目が覚めたとき、感覚で遅刻を確信したことがあるだろうか。
大なり小なりあるだろう。寝坊したり、徹夜でやらないといけないことがあるのに眠ってしまった経験が。じゃなきゃあの大喜利画像はネットの伝説になっていない。
そしてその恐怖の感覚について、俺よりも感じることができる人間はいないと思う。
目覚めて、血が引いていく感覚がある。
真っ先に感じたのは、金属の匂いと、体を薄く貫くような高い駆動音だった。エンジンの空気を裂いて進む機体の、緊張しきった高音。防音を最初から捨てた無骨乗り物に乗っている。速さのために全部を差し出した機体の音だ。
これは人生で何度か経験している最悪の感覚である。意図せぬ起床と見知らぬ光景が眼前に広がることを恐れて、一拍目を開くのを躊躇った。
それでも起きなくてはいけない。目を開いて現実を見なければ、それは決して俺を逃さずどれだけ腐ったところでより深い苦しみを味わい続けることになるのだから。
目を見開くその刹那、今回の自分の状況を思い出す。
朝起きて、そして避難の指示を出して世界と日本を大混乱させつつ世界樹へ。
そしてそこで光明を見たかと思えば、強制的に昏倒させられて今に至る。
もしもやり直しの条件を満たしていたのなら、俺は世界を滅ぼしてしまったことになる。
いや、自分を騙した俺ら、自分たちに騙された俺のせいか。どちらにせよ、俺が悪いということだけは変わらない。
目を開けると、そこはUAI製の超音速機の狭い機内だった。日本から南極まで向かうときに使ったものだ。
問題はここがどこで、今が何時かということだ。
窓に目を向けてその答えを得ようとする。
小さな、丸みを帯びた強化ガラスの窓。そこから見える空は、完全な夜だった。
雲は見えない。あるのかもしれないが、光がないのでわからない。眼下も、同じ高さも、上も、ただ黒い。見上げればいくつかの星だけが、大気の薄い高高度でやけに硬く光っている。日はとうに落ちきって、黄昏の名残さえどこにもない。
無人型のこの機体のことはよく知っている。体は拘束されていて動かせないが、それでも機能は知っている。
ここまでの確認を3秒で行い、客観的には起きてすぐに問いかける寝起きのいい姿になる。
「ここはどこで、今は何時だ?」
この水準の機体であれば世界樹内のマリアに接続されているはずだ。そしてまだ世界樹が健在ならば答えるはずである。
『おはようございます、淡輝様』
マリアの声だった。機体のスピーカーを通しても、世界樹で聞くときと同じ落ち着きを保っている。世界樹はまだ健在らしい。つまり、これからだ。
『現在地は、南極上空を離れ、日本へ向けて帰投中。この機体の全速で、太平洋を北上しています。時刻は19時42分。噴火の前兆が、すでに一部で始まっています。到達まで、およそ二十分。噴火と同じタイミングで種子島に到着の予定です』
「何が起きた?なぜこうなってる。説明は……」
『伝言がございます。あなたへ、みなさまからです』
有無を言わさず、挟まれた回答。それさえ聞けば伝わるのだろう。重層的なあの音の響きは再現が難しいのか、少し聞き取りづらい合成音声となっていた。
『最悪の寝覚めを悪かったな。でもお前が言ったんだぞ、なんでもするってな。だから、ここで決めさせてもらうことにした。初見じゃないと俺たちは絶対に喰らわない。罠をかけるなら、あの時しかなかったっていうのは同意してくれるだろ?』
そこはまぁ。認めはする。もしやり直せるのなら同じ不意打ちは決して食らったりはしない。
『それで、何をしたかというと。お前に『不眠』と『鎮静』の個性を渡しておいた。それがあるから今後はもう眠れないし、狂いもしないはずだ。『目覚め』があるかないかは死んだら確かめられるわけだが、それはもう禁止する。お前は死んでやり直しをしちゃいけない。そのやり方でこれ以上世界を良くしなくていい。あとは俺たちがどうにかするし、全人類が自分たちの責任として向き合うべきだ。ここまで超知能を得てようやく気付いた。お前だけが頑張る世界ってのは、再現性がない。あのままならきっと、人類はどこかで躓いていたんだと思う。元から世界樹は消す予定だったから、計画が早まっただけだ』
50年くらいは世界樹によって世界を変える予定だったはずだ。それがこんなに中途半端に、そして破壊的に放り出されてはたまったものじゃないだろう。けれどこの語りようは、本当にどうにかする術があるのか?
『噴火の直前に、俺たちは三つに分かれる。本体は二分して、マリアは月面都市へ。そして全一君は火星へ。俺はほとんど捨てて日本上空の枝から現場に行くよ。必要なものだけを持っていくならできるから。破局噴火は流石にどうしようもないと思うだろ?もちろん全部を救うなんてことはできない。この状況になってしまったら、15時間じゃ全部は無理だ。これは絶対だよ。その無駄な試行を俺に押し付けることはしたくない。その気持ちもわかってくれるよな?』
窓の外から光が見えた。先に牙を剥いたのは鬼界カルデラの方だった。進行方向で噴煙が立ち上っている。
遠くに見えるその煙へと音を超える速度で進むが、まだ遠い。
『薩摩硫黄島南方、噴煙確認。高度、六千……一万二千メートル、上昇継続』
窓の奥、海の上に灰黒色の柱が立った。見慣れた形だった。何度も見た。噴煙は上へ伸びながら、ある高さで頭を抑えられたように横へ広がっていく。熱で軽くなった煙が上がりきり、大気の重さに押し返されて水平に開く。傘だ。全てを飲み込んでいくキノコの傘。
正しいというのは、この場合、絶望と同義だった。
『鬼界、噴煙柱崩落。火砕流発生。全方向、時速百キロ超。海面到達まで……』
見えなくてもわかる。あの傘は自らの重みに耐えきれず崩れ落ち、灼熱の奔流になって海を渡る。時速百キロで、九州の南岸を舐める。
鬼界カルデラは海底にある。海底火山の噴火であって、九州の南端に位置するそれは甚大な被害を生み出す。海の上に白い笠が二重三重に開いて、それがゆっくり広がっていく
そして左手の窓に、噴火ではないものが立ち上がった。
『だからさ、鬼界の方は諦めることにした。大変な大災害だけど、阿蘇に比べたらだいぶマシだ。噴火の規模も、位置も。これ一つなら、地球でまだ戦うことができる。人類はきっと克服できると思うんだ』
その理屈は正しいが、焼かれて死んでいく人々には無意味だろう。
だが、それでも。阿蘇の方をどうにかできるということなのだろうか。
そろそろ来るはずだ。
『阿蘇、噴出確認。噴煙……補正中。数値、異常です。あれは……狩人様でしょうか?』
AIの声が、初めてわずかに詰まった。感情ではない。想定していた計算式が、現実と合わなかっただけだ。
映された現地の映像には、やけにノイズが走っていた。
そこには翼を広げた巨人がおり、その五対の翼がまるで指のようだった。手のひらを大きく掲げているように見える。
綺麗な形ではないが、概ね円形に起きる破局噴火の中心にそれはいた。まるでその怪物が天変地異を起こしているかのような姿だ。
落ちていく地面。そして上がっていく黒い噴煙は大地が空へと昇っていくかのような光景である。
その体長はつい先ほどまで対峙していた時の比ではない。横にある山と見比べてみても、明らかに大きすぎる。身長が1kmはある巨人が、それこそ数キロ単位で広がる翼を自身の上で合わせている。
まるで、合掌をするような。しかし、指先だけを触れさせるような動きをしている。
「……麗日さん?」
その姿にどこか同級生の面影を感じる。
世界を終わらせる威力を秘めた阿蘇の黒い柱は、先ほどとまるで違う様子を見せる。
「まっすぐ過ぎないか?」
上へ、上へ、頭を抑えられることなく伸びていく。鬼界の煙が高さ十数キロで諦めて横に寝るのに、阿蘇の柱はその高さを易々と越え、なお細くならずに立ち続けた。頂点がない。終わりがない。俺は首を反らして目で追ったが、機窓の枠から柱がはみ出して、上端が見えない。
『阿蘇噴煙、高度五十キロ突破。成層圏界面通過。……八十キロ。上昇速度、減衰せず』
減衰していない。普通なら、ここで灰は成層圏に溜まる。火砕流は九州周辺を壊滅させ、大きめの火山灰は関西以西を崩壊させる。そしてもっと細かなエアロゾル化した噴出物は何年も居座って、日を遮って氷河期を作るのだ。
死柄木の狙いはそれだったはずだ。だが阿蘇の灰は、溜まらない。留まる場所を持たないまま、大気の天井を突き破って、その先へ抜けていく。
『阿蘇噴煙、高度百キロ到達。カーマンライン通過。噴出物、大気圏外へ逸出を確認』
宇宙へ。
俺はそれを、見た。柱の上端、もう柱と呼んでいいのかわからない。上へ行くほど扇に開いていく黒い柱が、白く光った。
夜である角度を抜けたのだろう。太陽の光を受けて、きらきらと光を返し始めている。無数の粒が、青い大気の膜を破って、黒い空へ落ちていく。こぼれ落ちる方向が、上なのだ。
『麗日さんのゼログラビティ。範囲型にもできるようになったのすごいよな。これのおかげで宇宙に物飛ばすのは本当に楽になった。だから、こうすることができる。こっちから出てくるものは全部、宇宙までそのまま飛ばすことにする。全一君が上手いことやれたなら、この噴出物を捕まえて加速しつつ、地球の物質を大量に火星へ持ち込むこともできるだろう』
美しかった。
本当に美しかった。地球が、自分の内側を宇宙へ噴きこぼしている。逆さまの滝のように。ラッパのように上へ開いた光の帯が、成層圏の高さで西へ、ゆるやかに反っていく。
『補足。噴出物の逸出方向に西偏を確認。地球自転に対する角運動量差によるコリオリ偏向と推定。世界樹の片割れにぶつかります』
「どっちだ?」
『オールフォーワンの方です』
「ならいいや……」
そうか、と思う。真上に上げたつもりでも、地球は回っている。下で得た東向きの速度しか持たない灰は、上に行くほど地球の回転に置いていかれて、西へ流される。だから柱は、天へ向かってわずかに身をよじる。神様に手を伸ばして、途中で少しだけ逸らされたみたいに。
二つの窓を、俺はもう一度見比べた。
鬼界は当たり前に人を殺している。傘を広げ、火砕流を吐き、灰を降らせ、これから何年もの冬を用意している。地球の重力に忠実なまっとうな破局。自然現象というやつだ。人が殺されているという感想はあまりに人間的すぎる。地球にはそのような殺意はない。
阿蘇の噴火はあまりに自然だった。もちろん被害は出ているだろうが、それは今までと比べ物にならないほど少量である。
火砕流が起きないのだ。崩れ落ちる煙がないから、九州を焼く奔流が生まれない。降灰がない。落ちてこないから、街に灰が積もらない。氷河期がない。灰が空に留まらないから、日が翳らない。
噴出物の重力を奪っただけで、文明と種を殺す武器としての機能が成立しなくなっている。
これが俺たちが出した回答か。
『警告』
AIの声の質が変わった。淡々としたまま、しかし優先度の階層が一段上がった響き。
『高度四百キロ帯、逸出噴出物と軌道物体の接近を多数検出。低軌道衛星との相対速度、秒速七・七キロメートル。……衝突を確認。複数。デブリ拡散、連鎖の兆候あり』
ああ、と俺は口の中で言った。
そうだ。空へ逃がした灰は、遠くへ消えてくれるわけではない。地球の周りには、目に見えない道が何本も通っている。GPS、通信、気象、その全部を運ぶ衛星の軌道だ。落ちてこない灰は、その道の高さに、雲になって居座る。秒速八キロで回る衛星が、そこへ突っ込む。
モニターの端で、小さな光点がいくつも消えた。数字が、消えた衛星の数を淡々と繰り上げていく。ひとつ潰れれば破片が散り、破片が次を潰す。連鎖。人の頭上を守っていた神経網が、地上ではなく空の上で、灰の雲に食い破られていく。
人は長い間、この地上に縛られてしまうかもしれない。
しかし、気になるのは別のことだ。初動から二時間後の噴火が最も苛烈であり、そこまで保つのか?もうすぐ、南極からワープを多用してあれが来るはずだ。崩壊の魔の手が、巨人へと向けられる。
『世界樹が何かできるのは、崩壊を受けるまで。そこからはもう何もできない。それが俺の試算の中で一番大きな見落としだったと思う。それは間違っている。単純に、前提条件が違うんだ』
「まさか……お前……」
『俺は崩壊から逃げない。個性を発動させてしまえば、それでいい。自己修復は最小に、死んでもいいからこの噴火を落とさない。そうすればこの局面はクリアできる。簡単だろ?』
死柄木の崩壊を喰らいながら、抵抗をしない。それは確かにこれまで試せなかった条件だった。マリアとオールフォーワンは生き延びようとしていたし、夢の上位者には意識がなかった。
『いいか。これで狩人としての戦いは終わりだ。血を流しすぎたんだよ。人を歪め過ぎたのかもしれない。これが正しいことだったとしても、これから選ぶべきはそれぞれの個人であるべきだ。この平和の記憶を持って、人類が何を選ぶのか。それが楽しみにでしょうがないんだ。きっと、きっとさ。そこで初めて、オールマイトがぐっすり休める平和が始まる気がするんだよ』
体の一部が崩壊を始めている。巨人が崩れる。しかし、合わせた指のような翼を守るように、最後の最後まで踏ん張るように。そこにいる。
一回きりでも、死んでも。それでも救う。
俺にはできなかったことを。俺たちが実現している。
「俺も、ヒーローになれたのか」
『お前はヒーローにならなくていい』
そのつぶやきはまるで見ていたかのように、置いてあった言葉に潰される。
『ヒーローじゃなくていいから、人を助けてみろよ。日本は、世界はこれから大変だぞ。月のマリアは支援してくれると思うけど月面の住民は考え方が違うから争いの種だよな。火星の人たちはさらに遠くへと挑戦するだろうけど、オールフォーワンが何をするのかわからない。地球には世界樹はなくなってその状態をどうにかしないといけないんだぜ』
『やり直しもなし、状況は最悪。人類は滅ぶしかないのかもしれない。……でもさ。どうにかできるかもしれないだろ。人は今までの自分を超えられるんだ。その最初の一人が俺なのかもしれない。いや、この変身ってか変態が王道とは思いたくないな。普通に成長って意味で使おう。俺たちが嫌々つけたヒーローネーム。あれほとんど使ってないからもう忘れたかもしれないけど、その名前を思い出せ』
やり過ぎ男など恥ずかしかったのか苦し紛れに自嘲して呼んでいたけれど、本来の意味はそちらだった。
『頑張れよ。狩峰淡輝。世界一の金持ちの息子で、ちょっと経験豊富なだけのただの人間として、頑張って超えてみろ』
炎に包まれた巨人は、その後3時間もの間崩壊に抗い、そして塵となって消えた。