分にとって大事だったものをなくした方が上手くいくなんて、どこかで否定してやりたかった」

 

夕陽が、書架の影を長くしている。

 

「でも、本当にすごいよ。人の歴史の中で、いちばんの平和がちゃんとあると思う。怪獣を出すのは必要なことなのかな、って考えた。世界樹を維持するための代謝で排泄だって言うなら、太陽にでも放ってしまえばいい。手近なところならマントルでも火口でも、どうにでもできるはずなのに。人が戦う相手を作ってるのも、必要なんだって理解できた」

 

理解、できてしまった。それが悔しくないと言えば、嘘になる。

 

「僕には、この世界を壊したいと思えない。自分の方が正しいなんて、そんなことは、思えなくなったよ」

 

触手は、動かない。

 

「だからさ。僕は、文句を言いに来たんだ。君の世界についてじゃない。君に対して、僕は、はっきり文句がある!」

 

聞こえているかは、わからない。理解できる精神があるのかも知らない。でも、きっと。これは感じ取れるんじゃないかなとそう期待している。

 

ここに来る前、とあるヒーローに依頼して作った切り札がある。激戦の中でも、どうにか守り抜いたそれを使う時が来た。

 

「八百万さん。もし淡輝くんが反応したら殺してしまうかも、って言ってたけどさ。同級生を殺さないであげてね?」

 

「……はい?」

 

装備の奥から、包みを取り出す。開いた瞬間、匂いが広がった。

チョコチップクッキーだ。焼き上がりの香ばしさが、まだ残っている。バターの甘い匂いに、焦げたチョコの苦みが混じって、埃と古紙の図書館の空気を一瞬で塗り替えていく。

 

見ているだけで、唾が湧く。牛乳が欲しくなる。この世界のどこを探しても、もう作れる人間がほとんどいない味の匂いだった。

 

上位者に、口はない。口に相当する器官も見当たらない。

それでも、触手のあたりへそれを差し出すと、これまでで一番強い反応が返ってきた。

 

触手が、確かめるように何度もクッキーへ触れる。表面をなぞり、絡み、自分の体へ擦りつけるように動く。摂取しようとしている。ように、見える。多分、きっと、喜んでいるんじゃないかな。

 

それを見て、また涙が溢れていた。

 

「ご飯を美味しく食べようって、約束したじゃないか、バカヤロー!」

 

声が、出ていた。

 

「食べる口を失うなんて、食に対する裏切りだよ」

 

「すごい。すごいですわ」

 

八百万さんが目を見開いている。

 

「こんなに反応をするのは、ほとんどないのに。ましてや、物に対してなんて初めて……」

 

そこで彼女の声が、一段低くなった。

 

「料理なら、わたくしだって、作ったこともあるのに」

 

目が、ちょっとおっかない。宥めなくては。狂気に落ちた彼女をどうにかしないと。チューチューとトガさんのようにトマトジュースを飲んでいる彼女にはこれ以上何が効くのだろう。

 

「ま、まぁ。砂藤くんのお菓子だよ? 設備もないここでは、八百万さんがどれだけうまくても無理があるよ! それに、昔もいっぱい食べさせてたってわけじゃ、ないんだよね?」

 

「ふう。そう、ですわね。確かに砂藤さんには及ばないのも道理です。ライバルは緑谷さんではなく砂藤さん。ええ、そうですか。また会える時があれば、料理対決といきましょう」

 

触手がクッキーに絡みつくのを見ながら、僕は本題へ入る。

 

「君はいまだに、マリアとオールフォーワンとの多数決を行うことができている。そして今、欲しいものができた。なら、交渉ができると思うんだ。僕たちの声が本当の意味では聞こえなくても、何が欲しいか。その衝動だけは、きっと残っているんだろうから」

 

「というかいったい、何を狙っているんですの?」

 

八百万さんが眉を寄せる。

 

「お菓子が食べたいという衝動なら、それを満たすなら、世界樹に摂食機関を生み出して終わるのでは?いったい何が変わると……」

 

「うん。でも、現状では反対されて実現できない。だから、それを許す代わりにさ。別の要求に、賛成してもらおうと思って」

 

その場に、音もなく人形が現れた。

裾の長い衣。陶器のように白い肌。両手を前で組んだ、あの精巧な機械人形。

 

「お久しぶりです。八百万様。狩人様」

 

人形は、静かに一礼した。

 

「そして、ありがとうございます。緑谷様」

 

顔を上げる。

 

「こちらが、緑谷様の提案していただいた新たな契約です。淡輝様。あなたのクローンの製造を、どうか許可ください。そうすれば、美味しいお菓子が食べられますよ」

 

ウネウネと、上位者が身を捩った。何かを、考えているのだろうか。

 

「クローンを作って、それを、代わりにすると?」

 

八百万さんの声に、剣呑なものが混じった。目線が僕を刺している。答えを間違えれば、殺される。それがわかる目だった。

 

「いいや。違うよ」

 

僕は、まっすぐ答えた。

 

「クローンにだって、自由はある。だから、全部を話すんだ。一人じゃない。何人も、淡輝くんをまたやり直して。それで合意ができたなら、何人かはここに入って、同化してもらう。そうしていけば、だんだん濃くなって。そのうち、淡輝くんも、自分の色を思い出したりしないかなって」

 

上位者は、まだ身を捩っている。

 

「淡輝くんの懸念は、僕たちが、現実に生きるヒーローが、絶対にどうにかする。淡輝くんたちは、一度も死なせない。死んで、やり直しの機会を生み出したりしない。それを信じてみてほしい。それに、僕のクローンもちゃんと作って欲しいんだできるならだけどね」

 

言葉が届くかは、わからない。だから、届く名前を置く。

 

「僕はもう託したから。ヒーローとしての出番は終わりかもしれない。でもオールマイトを、かっちゃんを。彼らを信じることなら、できるんじゃないかな」

 

上位者が、激しく体を揺らし始めた。

八百万さんが慌てて押さえようとするが、それは暴れるブリを素手で保持するような難易度だった。触手が跳ね、体表がうねり、腕の中で青白い塊がのたうつ。10分後には、彼女も諦めて、それをそっと床に置いた。

 

「僕も友達のためなら、なんだっていいよ。一緒に笑えたらそれでいい」

 

上位者は、クッキーを握り締めたまま、いくつかを砕いて、その粉末の上でのたうち回っている。

拒絶なのか。歓喜なのか。ただの食欲なのか。読み取れるものは、何もない。ただ、反応の大きさだけは、これまでのどの瞬間とも違っていた。

 

よし。最後の切り札を使うならここだ。

 

「君のお母さんから、おにぎりと、卵焼きも持たせてもらってるんだ。これも味わいたくないかな」

 

包みを、もうひとつ取り出す。

そっと差し出せば、上位者はそれを抱え込んで、激しく震え始めた。

 

どのような反応が、いつ返ってくるかはわからないらしい。八百万さんも、人形もただ待つしかないと言った。

 

あっという間に3日後になる。

クッキーと米と卵の残骸によって汚れたナメクジが、跳ねた。

 

マリアが確認し提案が通った。

この日から、世界樹には捧げ物ができるようになる。料理を出せば、それを食べるのだ。それに対して、何の報酬も対価も生まれない。ただ、調査に行った者たちが最終的に掴んできた、世界樹の好み。それだけだった。

 

世界から失われつつあった料理への関心を、ほんの少しだけ復活させる程度。それくらいの影響しかなかったけれど。熱心な信仰者や、救ってもらった者たちは、より美味しい料理を作って捧げるようになったのだった。

 

緑谷出久と、八百万百、狩峰淡輝はいまだに世界樹の中にいる。ここから出ることはもうできない。出るつもりもない。

 

これから新たな誰かがここに訪れるかもしれない。

その記憶を積み上がり、また話すことのできる存在が育つのかもしれない。

 

「一緒にご飯を食べていけるなら、きっとどうにかなると思うんだ」

 

そして外にも彼らは生み出されていくのだった。

世界はより平和へと歩み出す。

 

必要無くなったはずの食べものという大切なものを再確認して。




200話です。思えば、遠くまで来たものだ。
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