オリンピックは無事に始まり、世界中の予想を裏切って無事に終わった。
絶え間なくテロは仕掛けられていたが、その全てが潰されてその光景すらも報道されている。ネットでは撃墜カウンターすら作られて、その数はこの一ヶ月で200を超えていた。これは狩人が秘密裏に葬った者たちを含めない数であり、夜闇に隠された凄惨な血痕も全てを含めれば300は超えていただろう。個人から複数人のグループ。犯罪組織から全一まであらゆる襲撃を乗り越えて五輪は閉幕する。
「狩人様、お疲れのご様子ですね。よく、眠れていないのでしょうか」
「気になることがあってね。睡眠に関しちゃ目覚めは相変わらず最高なんだけど、寝つきは変わらず最悪だし。五輪が終わったのは安心したけれども」
聖火を掲げた光る彼は、生きて閉会式を迎えることができるとは思っても見なかったようで最後の挨拶を考えられずに当日を迎えてしまったらしいが、それにしては名演説であった。
全てが上手くいったと思ったのだが、一つ大きな懸念というか解決していない謎があった。
それは狩人が唯一取り逃したヴィランがいたことだ。やり直しを前提にしている状態で逃げ切られるというのは、全一以外に達成したものはいない。
あまりに不可解で整合性のないその遭遇は何をもたらしたのか。
それは勝利か敗北かわからないという困惑であった。
狩峰淡輝は上位者以外に初めてここまで混乱させられたことはない。
そのヴィランの容貌や能力はあらゆるデータベースに存在せず、採取した生体情報はまるで役に立たない。悪い夢と言いたくなるようなものでありサンプルも途中で消えてしまうという始末。
そもそも、繰り返しの際に異なる行動をするというのがそもそも異常だ。回を重ねるごとに人外のような見た目になっていき、最後には浮遊する骸骨の集合体のような化け物になっていた。
それを倒せたのは運が良かった。だから、そこで倒してそれ以上を繰り返すのはやめたのだった。
そして何より不気味なのはそいつの態度だ。
狩峰淡輝は振り返る。最初に出会った時、その後にヴィランが発した言葉。最後に会って、戦い勝ったのちに消える時の表情。
なぜか終始困惑していたその敵が、なぜそんな顔をしていたのか。ずっと考え込んでいた。そして自分以外にもそれを聞いている。個性に関わる戦略や相談には複数人の作家やアーティスト、漫画家などを交えている。
「この問題を懸賞金付きで、有名漫画家名義で公募しました。こんな結果が生まれるのはどんな個性がどんなふうに作用する時なのか、設定を考えよという問いで広く答えを募っています。その中で有用そうな意見がありましたのでお伝えできればと」
『夢の中限定で、力を発揮する『サキュバス』『インキュバス』などと類似の個性。それが発揮される世界になっている可能性』
「おい、それってつまり……」
「はい。この世界が誰かの夢であるのなら、夢の中で活動できる個性であるなら現実にその力を振るえるかもしれない。これは無視できない可能性ではないでしょうか」
いるのだろうか。いや、いるのだろうな。夢に作用する個性というのは珍しいが決していないわけじゃない。
「人の夢に入っていく心理療法師がいただろ確か、声をかけてみてくれ」
「ベルペッパーですね。非公開情報でしたが、彼女はすでに人の夢の中から戻って来れなくなったようです。ちょうど五年ほど前に」
「引き続き、夢に介入できる個性を探しておいてくれ」
「はい。狩人様。あなたの目覚めが、有意なものになりますように」
この世界が、夢か
・・- ・-・・-- ・・- ・・・・-
閑静な住宅街という前評判はその通りのようで、そこそこ高層のマンションであればさらに静かだった。
静かな目覚まし音で十分に目がさめる。それの音量が上がる前にそっと止めて、ゆっくりとまぶたを開けた。
朝起きてすることは決まっている。体を覆っている防具のような柔らかな布をとるところからだ。プロテクターをしてからというもの、寝相で怪我をすることはなかった。
それを外せば次にやることは決まっている。机へと向かい、重量感のあるそれを手に取った。
指に挟んで、いつも通りに力を込める。
コン。という音が響いてそれを見た。
机の上、
重さのある鉄製。研ぎ澄まされた上面が光をわずかに反射して、軸を中心に淡く輪を描いている。
音はほとんどしない。耳を澄ませば、金属が空気を切るようなかすかな響き。机の素材によって伝わる微かな振動が、遠くの足音のように感じられた。
回転は安定していて、これを見ている時はいつだって不安になる。
けれど、それはいつまでも続かない。わずかに軸がぶれ、重心が傾き始めると途端に安堵が押し寄せる。
独楽の輪郭がにじむように揺れ、速度が落ちていけばもう大丈夫。音もまた、小さくなり、途切れがちになる。
一度、二度、低く傾いたあと、ころん、と横倒しになった。
それでもしばらく、鉄の重さが余韻を引く。揺れることもなく、ただそこに止まっている。机の上には、まるで最初から動いていなかったかのような、静けさが戻っていた。
世界の手触りをそうして確認しなければ朝は、というか何も始まらない。
「おはよう」
誰に対してでもなく、自分自身に挨拶をする。激務をこなすうちに自然とこんな習慣ができたが、これはほとんど無自覚だった。鏡を見ればいつも通りの自分が写っている。リラックスした今は徹底的な無表情だ。身だしなみを整えて、寝ぼけ眼を作っていく。乱れ一つない頭髪にちょっとだけ寝癖をつけてから、あくびをしつつ部屋を出る。廊下を抜けてリビングを目指した。
足音は柔らかく、壁には古い写真と静かなアート。控えめな調度品が並んでいる。
香りのない空気に、遠くからわずかにコーヒーの匂いが混じる。今日もパンだろう。やはり、トーストの匂いがしてきた。
差し込んだ光の中に、街の静かな輪郭が広がる。高層ではあるが、見下すような高さではない。
窓の向こうには、遠くの公園と低く煙る朝の雲。いつも通りの朝の風景。
キッチンに入ればから香ばしい匂いが漂っていた。
ダイニングのテーブルには、すでに白いクロスと朝の器。グラスには搾りたてのオレンジジュースが並び、サラダボウルには艶のあるトマトが揃えられている。
カウンター越しに妻が笑顔で振り返った。
「あなた、コーヒーもう少し濃いめがいいかしら?ふふ、寝坊気味でしょう?」
「うん、いつも通りで。なんで、よく眠れてないと?」
「だってほら、昨日も寝相がすごかったみたいだし。寝癖、ついてるわよ」
クスリと笑う妻に、少し恥ずかしそうな顔で取り繕うように軽くうなずいて、スーツの袖を少し直しながら椅子に腰を下ろす。
ほどなくして、小さな足音が階段から跳ねるように降りてきた。まだパジャマ姿のまま、手にお気に入りのぬいぐるみを抱えている。
「パパ!今日ね、学校でひまわり植えるの!」
「お、じゃあちゃんと起きて、ご飯を食べて、元気な子が植えなきゃな」
笑顔を見せながら、息子の髪をくしゃりと撫でた。
テレビでは天気予報。その後はもうUAIで開催されている五輪開会式の話でもちきりだ。日本からも多くの観客が向かったらしいが信じられない。安全性を考えればそんなことはできないだろうに。誰もがリスクを取りすぎた。
窓の外では木々が揺れていて、街はすでに静かに動き始めていた。
食後、息子はリビングの隅でランドセルの準備をしながら、お気に入りの靴下を探している。
妻はコーヒーカップを片付けながら、冷蔵庫に明日の買い物リストを貼った。夫は、磨かれた革靴を履き、腕時計の時刻を確かめる。
「行ってきます」
「いってらっしゃい、気をつけてね」
妻がドアまで見送り、息子が手を振る。エンジンを点けて、自動車がゆっくりと動き出す。運転席に差し込む朝の光が、フロントガラスに柔らかく広がった。
『おはようございます。本日は日本橋の第四ビルが始点になりますので、お気をつけてお向かいください』
「もう今月は、というか今後は声はかからないかと思っていた。やはり五輪関連か?」
常連のクライアントは無事だったということらしい。しかもまだまだ仕事減らすつもりもないようだ。以前ほどには信頼を置いてはいないが、それでも仕事は断れない。
『ええ。とはいえいつも通り、詳細は現地にて』
「了解した」
車は目的地のビルまで入っていき、そして降りる。専用の更衣室まで進んで完璧に着ていたスーツを脱いで畳む。
まず、白のベースクリーム。指で顔全体に塗り広げる。頬、額、鼻筋、顎先。ゆっくりと、肌の色が塗り潰されていく。雑さを少し演出しておく。やや乱れた感じが最適だった。
赤黒い塗料を取り、唇を塗る。輪郭をなぞるのではない。笑っているように見えるよう、口角を少しだけ上へ。頬にも同じ赤を丸くのせる。
最後に、鼻。小さな赤い球体を指先で転がしながら、鼻先にそっと押し当てる。
メイクを済ませて、そして小道具を取り出した。これまた専用の冷蔵庫からいくつか消費期限ギリギリのものから優先して取り出して、見えるように取り付ける。
これで仕事のための正装は完璧だ。仕上げは現地で調達すれば良い。
『ああ、よくきたね。
「問題ありません。今日の対象は誰で、必要な情報は?」
体を揺らすと、取り付けた人体の一部が一緒に揺れる。チルドしてあったが、一部が室温に晒されて傷み始めているだろう。あと30分もしないうちに悪臭が漂い始める。
『UAIと最近契約したらしい警備部隊の傭兵団。そこの彼に色々聞きたいことがあるんだ。配置からパスワード、スケジュールまで知れるだけ知りたい。しかし、君は余計なことを聞かないのが良いね。やはりプロはそうでなくちゃ。せっかくの戦力を事前に減らすなんて非効率だと思うだろう?』
「ええ、おっしゃる通りです。オールフォーワン。効率は大事だと私も思います」
「では頼んだよ。いつも通りに仕事をしてくれれば、報酬も安全もいつも通り。良きパートナーとして今後もよろしく頼みたいね」
手渡されたタブレットに目を通し、目標と状況を頭に入れた。開会式のテロの最中に情報を抜き出す工作を完遂するという流れだ。
驚くほどの量のテロが同時進行するらしく、それに巻き込まれないかどうかだけ気をつけろと書いてあったが、網羅もされていない、記載されていないものにどう注意しろと言うのだろう。
タブレットを置いて準備完了の合図を出せば、いつもの黒いモヤに包まれる。このワープが終われば仕事場へ移動し、やるべきことをすれば終わりだ。
そして、次に感じたのは夜の闇と潮風の香り。そうして被った道化の面は勝手に口をひらく。
「あっはァ!じゃあお仕事しよっかァ!」
それらをかき消し、照りつけるサーチライトのあまりに暴力的な光だった。
身体中に熱さが走った。ああ、なるほど。待ち伏せされて、銃撃をされたのだ。こんなことが可能とは、オールフォーワンがこちらを切ったのだろうか。いや、それにしては手間がかかっている。ということは本当にUAIは未来がわかるのか?
体から力が抜けていく。重要な血液がとめどなく溢れる。
ああ、これは死ぬな。確信するが感慨はない。もし即座にワープで戻され手ずから治療をされるのなら生き残れる可能性があるだろうか。
そうして視線の先、新たに発生した黒霧から今回の主戦力とされる男が現れた。あれがいるならそれなりに囮はしてくれるだろうと思っていたが……。
何かが飛んできて、それを吹き飛ばして拘束した。意味がわからないほどの手際、そして血の臭いを自分以上にばら撒いているという異常な存在。決して会いたくない存在トップ2の悪い方がそこにいた。
狩人がこちらを一瞥すると、即座に走ってくる。
なんだ?あれに関わったことは今までにないはず。モルヒネという悪名はそこそこ通っているだろうが、国家規模の悪事にはそこまで関わっていない。こちらは情報収集をメインにしている下っ端だ。なぜあれがこちらをここまで意識している?
そう思っていると気づいた。なぜ、まだ死んでいないのか。
なぜ、視点が上がっていくのか。視界が広がるのか。おかしい、なぜだ?これではまるで、まるで個性を使っている時のようだ。
ヴィラン名『モルヒネ』。本名は
接触した相手の睡眠時の夢に出ることができる。同時に複数の夢には出れない。自分では夢の先を選べない。より強く自分を意識した者の夢に自意識を持って侵入できる。その間、自身は眠ることになる。
夢での自分の強さや見た目、能力は夢の主が思い描くままになる。こちらを侮って弱いものと認識していれば弱く、凶悪な姿を想像すれば、現実よりもはるかに強くなる。
この個性を悪用し、金持ちや要人の夢に侵入、情報を抜き取ることが生業だった。相手にトラウマを植え付ければ、毎晩悪夢を見てくれるため、できる限り強く悪い印象を与え続けようと悪辣さを人に印象付けようとするのが現実でのお仕事だ。
ヴィランとして変装し悪事を行う。その恐怖を象徴的に与えることで多くの夢に侵入できるようになってきた。ちなみに侵入した夢の中で死ぬと、殺された方は夢の内容を思い出せない。けれど漠然とした印象だけが残る。だから最後は相手をできるだけ殺す。
男であれば拷問し、女であれば強姦し、子供の死体や人体のパーツを身に纏うのも、全部嫌々やっていた。だって悪印象を与えれば相手の夢に強い姿で侵入できるから。そのためだけにそうしている。プロとして犯罪を行っているのだからこれくらいは当然だった。
個人的には嫌だけれど、自分を殺して最適に仕事をこなすのも社会人として当たり前だからやっていた。
そんな円馬は困惑しきっていた。いつもの道化のフリすらも忘れるほどに異常が起きている。だって、自分の個性が発動しているのだ。これは意味がわからない。
今は確かに起きていて、現実にいたはず。なのに夢が始まっている?しかも、なんでここまで凶悪で凶暴で、生き物の姿からかけ離れた姿になっているんだ。
側から見ればそれは生き物に見えない集合体である。
無数の骨、おそらく人間のものだろうそれらが絡み合い、うねりながらひとつの塊を形づくっている。
その中心には、異様に肥大化した巨大な頭部。半ば白骨化しているピエロの頭部がそこにある。空洞の眼窩が、困惑したように周囲を必死で見渡しているのだが、多くの人間には恐ろしげな態度にしか見えないだろう。
全体を包む黒い布のようなものは、風もないのに揺れていた。そこに縫い付けられているのは人からちぎり取った耳、耳、耳。
おかしい。ここ数年は、耳で飾りはしていない。これは五年前くらいに多用したスタイルのはず。その頃に強いトラウマを持った奴がいるのか?いや、そうじゃない。今は現実のはずなのに、なんで夢ということになっている!?
そんな困惑と相反して体には力が漲っている。これまでで一番の調子だ。今なら何にも負ける気はしない。
狩人が再び装甲を中途半端につけながら、切り掛かってくる。その一撃を受けて怯むが、全く痛くない。そして傷も治っていく。墓場に君臨する王のような威容は見た目どおりの力を秘めているようだった。
ここまでの体格差、能力差があるならばオールマイトすら怖くないかもしれない。気づけば握っていた骨でできた歪な大剣を叩きつけ、戦闘を開始した。
結論から言えば、殺された。無尽に思える力も限度はあり、そして何より狩人には攻撃が一切当たらない。
削り切られ、消耗させられ、そして最後には内臓のようなものを素手で握りつぶされて死んだ。
そのはずだった。
気づくと海上でいつもの人間の姿で、水面に浮いていた。
彼方にUAIが見える。どうやら自分は海に投げ出されたらしい。いや、おかしい。そうだ。なぜか体が溶けるように液体化して、排水設備を通って海まで逃げ出せたのだ。
まるで悪夢のようだった。二度と狩人とは戦いたくないが、夢の中限定の個性が現実にも適応したということだろうか。
「まずは調べなくては」
そう思ったら、体が浮き上がる。どうやら、能力は一部残っているらしい。
悪夢を庭とする怪人。そんな呼ばれ方をしていたが、自分はおかしくなったのだろうか。それともこの世界の方がついにおかしくなってしまったのか。
「「二度と会いたくないな」」
悪夢の狩人と悪夢の怪人は、皮肉にも同時に同じ言葉を放っていたが、そんなことは知る由もなかった。
はるか昔(44話)に、お父さんや家族にひどいことをして淡輝くんにトラウマを植え付けたピエロさんですよ。再登場さ!
お次の投稿は一週間後!少し間話を挟んで南米編を始めます!!