いよいよ上陸したミャンマーは資料で学んだ21世紀の状態よりも悪く見える。
平和な日本からUAIランドの最先端の街並みを見てからだと余計にその差を感じてしまうのは仕方がないだろう。
生徒たちはいくつかの班に分かれて支援物資を各地に渡す作業をしている。場所によってはインフラが整っている場所もあるが、UAIの支援はそのような場所を避けて行われる。
平時であっても日本の若者にとっては信じられない光景が広がるだろうが、今は大規模な震災の後だ。まだ1ヶ月しか経っておらず政府はその対応を進めることができていない。
実際に世界の発電量は個性発現前かつ戦前の21世紀を大きく下回っている。大規模な発電所などのインフラを全国的に維持できているのは世界では日米英と豪州のみ。多くの国は首都圏の治安を維持し地方は後回しにせざるを得ない状況がある。特に東南アジアやアフリカ諸国、南米などの現状は悲惨なものだった。
中でも現在のミャンマーは感染症や疫病が特に猛威をふるっている地域である。
日差しは容赦なく頭上から降り注ぎ、トタン屋根の避難シェルターはまるで焼却炉のように熱をため込んでいた。熱気が地面からも立ち上り、空気は重く、ゆっくりとしか肺に入ってこない。
川沿いの空き地に張られた避難テント群では、泥と汗の匂いに混ざって、腐った何かと排泄物のにおいが鼻をつく。近くの仮設トイレは既に満杯で、汚水が地面をじわじわと染み渡っている。足元には蠅が群がり、子どもたちの半数は裸足でその上を歩いていた。
救護所であっても風が吹けば土埃が舞い、洗濯物も食べ物も、そして傷口までもがうっすらと茶色に染まる。皮膚を覆うべき清潔な布がなく、子どもたちの背中には熱疹と膿を持った湿疹が広がっていた。
水は日に1回、軍の給水車が来るが、長蛇の列に並んでも満タンの容器を手にできるのは半数に満たない。地震によって断水された地域では多くの人は小さなバケツで茶色がかった水を抱え、どうにか煮沸して飲むしかない。
在校生たちや受験生は支援先にそれぞれが散っていく。
結局、戦闘を選んで同行できたものは一人もいなかった。当たり前だろう。ここでの戦闘は武装組織や軍隊、テロリストとの殺し合いになる。相手は当然銃を使ってくるし個性も全力で相手を殺すために使ってくる。そんな水準の戦闘に同行できる中学生なんてそうそういない。
自分で変更を申し出た者はどうにか後方支援に携わることができているが、自ら進み出て落とされた者たちはすでに受験を落第し、別棟で隔離されている。
あの爆豪すら救助にしている。頭は回るらしく初めから救助の方を志願していたようだった。
事前の説明ではかなり脅されていたが、実際は物資を配る運搬の仕事が主だった。トリアージなどをさせられることもなく、ホッと胸を撫で下ろした者も多いだろう。
けれどトラブルはそこらじゅうに存在していた。
避難所では言い争いの声が絶えず、小さな日陰をめぐって家族同士が火花を散らす。隣人が誰かではなく、どれだけの水と食料を持っているかが唯一の関心事となっていた。
食事の配給所に並ぶ列は行列の体を成しておらずその周辺に群がる形になっている。やせ細った腕を支えに立つ母親、泣き声をあげる赤ん坊。どちらが多いか、家族の数がいくつかなどで揉め出すのだ。
河川沿いのある村には物資の配給のための軍用トラックと10人程度の軍人。3人の医療者と10名程度の学生たちが同行している。
引率の代表は試験官だった相澤であり、淡輝と同じ班には緑谷と百ちゃんも一緒だった。
道中あまりの道の凹凸に移動するだけで傷を体につけながらも3時間以上揺られ、ようやく辿り着いた辺境の村だった。
最初は大人たちが動き、そして学生に仕事が割り振られていく。単純な人手として使われるものも、個性を使うように指示されるものもいる。有効な個性があるなら積極的に運用していく。人を助けるついでとして試験をやっているのだった。
学生にしては過剰なほどに期待されている者もいた。
その筆頭とも言える彼女。八百万百は大きな役目を背負っていた。
この村にはないものが多すぎる。不足していた物資を整理し、指示を受けて個性『創造』で生み出すのが彼女の役割だ。
「次は……縫合セットですわね。少し、お待ちください」
彼女の個性『創造』は自分の体内から皮膚を通して、あらゆる物体を創り出す事ができる。
物体を創造するためには、あらかじめ対象物の素材や構造を正確に理解することに加えて、生成時に対象物のイメージを精密に構築する必要がある。
地肌を見せる関係もあり指定された場所でその作業をやっていたのだが、もう1時間が経過して息切れをしている。
「そろそろ休憩をしておいで、向こうのテントで休めるから。栄養をとって仮眠でもするんだ」
休息を言い渡されて、その場所まで移動するときにそれは起きた。やることをやった後の気の緩みもあったかもしれない。いや、それ以上にヒーローを目指すのならそうしてしまうというものだ。
彼女の目の前で配られた物資をもらって、急いで走っていた子供が転んでしまった。
転んで血が滲む子供が目の前にいた時、彼女はどうするのか。当然ながら駆け寄って、消毒液と絆創膏を『創造』して使ってあげるに決まっている。
「もう大丈夫。ちょっと染みるかもしれませんが、ほら、これは可愛い絆創膏さんです」
同時通訳の音声アプリはすでに世界で常用されている。相手は持っていなかったがUAIからきた者たちは全員が標準装備である。すでに世界からは言語の壁は除かれた。いまだ平和になっていないのは悲しいことではあるが、それでも語り合うことはできるようになっている。
うさぎの描かれた可愛らしい絆創膏が少女の膝を隠して完成。その一連の作業を見た女の子は驚き、目を見開いて言葉を失っている。
女の子の次の行動を、八百万百は予想できていなかった。
特に具体的に意識していたわけではないが、こうすれば感謝をされるだろうと想像していた。これまではいつもそうだったからそう考えるもの彼女の常識である。
だけど、その女の子はこう言った。
「弟とお母さんの分もちょうだい」
次にこう言った。
「向かいのカインの分も。家族の分もちょうだい」
すると、ふらりと別の子供がやってきた。
「ちょうだい」「ちょうだい」「ちょうだい」「ちょうだい」「ちょうだい」「ちょうだい」
ギブミー。助けて。ちょうだい。お願い。
子供たちだけではない。村中から人々がやってくる。だんだんと叫ぶように懇願していく。
目を白黒させながら、可能な限りの物資を生み出して渡す八百万。
幼馴染の様子を見かねて淡輝はそこへ介入した。
「いや、休息しろって言われてただろ。これ以上は無理だって。一回下がろう」
「いえ、まだやれます。ここでやめてしまってはヒーローとは言えませんわ。それに、見てください。彼らの目を、断ってしまったらあの熱がどこに向かうのか……」
確かに彼らは危うい目をしているが、こちらには軍人がついている。
いや、理屈じゃないな。八百万の目に込められている熱も大概だった。こうなったときに百ちゃんが引かないことは知っている。
「限界が来たら、止めるからな」
そこからまた30分は作り続けていたんじゃなかろうか。結局休まずに動き続ける羽目になっていた。彼女は自身に蓄えた脂質などのエネルギーを変換して物を生み出している。だから当然限界は訪れる。
八百万と緑谷は特に働き続けたと思う。ちょっとやりすぎだ。
けれど、もう創造ができないとわかると、彼らは怒り始めた。
乾ききった大地に、風が吹くたび粉塵が舞い上がり、視界を霞ませる。
その中に集まった人々の顔は、目だけが異様にぎらついていた。骨ばった頬、ひび割れた唇から漏れる吐息は荒く、息と共に絞り出される言葉は感謝ではなく怒号だ。
「なぜくれない?」
「もっとくれ!」
「お前は家族を殺す気か!」
「向こうのやつにはやっただろう、なぜこっちはダメなんだ!」
声は次第にひび割れ、泣き声と罵声が混ざり合っていく。差し出された手は物を求めるだけではない、爪を立てるように前へ伸び、掴み取ろうとする必死さがあった。
物資を抱えた者の肩を引き、腕を掴み、足を押さえる。子どもを背負った女の目は血走り、老人は杖を投げ捨ててまで前へとにじり寄る。
その顔にはすでに理性はなく、ただ生き延びるための恐怖と怒りが刻まれていた。
なぜか助けた相手に恨まれ、理不尽に罵られる。
配り終えたはずの物資の空袋を握りしめたまま、学生たちは立ち尽くしていた。
予想していた「ありがとう」の声はほとんどなく、耳に届くのは足りないという罵声と恨み言ばかり。
まるで自分たちが悪人にでもなったかのような恨みがましい視線が、無数の刃のように刺さる。
小さな肩がすくみ、誰かがうつむいたまま足元の砂を見つめる。頬にかかった影は、疲労だけでなく、理解できない現実に押し潰されそうな重苦しい暗さにも見える。
ヒーローらしからぬ思考が、彼らの脳裏に通り過ぎていく。
物資を届けに来たってのに、この態度かよ。
何か貰ったら感謝すべきじゃないのか?
だって俺たち、ヒーローじゃないし。まだ学生なのに。
まだ全然ダメだ。オールマイトなら……
緑谷出久は無力感に打ちのめされている。考えるのは憧れの背中のことばかり。
ぐるぐると回る思考を止める声がした。
「撤収だ。やると決めたなら、最後までやれ。表情を保つことができてるのは一人だけか?」
翻訳機を切った相澤先生の声がして顔を上げる。ようやく現実が目に入って来たかもしれない。
それぞれの表情には、無力。嫌悪。怒り。が滲んでいて、そんな人の顔を見て自分の頬が強張っていることに気づけた。
笑顔を浮かべて住民に顔を向けているのは狩峰淡輝だけであって、それじゃダメだとはっきりわかる。
バシン!と音がする方を見ると、緑谷が自分の頬を叩き表情を変えるところだった。
泣きそうな、どうしようもないほどの無力感と罪悪感を背負った表情はどこにもなく、この場にそぐわないほどの笑顔を作ってみせる。
「先生、まだ動けます」
その姿に目を見張るのは、相澤だ。
こいつ、落ち込むかと思えば……。見込みはありそうだな。
「ただ、自分のであっても人を殴る音を出すのはやめとけ。聞こえていたかもしれない。頬の赤みが消えてから子供達の車両に行ってやれ」
緑谷出久が最も早く立ち直り、そしてお叱りを受けて動き出した。
そうして空気がゆっくりと変わっていく。動けるものは動き。動き続ける淡輝や再起した緑谷との差を目前にして、諦めたものはいよいよ下がって足を抱える。
そう。こうしている間も淡輝は動き続けていた。
周りよりも優れているからじゃない。単純に慣れているだけだ。狩峰淡輝はこんな風に現実と触れ合うのは幾度目かもわからない。大体この場面だって初めてじゃない。慣れていない方がおかしいというものである。
先ほどの百ちゃんの状況を思い出す。
こういう状況の彼らにはある程度の毅然とした態度が必要なのだ。百ちゃんに群がる村人たちを現地の言葉で強めに制して、その隙にお菓子を握らせていく。自信なさげで優しい態度はつけ込まれる。
大人たちがやるように、実力ある人間としてある種の畏怖を得なければいけない。
それでも最後に笑顔を向けて安心させ、家にいればまた明日も物資を届けると約束していく。彼らは少し緊張しつつも指示に従った。
優しさが彼らを救うだろうか。いいや、まだだ。先進国の普通の優しさが届くのは同じくらいに余裕のある人たちにだけだ。
彼らに自分たちの常識を押し付けてはいけない。彼らは厳格な力が支配するルールのもとで生きている。郷に入っては郷に従えという言葉は、他国に行ったときにも適用されるのだ。
撤収中に車で揺られながら、誰もが試験前の相澤の言葉を思い返し、その意味をようやく知ることになっていた。
力ある人には責任が伴う。初めて感じる責任の重さ。言い訳の効かない現場で人を本当に救うということが夢に描いたものと違うと知った。
そこから奮起するものも。絶望するものもいる。そこは本当にその人次第なのだろう。
狩峰淡輝は確信している。これでいいと。
花形のヒーローという職業への憧れだけで、人の命を預かるなんて狂気にすぎる。
現実はもっと残酷で、グロテスクで、汚くて、臭くて、不快なものなのだから。
助ければ見返りが約束されるなんて、一部の先進国でしか起こらないしそれが続くという保証もない。ヒーローとは、そんな現実を踏み越えるどころか、変えていく存在であらねばならない。
想定通りではあるが、翌日は人数が大きく減るだろうなとは思う。
読んだ本に書いてあった格言を思い出す。『信じることをやめても残るものが現実である』と。生半可な夢では人は救えない。それでも夢で人を本当に救うのをヒーローと呼ぶのだ。
硬くまっすぐな若者の夢を、現実という鈍器で砕くのは少しだけ心苦しいが、それでもやらせてもらう。
だってそうだろう。これがこの世界の現実なのだから仕方ない。
机の引き出しにタイムマシンが欲しい?生まれ変わって異世界で冒険してみたい?
実のところ異世界には割と簡単に行けるのだ。みんな飛行機に乗ればいい。世界各地には過去とスリルが今もある。見て見ぬふりをされている都合の悪い異世界がそこにあるのになぜ行かないか。
答えは明白だ。そんなものを誰も望んでいないから。一般人ならそれでいい。そう思うのが当たり前だし正常だ。
けれどヒーローはそうじゃない。嫌われても汚れても、それでも勝手に人を助ける狂気こそが英雄を生み出すのだ。
夕方になって少し日が陰ってきた。星も月も、乾いた空に静かに浮かんでいるが、地上の空気は淀んでいた。 蚊帳もなく、湿った布を体に巻きつけて眠る人々の間を、マラリアを媒介するかもしれない蚊が不快な音を立てて飛び交っている。
そんな風景を切り裂くように進む最新鋭の軍用トラックはあまりに場違いなものに見える。
そこで揺られ腰と尻を痛めて舌を噛みながら、あまりに想像と違った人を救うという現場のことをみんなが思い出していた。
ありがとうという言葉もあった。けれどなぜ助けないだと叫ぶあの表情。あれが忘れられない。
『本当に助けを求める人は、助けたい姿をしていない』使い古された格言だが、それは真実だった。
ヒーローは敵を打ち砕いて人を助け、そして感謝と喝采に包まれるもの。
甘く柔らかな平和な夢はこの一日で叩き潰され、どこかに消えてしまっていた。