氷柱は、音もなくぶら下がっていた。
天井の縁から、静かに、まっすぐに伸びた一本。先端は細く尖り、まるで何かの呼吸を感じ取っているかのように、微かに震えている。いや何を言ってるのだろう。単純にさっきの殴打の衝撃が残っているんだ。バカみたい。
表面はなめらかで、濡れたように艶を帯び、かすかな光をまとっていた。緑色の非常灯の色を写す氷の牙が、自分に突き刺さってくるような感じがしてくる。
拳藤一佳はここで心が折れてしまった。もう何も考えられない。
「やっぱりダメ。扉はこちらから開かない。本当にナイトアイの予知を頼りに締め切ってるらしい。前から思ってはいたけどさ、正直言っておかしいよ。だってこれ轟くん頼みで無理だったらみんな死ぬんでしょ?なんで、こんなバカみたいな特訓に同意しちゃったのかなぁ」
普段の勝気な声は見る影もなく、ただ寒さに震える少女の声がした。
最後の力を振り絞って、その巨大な扉を開けようと叩いたのだが力は発揮できず、そして何よりその強固な壁を揺るがすこともできずに座り込む。金属のきしむ音すら、凍りついている気がする。
「はは。立つんじゃなかった。さっきまでお尻は暖かかったのに……」
ここは冷凍倉庫の一角、人が迷えるほどの広さがある。その空間にいるのは三人だけ。
「ナイトアイを、信じよう。大丈夫。きっと、最後には、どうにか……」
吐いた息が、真っ白に膨らんでから、すぐに消える。それを何度も、何度も繰り返す。喉の奥が痛い。呼吸のたびに、冷気が身体の中にまで忍び込んでくる。
「おい、緑谷!寝るな!体を動かし続けろ!本当に死ぬぞ!」
その中で、かなり元気なのは轟焦凍だ。彼だけは冷気に耐性があり、そして体内に熱を持っているのだった。
「……手が、動かない」
誰かが言ったその声すら、震えていた。頬が赤く、耳はもう感覚がなくなってきている。指先に力が入らない。小さくこすり合わせても、皮膚がかさつくだけだった。
体温が奪われていく感覚は、じわじわというものではなかった。ある瞬間から、急に深部にまで寒さが届く。背筋、胸、内臓。そのどこかが冷えていく。
部屋を照らす光源の光は緑色で、普通なら非常口を示すものであるはずが。今回は人を救うべきヒーローによって閉ざされている。
轟焦凍はここに来てようやく思い知る。ああ、これは本気だと。ミルコとの戦いで分かった気になっていたが、本当に殺す気で追い込んでいるのだと理解できた。自分たちの健康状態をモニターする機器はなく、この冷凍倉庫にそんな高度なセンサーは付けられていない。仮にあったとして、本当の限界まで決して開けはしないのだろう。
正直、舐めていた。教育機関だからトップヒーローたちだから最後には人命優先をするだろうという安心感があったかもしれない。
1秒ごとに奪われていく友人の体温が35度を下回ったあたりで、ようやく危機を実感したのだ。
これは訓練であって訓練ではない。そう言われていたのに、未来が確定しているのなら安全だと気楽に乗ってしまった。その報いを受けるのが、なぜせっかくできた友人なのか。
焦凍は自分が許せない。自分で自分を殴りたかった。
緑谷と拳藤の冷え続ける体を引き寄せて自分が抱える形でどうにか熱を伝えようとする。以前に人と触れ合った時、低音と高温の両方の火傷を負わせてからというもの彼は人に触れるのが苦手だった。
しかしその氷はすでに自分が助けた少女によって溶かされていた。この二人は限界だ。もう訓練を中断してくれと懇願したのは数時間前。この扉は微動だにせず約束の時間までは決して動かないのだろうという前提を守っている。
「ああ、クソ!どうしてだ!こんなことで、死ぬわけには……」
そう言って、彼は必死で熱を出そうと試みる。どうやってそうしたのか、もう忘れている気がしたがどうにかして命を繋ごうと、それをしたのだ。
けれど、もう3回も失敗している。
三人のうち拳藤が死亡し、緑谷の体には深刻な凍傷が残るという結果はマシな方だ。けれどその現実を否定してやり直す。
突破口が見つかるまで何度でも繰り返されるこの氷の煉獄は、狩峰淡輝が轟焦凍に期待したから生まれたのだった。彼はヒーローになれるかもしれない。なら、こちらも全力で支援をしようと真摯に向き合った結果がこれだった。
一体何が彼にとっての突破口になるのか、淡輝は知らない。見当もつかない。
だからあらゆる可能性を試すだけだ。今回は一体どうなるのだろうか。狩人が好奇心で瞳を溶かしながら、友人の帰還を待ち侘びている。
「焦凍ォオオオオオオ!!!」
叫び声が熱を放って激突する。その激情を止めることができるのは本当にごく一部だけだろう。
「貴様らは狂っている!俺の息子を殺す気か?もう殺させんぞ!」
「彼よりは冷静なつもりだが、私も反対だ。ここまでとさせてもらう。これ以上は訓練にはなり得ない。学生が命を落としかける状況はヒーローとして許せない。だいたい、狩人がそこにいる以上私には捕縛する義務がある」
だからこそ、この訓練を止めようとする真っ当なヒーローを止めるのも、自分の仕事だろう。もちろん自分にはそんな力はない。殺すことしかできない不自由な存在なのだから、他のヒーローを頼ってになるが。
彼らは新旧の日本NO.2ヒーローである。重ねて言うが彼らのタッグを止めることなど普通はできない。狩人がどれだけやり直しても、彼らを怪我させずに止めるなど不可能だ。
「信じてくれ。きっと轟少年は必ずやり遂げる」
だがここには、不可能を覆し続けた男がいる。NO.1という座にずっと居続ける英雄がいるのだ。
「大丈夫。彼は来る!」
オールマイトが学生を死に追いやっているというあり得ない光景がここにある。一度たりとも致命的な犠牲を許容せずに進んできたからこその信頼が狂気となって常人たちに立ち塞がっている。
「私とナイトアイの判断を信じてくれ。彼はきっと、ベストを尽くす」
彼とは俺のことだろうか。轟くんのことだろうか。そんなことを考えながら、オールマイトの負担を最小限にするために動き始める。エンデヴァーとベストジーニストのタッグに対して、狩人とオールマイトのコンビで迎撃を行う。
最高峰の戦いをまた演じることができる。抑えきれず血が沸騰してきた。ああ、戦いはなぜこんなにも楽しいのか。ミルコは明確に答えなかったが、決まっている。
人の内には、獣がいるのだ。
・・- ・-・・-- ・・- ・・・・-
遠くで激しい音がした気がした。
現実に対して向けられる注意はそこまでだ。緑谷と拳藤の反応はすでになく、焦凍の思考がやけに速くなる。
脳が生命をどうにか繋げようと起こす最後の悪あがき。それを走馬灯と呼ぶらしいが、まさか自分が経験するとは。
視界が揺れ、何かが崩れるように、内側から零れ出す。ただ、記憶の破片が次々と浮かんでは消えていった。
気づけば砂場を掘っていた。近くの公園の、対して大きくもない砂場。
それを掘るといろいろ出てくる。真っ赤になった手を吐息でどうにか温めながら、それでも掘り続ける。
おもちゃが出てきた。遊んだ遊具が出てきた。いろいろ出てきた。でも一番多く出てくるのは。
母さんだった。
砂の中から掘り出した母の顔は、いつも泣いていた。
まだまだ見つかる。
皿の割れる音。蛍光灯の点滅。冷えた麦茶の味。母の泣き声。
顔を伏せて、声も出さず、ただ肩を震わせていた。何度も見た光景なのに、そこだけ妙に色が濃い。それにどうにか砂を被せて見ないようにして、もっと掘り進める。
「あっつ!」
火傷したかと思ったら、そこでは父が怒鳴っていた。何かを叩きつけるように叫んでいた。その熱は確か熱かったはずだが、思い出せない。まるで自分を見ていない冷たい視線と頬を擦り付けた冷たい木目の感触だけを思い出す。
そして、恨みがましい目でこちらを見るのは長男だった。ああ、そうだ。これも忘れていた。どうして忘れることができたのだろう。死んでしまった、いや親父が殺した兄の存在をまるでなかったかのようになぜ振る舞えていたのかわからない。
「燈矢兄……」
全部に砂をかけてどうにかその熱さと冷たさを忘れられるようにして、ギリギリで泣かないようにする。
このまま死ぬべきじゃないのか。自分が関わって、何かを頑張って。うまくいったことが一つでもあったか?そうだ。兄のように親父のように怨嗟の炎に焼かれて死ぬくらいなら、母のような冷たさに眠るように静かに去る方がずっといい。
すると一気に体の辛さがなくなった気がして、心も軽くなっていく。何を執着していたんだろう。何を大切にしていたのか、よく思い出せない。
体の感覚が全てなくなるその寸前、かつて床についたのと同じ場所が刺激されて意識が戻った。
ここは砂場じゃない。倉庫の中で、そして緑谷出久が、自分の頬に触れていた。
「だい……じょうぶ……。たす……ける……ら……」
「なんだ……それ……」
そして緑谷は紙を一つ握り込んでいた。それを開き見てみれば、誰が書いたのかはっきりわかるようにして大きく乱雑な字で書いてある。
がんばれ とクレヨンで書かれた画用紙の切れ端。そういえばここに来る前に受け取っていたものだった。その時はただ嬉しくて、そしてポケットにしまっていたはずだったがどうやら落としていたらしい。
緑谷はそれを拾い、今の自分に渡してくれたのだ。自分よりも遥かに重症。もう意識もないはずの彼は、自分を心配したのか?
あまりの衝撃に、脳が二度目の回想を始める。
遠く深い記憶ではない。直近の、まだ鮮明な出来事が燃えるようにして湧き上がる。
冷たく凍ったような砂場はもはや岩のようで、とてもじゃないが素手で掘ることなどできそうもなかった。
だけど、掘る。少しずつでもいいからどうにか掘る。
だって、そうしたらそこにあったのだ。
友人たちの笑顔。美味い蕎麦。暖かな日差し。大人たちの感謝の声。
そして少女が駆け寄って、抱きしめてくれる感触と暖かさ。
全身に血が巡る。体内の奥底から、砂場の奥の奥から赤い何かが、マグマのように湧き上がってきた。体が燃えるように熱い。
そこまで思い出せばもう絶望をしている場合ではない。最初の回想は最悪の記憶で止まってしまった。
もっと奥に。もっと先へ。もっと、もっとだ!!
恐れずに砂場を掘り進める。血が出ようとかまわずに掘る。爪が剥がれようと気にしない。今まで決して振り返らなかった最悪の記憶をもう一度見て、そしてそこで止まらない。
先ほどよりも遥かに深いところから見つけたのはこれだった。
辛い特訓の後、母に抱かれた時の暖かさ。兄姉たちの笑顔。美味しいご飯。
そして何より心の奥底にはずっと太陽があったじゃないか。誰かに向けられた嫉妬や怨嗟の炎ではなく、あまねく照らす雄大な、熱と光の塊。
幼い頃に憧れた、太陽のようなオールマイトの姿。当たり前みたいに世界を照らし暖める。そんな姿に憧れたんだ。
ああ、そうだった。これが、俺の原点だ。
そこまで気づけば、もう現実も怖くない。
「もう大丈夫。俺が、いるっ」
左目の周りにある火傷の痕。そこを中心に暖かな熱が広がった。熱は暴走をしていない。炎すら出ていない。
温度を完璧に掴み取り、そして友人たちを包んでいた。その空間はまるで暖かな春の日和を思わせるほどの快適さで、彼らの体に熱が不思議なほど馴染んで染み渡っていく。
それはそこから軽々と数時間持続して、最後の頃には二人とも目が覚めていた。
その扉が開いた先には、エンデヴァーが倒れておりジーニストがどうにか立っているだけだった。
「焦凍っ!?大丈夫なのか?後遺症は!?怪我はしていないのか?」
見るからに元気なその様子を見て、思考は先へと進んでいく。
「いや、炎を制御したんだな?よくやった!さすが俺の最高傑作だ!あの時の熱量をコントロールすることができたならお前は最強になれる!弱点のない最高のヒーローに!」
興奮し燃え上がるその熱は、焦凍から放たれた冷気によって一瞬でかき消された。
「れ……いや、焦凍……?」
エンデヴァーも本気で火力を上げるなら対抗はできただろう。しかし、普段の火力を抑えるほどの冷気を放ち、しかし傍で息子が肩を貸す友人たちは一切凍っていないという状況に困惑する。
火力を求めた先の究極の姿が見えるはずだったのに、なぜそこまで穏やかな熱を宿しているのか。理解できない。
「大丈夫そうだが、一応病院に連れていく。俺の個性については、後でいいですよね。ジーニストさん」
「ああ、問題なさそうだが。そうしてくれ。ところで、何を思い出した?」
「俺が、ヒーローになる理由。それをはっきり思い出しました。だから、もう俺は大丈夫です」
「説明、しろ!焦凍ォオオオオオオ!!!それはなんだ!?どうなっている!?」
そうして、轟焦凍は一言も一瞥もせずに去っていく。友人たちを支えて歩き続けていくのだった。
「待て、待ってくれ!」
やめろ。そうじゃない。お前は、違うだろう!!俺を……置いていくな焦凍。一人に、しないでくれ。燈矢が死んでなかったんだ。やり直せるかもしれないんだ。
お前なら、きっと俺を、みんなを、全部を……
心からの叫びに一切反応もせず、息子は背を向けて消えていく。
残ったのは自分一人と、目元を隠すちっぽけな残火だけ。
たった一人だけ。もう周りには何もない。家族を薪にして燃え続ける
エンデヴァーはここで初めて、自らへと疑問を浮かべて立ち尽くす。
成長し、進んでいった息子の姿を見て、ようやく自分というものがわからなくなったと知れたのだ。
この数日後、五輪は無事に始まることになる。
確かな成長を果たした息子と、置き去りにされた父親。彼らのことを時代は待ってはくれないのだった。