高熱を出すと悪夢を見やすいと聞いたことがある。
とても珍しいのだが、自分にも一度だけ覚えがある。正確には母から聞かされたことを覚えている、ということなのだが。
それは輪投げの夢だった。真ん中の棒に輪が入らなければ世界が滅びることになってしまうのだ。とても恐ろしいだろう。
いや、当時は本当に怖かったんだ。理不尽なルールにも気づけず、幼い俺は震える手で輪を投げて、外して、世界を終わらせてしまったと泣きながら目を覚ましたらしい。
直後には何も残っていなかった。目が覚めた瞬間に、恐怖も後悔もきれいに流れて、どうしてそんなに泣いたのか自分でもわからなくなるのだから。だから母のほうが長く覚えていた。完璧な寝起きで居続ける俺がうなされて、泣いていたことをまるで宝くじが当たったかのような顔で何度も話した。
その顔を、俺はまだ思い出せることができている。
覚えているのに、懐かしいとは感じなくなった。これはこの5年どころじゃないのだが、母を思うと胸の奥で動くはずのものが動かない。顔の輪郭も、声の調子も、話の中身も残っているのに、あまりに昔の遠い出来事として感じてしまう。そういう抜け殻を、俺は自分の中にいくつも溜めていた。
誰かを大切に思う気持ちがやり直すたびに摩耗して、判明した事実だけが脳裏に残る。
母がいた。世話になった人がいた。最初に死んだとき、真っ先に思い出した顔がいくつもあった。その事実の一覧が、感情を抜かれた名簿として厚くなっていくがそれが最適化というものだろう。
たったそれだけを支払いながら、俺は繰り返していける。狩人として研ぎ澄まされていく。
懐かしい感覚だ。これこそが狩峰淡輝であると言ってもいいと思う。この5年の方がおかしかったのかもとすら思う。
子供の時の悪夢、輪投げの夢のよりも現実の方がまだ優しいのかもしれない。
あれは自分が外したから世界が終わったが今は違う。俺が何をしようとしまいと、放っておけば世界は普通に終わる。自分のせいではないという言い訳はできる。
そう言い聞かせて手を止められるなら、こんなところまで来ていないのだが。
朝から晩まで、どうにかできないかを試す。15時間。それが一周の長さだ。空に光が生まれて、火柱が立って、津波のような火砕流が来る前にどうにか試して次へ行く。
一般にイメージできる普通の噴火なら、富士山の噴火であってもやりようはあったかもしれない。
対策べき場所が一箇所なら、そこを潰しにいけばいい。爆発的なエネルギーをどうにか止める方法はあっただろう。だがこれはカルデラの破局噴火だ。しかも二箇所を同時に崩す設計になっている。
普通の噴火なら、話はまだ楽だった。仕掛けが一箇所なら、そこを潰しにいけばいい。だがこれは破局噴火だ。しかも二箇所同時というおまけどころかフルコースだ。
片方だけで、マグマの噴出量は500立方キロを超える。放出される熱の総量を広島型原爆に換算すれば、二千万発を数えてなお足りない。もはや比較にもならないという意味である。
地表を砕く力だけに絞っても数十万発ぶん。それが二箇所、同時にやってくる。どうしろというのだ。範囲でも威力でも、人の手が届く災害ではない。
何度か、オールマイトに賭けた周があった。この世界で最も強い拳なら何かが起きないかと、ワンフォーオールを限界まで他の個性で強化してなお、あの拳をもってしても届かなかった。
それはそうだ。殴って止められる規模ではないし、二箇所を同時には守れない。強さでどうにかなるヴィランではなく、これは災害なのである。
だから世界樹に頼ることになるはずだ。
スターを説得しニューオーダーを取り込んだあの木には、理屈のうえでは可能性があった。地中に根を伸ばして、根本をどうにかする方向でも色々思いつきはした。崩れかけた岩盤にルールを新しく与えて組み替え、噴火そのものを予防する。
その挑戦の回がいちばん早く世界が終わった回かもしれない。
世界樹に根を張らせて、地下へ伸ばさせた、まさにその瞬間。崩壊は始まってしまう。
予防に大きく動けば、向こうは噴火より先に世界樹の破壊を優先する。カルデラ付近や地中で何かを始めた気配を、向こうは即座に察知する。攻撃までにはラグがあり、何かアクションをすることは可能だが。二度目からは、崩壊への対処に追われて世界樹は噴火どころではなくなる。
一度きり。その一度で、二箇所同時の破局噴火を止めきる手はない。
行き詰まると、いつものように仲間に相談した。
ヒーローである彼らの光は眩しいが、その勇気では現状の世界を救うことはできない。
ヒーローに限らず他にもこの繰り返しの中でしか会えない相手ばかりだったがいろんな人と話をする。地質の専門家に会った。政治家にも頭を下げた。作家に、芸術家に、まるで畑違いの人間にまで話を聞いてもらった。噴火のことを知らない人間のほうが、思いもよらない角度から石を投げてくることがある。無数の試行を回すというのは、そういう総当たりを許す裏技なのだから。
世界は何度でも終わった。終わり続けている。
終わりのたびに、あの笑顔が浮かぶ。悪意も殺意もない、透き通った顔で、ただ壊してみたいと言った男の顔だ。
さて、ちょっと行き詰まってしまった時にはどうするべきか。
そうだ。本当に詰まったときは、先生に会いにいくのが狩峰淡輝というものだろう。
世界樹の末端が細く伸びた、とある学校の静かな図書館だ。ここに司書先生がいる。壮絶な血の記憶ばかりが厚くなっていく今では、ノスタルジーと共に初心を思い出す場所になっている。
「あら、どうしたの」
先生はいつもそう言って迎えてくれる。どん詰まりのときにばかり顔を出すものだから、俺が持ち込む話は回を追うごとに救いのないものになっていくのだが、それでも先生の表情は変わらない。
細かくは変わっている。初老と呼んでいい年頃だ。こめかみのあたりに白いものが増えて、目尻には笑い皺が深く刻まれている。首筋や手の甲には、隠しようのない年月が出ていた。若い頃の張りはとうに引いて、代わりに、長く教壇や書架のそばに立ってきた人の落ち着きが全身に沈んでいる。
世界樹による老化防止を受けていないのかもしれない。彼女には長く生きてほしいが、それを強制することもできず、歯がゆい感じがする。本人の意思に反して永らえさせるということの残酷さを誰よりも知っている自分はそれを言えない。
相談とはいえ先生が答えを知っているはずもなかった。
わかっていてもそれでも来てしまった。無数の試行のうちの一つとして、損はないだろうと言い聞かせて。
もっと正直に言えば、先生と話すというそれだけで、これから何年でも続けられる気がしてくる。
だからセーフ。精神の回復をできるのだから合理的だ。
さて、何から話そうか。そう迷っていると、手を取られた。皺の寄った、乾いた手だ。細い指なのに、意外なほど強い力で握ってくる。何かを確信しているようで、逃げようもない眼差しだ。
「全部話してください。全部ですよ。一つ残らずです」
言葉に甘えて、俺は話した。ループのことも、噴火のことも、死柄木のことも、普通なら意味が通じるはずのないところまで含めて、順番も気にせず全部話した。
先生には何のことやらわからなかっただろう。それでも途中で口を挟まず、相槌のかわりに手の力をときどき強めながら、最後まで静かに聞いていた。眼鏡の奥の目が、こちらの言葉の一つひとつを丁寧に拾っていくのがわかる。
聞き終えて、先生はしばらく黙った。皺の寄った指先で、意味もなく机の木目をひとつ撫でる。
「ごめんなさいね。私には解決策はわからない」
「流石にそこまで求めてはないから、大丈夫です。おすすめの本でも聞こうかな」
「あなたの気が紛れるなら、そうね。最近の面白かった本はどこにあったかしら……」
久々すぎる雑談に二時間も使わせてもらって、そしてちょっと息継ぎをした時に現実に戻る。
「やっぱり、大きな問題を抱えていると他のことには集中できないわよね。それこそアニメの主人公みたいな苦難ですものね」
「主人公補正がなさすぎて嫌になりますよ。解決策が本当にあるのかもわからない、ハッピーエンドって続いていく現実では成立しないんだって今更知りましたよ」
「私も考えていたのだけれど。……そうね。もう知っていることだと思うけど伝えます。やり直せるというのなら。今までできなかったことを、やってみるしかないと思うの。その弔って人は、たぶんどうにもならない。でも、それ以外のことなら」
先生が少し首を傾げる。年相応にゆっくりとした仕草だった。
「例えばそうね。その、オールフォーワンさんと。仲良くするとか」
おお。さすが先生だ、と思った。
魔王と仲良くしろというのは、この状況にはあまりに素朴な助言だった。これまで俺の頭からすっぽり抜けていた発想でもある。なぜならすでに協力体制を作り、この問題には積極的に動いてくれていたのだから。
しかし、彼は本当の意味で味方とは言えない。だから仲良くできるようにする。まだ試していないことに該当するかも知れない。
やはり、鍵は世界樹をどう使うかに戻ってくる。
協力はすれど俺とオールフォーワンは互いに信頼できる訳がなかった。
先生の手を、俺のほうから握り返した。年月のぶんだけ薄くなった手のひらにこちらの体温を移すように。渡したと思っても、それ以上にもらってしまう。
でも、ここで補充した分でまた何周でも頑張れる。
「行ってきます」
そう言い残して、俺はもう一度やり直し、次の朝には世界樹の内側へ向かった。
・・- ・-・・-- ・・- ・・・・-
世界樹の内側には、おおよそ建築という概念がないらしい。
地獄の門があるならこんな感じなんだろうなと考えて、ここに来る時は自分の終わりの時である予定だったのだから比喩ですらないのかもと、ちょっと笑った。
二つの気配と、もう一つのよくわからない気配がある。
人形が代弁をする、進化したAIであるマリア。分身の個性だろうかスーツのような実態を形作ったオールフォーワンは輪郭がぼやけている。
それから、元俺のナメクジだ。話には聞いていたが、とんでもないヴィジュアルである。百ちゃんが抱えているのもよくない。どういう絵面だよ。
とはいえ、やることは早い方がいいから切り出そう。早速だが、噴火を抑えるためにちょっと手伝ってほしいと依頼してみる。
そのためには、それぞれが独立しても良いのではないかというアイデアまで添えて。
「ほう?僕を信頼すると?よりもよって君がそう言うのか。それはとびきり面白い冗談だね」
「僕が自由になって、その上で手伝えと?絶対に嫌だね。そのリスクを僕は取らない。弔の崩壊で僕が滅ぼされることはないと思うが、試す必要もない。一応火星にでも避難してもいいかもしれない。君達で勝手に世界を救うでもなんでもやってくれ」
まぁそうなるか。三者を分離するという考えを思いついたわけではあるが、その後はそれぞれの行動に託すことになってしまう。
そして意外なことに次の意見もそちらに同調した。
「私は人類のためにも世界樹が残るべきと思います。可能な限り協力はしますが、リスクは取れません。オールフォーワンが生き残るというのなら、対抗できる私が必要であると思います」
マリアも弔の崩壊をできれば喰らいたくないとのこと。世界をもし救ってもオールフォーワンが残るならそれを認めるわけにはいかないという理屈か。
「そうなるか。じゃあ、俺は?ていうか話はできないんだよね?」
この世界樹の中で変質したオリジナルである自分だった化け物。それを抱えている百ちゃんが声を上げた。
「あーくんはきっと、残って戦うと思います。できるだけを救いたいと思うはずです。違いますか?」
「ああ、そうだね。全世界の俺にアンケート取ってもいい。百ちゃんとデートしてるやつ以外は即答だと思う」
「ふふ。本人と本人がどこかでデートをしているという事実は、これは浮気に当たるのでしょうか。難しい問題ですわね」
百ちゃんも上位者とは意思疎通は当然できない。
「はっは。僕はずっとカップルと同じ場所にいるのは気兼ねしていてね。そろそろ僕らも別れる時が来たんじゃないか?」
オールフォーワンが笑う。慣れない例えを使っているが、やはりこいつも以前とは違う印象を受ける。この数年で変わっていないものなどないのかもしれない。
「僕らの目的は別だ。それぞれが独立しても良い頃合いだろう。リスクは取らないが、もし地球の被害が少ないならそれは僕にとっても好都合。支援はしようじゃないか」
「君らが自分を犠牲にして僕の地球を救ってくれるなら、応援するよ。全力でね」
言葉だけは軽く、中身はまるでない。けれど嘘でもないだろう。
「そもそもバラバラになれるって前提でいいんだよな?」
俺が言うと、オールフォーワンは思い出話でもするような調子で語り始めた。
「最初はね。個性の扱いを僕が、莫大な情報の取り扱いをAIに、そして無尽蔵の個性のストックを化物にと分けていたが、AIと僕はお互いにその権能を奪い合い続けていた」
「もはや互いにできることの違いはそうない。そう、そこの化け物を除いてはね」
化け物、と呼ばれた本人は特に反応しない。
「個性の無尽蔵なストックだけはあの化け物だけの力だけれど、それぞれでも無限とはいかないが相当数を扱うことは可能だ。言ってしまえば、我々は独立して種を飛ばすことができるんだよ」
権能を奪い合った末に似通ってしまったというのは、ずいぶん間の抜けた話だと思う。かつて三すくみで殺し合っていた蠱毒の中の連中が、今では役割の被った同僚同士みたいな顔をできている。
「ええ、そして」
マリアが引き取る。
「彼の考えは、現在はそこまで破滅的ではありません。人を尊重しませんが、決して滅ぼそうとはしない。その攻撃性はむしろ人間らしくもあるという分析は無視できない要素です」
彼女が言っているのは死柄木のことだ。人類を滅ぼす気はない。ただ壊れる瞬間を見たいだけ。マリアの分析は正確だと思う。今のオールフォーワンならば、人類を最悪預けることも考えられる。
「理想の社会を作った時に、ここまで人類から反発を受けるとは思いませんでした。死柄木弔のような存在が生まれることは今後も予想されます。ですから我々は分散し、人々の地球への依存を分けるべきです。世界樹の分散は、そのままリスクの分散になるでしょう」
保身の話はここまででいい。割って入って話を本題へと戻す。
「ここからは、どうやって止めるかだ。それを考えよう」
「たった一度、の介入で崩壊が始まる。何もしなければ大噴火。その条件で何ができる」
魔王が笑う。自分だけは生き残ってやるという自信が見える笑いだ。
逃げようというマリアと魔王。そして、気になるのはナメクジがどうするのかである。
問題は夢の上位者、狩峰淡輝のオリジナルと、意思の疎通ができないことだ。
その問題に対する対策自体はすでに考えてあった。今までしていなかったのは、こいつをいじることでどうなるのかわからなかったからだ。俺のこのループが、あの上位者由来のものだとしたら。下手にいじって変化を起こし、その拍子にループそのものが終わってしまったら、それこそ本末転倒どころの話ではない。
けれど、いよいよ他に方法も思いつかない。
5年前からの計画されたこの方法。世界に散らばる108人の狩峰淡輝を、自分以外の全員を同化する。
狩峰淡輝、人間性補完計画とでも呼ぼうか。
いや、やっぱなし。失敗しそうな計画名になるのは縁起が良くないから。
予定は昼の十二時。時計を見つめ、そして時間が来た。
俺はそれを、世界樹の中から見つめている。俺だけは同化するわけにいかない。
びくりと反応したナメクジが、宙に浮かんで身を捩る。
光が集まってきた。それを触手が捕まえて中に取り込んでいく。
まるで軟体のサンゴの捕食のような光景だった。
取り込まれた分だけ、肥大化していく。ナメクジのような何かが膨れていく様子は、正直、直視するにはいくらか正気を削る必要がある。
頭のない、五メートルほどの巨人のような体が形作られていく。背中から何かが広がった。皮膜が翼のように伸びて、その場を包み込むように開く。
翼には、無数の目がついていた。数えなくても、108対あるのだろうとわかる。数える気にもならない。そこまで見届けて、目を閉じる。あまり見るべきものじゃない。
対話が目的で始めたはずなのに、出来上がったものはより対話不能な神話生物にしか見えなかった。どこかを間違えたのではないかと、少し不安になる。
俺と百ちゃんは目を合わせた。今さら後には引けない。その自分だったはずの何かへ、語りかけてみることにする。
「おはよう。もう一人の……。いや108人の僕か?」
『おはよう。俺。といっても日本時間じゃもう昼すぎだと思うけどね』
吹き出した。
216の目を持つ翼の生き物から、朝の挨拶に対するツッコミが飛んでくるとは嬉しいね。緊張と緩和は笑いの基本だからこそ、極上の緊張をさせてもらえた。
ようやく話せた。
上位者たる自分と、こうして向かい合っている
似ていないのに、鏡のように対峙している。