その旅客機は蒼白い空を進んでいる。
機体は巨大でありながら、まるで空気の一部になったかのように自然に青空の中を滑っていく。エンジンの振動は安定しており、まるで心臓の鼓動を模倣するように規則的だった。
ここまで人目を気にせずに機内を歩くのは初めてだった。
窓の外では、太陽の光が翼をかすかに照らしている。金属の表面が淡く光を反射し、その影が雲海の上を流れる。遠くには別の航路を進む点のような機影が一瞬見えるが、すぐに白い霞の中に消える。
機内は静まり返っている。なぜなら客席には誰もいないから。
毛布が座席の隙間からわずかに滑り落ち、床に触れた端が揺れることもない。読まれかけの雑誌がテーブルに置かれたまま、ページの端が乾いた紙の匂いを放っている。
人々の痕跡をあえて探すなら、そこかしこにある荷物だろうか。キャリーバックたちは少し前までの喧騒を示す遺跡や石像のように乱立していた。
そこを抜けると、無人のコックピットがある。
本来閉ざされているはずのそれは開けっぱなしになっていた。
この時代になっても無数のボタンがアナログな操作を可能にしているそこは、少し不思議な空間に思える。灰色の計器盤が整然と並び、緑や橙のランプが規則正しく点滅を繰り返している。まるで淡く夜景のように光っていた。
機長席のヘッドセットは肘掛けに掛けられたまま、ケーブルが床にゆるやかに垂れている。副操縦士席には開かれたマニュアルが置かれているが、ページをめくる風もない。
ヘッドセットをどかしてそこに座る。
ここにだけは静寂はなかった。
通信がひっきりなしに打診されているのだろう。通知がうるさい。機体は、どこまでも穏やかに進み続ける。操縦桿を握り、習ったばかりのその技能で機体を動かしていく。
緩やかな浮遊感。あらゆる機器が異常を知らせるが、そんなものには耳を貸さない。下から斜めに差し込んでいた太陽の光は、だんだんと平行になっていく。そしてだんだんと地上から見るのと変わらない光景になっていく。
旅客機ごと横浜の市街地に突っ込む寸前、狩人は静かに考えていた。狩峰淡輝も知っている。
この世紀の大犯罪が無駄に終わることを知っている。
それでもやらねばならないのは、すでにこれが決まっている未来だからだ。
本来そのまま死ぬ自分はこの作戦の成否を確認できないはずなのだが、そこは『予知』という反則を当たり前に使うことで反則を無理やり通してやった。
俺は今から10秒後に飛行機ごと交戦中のオールフォーワンへと突っ込み、そして死ぬ。
その結果としてオールマイトとオールフォーワンは両名とも生き残り、そしてオールマイトは殺される。巻き添えで多くの人が死ぬ。それはもう、死にまくる。
それがすでに知ってしまった予知だった。ならばもう自殺をして次へと行けば良いと思うだろうか。自分も当然ながらそう思った。けれどそれを見透かすようにして、未来の自分からメッセージが届いていたらしく、そこまでを伝えられたのだった。
『予知を知ったのならそれは絶対に起こさなくてはいけない。無駄な抵抗をすると、もっと酷いことになる。あの生放送よりよっぽどひどいから絶対にやるな。俺はこのメッセージを未来の俺から聞いただけだから、何が起こるのかは知らない。でも、やめておいた方が良い』
予知は絶対である。
自分が予知に従って乗客ごと突っ込むことも、見てしまった以上は決定事項なのだろう。それでもいい。次には別の挑戦ができるならそれでいい。
かつて日本で起きた最悪の連続テロ事件。その再現を11歳の少年がやり遂げてしまう。あの事件の犯人はスリル満点なんて言ってたらしいが、この少年は一言も発さずにそれをした。
衝撃は音より先にやってきた。
地面が波打つように跳ね上がり、アスファルトが一瞬で白く焼け、ビルが内側から爆発した。火球は三百メートル先の交差点まで瞬時に呑み込み、ガラスは粉々に砕け散って雨のように降り注いだ。衝撃波は人間の体を紙のように折り曲げ、車は横転し、信号機は根元からねじ切られる。
たった一人の人物を殺すためだけの武器だったが、それはあえなく失敗する。
ナイトアイはそれらを知っていて止めることができなかった。予知は絶対なのだから、それに抗うことはできないから。
「驚いた。驚いたよ本当に。昔の友人がこれと同じことをやっていたから対策はしていたからよかったけれど、僕じゃなきゃ死んでたぜ?知ってるだろう有名なテロだったからね。その時巻き添えで死にかけたから、対策はすでに済んでいるんだ。持つべきものは友達ってことかもね」
懐かしそうに自嘲するその背中は、かつて力と自分だけを信じて孤独な魔王を目指した姿ではなかった。
「なぁオールマイト。君は友達と呼べる存在がいたのかな? 本当に愛と勇気だけだったのなら、かわいそうに。友達くらいいた方がいい。人々を殺してきた僕が友人のおかげで命を拾い、救ってきた君が死ぬというのはあまりに出来過ぎの皮肉じゃないか?」
・・- ・-・・-- ・・- ・・・・
これらの試行錯誤は、英雄が魔王に打ち倒される光景の連続を見せつけられる地獄のような日々である。
「助けて……オールマイト……」
そんな人々の声は幾度も、幾度も潰される。どんな組み立て方をしても、どんな武器を使ってみても、どんなヒーローを追加で用意をしても意味がなかった。
「オールマイト貴様がこの俺に助力を願うとはな!だがいいだろう。下げた頭の分は動いてやる」
NO.2ヒーローを用意してみたこともある。エンデヴァーというヒーローは炎を操る武闘派のヒーローだった。彼の火力は戦いにおいて非常に有用であるはずだったのだが、オールマイトに対抗心を燃やしており協力にはいくつかの工夫が必要であった。
エンデヴァーについては詳しく調べた。ナイトアイに未来を見てもらいその情報を得ることもした。家庭環境や事務所の経済状況も含めて全部を調べる。
すると大して深く調べないうちから出てくる出てくる不祥事の数々。匿名の記者を装った連絡を送り週刊誌にリークすると脅してみると、それを上回る話題でかき消そうとチームアップを組むのだった。
何度か本人とも話すことができたがヒーローどころか、人間としてどうなのかという感想に尽きる。いつか余裕ができたらこいつを辞めさせて……。いや、というかこれをNO.2として許している社会の方がおかしい。そっちから変えていくべきだろう。
ちなみにエンデヴァーは『液化』『窒素』『激流』という液体窒素の完全なメタ技で一撃で沈んだ。炎の個性に液体窒素は効果は抜群であったらしい。火力だけは一級品であり、不意打ちをできた上で運が良ければたまに相手の残機を減らすことはできるようだったので工夫次第かもしれない。大抵の場合、返す刀でエンデヴァーは死んでしまうから割り切るか、別の作戦が必要であった。
とはいえ、相対的にはヒーロー業界はこれでもマシな方なのが救えない。彼らは自分である程度考えてはいるし、正義感も強い。それに比べて公権力とそれが持つ暴力装置たる警察は軒並み腐敗どころではなく、自分たちが何に支配されているのかすら知らず規則を守って職務を全うしているだけの善人だった。公安は自分たちが何をしているのか自覚しているようで、必要悪だと自認している。本当にくだらない。いつか殺してやる。
オールフォーワンの影響がないところなどほとんどなく、関わらせれば敵が増えるといった有様である。自衛隊も解散させられていて、国内にオールフォーワンを殺せる火力を備えた武器が撤去されている。歴史の教科書で読んだ平和改革の実際はこうだ。
支配者たるオールフォーワンが、自らに届き得る刃を全て禁じたのだ。刀狩りである。個性に関する戦闘なら彼は負けないという前提があったのだろう。
これでようやく合点がいった。世界から核兵器を無くしたのはあいつだ。自分を殺し得る兵器を許さない徹底した姿勢。それを実行した傀儡である日本国首相は笑顔でノーベル平和賞を受け取っていたのだから笑える。
こんな地獄の中でも狩人である間は何も感じずに試すことはできていた。血を飲んで顔を覆うまでの短い間も、真のヒーローが二人もついていたから頑張れた。
幾度も試していると気づくが、あいつは死を回避する個性を複数ストックしているようだった。
今まで確認できたのだけで3種類。『復活』と『身代わり』は自分で言っていたから間違いない。炎に包まれて復活したのは『不死鳥』あたりだろうか。あれらは使い捨てかインターバルが非常に長いことが示唆されていたが、まだあるのかもしれない。
そもそも『超再生』がチートすぎる。オールマイトやエンデヴァーの渾身が直撃しない限り大抵のダメージは全てあれでなかったことにされてしまうからやってられない。
攻撃に使う個性もあまりに多様であり、それらを状況に合わせて掛け合わせてくるからどれだけやり直しをしたとしても、その手札が尽きるなんてことは想像できない。まだ習っていないがこのために習得した場合の数を計算してみたけれど、絶望的な数字が出てくることしかわからなかった。
ナイトアイの予知を幾度か成功させることができた時にも、その情報を自分が聞くことはまずできなかった。触れられた瞬間にナイトアイは殺されてしまうし、オールマイトを犠牲に彼を生き残らせたとしても『遮音』『閃光』『爆音』のコンボを発動されて何も伝えることができなくなる。
狩人の状態ですらため息が出た。
あまりに強すぎる。これはゲームではなく、勝てるようにデザインされた敵ではないということを叩きつけられる日々だった。
しかし、それでもただ逃げ続ける日々よりもずっといい。
帽子を深く被ってマフラーに顔を埋めて、普通の子供としての自分を捨てていく。まるで狩りをするかのように一手一手着実に学び、そして絶対に諦めなかった。
だって目覚めれば、絶望も無力感もなかったことになり心機一転して再び挑める精神状態になるのだから。どんどん血は熱くなり、思考は冷たく研ぎ澄まされていく。予測できなかった攻撃を知り、寝て起きれば対応できるようになっていく。
それでも戦闘ではあいつを超えることはできなかった。トップヒーローが15人以上集まって総力戦を挑んだこともある。あれも、これも無駄だった。
どんなヒーローの組み合わせでも無理。最も戦いがうまくいくのはオールマイトが一人で奴と戦うパターンというのはあまりに悲しい結果である。他国のヒーローを呼ぶことも当然考えたけれど、アメリカとイギリスの支配者も皆がオールフォーワンの支援を受けている状況であるとわかってしまった。
オールマイトと並び得る唯一人のヒーロー。
スターアンドストライプは動かせない。彼女は戦略兵器として国内法と国際法の両方で縛られている。彼女が動けばその家族ごと国家反逆罪になってしまうし、そもそも原子力潜水艦のような扱いの彼女に連絡する手段はない。
自分たちだけでやらねばならない。国内の一部まともなヒーローたちを使い、そして何よりオールマイトをどうぶつけるか。それだけが重要だ。
他にも無数の試行があった。血に塗れた過程はもう思い出せない。関わる人間の調査も全て念入りに行った。
どうでもいいと思える情報が大半でほとんど役に立たないノイズでしかなかったが、それでも何か使えるかもしれない。銀行にいた警備員の個性。襲撃してくるヴィランの生い立ち。銀行内にいた親子が個性カウンセリングに通い、そして悩みを抱えていること。
多くのことを何でも飲み込んで、ポケットに仕舞い込んで進み続ける。
膨大な量の戦闘をこなし、調査を繰り返し、殺し合いをし続けた先に一つだけ可能性を見つけた。
何も劇的なきっかけなどなく、ただひたすらに繰り返してアイデアを試し続けた結果だった。
これは運でもなんでもない。当たるまで引くなら当たりは出るのだから。狂気に染まった幾千の試行の末に、一つの回答へと辿り着く。
提案してみれば良好な反応が返ってきた。
「お前は頭がおかしいのか?」
何度目かもわからぬこの問いに、深く頷いて肯定を返す。経験上、ナイトアイをドン引きさせる程のアイデアであれば可能性があると知っている。最初の試験はパスできたようだ。
まともな大人でヒーローの彼は協力者の少年のアイデアを聞いて絶句したが、それでも頭ごなしに否定せず実現に向けて動いてくれた。
「ホークス。チームアップの要請だ。飛ばして欲しい人がいる」
「へえ。それって、俺がやる意味あるんですか?それなりに忙しいですが……」
背景からは何かが風を切る音が断続的に響き、そして遠くから感謝の声が届いてくる。彼はこの通話の最中にも人を救い続けているのだろう。
ホークスというヒーローは『速すぎる男』として知名度を得ており、若手のホープとして飛ぶ鳥を落とす勢いの大人気だ。公安直属で育てられたヒーローでもあるため後ろ暗いものは多いが、彼自身は善人であった。
「飛んでいて、気づかないか?あまりにも自由のないこの日本を空から眺めてどう思う?」
「まぁ、色々思うところはありますけど。でも不満はないですよ。あなたももうちょっと深く調べたらわかったと思うんですが、今言えることはないですね〜」
社交辞令の営業モードに切り替わろうとするが、それを鋭い声が止める。
「ああ、その懸念は正しいが私は当然対策をしている。安心しろ
「……へえ。さすがにサーナイトアイってところですか。それで、敵は誰なんです?」
「この日本、ひいては世界を支配している魔王とでも言うべき巨悪。当然存在は知っているだろう。政府の特別顧問などという特権を振りかざし、政治家たちの天下りを一身に受けているあの組織、『個性管理委員会』。あれを作った人物を倒す。本人は超常黎明期から生きている化け物だよ。無数の個性を奪い扱う怪物だな」
「俺に期待している役割は?」
詳細を簡単に伝えれば、電話越しにもわかるほど怪訝な表情をされるのだった。
「頭おかしいんですか?」
「これの発案は私じゃない。同じ言葉を返したが肯定されたばかりだ。狂っているといった類のやりとりは控えさせてもらおうか」
さて、と改めて本題へと戻す。
「ちょうど九州にいる最強の男を指定の場所まで送ってくれるだけでいい。あとはこちらがやる。お前はもっと自由に飛べる。本当の空というものを教えてやろう」
事件現場にオールマイトを届けるだけ。これならばどう考えても国家反逆罪にはなり得ない。安全のマージンは確保されているが、それでも航空機やその他の移動方法。彼自身が走った方が早いのだから一体何を期待されているのかわからない。
未知。不安。断るための不確定要素はありすぎる。それでも、彼が動く一言をナイトアイは見抜いていた。
「自分が足に、じゃないか。翼をするんですから絶対失敗しないでくださいね?」
この男もまたヒーローだった。
通話を切る前からその剛翼を羽ばたかせて、目的の場所まで飛んでいく。その表情にはいつ以来かわからない期待がありありと浮かんでいて、今までずっと気づかないふりをしていた重りをようやく見つけることができたような顔であった。
権力に立ち向かうなんて柄じゃない。そんな情熱はとっくに消えていた。
「言われたくなかセリフを、ようまあピシャ言うやん。やる気になってしもうたわ。……あー、やだなぁ。どうすんだろこれ」
それでも、彼は自由に最速で飛ぶために。重りを断ち切るためならば、なんでもしようという気持ちになっていた。
誰より速く飛ぶのに、熱はいらない。冷たい風を掴む翼さえあればいいのだから。