アメンドーズを目撃しての発狂死。状況としてはそうなのだろうが、それにしてはおかしいところが多かった。狂っていたのだから詳細は記憶できていないのだが発狂がそのまま死に繋がるというのがおかしい。
動けなくなって握りつぶされるのならわかる。狂気の末に自分で頭を撃ち抜いたのなら納得だ。しかし、狂っただけで物理的に死ぬなんてあり得るか?5年前にあれを初めて見た時も心は乱れて頭がおかしくなりそうだったが、それでも死ぬような事態にはならなかったはずだ。
いや、この点に関して分析はできない。狂った時の自分の記憶は曖昧すぎて信頼できないのだ。
ここまでクリアに自信の狂気について考えることができているのもおかしな話だ。それも自分の日常ではあるのだが。死から目覚める時の一瞬。死ぬ時ではなく自分は起きる寸前が最も頭の回転が早い。走馬灯のようなものだと思うがこの個性が一番強く作用する瞬間がここなのだろう。
この一瞬の微睡の中で思考して、目を開ければまた苦難が始まる。
5年前の事件を思い出してまた目覚めるのだ。大切な言葉が、人が、表情がそこにはずっとある。
あの悪夢を突破してからというもの、淡輝は毎朝を大切に過ごしていた。この微睡は現実世界でほとんど時間を消費しないのだからもう少しだけ記憶に浸るのもいいだろう。
狩峰淡輝は目を閉じたまま、普段の狩峰家の朝を思い出す。途方もない試行のその先でようやく勝ち取った家族の日常はこうだ。
大きく開けた目は窓から差し込む光に怯んで閉じかける。でも朝日を見るのが好きだから少し細めるだけに耐えるのが最初にすることだ。目を覚ませば家族が近くにいて穏やかな寝息を立てている。そこを起こさないようにと配慮する必要もない。雫月は肩を揺らそうが、犬に潰されようが起きないのだからありがたい。
新しい朝が来たから始まるあの歌は、いまだに脳裏から離れない。おじいちゃんとおばあちゃんにはお願いをしてこの歌が聞こえないように工夫をした。あの曲を毎朝聴くのが苦痛で場所を変えてもらったけれど、それでもラジオ体操には参加するようにしたから嬉しそうではあった。毎朝の日課として一緒に体を動かしてから全部を始める。
庭の芝生に朝露がきらきらと光り、そこへ差し込む柔らかな朝日が、まだ眠たそうな空気をゆっくりと温めていく。
その光の中を、大型犬たちが無邪気に駆け回っていた。一頭が鼻先でボールをつつくと、それを見た別の一頭が尻尾を全力で振りながら横から突っ込んでくる。ぶつかりそうになっても気にする様子はなく、口を開けて舌を横に垂れ流して笑っているのだ。このバカっぽいところが本当に可愛い。
跳ね上がった芝生が朝日に透けて舞い、犬たちの毛並みも金色の縁取りを受けてふわりと輝いた。
尻尾の音がパタパタと地面を打ち、体同士がぶつかるたび、柔らかく明るい朝の匂いが揺れた。
朝日を浴びた彼らはいつも通りの日常が嬉しくてたまらないかのように、今日という日の始まりを全身で喜んでいる。
そこからは犬同士の追いかけっこの時間である。しばらく暴れた後にこいつらは朝食を終えた雫月のところに向かうだろう。モフモフに溺れて二度寝する姉は以前と変わらずいつも通りだから。
運動を終えると母さんと一緒に朝の支度を整えていく時間になる。キッチンに段々と早朝の音が揃っていく、賑やかになるにつれて静かだった空気がゆっくりと温まっていくようだった。
木製のカッティングボードには、鮮やかな赤の完熟トマトが薄く輪切りにされている。トントンというリズムで切り出された果物のようなみずみずしい果実の隣には淡い緑色のアボカドが滑らかな断面を見せている。
厚切りベーコンがじゅうじゅうと音を立てて縮み上がり、カリカリの香ばしさを広げている。脂身がほんのり透き通って見える。パンと一緒に食べると最高に美味いんだこれが。
コトコト、クツクツという音を立てるのはコンロの奥。小鍋が静かに熱を帯び蓋を小刻みに揺らしている。昨夜から仕込んだ鶏肉と冬瓜のスープは二日目からが本番だった。
カウンターには焼きたてのクロワッサンが紙袋から顔を覗かせている。流石にパンを焼くのは手間だから、焼き立てを配送してもらっている。世界一の金持ちなのにここまで外注しないのはむしろ褒めて欲しいくらいだ。
層が折り重なったバターの香りがキッチン中に広がり、すぐにでも手を伸ばしたくなるほどだ。
その隣ではフルーツサラダ用のカットされた季節の果物。オレンジ、キウイ、ブルーベリーが、まるで宝石のように輝いている。
立ちのぼる湯気、漂う香り、色とりどりの食材。それぞれがこれから始まる1日を演奏しているようで、なんだかオーケストラのようで誇らしい。さながら自分は指揮者だろうか。いい加減にオーディエンスを起こしてこないといけないので、獣たちを指笛でけしかける。
新たな朝を迎えられた喜びを、家族と美味しいものを食べて噛み締める。これは淡輝にとって少しでも長く正気を保つための儀式でもあった。
これが5年前から続く狩峰家の朝の日常だ。ああ、今日は何を作ろうかなんて思っていると、心配事も思い出す。
オールマイトはちゃんと朝ご飯を食べているだろうか。あの人はすぐに寝食を忘れて人助けに走り出すのだから困ったものだ。UAIという環境を整えて彼を日本や他の国から物理的に引き離すという施策は上手くいったと思う。
ある程度日本の犯罪率は上昇したが、そこは復活した自衛隊と特殊部隊によってどうにか抑えようとしている。ヒーローたちも変わった評価制度に戸惑いながらも人を助けるために対応しようとしていた。5年前には気づけなかったがヒーローをしている人間に善人が多いのは当たり前だった。
オールマイトはこうして世界から物理的に切り離して治療を受け、数々の病気と闘っている。
彼のために資産を湯水のように投入して病の治療をあらゆる形で試験しているのがこのUAIの存在理由でもある。WHOや世界中の研究機関を集めに集め、そしてあり得ない速度で治療法を開発しているのだ。
いくつかの個性や挑戦的な薬品などを用いて、病状の進行を食い止めたり幾つかは根治できたりもしていた。国際的かつ体系的な科学的知見の共有の難易度は上がってしまっていたがUAIという安全の場所を提供することで今まで燻っていた研究が爆発的に加速している。
ナイトアイとの約束を果たすために、オールマイトには絶対に健康になってもらわねばならない。
病などに負けることなど許さない。狂気とも言えるリソースの集中は驚くほど短期で成果を上げつつある。完璧ではないがその副産物も多く生まれている。網膜の再生技術や、ナノマシンワクチン。万能全血製剤の開発だけでも革新的だったのに、それを乾燥粉末にして保管できるなんて夢みたいなものも作られた。のちに水を混ぜれば使用できるという保存が効くこの製剤がどれほどの命を現在進行形で救っているのかは見当もつかない。
ノーベル賞が追いつかないほどの研究の加速はナイトアイの研究協力によるところも大きいと評されている。実験をする前にその結果がわかるのだ。しかも完璧なABテストの結果という形で。これで科学が進歩するなと言う方が無理である
こうしてナイトアイの名前を使うたびに強く心に横たわるのは、彼への胸いっぱいの感謝と寂しさだった。
ナイトアイからもらったものは多すぎる。そして返せたものは些細すぎる気がして。どうにも気後れしてしまう。それを気に病んで最初の1ヶ月で少し落ち込んでいたこともあった。けれどそこでまるで見ているかのようなタイミングで予約送信された彼からのメッセージが届き励ましてくれるのだった。
『私が受け取ったものを勝手に想像してくれるな。お前は私を救ったのだから、しっかりと飯を食って睡眠をとり、適度に笑って家族と過ごせ。それができたなら一日に八時間くらいは世界平和のために動けばいい。二日は休め。どうせ休まないのだろうが、たまには休みを取ること。これは命令だ』
こんな連絡がいまだにたまに来るのだから本当にあの人はおかしい。予知をしているのかいないのかわからないが、どっちでも彼ならできる気がする。
本当に辛くなった時には司書先生と連絡をとっている。他愛もない21世紀コンテンツの話だったり読んだ本の話だったり。短い時間の通話であってもあの日々と覚悟を思い出せるから、淡輝にとって重要な時間だった。彼女はUAIの小学校に勤めてもらっているから会いに行くこともできるのだが彼女にとっては少し話の合う高校生という程度のため勉強熱心でマニアな知り合いという枠をはみ出ないように気をつけている。
恩師である彼女を守りたい。そして恩返しをしたい。これも淡輝にとって重要なことだった。幼馴染やトガちゃん。クラスの一部親しくなっている人たちも幸せになってほしい。
だからこそ、あの悪夢と再び向き合わなくてはいけないのだ。俺には戦う理由がある。そして今は仲間も武器も英雄だって一緒にいる。
そうだ。思い出せ。
ナイトアイの視線を思い出せ。オールマイトの戦う姿を思い出せ。先生がくれた言葉を思い出せ。
これだけ準備をしてきたじゃないか。敵を見れないからって、諦めてちゃいけない。狂って死のうが、起きれば精神状態は万全に戻る。これも前と同じだ。何を見ようとも、どんな苦難にぶつかろうとも。もはや折れるという選択肢が存在しないのだ。
夢のような微睡の時間は終わりだ。目を覚まして戦いを始めよう。勝利までのルートは変更しなくてはいけないが、どこから変えるべきだろう。オールマイトが日中に政治的な取引をしてくれないと子供達の保護は間に合わないから、そこはやってもらわなくては。
よし。これ以降は流石に起きてからだ。
そうして目を開け、刺すような光を覚悟していたが。想像よりもずっと暗くてまだ夢の中かと混乱する。
窓の外を見れば何かが太陽と窓の間にあるのだろう。黒い影が覆っていて、朝日はその隙間からかろうじて部屋へと染み出している程度に過ぎない。
その影が、見開いた。
死ぬ直前に見ていたその黄色い目。死んだ後に夢に見ていたあの無数の目。
あの目が窓のすぐ外で、こちらを見ていた。そうしてスッと身を引くと見えるその異形の全容に目を奪われたその瞬間に意識が消える。
発狂
アメンドーズの蠢く目がこちらを見据え、そしてその全身が見えた時。狩峰淡輝の全身をめぐる血液は槍となって外へと飛び出し、脳を貫きながら逃げ出していく。
雫月の悲鳴が聞こえたかもしれない。そんなことを気にもできずこの数秒をやり直すために死んでいく。
都合の良い悪夢などないのだと、その目は何よりも痛烈に語っているようだった。